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(いつの間に!? 足音はしなかった。それにこの悪臭、こんな近くまで接近されるまで気付かぬわけがない!)
牛よりも背が高く、そして狼のような長い胴を持つ獣を前にルックズ星人は固まってしまっていた。
その鰐のように大きな口から滴るネバついた唾液と不揃いの鋭い牙を見るに赤い着物姿の幼女が毬を投げつけて機先を制さなければルックズ星人がその餌食となっていた事は想像するに難くない。
「GYAAAAA!!」
「…………っ!?」
泊満が“猟犬”と称したその獣は夜鷹のような絶叫に近い咆哮を上げると細長い全身のバネを使って一気に駆けだした。
ルックズ星人も両手で抱えた銃の射撃ボタンを押すものの、彼に向かって飛び掛かってきたように見えた獣はそのまま姿を消してしまう。
姿を消したといっても空中で軌道を変化させて上に逃れたとか、あるいは光学迷彩を発動させて不可視の状態になったというわけでもない。
現にルックズ星人の銃から放たれたパルスレーザーはそのまま向かいのビルの外壁を焦がし、慌てたルックズ星人が周囲を見渡しても悍ましい獣の姿を見つける事はできない。
鼻を突く悪臭の残り香が妙に不気味でルックズ星人は思わず背に冷たい汗が流れるのを感じていた。
「なっ……! これは……」
「ほう! 隣の世界……、いや、世界の隙間とでも呼ぶべき場所に逃げ込んだか」
いつまた“猟犬”が姿を現し、自分の死角からあの大きな口で食らいついてくるのではないかと気が気ではなかった異星人を傍目にティーゲルの砲塔上の泊満は妙に感心したような声すらあげている。
泊満は先ほど“猟犬”が現れる前に「私たちが相手しておくべき敵が来る」と言っていた。
確かにあの獣、“猟犬”のような不可視の敵、いや泊満の言葉を信じるならば瞬時に“世界の壁”を飛び越えるような敵が相手ではヒーローたちが突入を開始したとしても隙を突かれていたずらに損害を重ねるだけだろう。
だが、それは彼らとて同じなのだ。
「後退しましょう! あんな奴に勝てるわけが無い!!」
「勝てるわけが無い? そう思えばこそ向こうも姿を現してくれるのだろうさ!」
泊満はルックズ星人の慌てふためいた言葉を「ふん!」と鼻を鳴らして笑い、首に付けた咽頭式マイクで車内へ指示を出す。
その姿はまさに「虎の王」と呼ばれるにふさわしい威厳を放ち、ルックズ星人も先ほどは彼のわけの分からない言葉を「痴呆」と軽く流していたというのに今はただ泊満の一挙手一投足を縋るように見つめるほかなかった。
「きっとアカの連中もナチの連中も『たった1輌の戦車に負けるわけが無い』と思ったのだろうな。その結果は君も知っての通り。砲塔右旋回ッ! 徹甲弾! 仰角、チョイ上げぇ!!」
無論、泊満にも敵の姿が見えるわけではない。
彼はただ自分の思うがままに乗員へと指示を飛ばすだけ。
そして彼は自身の勘に絶対だと感じていたのだ。
いつの間にか和装の幼女は砲塔上に跳び移り、その両手には先ほど投げたハズの毬をしっかりと持ったままじっとしている。
だが、ただ黙っているだけではない。
それは“静”であっても“動”に等しく。
解き放たれる間際のバネのような、見る者に高揚感を感じさせるものだった。
そして、その時が訪れる。
「……撃ェッ!!」
泊満が感じていたように、分かっていたように、知っていたようにティーゲルはゆっくりとその砲塔を右へと回していき僅かに主砲を持ち上げる。
姿を消した敵を相手に砲手が躊躇いながらも命令通りに砲塔を回していく速度。
操縦手が車体を旋回させないという事。
エンジンから動力を得るティーゲルの砲塔旋回装置のためにエンジンの回転数を上げないという事。
そして仰角を「チョイ上げ」という指示で砲手が砲を動かす角度。
いずれも泊満の感じていた通り。
そして敵の姿は見えず、ビルの外壁しか見えないというのに射撃を命じられた砲手が躊躇いながらも主砲を撃発する僅かなタイムラグも泊満が思っていた通りだった。
耳をつんざくというよりも全身が空気と音の壁に叩きつけられるような8.8cm砲の発射音と共に砲口からはマッシュルームのような火炎が飛び出し、すぐに砲口炎の先端を割って硬芯徹甲弾が飛び出すとキノコ状の爆炎は平たい皿のように広がっていく。
そして爆炎から飛び出した砲弾は0.5メートルも進まぬ内に先ほど姿を消した時と同じように虚空から姿を現して泊満へ飛び掛かろうとしていた“猟犬”の胴へと吸い込まれていった。
「……なっ!?」
「ふんっ! アカやナチと大して変わらぬ脳味噌の持ち主だったか」
「べちゃり」と湿った生々しい音を立てて獣はアスファルトの上へと落ちる。
目の前で繰り広げられたあまりにも信じがたい出来事にルックズ星人は足元がおぼつかなくなっていく感覚を味わいながらも獣のそばへと行くが、すでに獣は爪先で蹴っても何ら反応を返す事すらしなくなっていた。
完全に絶命している“猟犬”。
恐る恐るルックズ星人が後ろを振り返るとティーゲルの砲塔の上に並んだ幼女と老人は互いにニタリと口元を歪ませている。
「…………」
「君も我々が砲を外した時のために控えてくれていたのだろう?」
「…………」
幼女は泊満の言葉に肯定の必要も無いとばかりにニタリと笑って見せるだけだが、事実、泊満は主砲が放たれる瞬間、幼女が投球動作に入るために重心を動かしたのを見逃していなかった。
恐らくは主砲が外れた時、あるいは命中しても仕留めそこなっていた時は幼女の毬が獣の鼻先を叩いて機先を制する事になっていただろう。先ほどルックズ星人を助けた時と同じように。
それにしても“猟犬”の死骸がこうして自分の足元にあるというのにルックズ星人には自分の目で見た事がとても信じる事ができないでいた。
それは悪い冗談か何かのようだった。
獣の姿は見えず、ただ向かいのビルへと主砲が放たれたかと思った瞬間、“猟犬”の方から砲弾へと身を飛び込ませてきたようにも見えた。
醜悪な外見にも関わらず随分と親切な敵だと笑い飛ばせたらどれほど気が楽だっただろう。
だが、そうではない。
「虎の王」には、泊満という地球人には“猟犬”がいつ、どこから姿を現すか分かっていたのだ。
「……み、見えていたのですか?」
「見えるわけなかろう? そもそも、そいつは現れるまでこの世界にはいなかったのだぞ?」
「なら……」
「勘だよ、勘!」
「分かるかね?」とばかりに首を傾げて不敵な笑みを向けてくる泊満だったが、すでにルックズ星人には先ほどまで見ていたハズの骨と皮ばかりの白髪頭の老人がとても人間だとは思えないでいた。
とある地球の神話において、神が敵へ一六文キックと呼ばれる蹴りを放つとその蹴りは酷く緩慢なものに見えたと伝えられているにも関わらず、敵はまるで自分から神の足裏に飛び込んでいったかのように吸い込まれていったと語られている。
ルックズ星人が目で見たのはまさにそういう事である。
彼はここで初めて理解した。
何故、「虎の王」がああまで恐れられていたのか。
ティンダロスの猟犬には噛ませ犬になってもらいました。




