「貴女に思いを遂げるだけの力があったなら、どうしますか?」
桑原天は後の事を医師たちに任せ、空になった丼を持って厨房へと戻ってくる。
時刻はまだ午前3時の少し前。
丼と箸を洗った後、天はしばらく事務用の椅子に座って考え込んていたが意を決したように立ち上がった。
棚から漆塗りのこね鉢を取り出して、升で大袋から小麦粉をこね鉢へと移す。
手で小麦粉の表面を均し、数か所を親指の腹でつついて凹みを作る。
水瓶から丼を使って水を掬い、塩を入れて塩水を作る。
それから小麦粉の先ほど凹ませた箇所に少しずつ塩水を垂らして両手の指先だけを使って混ぜ合わせていく。
練ったり捏ねたりはしない。
指先だけを使ってあくまで小麦粉と塩水を混ぜ合わせていくのだ。
小麦粉の1粒1粒まで塩水がいきわたるようにするこの作業を「水回し」という。
天は小麦粉も水も塩も分量を量ったりはしない。
季節、気温、湿度、それから小麦粉や塩の水分含有量とすべてが一定の環境が揃う事などありえないのだ。
香川のウドン職人はそれらを指先の感触1つで確認して調整する能力を有している。
驚くべき事に1952年当時はあまり知られていなかった水のミネラル含有量、いわゆる「硬度」という概念すら彼らは水の違いによって長年の経験によってウドンの仕上がりに差が出るという事で理解していたのだ。
そして桑原天も齢15にして熟練のウドン職人となんら遜色ないウドンを打つ事ができるようになっていた。
水回しをはじめてからしばらく。
こね鉢の中の小麦粉は小さな無数の球体のようになる。
その1つを指で摘まんで潰してみると、これ以上に水が多くてはいけないし、少なくてもいけないという最良の塩梅だった。
「……よし!」
そぼろのようになった小麦粉を両手を使って1つにまとめて捏ねていく。
固い生地を全身の体重をかけてこね鉢に押し付け、生地の形を整えてまた捏ねる。
やがて1つにまとまったウドン玉をこね鉢から打ち粉をした作業台へと移す。
作業台には長く太い孟宗の竹竿が据えられており、作業台から両端が飛び出しており1方には大きな石が括り付けられている。
天は竹竿のもう1方に片足をかけ、膝の下へと来るようにする。膝を曲げて竹竿が逃げないようにして巧みに全身を動かして竹竿で生地を捏ねていく。
深夜の風の涼しい時間帯といっても汗ばむような重労働だ。
それでも天にとってはウドンを打っている時だけが全てを忘れられるのだ。
立原さんは死んだ。
だが彼が最初というわけではなく昨日も一昨日も大勢の人が死んでいったのだ。
水不足が解消されない限りは恐らく明日も明後日も大勢の人が死んでいくだろう。
そして、その死者たちの内、息がある内にこの野戦病院に運び込まれて意識があったものは天の打ったウドンを最後に食して死んでいったのだ。
香川の民の生活はウドンとともにある。
彼らが香川の地に生まれ落ちて母の乳から離れはじめた時、お食い初めに食するのはウドンであったし、ウドンを食べて育ち、ウドンを食べて恋をして、ウドンを食べてまた親となる。
彼らにとって楽しい時、嬉しい時、悲しい時、苦しい時、いずれの時もウドンがともにあった。
新年を迎える年越しの時も、新年を迎えた後もウドンを食し。
新居へ移った時もウドンを食し。
そして死ぬ時もまたウドンを食す。
そして今、香川の民はウドンのために殺し合っていた。
長く続く日照りは香川の地へ深刻な水不足をもたらし、本来ならば「生醤油派」だろうが「出汁汁派」だろうが「こっちの方が美味しいのになぁ……」程度で済む問題を血で血で洗う地獄へと変じさせていたのだ。
互いが互いを許す事ができずに残り少ない水源を奪い合って殺し合う。
天も立原たちが守った井戸の水でウドンを打っている以上、同罪なのかもしれない。
立原たちが殺されただけではない。立原たちも「生醤油派」として「出汁汁派」に属する者たちを殺しているだろうから。
あの優しかった立原でさえ、だ。
天が一心不乱にウドンを打つのもそれらを忘れるためなのかもしれない。
天には学が無い。学が無いからどうすればいいかなどは分からない。
中学校を卒業したとはいっても未だ戦禍の影響の残る日本では十全な課程を修了したとはいえず、身よりの無い天には進学など考える事すらできなかった。
両親は終戦直前で高松空襲で命を落としていた天にはウドン職人だった祖父と父から教えられたウドン打ちの技術をもって働きに出て口に糊をするしか道は無かったのだ。
別に両親を殺した米軍の事は恨んではいない。
ウドンを食する者同士でもわずかな相違で殺し合うのだ。スパゲティーを食べる者がウドンを食べる者を殺しても何の不思議があろう。
それでも、と天は思わずにはいられない。
いくら無学の天とはいえどスパゲティーがイタリアの料理である事は知っている。
アメリカ人はイタリアの郷土料理をさも自分のとこの国民食でございと言ってのける剛の者だ。
もしかしたらウドンとスパゲティ、似たような物を愛する香川の民とアメリカ人は仲良くすることができるのではないか?
アメリカ人だけではない。
天は夢見る。
いつの日か、世界中の人とウドンを通じて仲良くなる事を。
だが、それも所詮は夢の話。
香川の民同士で殺し合うような現状では語る事すら憚られるような事であったし、そもそも天はスパゲティなる者を食した事など無いので本当に“似たような物”なんて括りにしていいものか分からなかったのだが。
「……ごめんください」
「はい?」
幾度か打ち粉をしながら生地を竹竿で打って、手で丸めた生地をこね鉢に戻し、固く絞った濡れ手ぬぐいを被せて生地を寝かせようとした頃、天に声をかける者がいた。
声がした方、勝手口を見ると1人の男が勝手口を開けて顔をのぞかせていた。
「あれ? 外人さん? どうかしました?」
「いえね。すいません、何か食べさせていただく事はできませんか?」
「え? ああ、どうぞ中へ……」
GHQの兵士か役人かとも思ったが、前年のサンフランシスコ講和会議を受けて、この年の4月にGHQは廃止されたばかり。
ならば旅行客かとも思ったが、内戦状態にある香川へ呑気に観光に来る者などいるハズもない。
だが深夜の訪問客は明らかに香川の民どころか日本人ですらなかった。
白い肌に掘りの深い顔。彫りの深さを際立たせるように鼻は聳え立つ山のように高い。
天も見ず知らずの者を深夜に招き入れる事を不用心だろうとは思ったが、食べる物を求められては一端のウドン職人として放っておく事はできない。
彼が何者かは知らないが、アメリカ人かイギリス人か、彼の同国人には戦後まもない頃の食糧難を助けてもらった事がある。その恩返しとばかりに天は男を中へと入れた。
「ああ、助かります。こっちがこんな事になってるとは知らずに来て、日中はまともに動く事もできずに隠れていたんですよ!」
「ああ、それで。それにしても日本語、お上手ですね!」
「ええ、ありがとうございます」
含みのある男の笑顔に何も思わない事という事はなかったが、このような情勢だ。笑っていられるだけ良い事だと思う。
それよりも天が気になったのは男の髪と服だ。
綺麗な金色の髪は女性のように長く、そして海のように真っ青な彼の背広は銀糸でも編み込んでいるのか、それとも小さな金属版を無数に取り付けているのか、厨房の裸電球の灯りを反射してキラキラと輝いている。
「ウドンならすぐにお出しできますけど……」
「こんな真夜中にいきなり訪れて、何か頂けるだけで十分です。ええ!」
「くすっ、皆、そうだったら良いんですけど……」
幸い、立原の最期の食事のために大鍋に沸かした湯はまだ熱いままだ。沸かし直すにしてもそう時間はかからないだろう。
ほどなくして作り置きの物であったがウドンは茹で上がり、丼に盛られたウドンは珍客の元へと差し出される。
水で締める事の無い釜揚げのウドンに添えられるのは削り節だけ。
男は一緒に出された醤油差しを使って醤油を回しかけ、箸を器用に操ってウドンを手繰る。
「ああ、美味しい! 本当にこれが小麦粉から作られたのかと思うほどの弾力に豊かな風味! それらを引き締める醤油の香り、素晴らしい!」
「ありがとうございます」
男が器用に箸を使う事、そして天が作ったウドンを日本人ではありえないほど大仰に褒めたたえる男に天も嬉しくなるが、それと同時に少しの罪悪感がよぎる。
男が誉める麺の弾力、コシは釜揚げでは最大限に活かす事ができないのだ。
コシの真骨頂を味わうには茹で上げたウドンをたっぷりの冷水で締めあげなければならない。
たとえ温かいウドンであっても大量のお湯で茹でられ、大量の冷水で締められたものを、再び湯で温める。
そうであってこそウドンのコシは最大限に引き立てられるのだ。
だが、それを行うだけの余裕が無い。
外人さんがせっかく香川の地を訪れたというのに名物のウドンをまともに振る舞う事もできないなど、ウドン職人である天にとっては全裸で大通りを闊歩するに等しい恥辱でもあった。
「醤油が違うのですかねぇ? 角が無いというか、丸いというか……」
「ああ、実は……」
ウドンを箸で手繰りながら首を傾ける男に天は耳打ちする。
満足にもてなす事ができない以上、少しでも納得してもらおうという天の気持ちからの行動であった。
「ええ!? 『醤油に出汁を入れてから寝かせている』!? ここって『生醤油派』の拠点ですよね!?」
「シー!!」
天が耳打ちした内容に男は驚いて大きな声を出そうとするが口元に人差し指を当てた天によって男の言葉は遮られた。
天のウドンの秘密、それは醤油にもあった。
生醤油にイリコ出汁やみりん、極少量の砂糖を加えて数日間、冷暗所で寝かせた後に客に供せられる事で角は取れ、ウドンの風味を引き立てられるのだ。
だが、それは「生醤油派」にとっては禁忌に等しい。
そのために出汁も味醂も砂糖も普通の人間では感じ取れぬほどに少量しか入れられていない。
むしろ分からずとも何かあると感じ取った男の舌が異常なのだ。
男の舌の異常さ、あるいは先ほど「何も分からずに来た」と言ったのにここが「生醤油派」の野戦病院であると知っている不自然さに天が気付ければその後の展開は変わっていたかもしれない。
だが、幸か不幸か天がその事に気付く事は無かった。
「確かにここは『生醤油派』が使ってますけど、でもウドン、美味しいでしょ?」
「え、ええ……」
「大体、『生醤油派』の人たちだってウドンに削り節を乗せるんだから出汁の美味しさは知っているんです。それにウドンの美味しさに本当は派閥なんて必要ないと思います」
天自身もハッキリと自分の言葉が欺瞞であると知っている。
自分の言葉が本当に正しいのなら、出汁の味がきちんと分かるように出汁を入れればいいのだ。
だが男は天の内心を見抜いているのか半ば呆れたような顔をしながらも陰鬱な笑みを浮かべて天の瞳を覗き込む。
「貴女、これがバレたら殺されますよ?」
「そう、ですね……」
「私だって貴女のようないたいけな少女が『魔女狩り』のような目に合うのは見たくない……」
「魔女狩り? 私が魔女ですか?」
天には中世から近代にかけてヨーロッパで行われた魔女狩りについての知識は無かったが、童話の中に出てくる魔女なら知っている。
幾つかの童話では魔女なる悪者は主人公たちによって殺されていた。
目の前の男は自分もそうなると言っているのだろうか?
「魔女になるのが嫌なら、貴女は魔法少女になりなさい」
「魔法……少女……?」
男の金色に光る眼が妖しく瞬く。
「私の名はロキ」
「呂木?」
「貴女は、貴女に思いを遂げるだけの力があったなら、どうしますか? 何がしたいですか?」
いつの間にか男の手には短い杖のような物が握られていた。
だが杖に似ているのは形だけ、長さ40cmばかりのそれは杖として使うにはあまりにも短すぎる。だがさりとてウドンの生地を伸ばす麺棒としても突起が多すぎて使い道が無さそうだ。
「私は……、私はウドンを打ちたい! 皆に私の作ったウドンを食べてもらいたい!」
「…………」
「…………」
思いのたけを言葉にした天だったが、男はきょとんとした顔をして固まってしまう。
しばらくしてから呂木と名乗った男は口を開いた。
「そ、それって魔法少女になってやる事ですかね……?」
私が行方不明になったなら稲庭原理主義者の手によって粛清されたと思ってください。




