39-16 秋田編エピローグ
世界樹の麓、幾重にも重なる枝葉によって陽の届かない常夜の世界。
大地の気を吸って新緑色に淡く輝く光の振るその世界は静寂に満ちていた。
その静寂を保ったまま、突如として黒い淀みがどこからともなく表れて人の形を取る。
夜の世界にあっても、なお漆黒の闇で作られた人形はゆっくりと歩きだすが、その姿はどことなく不自然で見る者がいたならば生命に対する嘲笑を感じていただろう。
黒い人影が歩く先には巨大グマ、ウェンディゴの死体があった。
心臓を周辺の骨格ごと破壊された死体は傷口の開口部の大きさの割りに出血が少ない。
座敷童の気球は熱量を持つものではないため焼灼止血されたというわけでもないのにだ。
それはまるで死んで時間が経った死体を損壊した場合に起きる現象に似ていた。
黒い人影は巨大クマの仰向けになった頭部を見下ろすような位置に立つとしばしそのまま何かを待った。
「てけり・り」
巨大クマの口から、鼻孔から、そして胸にぽっかりと空いた貫通痕から粘液質の液体が溢れだしてくる。
顕微鏡で見るアメーバーが移動するように動く粘液はどこに発声器官があるのか鳥のように甲高い声で鳴きだす。
頭上で発光する世界樹の緑色の光にも関わらず、黒い粘液は不気味に虹色に光を反射してなおもクマの死体から続々とあふれ出ていた。
「てけり・り」
やがて粘液の中からピンポン球ほどの大きさの眼球が現れる。
哺乳類や爬虫類、あるいは鳥類、魚類、地球上のあらゆる生物との類似性が見られない眼球。
黒い人形は細長い指をした手を差し伸べると、黒い粘液質の生命体は体を伸ばして向かっていく。
粘体生物が黒い手に触れるとそのままスイスイと吸い込まれていき、ほどなくして完全に黒い人型に飲み込まれてしまう。
「HAHAHAHA! 寄生型しょごすノ実験ハ成功ト言ッタトコロカ! 殺ラレハシタガ、タカガ野生動物ガコウモ強力ニナルトハナ!」
吸収した粘液質の記憶を読み取ったのか、突如として黒い人型は狂ったように笑いだす。
大きく揺れる体と呼応するように顔には3つの燃える目が揺らめき、この世の終わりのような狂気じみた光景を生み出していた。
古の時代の狂える詩人、アブドゥル=アルハザードの見た悪夢が秋田の地で顕現していたのだ。
やがて見をよじりながら笑い続ける黒い人影、邪神ナイアルラトホテプは現れた時と同じように音もなく姿を消していった。
後に残されたの常夜の世界と不可思議な生物に寄生されていた哀れなクマの死体のみ。
「……ん、ここは……?」
「おっ、目を覚ましたか?」
全身が何度も揺れる感覚にクライング・ドッグが目を覚ますと、いつの間にか夜だった。
いや、夜ではない。
しばらくしてそこが世界樹の麓、マタギ族から「明けない緑の夜」と呼ばれている場所であると気付く。
クライング・ドッグはむくつけきオメホの戦士の背の背負子に乗せられており、彼がこの場所まで連れてきてくれたのであろう事はすぐに察する事ができた。
ズキズキと痛む頭に歯を食い縛りながら、少年は気を失っている間に見た夢を思い出していた。
妹と抱いた母と2人に寄り添って立つ父。そして、その後ろにはオラホの皆。
言葉は無い無音の夢であったが、クライング・ドッグは何となく皆が「こちらに来てもいい」と言っているような気がしたのだ。
だがクライング・ドッグが、若い戦士が「僕は戦いに戻るよ。オメホの最後の生き残りとして」と言うと誰も彼もが笑顔で言葉もなく大きく頷いて見送ってくれたのだ。
そして瞳からあふれる涙を振り払って振り返った時、そこで目が覚めたのだった。
「……そうだ! ウェンディゴは!?」
「ああ、良くやったな! 君はマタギ族の勇者だ」
背負子から降りて戦いに復帰しようとしたものの、妙にしたり顔の男はクライング・ドッグをそのまま背負って歩き続ける。
武器も無く負傷した子供を背負う事が名誉であるかのようにオメホの戦士はクライング・ドッグを降ろそうとはしなかった。
「……これは」
やがて男が180度向きを変えるとクライング・ドッグの目に飛び込んできたのはあの巨大なウェンディゴ、その死体であった。
すでに死体の元で待ち構えていた大勢のオメホの戦士たちは少年を熱狂的な歓声で出迎え、1人の男がクマの眼窩に突き立ったままだったオラホ族のナガサを引き抜いて少年へと手渡す。
「まさか、たった1人でクマのウェンディゴを倒しちまうとはな!」
「オラホの仇は自分で討つってか?」
「ハハハ! これじゃ、もうドッグなんてモンじゃねぇな! クライング・ウルフにでも改めたらどうだ!」
「そりゃあ良い!」
周囲の大人たちは口々にクライング・ドッグを誉め讃え、大人に付いてきた少年たちも彼を羨望の目で見つめている。
だが、そんな事よりもクライング・ドッグは1人の幼女の姿を探していた。
彼とともに戦い、少年が気を失った後も1人で戦い続け、そして恐らくはウェンディゴを倒したのであろう幼女の姿を。
「あの人は……」
「行ったのじゃろう……」
クライング・ドッグと同じように別の戦士に背負われていたオメホ族の酋長が近付いてきて諭すような口調で言う。
「あの子はマニトゥ」
「あの子が!?」
「ああ。それも山から吹き下ろす風のマニトゥじゃ。じゃから、この地でやるべき事が終わったのなら行くべき所へと行ったのだろう。風が過ぎ去っていくようにな」
マニトゥと共に最強最悪のウェンディゴへ戦いを挑み、見事に打ち倒してみせた若い戦士に場の一同は大いに沸き立っていた。
その後、クライング・ウルフとしてオラホ族復興を果たして現代の伝説と呼ばれる酋長の伝説の一歩である。
だが、この時、少年が感じていたのは歓喜に湧き立つ周囲の者たちとは反対に一抹の寂しさであった。
「名前、聞いておけばよかったな……」
思い出すのは幼い子供の姿に、獣王の闘志を秘めた熱い眼差し。
周囲を覆う新緑のトンネルの中を走るアスファルトの道路を1人の和服姿の幼女が歩く。
座敷童である。
すでに龍脈からの気の供給は止め、幼女の姿に戻っていた。
世界樹から離れた今でも歌を歌えば故郷の山と繋がる事はできる。
だが必要もないのに龍脈から気をもらうつもりはなかった。
あのウェンディゴ、マタギの伝承によれば世界樹を取り込むつもりであったのだという。
食らった獲物の骨も皮も残さないような貪欲なウェンディゴが龍脈を取り込んだなら、どこまでも際限なく肥大化していたかもしれない。
恐らくは白神山地のマニトゥたちもそれを良しとせずに座敷童に力を貸してくれたのだろう。
座敷童とて必要もなく龍脈の力を使えばいつかはウェンディゴと同じになってしまうのかもしれない。
そうなってしまったら精霊たちは力を貸してくれるだろうか?
大きな力を使う者にはそれだけの自制心が求められるのだ。
それができなければ破滅あるのみ。
だが座敷童は深く考えない。
あの気弱そうな、しかし芯の強い少女、長瀬咲良に任せておけば安心だと思っていたのだ。
後ろから走ってきた大型トラックが軽くクラクションを鳴らす。
振り向くとあのトラック運転手だった。
今回のように「クライング・ドッグは後に酋長となって~」とかやるのは未来が決まってるみたいで好きではないのですが、今回のマタギ族は文明が崩壊しても平気な気がするので……。




