「いないわよ? そんな人間……」
行列の最後尾に並んでいた外套を着こんだ女性。
だが外套に見えていた物はただのボロ布だった。
ズタ袋に使われるような繊維の荒い布を外套のように羽織っているのだ。
「あっ、どうぞ~! すぐにできますからお待ちください!」
「あ、いえ……」
丁度、新たにウドンを寸胴に入れようとしていた天に女性は控え目ながらも何やら話があるのか、歯切れの悪い口ぶりだった。
すでにこの周辺地域の客はすべて掃けたところだ。
天はウドンを茹でるのを一旦、待って女性が話を切り出すのを待つ。
女性は少しの間、逡巡し、フードのように頭に被っていた布切れを外して素顔を見せる。
その女性は日本人ではなかった。
明らかに白色人種の特徴を持つ彫りの深い顔立ちに比喩ではなく雪のように白い肌。
あるいは何かの病気なのかもしれない。
化粧を落としている途中に小皺に落としたマスカラが入り込んだかのように目元には黒い皺が広がっていたし、第一、白人だとしても彼女の色の白さは説明がつかない。進駐軍の兵士だって彼女のようには白くはなかった。
もし何かの病気、例えば何かしらの皮膚病などであれば日光を避けるためにボロを外套のようにまとっている理由にもなる。
だが天は深くは考えなかった。
例え病気であろうとなかろうと、ウドンを求めるのならば彼女は天の客である。
「えと、父がこちらでお世話になっているとドヴェルグたちから聞きまして……」
「どべるぐ? 父? あ、もしかして……、呂木さん?」
屋台の裏側に回って丼を洗っていたロキを呼ぶと、彼は屋台の店先にいた女性を見て目を見開いて驚いていた。
「お、お前!、どうしてここに!?」
「こちらが『どうして?』と聞きたいくらいです! 父さんが真面目に働くだなんて気が触れたのですか? それとも、また何か企んでいるのですか!?」
「アハハ……!」
真面目に働いて「気が触れたのか?」などと娘に言われている呂木であったが、いきなり深夜に野戦病院の食堂に現れた時の事を考えると、そもそも真っ当な生き方をしていない大人なのだろうと天は苦笑いしてしまう。
「いえいえ! 呂木さんには色々と手を貸していただいて……。この屋台も昨日の今日で用意していただけましたし、呂木さんに色々と裏方をやっていただけるおかげで私もウドンに集中できますし……」
「ほ、ほら、見なさい! 天ちゃんのいう通り、私は何も企んではいませんよ?」
「私の目を見て同じ事がもう1度、言えますか?」
「…………」
この呂木という男、娘には弱いのか、グイと顔を近づけられるとあからさまに目どころか顔を反らしてしまった。
呂木のいつもの陰鬱な笑みを思えば、話をはぐらかしたり平気で嘘を付いたりという「汚い大人」がやりそうな手口はいくらでも使いそうなものだが、これは天には以外な事だった。
もっとも呂木の思惑がどのようなものであろうと、天はウドンを作る事しかしないしできない。
むしろ彼が何かを企んでいようと彼に対しては感謝しかないのだ。
「あ、そうだ! ウドン、呂木さんが作って差し上げたらどうです?」
「え゛?」
「そうですね。実の所、父がジャパニーズヌードルの屋台で働いているというので1度、味わってみたかったところなのです。父の料理など食べた事がありませんし」
「いや、私、料理なんてしたことありませんよ!?」
「大丈夫です! 私が後ろで教えますから!」
独り身であるならばともかく、男が家庭で台所に立つというのが珍しかった時代である。
祖父も父もウドン職人であった天は父たちの料理を食べる機会も多かったが、周囲の者の話で他所ではそうではないという事も知っていた。
呂木と娘がどこの国の出身なのかは知らなかったが、外国でもそうなのかもしれないと天は勝手に納得した。
だが、このどこか他人行儀の父子の関係改善にウドンが役に立つならばどれほど素晴らしい事だろうと天は呂木を屋台の調理スペースへ立たせた。
「生醤油派」と「出汁汁派」が争う香川の地。
もしウドンが微妙な関係の親子の絆を繋ぎとめる事ができるのならば、香川の地もウドンで再び平穏になるのではないかという淡い期待もある。
「ほら! 鍋で泳ぐウドンの声を聞いて!」
「よし! 今です! ザルでウドンをすくって! ああ! まだ残ってる!」
「急いで! 麺が伸びちゃう! 蛇口は全開! 一気に冷やしてウドンを締めあげて!」
「暑がらないで! ああ! もう! そんなに揉んだら麺が傷ついちゃう! 流水の中で泳ぐウドンの流れに逆らわず、天上の神様が人間を導くように指を入れて冷水に触れさせてあげるの!!」
東洋人の少女らしい天の笑顔に騙されて調理スペースに立った呂木だったが、後ろから矢継ぎ早に飛ばされる指示にあたふたしながら急いで作業を続けていく。
屋台の前で呂木と天の調理を見ていた色白の娘は微笑ましい物をみるように目尻を下げていたが、天が「天上の神様が人間を導くように~」という例え話をしたところで声を出して笑いだしてしまった。
だが、それは天の例えを笑うというよりも呂木に対する皮肉のような意味合いがあるように思えて、天にはこの父子の間の溝が深いように感じられたのだった。
「あ、冷たいウドンでいいですか?」
「ええ、もちろん!」
この酷暑の中だ。
聞く必要も無いかと思われたが外国人の食習慣については天には良く分からないので一応は聞いてみたが、呂木の娘もこの暑さが堪えているのか顔をしかめて太陽に目をやってから答えた。
「えと、かけ醤油と出汁汁がありますけど……」
「そうね。他の人が食べてるのは?」
「ああ、この辺は皆、出汁汁ですね!」
「なら、そちらを頂戴。さっきから周りで美味しそうに食べてるのを見て気になってたの」
「はい!」
実の所、天は行列に並ぶ客たちにウドンを作りながら呂木の娘の存在に気が付いていた。
この炎天下の中、男などは上半身裸の者もいるというのに外套を着こんでいる姿が目についたというのもあるが、我先にと行列に並んでいる者がほとんどの中、呂木の娘は他人に順番を譲って最後尾にずっといたのだ。
それが父を訪ねてきたためだと知った今、その行動が外国人らしくない奥ゆかしさからだと分かり、天は一見、気の強そうに見える呂木の娘が好きになっていた。
待たせたお詫びもかねてたっぷりの冷たいかけツユをかけさせてウドンは完成。
呂木の手から娘へと丼が渡される。
「お好みでネギや天カス、一味か七味をかけてどうぞ! あ! 箸は使えますか?」
「ありがとう。箸でいいわ」
「それじゃ、呂木さん。私たちも賄いにしましょうか?」
ウドンは3人分、茹でてあった。
父子に話す時間を作ってやろうという天の計らいである。
「それじゃ私は向こうで食べてますからごゆっくり」
「いえ、せっかくだし天さんもご一緒にどう? 今さら父と2人きりになっても話す事なんかありませんし」
「そうですよねぇ……」
「アハハ……」
娘の取りつく島が無いという言葉がぴったりの様子に呂木の方もそっけない態度だった。
「ふぅ~! あっさりしてるのにとても滋味深いスープですね! このスープだけでも1つの料理になりますよ!」
「ありがとうございます!」
ウドンもかけツユも初めて食べるのか呂木の娘は器用に箸でウドンをたぐりながら感嘆の声を漏らす。
3人で瓦礫に腰を掛けてウドンを食べるが、呂木の娘は2、3本ずつウドンを箸でつまんで音も立てずに口へ運ぶ。
大して呂木は重労働で腹が減っているのか、丼を口元近くまで持ってきて音を立てて啜り上げていた。
娘は音を立てて麺をすする父へ刺すような視線を向けて非難するが呂木は気が付いているのかいないのか、何とも思わぬ顔で次の1口を口元へ運ぶ。
「あ……、外国の方には非常識に思えるかもしれませんが、ウドンや蕎麦といった日本の麺類は音を立てて啜るのが正しい作法なんです」
「え? 嘘でしょ? 貴女、父に脳ミソ、イジられた?」
「いえいえ! そうやって啜る事でツユが酸素と反応して旨味を強く感じられるとか、麺に絡んだツユが落ちない内に口へ入れられるとか理由があるそうです」
「そうなの?」
呂木の娘は訝しみながらも音を立てて麺を啜ろうとして失敗し、麺を口に入れてから丼へ口をつけてツユを口中へ入れ、麺とツユの両者を同時に味わう。
「なるほど、これはヌードルとスープを一緒に味わう料理なのね。貴女の言う事も一理あるといったところかしら? まぁ、父が横でズルズル言ってるところは殺意しかわかないけど」
「アハハ……! 分かってもらえて幸いです。香川の人も皆、そうだったらいいんですけど……」
この父と娘の関係性についてはひとまず置いておき、話には聞いていた「外人は麺を啜る音を嫌う」という事について、天はその理由を説明して納得してもらえた事で確かな手ごたえを感じていた。
「今、香川の人たちは『生醤油派』と『出汁汁派』に分かれて互いに殺し合っているんです。どちらもウドンの美味しい食べ方は自分たちの方だと言って譲らず、ウドンを無駄にする連中には残り少ない水は使わせられないって……」
だからこそ天は「生醤油派」には出汁を混ぜたかけ醤油で出汁の美味しさを、「出汁汁派」にはあえて醤油を前面に出したかけツユで醤油の美味しさを押し出しているのだ。
いつの日か、それが両者の宥和に役立つと信じて。
だが、呂木の娘は鼻で笑い、笑うどころか天を憐れむような眼で見ていた。
「私が『ウドンを音を立てて啜る理由』に納得したから、殺し合ってる連中も説明したら分かってくれるんじゃないかって? 甘いわね……」
「ええ、まったくです!」
娘の言葉に呂木も賛同してみせる。
実の所、この父子は仲が良いのではないかと思うほどに2人は同じ表情で天を見つめていた。
「そんなの通用するのは殺し合いを始める前まででしょ? 殺し合いが始まってしまったら、後は行きつくとこまで行くしかないわ。貴女たち日本人が先の戦争でそうなったようにね」
「そんな……! それじゃあ、どうすれば!?」
「前に言いませんでしたか? 貴女には『出汁汁派』を駆逐する力があるって、ま、潰すのは『生醤油派』の方でも私はどちらでも良いのですけど……」
呂木の表情があの陰鬱な笑みに変わる。
娘は先ほどと同じように天を憐れむように見ている。
だが表情こそ違えど両者とも「お前はどうするんだ?」と言っているように天には思えた。
「性質が悪い事に両派とも明確な指導者がいるわけではなく、皆が皆、揃いも揃って自分たちこそが正しいと信じて敵を殺して、殺されては恨みをつのらせる……」
「後は雪玉が下り坂を転げ落ちるように恨みは大きくなりながら加速度を増していくだけ!」
「そして、破滅は訪れ、じきにここも私の領地となるわ」
「私はねぇ。こんな場所で魔法の力なんて人間には分不相応な力を与えられた貴女が何をするのかが見たいんですよ!」
「おっと! 正体、現したわね!?」
天は言葉を失ってしまった。
2人の言葉はある意味で正しい。
呂木が言う「天が何をするのかが見たい」という言葉に対しては「んなこと言われてもウドンを作るしかできないよ?」と思うし、娘の「じきに私の領地となる」という言葉も「ん? GHQのお偉いさん? 解散したって聞いてたけど、内戦やってたらまた進駐軍が来るって話かな?」とくらいにしか分からない。
だが「恨みは大きくなりながら加速度を増していく」という言葉。
まるで現在の状況を現しているように思えたならないのだ。
思えば、この内戦。
どちらが火蓋を切ったかすら明らかになっていない。
むしろ、そんな事などもはやどうでもいいのかもしれない。
殺して、殺されて、そしてまた殺す。
その結果は火を見るよりも明らか、恐らくは呂木の娘がこの地を支配するという前に香川の地に住む人は誰もいなくなってしまうだろう。
「……どうすればいいのでしょう? 私は「生醤油派」の人にも「出汁汁派」の人にも私のウドンを食べてほしいのに……」
「貴女、おぼこい顔して意外と強欲なのね?」
「はい。どちらか片方だけでは私は満足できません」
目だけは天を憐れんだまま、娘は天に冗談めかした笑みを作って見せる。応じる天であったが彼女にとっては冗談ではない。紛れもない本心だ。
天はあまねく全ての香川の民にウドンを食べさせてやりたいのだ。
「そうねぇ……。怒りと恨みを吹き飛ばしちゃえば?」
「それは魔法でですか?」
「そんな便利な魔法なんかないわよ? あっても例えば、この地の人間を生ける屍にかえるようなモノだけれど、貴女、そういうのが好み?」
「まさか!」
呂木の娘はどこか遠くを見るような目をしながら語る。
それは彼女の言う事がどれほど難しいかを物語っているように天には思えた。
「両派の者たちが失えば怒る事も恨む事もできずにただ悲しみにくれるしかないような人が死ねば、後は争ってる余裕なんて無いんじゃないかしら?」
「それは誰なんです?」
「いないわよ? そんな人間……」
「は?」
そんな存在しない者の話をされてもと天が娘の顔を覗き込むが、彼女はとても冗談を言っているような顔には見えない。大きな悲しみを湛えた顔をしていたのだ。
「まっ! まだいないって話よ。でも、貴女、そんな人が出てきたら殺せる?」
「私が? 私にできるのはウドンを作る事だけです。人殺しなんてとても……」
「ふっ……」
呂木の娘は口元を綻ばせて立ち上がり、父親に「洗っとけ!」とばかりに丼と箸を渡してその場を後にしようとした。
だが、途中で呂木と天の方を振りかえって声をかけてきた。
「天さん、ご馳走様! ウドン、美味しかったわ! 父さんも何を企んでるかは知らないけど、私の目は節穴じゃないのを忘れないでね!」
呂木の娘「私の目は節穴じゃない……」
なお「14-3」では……




