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引退変身ヒーロー、学校へ行く!  作者: 雑種犬
第45話 なってしまった者 なろうとする者 なれなかった者
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太平洋編エピローグ 前編

 男は緑の地獄に囲まれていた。


 俗に未開のジャングルの事を「緑の地獄」と言うが、登山中に滑落して足を骨折して身動きが取れなくなった状態の、後は死を待つばかりの男にとっては歩きなれたハズの讃岐山脈の山中とて地獄に等しい。


 男の年齢はすでに初老と言われる域に差し掛かっていた。若い頃からの趣味である登山といえど自分で実感していた以上に体が動けなくなっていたのか?

 それとも慣れた山という事もあって気が緩んでいたのか?


 あるいは初孫の誕生を前に気が逸っていたのかもしれない。


 男の1人娘が出産の予定日を迎えるのは翌月の中頃、その娘が初産のために両親を頼って東京から里帰りしていた事で男が浮かれていたのを誰が責められよう。


 男が何をしようと初孫の誕生が早まるわけでもない。むしろ予定日通りに何事も無く生まれてくれる事こそが望ましい。


 とはいえ子育てのために家具を動かしたり、ベビー用品の用意さえ終わってしまえば男親である彼にできることなどほとんどなく逸る気持ちを静めようと讃岐山脈は竜王山を目指して1人、山に入り、そして浮ついた気持ちで登山ルートを外れて足元を滑らせ滑落、遭難という憂き目にあっていたのだ。


 滑落の際、なんとか足から着地する事ができたために致命傷こそ免れる事ができていたが、右足の脛骨を折ってしまい、しかも折れた骨が肉を突き破って激しい出血と痛みをもって男を苛んでいた。


 元々、日帰り登山の予定であったので、遭難3日目となったこの日、すでにリュックに入れて持ってきていた携行食やペットボトル飲料などもすべて無くなり男は足の痛みの他にも飢えと渇きにも苦しめられていた。


 そして何より昼は真夏の湿度を伴った熱気が男の体力を奪い去り、夜は出血により体力の落ちた男の体温を山特有の冷気がすり減らしていく。


 男は何か口に入れられる植物は無いかと痛む足をかばいながらこの3日間、何度もしたように周囲を見渡し、やはり食べられそうな物が何も無いのを確認すると今度は胸のポケットに入れておいたディスプレー画面の割れたスマホを取り出して電源ボタンを長押しして反応が無いかを確かめる。

 やはりこれまでも何度も試した時と同じようにスマホはうんともすんとも反応を返してくる事はなかった。滑落時、ズボンの尻ポケットに入れていたがために落下の衝撃で完全に壊れてしまっているのだ。


 これまで何度も何かの拍子に起動してくれるのではないかと後生大事にスマホを持ち続けていたというのに男は舌打ちをついて壊れたスマホを放り投げる。


 すでに男は生還を諦めかけていたのだ。


 もちろん妻と娘の顔をもう一度、見たいという思いもあったし、何よりまだ見ぬ孫の顔を見ずに死ねようかという思いもある。

 なにより自分が遭難したというだけでも心配をかけているだろうに、自分がこんな所で不慮の死をとげてしまえば臨月間近の娘にどのような悪影響があるか分からないのだ。


 しかし、だ。

 すでに男の体力はすでに尽き、気力で意識を保っている状態といっていい。

 真夏の昼間のうだるような暑さを感じる一方で体は骨の髄まで冷え切って震えが止まらず、救助隊か誰かが近くを通る物音が聞こえたら声を上げようと必死で保っている意識も薄れがちとなっている。


 このような状況下ではせめて娘と妻が自分を失った悲しみから1日でも早く立ち直れるよう祈るくらいしか男にできる事はなかった。

 むしろ最初から自分の存在など無かった事になればいい。そうすれば娘も妻も悲しむ事がないだろう。

 そんなありえない事を男が夢想したとしてもしょうがない事だろう。


(……なんだ? この匂いは……)


 痛みも忘れて穏やかに眠りにつこうとしていた男の鼻孔を懐かしい匂いが刺激した。


 山の匂いではない。


 その匂いは男の意識を一気に覚醒し、現実へと引き戻していった。

 これまでに何度も日常的に嗅いでいた匂い。

 男の人生はその香りとともにあったといってもいい。


 鳥の鳴き声や羽虫が飛ぶ音以外、何も聞こえなかった。

 それなのに懐かしい匂いに引かれて男が目を開けるといつの間にか目の前に1人の少女がいたのだ。


 一瞬、あの世とやらへのお迎えさんかと思ったものの、少女はどう見てもそのような雰囲気ではない。


 21世紀のこのご時世にまだ10代に見える顔に幼さを残した少女は若い子には似つかわしくない白い割烹着を着ていて、しかもこんな深い山の中にいるというのにその白い布には一辺の汚れすら見られなかった。


 少女は笑顔で男へと両手に持った丼を差し出す。


「……あ、ああ。ありがとう……」


 その丼の中にはたっぷりのウドンが。

 男が好む地元風の淡い色の出汁ツユにたっぷりの刻みネギが乗ったウドンであった。


 そして男が懐かしいと感じた香り、イリコが強く感じられるカツオとの合わせ出汁。


 何故? どうして? この少女は? 一体、どうやってここまで?


 不可思議な事はいくつでも頭の中に浮かんでくる。

 だが、男は出汁の香りを前にしてはもはやそんな事など気にする事などできやしなかった。


 丼に口を付けてツユをすする。


「……ああ」


 ツユは程よく冷たく、胃袋に落ちていくと同時に肉体へと吸収されていくのではないかと思えるほどに程よい塩味を感じさせる。

 昨日の夜にブロックタイプのエネルギーバーを1本、食べたきりだった男の胃袋は火の入れられたエンジンのように急激に活動を再開し、つい先ほどまで死を意識していた男は丼に添えられていた塗箸を手にして麺を手繰って口へと入れる。


 固い。

 惚れ惚れするほどに強いコシをもったウドンだった。


 だが、けして嫌な物ではない。

 むしろ咀嚼するアゴを通して命に喝を入れられるような、こんな逆境に負けていられるかという反骨精神が呼び覚まされるような、麺に歯を入れるたびに命のイグニッションを回されるような。

 そんな素晴らしいウドンだった。


 男は無我夢中でウドンをすする。


 もはや目の前の少女の事も、少女がどのようにしてこの場に現れたのかなど頭の隅にすらない。


 男が満腹になるのと丼の中身が空になるのは同時であった。


 そしてウドンを食べ終えた男が満足感から大きなため息をついてから少女へ礼を言おうとした時、すでに少女の姿はそこには無く、太ももの上に乗せた丼も箸もいつの間にやら最初から何もなかったように消え失せていた。


 後に残ったのはただならぬ多幸感と膨れた胃袋のみ。


 男が救助隊に発見され、無事に下山できたのはその翌朝の事であったという。






 今、1人の幼児が絶望の淵に立たされていた。

 カーペットの上に玄関のドアを向いたまま横を向いて寝そべったその子にはもはや動く気力は無く、涙の後がカピカピに乾いて不快であったがそれを拭うという事すらしなかった。


 この1ルームのアパートに母親が帰ってこなくなってから今日で7日目である。


 部屋の中に食べられる物は何も無く、昨日までその子は何度も冷蔵庫のドアを何度も開けてはみては何も食べられるものが無いのを確認し、そして閉めるという事を繰り返していた。


 椅子を動かしてキッチンの蛇口から水だけは飲む事ができていたものの、母が帰ってこなくなってからその子が食べたものといえば冷蔵庫の中に残っていた僅かな小袋の調味料くらいなものである。


 何とか水以外の味のある物をとその子はついには昨日、母親のビールの缶を開けて舐めてもしてみたが、信じられないほどに苦く、その内、吐き気を催して気分が悪くなったがためにそれ以来、その子はカーペットの上で横たわって母の帰りを待っていたのだ。


 そして今日、目が覚めてから体が重くて体を起こす事もできず、ただただ玄関のドアが開いて母が現れるのをじっと待ち続けている。


 その子がこうなってまでも部屋の外に出なかったのは「迷惑だから勝手に外へ出るな」という言いつけを守っていたからだ。


 その子は母親から愛されたかった。

 だが歳の割りには聡明なその子は薄々、母にとって自分は邪魔でしかないのだと勘づいてもいた。


 それでも父親などという存在など知らないその子にとっては母親とこのアパートの1室こそが世界の全てであり、そして自分を愛してくれる可能性のある者など母親しか知らなかったのだ。


 けしてその子が母親に必要以上に愛を求めていたというわけではない。

 母親から少しでも好かれようと我が儘など言った事は無いし、夜だって1人でトイレに行けるし、お風呂だって1人で入れる。

 その子は母親がテレビを見て笑い声をあげるその横にいれれば幸せであったのだ。それが自分へと向けられた笑顔ではないと分かっていながらも。


 そんな人並み以下の望みしか持たない幼児であったが、そのささやか過ぎる願いすらも果たされず、今、こうしてこの子は絶望の淵へと立たされていたのだ。


 もはや、もう母がこの部屋のドアを開けるという事は無いだろう。

 この子がもう少し歳相応に頭の回らない子であったなら最後まで希望を持ったまま死ねたであろうに、境遇ゆえに考え続ける事を強いられてきたその子の頭脳は自分が捨てられたのだという事を理解していた。


 不意に何者かが幼児を抱きかかえた。


 何者かは幼児を膝の上へと乗せ、テーブルへと向かわせる。


(……誰?)


 テレビで見るお年寄りがきるような白い服を着ているというのにその手は母よりも若い者のように見える。


 先ほどまでは自分しかいなかったハズの室内に急にあらわれた何者かの顔が気になったが、それよりもその子の気を引いたのはいつの間にやらテーブルの上に現れていた丼であった。

 湯気の立った丼から立ち上る優しい香りに幼児の胃袋は今まで感じた事もないような自己主張を始めていたのだ。


 丼の中身はウドンだった。


 ツユの無い麺だけのウドンが盛られた丼へ、幼児を抱きかかえた何者かはこの部屋に置いてあった物ではない醤油差しから醤油をまわしかけ、そして右手だけで卵を割って丼へと落とす。

 箸で卵をつぶして麺とかき混ぜて絡め、そしてその箸が幼児に渡されるとその子は貪るように食べ始める。


 こんな行儀の悪い食べ方をしたら嫌われるのではないかとも思ったが、自身が太ももの上から落ちないようにと腹部へ優しく回された手のぬくもりはその子の心配を一瞬で吹き飛ばし、幼児は数日ぶりのまともな食事を満ち足りた気持ちで食する事ができた。


 啜り上げたウドンに絡んでいた卵と醤油が混ざり合った極上のソースがテーブルの上に飛び散り、その子も口元をベトベトに汚していたが、食べ進めるにつれ、幼児は理解していた。


 自分は世界に生きる事を許されている事を。

 何より自分は世界に愛されている事を。


 こんなにも美味しいウドンを食べさせてもらえる自分は幸せなのだと。


 気がついた時、その子は椅子に1人で座っていた。


 自分を膝の上に乗せていた何者かも、先ほどまでウドンを食べていた丼も箸も見当たらない。

 ただ口中に残る幸福の余韻と、いつの間にかテーブルの上にあった「コトゥルーくん」とタグのついた禍々しいのか可愛らしいのか判断に困るぬいぐるみを残して。


 その小1時間後、パトカーのサイレンの音が聞こえてきたかと思うと近くで何人もの怒声が響き渡り、やがて1体のイルカのように灰色の肌を持ち、赤や黄色のカラフルな魚のようなヒレを頭や腕に生やした名状しがたきモノがガラスの出窓を突き破って幼児のいる室内へと乱入してきたかと思うと忽然と姿を消したのだった。


 そして、その子は室内へと入ってきた警官によって保護される事となる。


エピローグは1回で済ませたかったけど、長くなったので次回、後編をやります。


ところで台風19号が近付いておりますが、台風の予想進路近辺にお住まいの皆さまは防災用品の準備は済んでますでしょうか?

ラジオ、モバイルバッテリー、乾電池、カセットコンロ、コンロの燃料、飲料水、おウドン、麺つゆ。なんなら深夜営業のドラッグストアやコンビニでもいいので準備を怠る事が無いようにしてください。

杞憂だったら杞憂だったで後で笑って済ませばいいだけの話ですから。

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