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ソレは山羊のように見えた。
黒く長い毛に覆われた全身に頭部に巨大な曲がりくねった角は左右1対。
黄色く光る眼球には横向きに長い瞳孔。
だが巨象のように巨大で、おまけに何かの悪ふざけのように体のあちこちにまるで多産の動物を思わせる乳房や枯れ木のように節ばった手足が突きだしている所を見ると到底、ただの山羊とは思えない。
そして、その黒山羊はニタリと笑ったかと思うと人間の言葉を喋りだした。
「何かと思えば、たったこれっぽっちかい?」
「……驚いたな、言葉を離す大山羊とは」
河童が捕われている港湾センタービルは黒山羊のすぐ右隣りだというのにここにきてこのように巨大な敵が待ち受けていようとは、とルックズ星人はチラとティーゲルの砲塔上の泊満を見ると「虎の王」は飄々とした口ぶりとは裏腹に渋い顔をしていた。
「ふん、とっとと失せろ老いぼれ共。蟹や海老なんてのは殻を剥くのが面倒でも中に詰まった身が美味なれば食おうという気にもなるのだ。ブリキの玩具の中に貴様らのような干物が入っていたのでは食指も動かんわ!」
「ハハッ! 蟹や海老が何だって? 殻ごと食ってそうな見てくれをしおって!」
流暢に日本語で話す黒山羊はあの邪神ナイアルラトホテプが門番、留守番役として用意していた相手なのだ。
当然、只者であるハズもなく、それは眉間に皺を寄せた泊満の顔からも見て取れる。
しかし泊満はそれが「虎の王」と呼ばれるヒーローの矜持だとばかりに自らを見下ろす黒山羊を挑発していた。
だが泊満は黒山羊を睨みつけたまま小声でルックズ星人へと話しかける。
「……君、さすがにこれは想像以上の厄モノだ。君はあの子と共に後退したまえ……」
これまでも泊満はルックズ星人に対して「小型艇の中で待ってるか?」や「後退するか?」などと冗談めかして聞いてきていたが、黒山羊を前にして出てきた言葉は「提案」や「確認」というものではなく、それは「懇願」に近い「お願い」だった。
泊満とティーゲルの乗員はルックズ星人に命を助けられていた以上、彼にはこんな所で命を失って欲しくないのだろう。
「申し訳ありませんが、御老人だけで死地に飛び込ませるわけにはいきません。いくら私が侵略者に身を落としたといっても老人虐待なんかで訴えられたくはないですからね」
泊満の言葉の意味を知ってもなおルックズ星人は退く事を良しとはしなかった。
「私は死にません。我らは『UN-DEAD』。すでに死んでいる故に!」
「……そうか」
ハンドヘルドコンピューターを操作して多機能ボディーアーマーを最大出力モードに切り替えると黒い山羊がけたたましく笑い始めた。
「お前たちだって分かっているのだろう? お前たちでは私には勝てないと!」
「黙れッ! 山羊に負ける虎がいるものか!!」
ティーゲルの主砲が火を吹く。
砲口から飛び出た8.8cm砲弾はそのまま何の抵抗も無く黒山羊の胴へと吸い込まれていき、そのまま貫通して抜けていき貫通痕からは夥しい出血が溢れだす。
だが、黒山羊は何事も無かったかのように笑っていた。
「ちぃッ!! こいつ、単純に凄まじい生命力の持ち主という事か!!」
泊満が咽頭式マイクに手を当てて車内の乗員たちへ指示を出し戦車を前進させる。
気が狂いそうになるほどにけたたましい笑い声の中を虎の咆哮の如きティーゲルのエンジン音が轟き、排気管からはエンジンにニトロが投入された事による火柱が噴き出している。
虎が大地を踏みしめるようにティーゲルの履帯はアスファルトを叩いて砕き、車体機銃の赤い曳光弾が横殴りの暴風雨のように黒山羊へと突き刺さっていく。
だが、この数十年間、数多の敵を打ち破ってきた「虎の王」の雄姿も何故か黒山羊の前では酷く弱々しいもののようにルックズ星人は感じていた。
硬芯徹甲弾も、榴弾も、対戦車榴弾も、白リン焼夷弾も黒山羊の気勢すら削ぐ事は出来ず、逆に異様に長い黒山羊の手足を避けてティーゲルはあちこちのビルへと車体を叩きつけながらほうほうの体でなんとか逃げ回っているという状況だ。
ルックズ星人もボディーアーマーの脚部に搭載された補助ターボファンエンジンを起動させて飛翔し黒山羊の頭上からパルスレーザーガンの連射を浴びせるものの、太古の時代の恐竜のように巨大な大山羊を前にレーザーの針で突くような弾痕ではまるで効果が無いのか、黒山羊はネズミをいたぶって遊ぶ猫のようにティーゲルだけを追い回していた。
「何だっていうんだッ!? こいつは!!」
レーザーガンのエネルギーパックの交換のために3階建てのビルの屋上へと降り立ったルックズ星人は背部のマウントラッチから自立機動式小型機雷を2つ投擲する。
小型機雷はバッテリーによって動力を供給されて小型のプロペラを展開、人口知能による推測にのっとって黒山羊の顔面へと向かいそこで炸裂。内部に充填されたベアリングを射出。
「おのれッ! 雑魚は黙ってろ!!」
黒山羊は顔面へ無数の金属球に撃ちつけられてもそれをものともせず、いや、それはただ黒山羊を怒らせるだけの結果となっていた。
黒山羊は大きく深呼吸をしたかと思うとブ厚い毛皮が蛆虫が中で這いまわっているかのように蠢き、そしてボロボロと体のあちこちから黒い物体をアスファルトの上へと落としていく。
落とされたのは、産み落とされたのは小型の山羊。
小型といっても人間ほどのサイズの2足歩行の山羊たちが次々と産み落とされて、たちまちビルの谷間は黒い山羊の集団で埋め尽くされていった。
「どうなってる!? 明らかに元の黒山羊の体積を上回っている量の山羊を産んだだと!?」
レーザーガンを乱射しながらルックズ星人は狂乱したように喚いていた。
道路を埋め尽くし、さらにルックズ星人を目掛けて数多の山羊がビルの外壁をよじ登ってきているというのにあの黒山羊は元の大きさから変わる事なくティーゲルを追いかけまわしているのだ。
ルックズ星人はジェットエンジンで飛翔する事も忘れ、ただ恐怖に駆られてビルをよじ登ろうとしてくる山羊の群れへとパルスレーザーを浴びせ続けていた。
あるいはルックズ星人は地球人が「SAN価チェック失敗」と呼ぶ発狂状態に陥っていたのかもしれない。
「非常識な奴めッ!」
「いい加減に降参したらどうだい?」
「ハッ! 『俺のケツを舐めろ』とでも返させてもらおうか!」
泊満にはその常人を超越した直感力によって、自分を追い掛け回してビルの谷間を暴れまわる黒山羊がいわゆる「旧支配者」とカテゴライズされる存在であるとは察しが付いていた。
しかし、彼はむしろこの状況を喜んでさえいる。
この黒山羊がナイアルラトホテプの切り札的な存在であるならば、恐らくは「天昇園」の仲間たちや他のヒーローたちの部隊の前には敵の切り札はいないという事になるからだ。
すでに昨日の戦闘から砲弾の補給ができていなかったために砲塔内の弾薬庫はすでに空となり、通信手が車内の弾薬庫から砲弾を取り出して砲塔の装填手へと渡している状況。
通信手は車体機銃手も兼務しているために雲霞の如く溢れだしている仔山羊は主砲の榴弾で蹴散らし、装填の合間に装填手が主砲同軸機銃で薙ぎ払っている。
必死で持ち場で動き続けている乗員たちも昨晩のナイアルラトホテプとの戦闘で重症を負っているものばかり、そもそも乗員たちも特別養護老人ホームに入居しなければならないほどの老人たちだ。
泊満が上半身を出している車長用のハッチの中から呻くような声と、ティーゲルが急旋回するたびに車内のあちこちへ体をぶつける音が届いてきていたが、そういう泊満とて先ほど割れたガラスが頭上から降り注いできていて頬や首から出血していた。
だが、自分たちがこうも追い詰められるような敵だからこそ他の仲間たちへ任せるわけにはいかず、自分たちが相手しなければならない。
それが「虎の王」と呼ばれた男の覚悟である。
しかし……。
「クソッ! いつまでもチョロチョロと!!」
巨大黒山羊は枯れ木のように節ばった手を伸ばして機銃で薙ぎ払われた仔山羊の死骸を掴むとティーゲルへと投げつける。
激情に任せたロクに狙いも付けない投擲はティーゲルから僅かに逸れてビルへと叩きつけられるが、操縦手用の覘視孔の防弾ガラスが飛び散った血糊によって汚れ、視界が奪われてしまう。
そのままティーゲルは仔山羊の死骸を踏んでグリップを失い、スピンしながら左側面からビルへと叩きつけられてしまった。
「自分でも分かっていたんだろう? お前では私には勝てない。これは“相性”だとか“属性”だとかそんな問題ではない。純然たる“力”の差だ!」
黒山羊の細長い顔が愉悦によって歪んでいく。
困った……。
黒山羊さんの名前を知っている人が現場に来てくれない。




