「ウドンを1杯、頂けますか……?」
「呂木」と名乗る謎の男が天の前に現れた翌日、2人の姿は「出汁汁派」支配地域にあった。
「はいよ! お待たせ!!」
「おっ! 待ってました!」
軽金属製の屋台の前には大勢の行列、天は灼熱の太陽にも負けないような威勢の良い声を出しながら先頭の客へ冷やしウドンを出す。
呂木がどこからか用意してきた屋台は軽金属で作られていて強度の割りに軽量で、大型のコンロが2口に水道の蛇口まで付いている物だった。
しかもコンロが付いているにも関わらずどこにもガスボンベはどこにもなく、水道管が繋がっているわけでもタンクが付いているわけでもないというのに蛇口を捻ると春先の雪解け水のように冷たい水が幾らでも湧き出してくるのだ。
呂木はこの屋台を「ありえない屋台」と呼んでいたが、天はただ単に「屋台」と呼んでいた。
だが「ありえない」という形容詞が伊達ではない事はさすがに天も気付いていた。コンロで火を使う度、蛇口から水を出す度に天の体には名状しがたき脱力感があらわれていたし、その脱力感の正体が魔力なる未知の力が抜けていくものだと天も察しがついていた。
魔力の消耗は激しく、中々に癒える事は無い。
それでも天の心中には焦りや恐怖は無く、むしろ、こんなに便利な物を用意してくれた呂木には感謝以外の感情はなかった。
ついでに会った事は無いがこの屋台を制作してくれた「どべるぐさん」とやらにも感謝だ。
いつの日にかどべるぐさんにもウドンを食べに来てほしいと思っていたが、さすがに内戦真っただ中の香川に来てくれとはさすがに言えない。
とはいえ屋台の前にはまだ大勢の客が並んで冷たいウドンを待っている。
湯気がもうもうと湧きあがる寸胴鍋から茹で上がったウドンをザルで取り出し、シンクに用意したザルへと移してたっぷりの冷水で締めあげる。
氷がいらないほどに冷たい水のせいで天の手はかじかみ、霜焼けをおこしたように真っ赤になるがここで手を抜くわけにはいかない。
たっぷりの流水で締め上がる事こそが讃岐ウドン特有の強靭なコシを生み出す決め手なのだ。
きっちりとウドンを締めあげた後は器に1人前ずつ盛って、別の鍋に用意していたかけツユをかけて客へと提供する。
かけツユが入れられている寸胴にはこれもまた天の魔力によって表面に溶ける事の無い氷が張っていた。
だが、天特性のかけツユはイリコ出汁とカツオ出汁を合わせた物をベースに昆布出汁を合わせた物で、仕上げに和紙を入れて不純物を取る事で深いコクを持ちながらも澄み切った出汁汁となっている。
「あ~……! 染みるなぁ~! このツユ!」
竹槍を傍らに置いた肉体労働者風の中年男がツユをすすって腹の底から振り絞るような声を出す。
天が用意してきたかけツユは標準的な物よりも塩分が強めとなっている。
それが炎天下にさらされっぱなしだった客たちの五臓六腑へ染みわたっていくのだ。
炎天下にキンッキンに冷えたしょっぱいウドンのツユ。それはある意味で麻薬よりも狂暴に脳髄へと快楽をもたらす。
中年男はツユを一口、楽しんだ後はウドンをすすり上げる。
塩分の増されたツユですらどっしりと受け止めるコシの強いウドンはツルリと喉を滑り落ちて男の体内へと涼を届けた。
空には灼熱の太陽が燦然と輝き、雲1つ無い空には雨の気配すら無い。
しかも屋台の客たちは瓦礫に各々、腰かけて天のウドンを楽しんでいた。
この場所は大戦末期の高松空襲の被害が甚大だった地域であり、もうすぐ終戦から7年も経つというのに未だ復興の進んでいない地域である。
だが香川の民にとってはウドンを食べられる事こそが至上であり、ウドンを食べられれば黒く煤けた瓦礫の中にあってもそこは極楽と言えるのだ。
しかし、それは言い換えればそれこそがウドンを食べるために香川の民同士が殺し合う現状の原因でもあり、問題の解決が難しい事を意味していた。
ウドンを食べられればそこは極楽という事はウドンが食べられないという事こそ地獄であり、同胞同士で殺し合う餓鬼地獄のような現状を肯定する理由になっているのだ。
だが天にはか細いが確かな希望が見えていた。
見よ!
ウドンを食べている者を!
誰も武器を持ちながらウドンを食べる事はできない。丼と箸を持つ時、誰であっても武器を置かなければならないのだ!
そして、客たちが顔をほころばせ喉を鳴らして飲み干しているかけツユにも秘密があった。
炎天下で汗として失った塩分を補うためにツユは塩分多めに作られている。
天は増量された分の塩分を塩ではなく醤油で補っていた。
その分、醤油特有の角が立っているわけだがイリコ、カツオ、昆布と3種類の素材で取られた出汁は上手く醤油の角を包み込み、何より日照りにより乾いた香川の民は違和感に気付かずにただ喜んでツユを飲み干していく。
同様に野戦病院の食堂では“多重分身”の魔法で作られた天の分身たちが「生醤油派」の者たちへとウドンを振る舞っているが、そちらで出されているかけ醤油もいつもより出汁の分量が増やされているが誰も彼も美味しそうに笑顔でウドンをすすっていた。
「出汁汁派」も醤油の美味さを知っていて、「生醤油派」も出汁の美味しさを知っている。
呂木には楽観的と言われるかもしれないが天には両者の宥和が見えてきていた。
その和解の日が自分の努力によって1日でも早まればいい。1人でも多くの人が死なない未来が来ればいい。
天にできるのはウドンを作る事だけだが、ウドンを作る事で天は自分の望む未来を掴みとろうとしていたのだ。
「オラッ! 呂木、氷出せ!!」
「あ痛ッ! こ、子供たち、人の尻を蹴ってはいけませんよ?」
「いいから氷出してよ!」
ウドンを食べるまでは日陰でうずくまって死にそうにしていた子供たちも生気を取り戻して子供らしい活発さで呂木のケツを蹴り上げている。
「氷なら天ちゃんに出してもらえばいいじゃないですか?」
「ネーチャンは今、忙しいだろぉ!?」
「見て分かんねぇのか? おめぇ、メクラか?」
「そーだ! そーだ! 少しは考えろ!!」
「えぇ……、何なの? この糞ガキども……」
呂木から自身の魔力の量が少ないと聞かされていた天はウドンを作る事以外には魔力を使う気は無いらしく、ネギなどの薬味やらカツオ節などの出汁材などは呂木が文字通りに飛んで行って買い付けに行かされていたし、屋台もここまで呂木が引かされていた。
こき使われる事を「馬車馬のように」などと例えられる事があるが、あるいは馬車馬の方が扱いが良かったかもしれない。
馬車馬ならば屋台を引かされる事はあっても買い付けに香川から大阪まで行かされる事もなかっただろうし、「魔法で氷を出せ」などと常識で考えれば無茶な要求もされずに済んだだろうから。
どうも天もこの町の住人たちも呂木の事をただの「魔法使い」と思っている節がある。
それも「ヘンゼルとグレーテル」などに出てくる悪い魔法使いではなく、「灰かぶり」に出てくる良い魔法使いのように。
いや、「ヘンゼルとグレーテル」に出てくる魔法使いも「灰かぶり」に出てくる魔法使いもウドンを出さないという意味では香川の民にとっては違いは無いか。
もしかしたら呂木もウドンを打つ事ができたらなら子供たちも殊勝な態度で接していたかもしれないし、大人たちもそれなりの敬意を持って接してくれたのかもしれなかったが。
そう! 大人たちもだった。
「お~い! 呂木さん、ネギ無いよ~! 切って~!」
「手がネギ臭くなるから嫌です」
「あぁ!? 殺すぞ!?」
「ひぃっ……」
呂木のすぐそばのコンクリートの瓦礫に竹槍が飛んできて突き刺さったのを見て、しぶしぶと彼は屋台に用意されたまな板に向かう。
冷たい冷やしウドンに合うように屋台の店先には丼に入れられたネギや天カスが用意されていたが、確かにネギがもうほとんど残っていない。
「はぁっ!? おめぇ、ネギ切るのに何でまな板なんか使うんだぁ!?」
「えっ?」
「おめぇ、何もできねぇのか……」
先にウドンを食べ終わった肉体労働者風の中年男は呂木の元まで来ると包丁を受け取って場所を変わる。
男はむんずとネギを5本ほど掴むとまな板に置く事なく空中でネギを切っていった。
「こうやって切るとネギの繊維を潰さずに切る事ができるんだ」
「へ、へぇ~……」
ネギを切る機械と化した中年男は目にも止まらぬスピードでネギを切っていき、たちまち丼は一杯になっていく。
「すいません。お客さんにネギなんか切らせちゃって……」
「いいってことよ! 久々に美味いウドンを食わせてもらった礼にこんくらいはやらせてくれよ!」
再びウドンを茹で上げていた天が男に笑顔で礼を言うが男もはにかんだ笑顔で頭を下げてみせた。
立原を殺した「出汁汁派」の男。もしかしたらこの男が立原を殺したのかもしれない。
だが天はこの男はおろか、誰1人とて恨んではいなかった。
誰も殺し合いなどは望んではいない。
そんな事は彼らのウドンを食べる様を見ていれば分かるのだ。
「あの……、ウドンを1杯、頂けますか……?」
行列の最後にいたのは女性。
だが大地もひび割れる炎天下の下にいながらもブ厚い外套をかぶっていた。
ウドンをまな板に置かずに空中で切る技は蕎麦屋とかではやるそうですが、ウドン屋でやるかは知りません!




