石動仁 磐手大学卒業論文より一部抜粋
今回から少しだけ番外編となります。
前回ラストで触れられたナイアルラトホテプが犯した誤ちの1つに関係のある事になります。
“はじめに神がおられた”
“1日目、神は香川の地を作られた。香川の他は天と地の境すら曖昧の状態である”
“2日目、神は「香川の地に饂飩あれ」とおっしゃられた”
“3日目、神はウドンにチクワの天ぷらを乗せるために徳島を作られ、鳴門の渦潮で身の締まった魚が取れるようにされた”
“4日目、神はウドンに豊かな風味を加えるために愛媛の地を作り、すだちやゆずが取れるようにされた”
“5日目、神はカツオ出汁を取るために高知を作られた”
“6日目、神はなんやかんやその他もろもろをお作りになり”
“7日目、神は財布の中に天ぷら1品無料クーポン券を見つけ、その日を安息日とされた”
(引用 「聖書」香川聖女教会刊行)
以上は香川県で深く信仰されている聖女教会の教典に記されている創世記である。
カトリックやプロテスタント、その他諸宗派を含めた世界的かつ一般的なキリスト教で用いられる聖書とは明らかに異質である聖女教会の聖書に対し、バチカンの異端審問官が派遣された事もあるほどだ。
だが威圧的とも取れる異端審問官に対しても香川の民はこれを良くもてなし、バチカンの中でも旧守派、強硬派として知られる審問官もウドンを5玉も食べた後に口元を押さえて何も言わずに香川の地を後にしたそうである。
聖女教会の成立は不明なれども朝鮮戦争の停戦後だと目されている。
そして基盤地域は香川県のみ。
そのような規模も小さく、歴史も浅い聖女教会に対してバチカンの異端審問官が引いた理由とはどのようなものであったのだろう?
異質なのはキリスト教だけではない。
一般的に香川の県民食であるウドンがかの地に伝えられたのは平安時代の初期であるとされている。
当時、朝廷の命により九州より襲来する吸血鬼を防ぐ目的で四国を霊場要塞とする事業に従事したとある高僧が八十八ヵ所の霊的堡塁を建設する途中、香川の地を訪れ、現代にも続いている水不足になりやすく稲作に適さないかの地の窮状を慮って米よりも水を必要としない麦で作れるウドンの製法を伝えたのだという。
だが疑問に思った事はないだろうか?
「水不足ならウドン茹でないでパン焼けよ!」と。
パンでなくとも良い。
例えば平安時代にはすでに「策餅」という小麦粉を練って油で揚げた菓子があったし、その生地を焼けば原始的なビスケットになる。さらにいえば世界的には麦を使った粥も一般的なものである。
何故、香川の民はウドンにここまで執着するのだろう?
また、こういう話もある。
世界的に“天国”“極楽”などという死後に善人に行くとされる所は様々なイメージで伝えられている。
例えばインドの酷暑の地域では「水冷たく、辺り一面が氷で覆われた場所」と伝えられているし、逆にアラスカの極寒の地域の先住民はまるでハワイかグァム、サイパンのような南国の地を想像していた。
ところが香川の地で信じられているのは「絶える事のない清流のせせらぎが聞こえる、万丈に実る小麦の大地」である。
水不足に苦しめられてきた香川であるので「絶える事のない清流」はまだ分かるとして、彼らにとって小麦とは稲が取れぬが故の代替作物ではなかったのか?
何故、天国に行っても小麦を作っているのだろうか?
しかも香川県民は戦後の幾つかの事例が示すように「米ではなく麦が生えている天国」へ好んで行きたがっているような節すら見受けられるのだ。
これらの疑問に答えを見つけるため、私は香川の地へと足を踏み入れた。
幾つかの冒険とともに私のわんこ蕎麦で鍛えた喉は幾玉ものウドンを飲み干し、そしてついに土地の古老から話を聞くことができたのだ。
………………
…………
……
「どぉっスか? 教授?」
「うん。とりあえず『俺』を『私』には直してきたようだね……」
「アハハ! 言われてみれば、そりゃそうっスよね!」
「でもね、君……」
「どうしました?」
「君、これが教育学部の卒業論文でやる事かい!? 分かる? 君も教員免許取ったんだよね!? これを学校教育でどう活かすのさ!!」
≫バチカンの異端審問官が引いた理由とはどのようなものであったのだろう?
腹がはちきれるまでウドンを詰め込まれて吐きそうになってただけ……。




