太平洋編-6
黄金色の光に包まれて思わず僕は目を瞑った。
“白い巨人”が“輝く巨人”に変化した時に生じた閃光とはまた違った柔らかい光に包まれて前後左右も上下の区別すらつかなくなってしまう。
空を飛んでいた僕にとっては上下の区別すらつかなくなってしまうというのは即墜落の危険があるものだったし、巨大半魚人との戦闘中である事を考えれば周囲の状況を把握できないというのは敵の反撃をもらってしまう恐れもあるのに、それらの事を気にする一方でこの金色の光に包まれながら何故か心が凪いでいくのを感じる。
そしてセンサー類が周囲を包む光量が落ち着いた事を示したのを確認してから目を開けるとそこには黄金色の野原が広がっていた。
一瞬、巨人が発したエネルギーが形をなしてルルイエや海面の区別なく埋め尽くしていったつい直前の光景を想起させる景色だったけれど、良く周囲を見るとそこは麦畑だった。
辺り一面を埋め尽くす麦畑。
季節は6月の頭だというのに黄金に色づき収穫の時を今や遅しとなっている小麦が陽光を浴び風にそよいで金色の野を作っていたのだ。
僕はつい先ほどまで見ているだけで怖気が走るようなルルイエにいて、膝をついた巨大半魚人の眉間、先ほどデビルクローパンチで損傷を負わせたポイントを狙ってデスサイズキックを放とうとしていたというのに、何故か麦畑のすでに収穫が終わって広場のようになっていた場所で椅子に座っていた。
しかもいつの間にか改造人間デスサイズの姿ではなく人間石動誠の姿となっていて、その生の鼻孔をかぐわしい小麦の香りがくすぐる。
(……ここはどこだろう?)
ルルイエどころか海の気配すら感じないこの場所。
潮の匂いすら届いてこず、水といえばどこかから川のせせらぎらしい心地いい音が聞こえてくるくらいだ。
「はい! お待ちどう様!」
「えっ!? ……あっ、どうも」
後ろからかけられた威勢の良い声に慌てて振り返ると、そこには背の低い痩せた女の子が屋台のカウンターの上に2つの丼を乗せたところだった。
どうやら僕の座っている椅子はこの屋台のお客さんがカウンター席で食事をするために置かれている丸椅子らしく、不思議と僕は戦闘中であった事も忘れてカウンターの上に置かれた丼の1つを受け取って自分の手前へと持ってくる。
丼の中身はウドンだった。
透き通ったツユに浮かんだたっぷりのウドンはあの“白い巨人”を思わせ、控え目に乗せられた小ネギの緑が鮮やかで食欲をそそる。
それにしてカウンターの向こうで笑顔を向けている少女。
その声はついさっき聞いたような気もするけど、一体、誰なのだろう?
若いというか僕と同じくらいにしか見えない子供だというのに今時、珍しく割烹着を着て長い髪を頭の後ろで団子のように留めている。その髪を留めているのもヤクザガールズの栗田さんのようなオシャレなシニヨンや飾りや色のついたゴムなどではなく、何の素気も無い輪ゴムだ。
少女は客に向けるような愛想笑いではなく、心からウドンを作るのが、そしてウドンを食べてもらうのが楽しくてしょうがないというような満面の笑顔を浮かべていた。
「…………ヴぁ……」
「……ッ!?」
少女がカウンターの上に並べた丼は2つ。
1つは僕の分だとして、もう1つは他のお客さんの分という事になる。
でも太平洋に浮かぶルルイエでの戦闘中に何故か麦畑のド真ん中の屋台のカウンターにいたというにわかには自分でも信じられない出来事にもう1人の客についての考えは僕の頭の中からすっかり抜け落ちていた。
けど、まるで僕がそうしたのを真似したかのように遅れてカウンターに伸びてきた2本の腕を見て僕は心臓が止まるかというほどに驚いた。
その腕は所々に藻が生えたタコのようにぬめった質感のもので、それは筋肉のようでもあり、それでいて原始的な海洋生物の触手が絡み合って形作られた物にも見えた。
しかも何の脈絡もなく至るところが脈動して、その度に僕の本能が危険を告げているのだ。
その腕はのたうつウナギや蛇のような両手の指でしっかりと丼を持って自分の元へと持っていく。
驚いた僕がその手の主を見ようを横を向くとそこにいたのはクトゥルーだった。
クトゥルーも僕と同じように丸椅子に座っているために正確な身長などは分からないけれど、座っているのに屋台の屋根に頭が届きそうなほどに背の高い、でも元の200メートルほどの姿からは100分の1近くにも小さくなったクトゥルーがそこにいたのだ。
タコのような頭に背には1対のコウモリのような翼。両目や2つの翼は高さも向きもバラバラでそれが何ともおぞましい。
毛深すぎてヒゲと胸毛が繋がってみえるような人のように胸からアゴにかけては色も形も様々な触手がビッシリと生えていて、しかもそれがそれぞれ独自に蠢いている。
でも、なんであんなに巨大だったクトゥルーが人間よりもちょっと大きいくらいの姿に?
“幼体”だとか“端末”だとか言われていたク・リトル・リトルだろうかとも思ったけれど、第六感がザワついてくるようなこの感覚は本物のクトゥルーだとしか思えない。
「ヴぁあ……?」
クトゥルーは隣に座る僕など気にしていない様子で丼を見つめ、体を傾けて右を向いては右から丼を眺め、左を向いては左から丼を眺め、再び丼を持ち上げて口らしき場所を持っていってツユをすすると「ヴぁ……」と一息ついたような声をあげる。
その声を満足の合図と受け取ったのかカウンターの向こうの少女もクスリとして軽く頷いて見せた。
こうなると隣の客を凝視している僕の方がおかしいヤツなんじゃないかという気すらしてくるくらいだ。
ラーメン屋なんかで隣に物凄い色と高さのモヒカン頭に鋲がいくつも打たれた革ジャンなんかを素肌の上に羽織っているパンクな人がいてもウメェウメェ言いながらラーメン食べてるのを見ている内に次第に気にならなくなる感じに似ているかもしれない。
隣の名状しがたきモノの事は放っておいてカウンターの上の箸入れから塗り箸を1膳取り出して僕もウドンを食べる事にしよう。
琥珀色に透き通ったツユの中にたっぷりと盛り付けられたウドンに箸を入れ持ち上げる。
箸で触れただけでハッキリと分かるコシの強い麺の弾力に箸からウドンが滑らないように気持ち強めに手に力を入れていると隣の席から先端に目玉の付いた触手が3つほど伸びているのに気がついた。
「……あの、どうかしましたか?」
「ヴぁあああ……?」
何を言っているかはサッパリ分からないけど、触手の先の目玉がぼくの手に向いている気がして思い切って訪ねてみる。
「ああ、もしかして箸の使い方が分からないとか?」
「……ヴぁ」
「えっと、これをこう持って……」
それが正しいのか分からないし、そもそも向こうが僕の言葉を理解しているのかすら分からない。そもそも魂が無い死体のような状態とか聞いていたクトゥルーが何でこうして動いているのかすら分からない。
ただ、何となくだけど箸の使い方が知りたいんだろうなぁと思った。
僕は幼かった頃に母さんからそうして教えられたようにまず右手に1本の箸を鉛筆を持つように持って、残る左手でもう1本の箸を右手の中に差し込む。それからクトゥルーに見せるため大振りに箸を上下させ、それからもう1度、丼の中へ箸を入れてウドンをつまみあげて口へと持っていった。
これで箸の持ち方、使い方は伝わったんじゃないかと思う。
まあ、そもそもクトゥルーが右利きかどうかなんて知らないけど。
それを3本の触手の先端についた目と、顔面についた不揃いの両目で見ていたクトゥルーは箸入れから2本1膳の箸を取り出して僕が教えたのと同じようにして箸を持ち、麺を手繰り上げて口の中へと入れる。
「ちゅる……、チュル……、ちゅる……、ヴぁ……!」
「ズズッ! ズズズ……!」
クトゥルーが隣でウドンを啜り始めたのを確認してから僕もウドンを一口。
あ、外人さんとか麺をすすって食べる事を嫌がるらしいけど、人外さん、クトゥルーはどうなんだろ?
そんな事が脳裏によぎったりなんかしたけれど、それも一瞬の事。
そのウドンは僕は滅多に食べない惚れ惚れとするほどハードなコシをもつ、いわゆる讃岐ウドンだった。
コシが強すぎて出汁をほとんど吸っていないハズのウドンも表面にしっかりとツユが絡み、出汁の旨味と香り、醤油の塩気と風味でスルッと食べれてしまう。
強すぎると思ったコシも1口目を飲みこむ頃には歯に心地よく、小麦の香りを閉じ込めるためのものなのかと思ってしまうほどに素晴らしいものだった。
讃岐ウドンをあまり食べた事のない僕でも分かる。この屋台の少女のウドンは抜群に美味い!
でも僕の胸中を占めていたのはウドンの美味しさではなかった。
幼い頃に風邪を引いた時に母さんが作ってくれた鍋焼きウドン。
家族旅行で秋田に行った時に入ったお寿司屋さんのセットでついてきた稲庭ウドン。
母さんに隠れて飲み会帰りの父さんと一緒に食べたインスタントのカップウドン。
そして去年、両親の墓参りの後に兄ちゃんと一緒にいった故郷のじゃじゃ麺屋さん。
それらは讃岐ウドンではなかったハズだ。
なのに、それなのにこのウドンを1口すするたびにそれらの思い出がありありと胸の内に浮かんできては僕の心を温かくしてくれる。
きっと、このウドンは“美味しい”というよりも“幸福”の味なのだろう。
だから、このウドンを味わうたびに過去の“幸せ”とともにあったウドンの味が思い起こされるのだろうかな?
「ヴぁ……?」
「うん、大丈夫」
いつの間にかウドンを食べながら涙が流れていた僕にクトゥルーが声をかける。
それが何だか心配しているような声色に聞こえて、僕も彼に心配かけまいとワイシャツの袖で涙を拭ってから一気にウドンを啜り上げた。
それからしばらく2人で並んでウドンを啜る。
いつの間にやらクトゥルーも僕を見て麺を啜るということを覚えたのか控え目な音を立ててウドンを啜るようになっていた。
それにしてもこの少女のウドンは旧支配者クトゥルーをも満足させる物であったのかちょくちょく「ヴぁ……」と声を上げ、ウドンを飲み込む度に背中のコウモリのような羽を振るわせて目を細めているのがおぞましいながらも微笑ましい。
「どこまでも続く万丈に実る小麦と絶える事の無い清流のせせらぎが聞こえる大地」ってウドンとセットで稲荷寿司とか付けたい人ってどうするんでしょ?
これって宗教論争になりますか?




