26-6 4月その1
1組の母子が山の中を駆けていた。
4月とはいえ東北地方の深夜は凍えるほどに冷え込む。だが幸いに積雪量は1、2cmほどで足を取られるというほどではない。
しかし日中の陽気で緩み、そして夜間の冷え込みで硬くなった雪は2人が歩く度にザクザクと大きな音を立てて母親の神経を擦り減らしていた。
2人は追われていたのだ。
それも2人にはどうしようもない強大な怪物にだ。
母子の暮らす家に突如として現れた怪物は殺意を隠そうともせずにその手に持った得物で2人に襲い掛かってきた。
何とか2人揃って逃げ出すことが出来ただけでも僥倖といっていいだろう。
とはいえ、それも化物を完全に撒いて、追跡を諦めさせたと思えるようになってからの話だ。
山を低く包む霧は2人の姿を隠してくれそうだったし、山の斜面は親子の歩く音を反響させて追跡を困難にさせているだろう。
それでも母親には安心することなどできなかった。
救助が来るとしても最短で数時間後なのだ。
それまでは2人で切り抜けなければならない。
木の根に足を取られて娘が転ぶ。
先を走っていた母は娘の元まで戻り、手を差し伸べて立ち上がらせる。
深い霧も山の斜面による音の反響の事も忘れて、母親はこの山自体が2人に害意を持っているかのような錯覚を感じていた。
立ち上がった娘には幸いに怪我は無いようだった。
我が子を促して再び走りだそうとした矢先、母親は自分たちのすぐ先に1人の子供がいるのに気付いた。
(……こ、子供? 女の子? いや男の子か?)
第二次性徴後の男女の体格の分化がほとんど見られない中性的な子供だった。
母親が男の子だと判断したのは単に着ている黒のハーフコートが男性的な物だったからに過ぎない。
袖口や肩、また合わせのボタン代わりにも用いられている金属製のベルトは月明かりを浴びて鈍いが怪しく光り、白黒のファーをあしらったフードに包まれている顔も青白く見えるせいで妙に不気味だった。
母親と現れた男児が視線を交わしてどれほどの時間が経っただろう。恐らくはたった数秒の事だったが、奇妙な緊張感の故か母親は時間の感覚を失調していた。
その事に気付いた母親がパニックに陥ったのを察したか、目の前の男の子は笑っていた。
声は無かったが、口角を上げて目尻を下げたその表情は「笑顔」としか言いようのないものだった。だが世間一般でイメージされる「子供の笑顔」とはほど遠い禍々しい笑顔だった。
娘の方も男児の笑顔を見てしまったのか言葉もなく母親の腰にしがみ付いてきた。
その事で母親も我を取り戻す。
改めて見れば見るほど奇妙な男の子だった。
何故、こんな時間に子供が山の中をうろついている? 迷子か遭難者かとも思ったがこの山はスキー場や登山道などは無いのだ。
何故、この子は音も無く現れた? 未だ1言も口を開かないのはもちろん、硬い雪は歩けばそれだけで音がするハズだ。見ると彼の足元には足跡があるが母親はその足音には気付かなかった。
そして何故、この子は笑っている?
その事に気付いた母親は目の前に迫った異常ゆえに踵を返して今来た道なき道を戻ろうとした。
だが娘の子を引き走り始めた母親の前に針葉樹の陰から例の化け物が現れたのだ。
何かが青白く光る。
母親が最後に見たのは、娘の手を引く自身の頭部を無くした胴体が噴水のように体液を吹きあげている所だった。
噴出する体液の勢いが弱まるのと同調するように母親の視界と意識もフェードアウトしていく。
S3Cの交渉官、アリサ・スワローテイルは1人、M市近郊のオートキャンプ場への道を進んでいた。
暦の上では季節は春だが、この地方においては春の訪れはまだ感じられない。
とはいえ彼女の故郷はもっと寒い。本来ならばこの国の基準でいう初夏程度の薄い長袖の服でも事足りるのだが、ネゴシエイターが交渉に入る前に交渉相手からおかしな相手だと思われるような真似は愚策だ。彼女は薄い茶色のロングコートを着ていた。
その他にも自身を危険性の無い相手だと認識してもらえるように、衣服も靴もアクセサリーに至るまで落ち着いた物を選んである。
気を付けなければならないのは、「危険性の無い相手」との印象が強すぎて「詰まらない奴」「話を聞く気にもならない相手」だと見なされてはならない事だ。
その辺の匙加減は非常に難しい。
特に今回のような危険な相手の元へ交渉に赴かなければならない時は尚更だ。小さな1つのミスが自分のみならず、救出対象の命すら危険に晒してしまう結果につながりかねない。
アリサにとっては今回の1件は最大の難件だと言っていい。
そもそもアリサは大学を卒業後に研修を受けて、それから1年間の先輩交渉官との実地訓練を終えたばかりの新人なのだ。
しかもネゴシエイターという職務の特殊性故に、彼女は先輩交渉官の技術を存分に学べたとは言い難い。交渉相手が複数の交渉官を相手にすることを好まない事も多いのだ。当然、その場合は新人である彼女は場を外してベテランのネゴシエイターに任せる事になった。
もちろん、案件の解決後に先輩交渉官の記録していたドキュメントを参照して見る事はできたし、先輩も情熱的に細に至るまで丁寧にアリサに教授してくれた。
だがネゴシエイターという職業は過去のデータを眺めてマニュアルや教本を漁る事よりも、現場の空気に慣れる事の方が大切だと言われている。同じ現場など1つたりとて存在しないのだ。
そのド新人と言っていいアリサが本件を任される事になったのは、単に現場に近い場所にいた交渉官がアリサしかいなかったからなのだ。
別にアリサが優秀だからでも、何か特別な事情を抱えているわけでもない。
アリサの実地訓練後の評価は「優」。合格最低ラインの「可」でもなければ、特別に優秀である事を認められた「秀」でもない。
その普通の新人、アリサが頼りにすべきマニュアルはまず第一歩から破綻していた。
救出対象の生命の危機が迫っているという事で、彼女は現地機関との協力態勢が整う前に交渉相手の元へ向かう事になったのだ。
彼女のバックアップと呼べるのは数100m後方の数人の現地警察くらいなものだ。
(はぁ……、これで上手くいってもお説教、失敗したらサヨナラこの世かぁ……)
今回の交渉相手はそれほどに危険な相手だった。
別にアリサや彼女の所属しているS3Cと敵対しているわけではない。
だが、それはむしろ交渉を困難にしていた。明確な害意、悪意であれば交渉中の心理誘導により身を守る事ができる。
今回の相手はそもそも何をしでかすか分からない相手なのだ。しかも強力な。つまりは彼女の命は交渉相手の気分次第といった所か。
そうこうしている内に焚き火の火が見えてくる。
オフシーズンのオートキャンプ場に他に客は無く、見えている明りは1つだけだ。
オレンジ色の火に照らされているのはこの国の基準で考えれば古い年式のキャンピングカーにキャンプ道具、そしてテーブルを囲む2人の人影だった。
アリサはゆっくりと足音を殺してしまわないように注意を払いながら接近していく。これは気配を殺して近づいてきたと警戒されないため。何事も第一印象は大事だ。
向こうはアリサに気付いているのかいないのか分からない。
だが気付いていると思って行動する。
少し遠すぎるかな? というぐらいの距離で2人に声を掛ける。
「……こんばんわ!」
威圧的にならないように、かといって明るすぎないように。
2人からの返事は無い。2人はアリサの事を見ようともしなかった。
だが、拒まれたわけではない。
臆せずに接近を続ける。
「……私、S3C、Space Child Consultation Center。この国の言葉で言うと宇宙児童相談所の方から来ました交渉官のアリサ・スワローテイルと申します。松田さんと石動さんですね?」
アリサの目の前にいるのは「殺人鬼」マーダーヴィジランテと「死神」デスサイズだった。
そして、先ほどまでは陰に隠れて見えなかったが、救出対象であるホマード星人の子供が木にロープで縛りつけられていた。
幸い、まだ危害は加えられてはいない。
これからがアリサの腕の見せ所だ。




