「新たなる福音」
医師は自分でも気付かない内に尻もちをついていた。
手品師と侮っていた外国人の豹変に明確な生命の危機を男の本能は感じ取り、それでいて状況を脱する手段をなんら見出す事ができずに彼の頭脳は思考のみならず身体の制御すら放棄していたのだ。
墜落途中の旅客機の乗客のように自分にはできる事が何もないと本能が悟っていたといってもいい。
「……ッ! 殺してはいけません!!」
すでに思考を放棄して訪れる運命をただ受け入れていた医師に対して、天は怪物のような本性を露わにしたロキの足元に縋り付いて必死で押しとどめようとしていた。
撃たれた者が撃った者の助命を嘆願する。
それは現在の香川の地の現状と逆行した行為だったと言えよう。
特に相手が2大派閥の殲滅を標榜し、県内各地の水源を潰して回っていた者たちの1人だというのならなおさらだ。
それでも天は腹部に飛び込んで腹腔内をズタズタに引き裂いた銃弾の灼けるような痛みに体を震わせ必死で耐えながらもロキのズボンの裾を離そうとしなかった。
医師がどこからか入手した旧陸軍の拳銃は低威力な反面、天の小さな体すら貫通する事は無く、その運動エネルギーをあますことなく彼女の体内で発揮していたのだ。
「お前はどこまで甘いというのだ!? 自分を撃った相手を許せとでも言うつもりか!?」
ロキの重く低い怒声はまるで地の底から響くようで、その怒声は天に向けられたものだというのに医師は意識が遠くなるような感覚すら味わっていた。
だが天は“魔”とも“神”とも思えぬ異形と化した呂木へと口から血を吐きながら言葉を紡ぐ。
「先生を許すとか許さないとかいう話ではないのです! 彼は……、彼らは私たちにとっての新たなる福音なのです!」
「福音だと? どういう事だ!?」
ロキが天の言葉に興味を持ったのは、善良でありながらもウドンの事にしか興味がない天の口から出た「福音」という言葉に違和感を感じたからだった。
とても天の口から出た言葉とは思えない難解な宗教用語である。
「呂木さんも知っている通り、私も釜揚げのウドンに生卵を絡めて食べる事があります。でも私には『釜玉』なんてキャッチーな名前は思い浮かばなかったッ! それに彼らは削り節やイリコの粉末といった釜玉ウドンを美味しく食べるための工夫をしているのです。彼らの経験と知識を広めてもらえれば釜玉ウドンの分だけ香川の地は幸福になるのです!」
ロキは混乱していた。
天が話している内容にではない。
血反吐を吐きながら必死に言葉を紡ぐその形相に。
そして先ほどの「福音」という言葉に、今、彼女の口から出た「キャッチー」という言葉。
とても彼が1月、ともに過ごしてきた桑原天という少女とは思えなかったのだ。
「……お前は誰だ?」
「私は私です。ですが呂木さんが知っている私ではありません!」
「どういうことだ?」
ロキは妖か何かが天の姿を借りて自分を謀っているのならば消し炭にしてやろうと自身の足元に縋り付く彼女に手の平を向けて問い詰める。
「……昨日、“未来予知”の魔法を使った時、ウドンの未来が見えました。私にとってはあまりにも素晴らしい世界でつい見入ってしまいました。世界の様々な分岐で枝分かれするパラレルワールドのウドンを含めて。今の私は100年という時を100回も生きた以上の時を過ごしてきたのです!」
「アカシック・レコードに触れたとでもいうのか!?」
「明石……? あ、いえ、日本全国のウドンです!」
ロキは「アカシック・レコード」について説明しようか迷ったが、結局の所、どれほど長い時を生きて天の知識量が増えたとしても天の知能指数が変わったわけではないだろうという事に気付いて説明を諦めた。
「すいません。昨日、この場所までしか分からなかったのは私の魔力量が枯渇しちゃったからなんです」
「もう、どうでもいいですよ……。でも長い時を生きたのと同様の経験をした貴女なら分かるでしょう? この男、生かしておく価値などは無いと……」
いつの間にかロキの口調が元に戻っていた。
諦めついでに白けてしまったのだろう。
「いいえ、逆です。生かしておけば『釜玉ウドン』の奥義を香川の人々へ伝道する事ができますし、殺してしまっても事態は何も変わりません!」
「どういう事です?」
「ま、まさか天ちゃんは私たちの計画を……?」
「未来を見てきた」という天の言葉に呆けていた医師もある事に思い至って話に割って入る。
「ありとあらゆる世界の分岐。その内の1つ、香川の地が人住まぬ地になった世界。その分岐となる出来事が今から起こるのです……」
「い、今からそれを止められるとでも……?」
「止めて見せます。私はウドン職人なのです!」
これから何が起きるのか?
それを理解しているのは天と医師のみ。
だが、これから何かが起きるという事でロキは空から周囲を見ようと飛び上がる。
「…………ッ!?」
ロキが見た物。
それはエッダに記された最終章によく似ていた。
「天ちゃん! か、数えきれないほどの軍勢に囲まれています!!」
落下するように地上に降りたロキが天に告げると彼女は小さく頷いて、震えながら屋台につかまりながら立ち上がる。
その目には覚悟という意思の力が宿り、とても内蔵をズタズタにされた者とは思えない。
「……我々は旧軍の通信機を使って情報を伝達し合い県内各地の水源を潰した。そして最後にこのM市の水源を狙うという情報を『生醤油派』『出汁汁派』両派へと意図的に流したのです。この丸亀平野で決戦が行われるように……」
医師が振り絞るように話す。
殺そうとした相手に助けられた事で、その顔には悔恨の情が浮かんでいた。
「私は行きます……。それでは呂木さん、先生。お元気で……」
「今さら何ができるというのです!?」
「そうです! 無駄死にになりますよ!?」
呂木も医師も天を止めるが、彼女は微笑を浮かべながら頭を横に振り、屋台の引き出しからサラシを取り出して割烹着の上から腹に固く巻き付けて止血する。
「呂木さん。前に貴方の娘さんが言ってましたよね? 『争いを止めるためには憎悪を悲しみで塗りつぶすしかない』って、そのために両派が揃って嘆き悲しむような人が死ななければならないって……」
「え、ええ。でも、そんな者などいないって話じゃないですか!?」
「それは1ヶ月前の話です。今はいるんですよ。どうやら間にあったようです。それも呂木さんが手伝ってくれたおかげです。今までありがとうございました……」
天は呂木に対して大きく頭を下げて礼をし、屋台を引いて行こうとする。
だが巻いたばかりのサラシには鮮血がにじみ出て、天は普段なら取るに足らないような木の根にも躓き、屋台のタイヤを引っ掛ける。さらに木の根を乗り越えようと天が踏ん張る度にサラシに浮かぶ血の染みが大きくなるのだ。
天は行ってしまった。
振り返る事もなく。
溜め池のほとりに残されたのは立ち尽くしたロキと尻もちを付いたままの医師のみ。
「……殺せ! 私がいなくとも『釜玉派』にだって他に人はいる。『釜玉』の秘術を伝えるのはその者たちでいいでしょう? お願いだから殺してください!」
医師が懇願するが呂木は首を横に振る。
あの、まだうら若い少女を死に追い込んだのは自分であるのは言い逃れようのない事実だ。
後悔と罪悪感により医師は死を渇望していた。
「いいえ、貴方は死なせません。それが彼女の遺志です。貴方には不死の呪いをプレゼントしましょう……」
「なんだと!?」
魔神ロキはこの世の暗黒を集めたような笑顔を浮かべると医師の額に人差し指の爪で傷を付け、そのまま立ち去ろうとする。
だが数歩進んだ所で思い直したように振り返り、医師に対して言葉をかけた。
「貴方が『釜玉』と呼ぶ食べ方。あの子も食べていましたよ。しかも、その様子を見た『出汁汁派』の連中も『旨そうだ』と言って同じ食べ方を試していました……」
「えっ!?」
「彼らも御世辞ではなく美味しそうに釜玉を食べていました。なんで貴方たち『釜玉派』は彼女のようにできなかったのですか?」
「…………」
医師には何も答える事ができなかった。
しばし俯いて自らの罪を悔いて再び顔を上げた時、そこにロキの姿はすでに無かった。
なろうのシステムでサブタイトルにルビとかふれるようにならないかな?




