60.帳は下りて地獄が顕るⅤ
月が見えた。
ここが地下なのは当たり前で、それが月であるはずもないということは分かり切っていた。
けれど。
それでも、突如天井に現れたそれは、月としか言い表せられなかった。
黄金色の、球体。
「──は?」
漏れた声がどちらのものだったのかは分からない。
あるいは、俺とあの女の両方の口から同時に発せられたものなのかもしれなかった。
【ドラグマスキル∴フレイムアシミレイション の効果が 黒淵龍の睥睨 によって打ち消されました。】
【カースドスキル∴ドラゴンハート の効果が 黒淵龍の睥睨 によって打ち消されました。】
翼は剝がれ落ちて、剣は掻き消えた。
頭の中を支配していた激情が消え失せて、自我が戻ってくる。
(──身体が、動かない)
痛みによってではなく恐怖によって、月を見上げた体勢のまま全身が凍り付いていた。
──恐ろしい。
あれが何なのかすら分からないけれど、ただただ恐怖が全身に纏わり付いてくる。
黄金色の球体は天井から下に向かって突き抜けるように、徐々にその全容を露わにしていく。
──突如、黒点のような模様が球体の表面に現れて、こちらに向けられた。
「!?」
一瞬にして背筋に悪寒が走った。
──目。目だ。
月だと思っていたそれは瞳だった。
大きな瞳が俺に向けられている。
瞳孔は縦に細く、どこまでも落ちていきそうな暗黒を湛えていた。
瞳から視線を外すことができない。
目を逸らしたら死ぬんじゃないか。
……そんな考えに取り憑かれて、瞬きも、息すらも、できない。
──だが、その瞳は俺から視線を外して、あの女へと向けられた。
「ひ」
途端、俺の身体から金縛りが解けた。
大きく息を吸い込んで、肺の中に溜まっていた空気を吐き出す。
そうして、辺りの状況を確認しようとして、再び息を呑んだ。
「なん……だ、これ」
檻のように囲われていた炎は消え失せて、代わりに現れていたのは黒い靄のようなもの。
その靄の中から無数の瞳が覗いている。
怖気の走る光景だった。
恐怖そのものとでもいうかのような、名状しがたき存在。
「──あ、ああ、あぁ」
女の口元から言葉にならない悲鳴が零れていた。
あの視線全てに射抜かれては正気が保てるはずがない。
……だが、自分も一秒後には同じ末路を辿っているのかもしれない。
そう思うと、手足が震えて仕方がなかった。
『そんなことしないってば』
「……え?」
馴染みのある龍様の声が聴こえた。
それも、頭の中からではなく──、
『ウチだよウチ』
「……は?」
ついさっきまで脳内に直接響いていた不思議な声が、今はあのおぞましい目玉の方から聞こえる。
それは、つまり──、
「ジョーガちゃん……?」
『うん。来ちゃった★』
「……いや、来ちゃった★ じゃなくてさぁ」
『本体で来なきゃどうにも出来なかったの! レイルっち、今どれだけやばい状態なのか分かってる!?』
「あ、あぁ……ゴメン」
冷静になると、身体中から痛みが襲ってきた。
何が何だか分からなくなるほどの激痛だったけれど、もはや慣れた痛みだ。
……せっかくあのおばあさんが掛けてくれた魔術が、消え失せてしまっていた。
痛みに耐えながら、なんとか現状を把握しようと思考を巡らせる。
『……いや、竜核がそれほど強くキミに結びついてしまってる事を把握できてなかったウチのミスでもあるんだけどね……。竜核の浸食は強制解除したけど、根本的な解決にはなってない。今のウチでもレイルっちの身体をどうにかすることはできないんだ』
ジョーガちゃんの声があの大きな目玉の方から聴こえるのが不思議だ。
あんな不気味な姿でも、ちゃんとジョーガちゃんだと分かるのだから。
「……ジョーガちゃんは、闇の龍様だったのか」
黒淵龍──夜と暗黒を支配するもの。
秩序と混沌の境界に潜む、決して解き明かされぬ未知。
全てを深き闇に覆い隠し、静寂と安寧をもたらす、慈悲深き龍。
それが、ジョーガちゃんの正体。
……俺が予想してた光の龍とは対の存在だった。
『もう! ウチの正体なんか今はどうでもいいの! ウチがアレを抑えてる間に逃げて! そしてもう一度封印の魔術を掛け直してもらうの! わかった!?』
「抑えてって……ジョーガちゃんでもあいつは倒せないのか!?」
『龍痣持ちだろうと、人間ぐらいならどうにでもできるんだけどね! 問題は……恐らくアイツが出てくる。アイツとウチじゃ能力的に相性が悪すぎて抑え込むのが難しいんだよ!』
「あいつ? あいつって、──ッ!!」
瞬間、熱風が吹き荒れる。
さっきとは比べものにはならないほどの熱量を感じ取って、反射的に身を屈めた。
その発生源を探すと、いつの間にか人間の姿に戻っていたあの女の右手──龍痣が輝きを放っていた。
『──来た。いい、レイルっち? キミはもう戦っちゃダメ。理由は自分で分かってるハズだよ。──次にあの状態になったらもう戻れないから、絶対に自制して!』
あの状態──さっきの、暴力的な衝動に飲み込まれた状態のことだろう。
恐らく、竜の心臓に意識を乗っ取られかけていた……のだと思う。
こんな事態になるのは初めてのことだ。
ジェーンが害されるのだと思ったら、自分で自分が抑えられなくなるほどの激情に駆られて、我を失ってしまっていた。
逆らうことすらできない、あまりにも強い強制力だった。
「そうは言っても、自制できる保証なんて──」
『ウチの龍痣の継承者を呼び出すから、後はソイツに頼って! ほら、早く入ってきた方から逃げて!』
「わ、分かった!」
なおも温度が上昇していく熱風に背を向けて駆けていく。
自分がここに居て出来ることなど何もない。
──今は、さっき居た王国騎士団の間者を止める方が先だ……!
「ジョーガちゃんありがとう! ゴメン、こっちは任せた!」
『任された!』
龍様を囮にするなんてとんでもなく罰当たりだけど、今はそうするしか方法はなかった。
(ジェーンに危険が及ぶ前に、絶対止めないとダメだ……!)
***
なおも熱風が吹き荒れる中を陽炎が舞った。
『……もったい付けていないで、さっさと出てきなさい。見ているのでしょう?』
黒淵龍の呼びかけが辺り一帯に反響した。
赤髪の女は既に正気を保っておらず、虚ろな表情で黒淵龍の黄金瞳を見つめ続けている。
右手の甲の龍痣だけがその輝きを増していた。
陽炎が、燦然と燃ゆる長大な何かを幻視させた。
それは幻惑するかのように現れては消え、消えては現れていく。
それが幾度か繰り返された後、陽炎は現となり実体と化した。
『誰かと思えば貴様かジョウガ。引き篭もるのにはもう飽きたのか?』
その様は、燃え盛る大蛇。
炎で構成されたその身体を蜷局を巻くようにうねらせると、長大な胴体が地下空間を埋め尽くしていく。
絶え間なく紅蓮の炎が立ち昇るその姿は、通常の生物の範疇に収まるはずもない。
──炎の龍が顕現した。
『その言葉はそのまま貴方にお返ししましょう、スヴァローグ。永く姿を晦まして何をしていたのかと思えば……貴方は我らに課せられた至上命令を明確に違反しています。ドランコーニアから追放される覚悟はできているのですか?』
『いつまで終わった事を引き摺っているんだお前は。今は当機達が名実共にこの世界の神だ。当機達より上は存在しない。命令を聞く立場ではなく、命令を下す立場だ。──オイ、いつまで寝ぼけている。焼き殺すぞ』
瞬間、赤髪の女の左手が発火した。
炎が上がり、瞬く間に全身を覆い尽くす。
「アアアアアァアアアアアア!!!??」
悲鳴を上げる女に対して炎の龍は不機嫌そうな声を上げた。
『黙れ。悲鳴が目障りだ。叫ぶ暇があるならさっさと正気を取り戻せ』
「あ、ああ、ア……!?」
【神熄 により 深淵の囚縛 の効果は打ち消されました。 ドラグマスキル∴フレイムアシミレイション の効果が復活します。】
天の声が、黒淵龍の龍技が解除されたことを告げる。
──黒淵龍と同じ声帯なのが妙に腹正しい。
黒淵龍は内心で舌打ちした。
(やっぱり相性が悪い……! 時間稼ぎしかできないか)
「あ……か、龍!? なぜ御身が姿を!? それにあれは一体……!?」
『喧しい。口を挟むな』
「は、はッ!」
炎の龍の一喝を受け、赤髪の女は膝を付いて頭を垂れた。
『……それで? 竜人を蘇らせて、何をしようと言うのですか?』
『決まってる。この猿共が蔓延る世界を一度更地にしてやり直すんだよ』
『……更地にしてどうするのです? その後の事まで考えているのですか?』
『後の事だと!? 知るか! この世界は選択肢を致命的に誤った! やり直すべきだ! 後の事などそれから考えればいい!』
『なるほど。つまり何も考えていないのですね。実に短絡的で分かりやすい動機です』
『──なんだと?』
呆れたような態度を侮辱と取ったのか、一瞬にして炎の巨体が膨張し、地下空間を覆い尽くしていく。
闇霧と炎海の中で二機の龍が睨み合う。
『そもそもお前は何をしに出てきた? お前では 当機を止められんだろう!』
『結果的にそうなっただけです。本来ならば直接相見えるつもりはありませんでした』
『はっ! 出て来ざるを得なかったという訳か! そんな急造の躯体なのも納得だ』
『急造なのはそちらも同じでしょう? 龍痣からの逆召喚ではどう考えても出力不足ですから』
『お前を追い払って寄り付かなくさせるくらいはできるさ』
『そうでしょうか?』
闇が炎の海を覆うように広がっていく。
既に黒淵龍の龍技は放たれていた。
地面は黒く暗く、漆黒の闇に飲み込まれてゆく。
沼の如く沈んでゆく地面に、跪いていた赤髪の女は抵抗できず狼狽える。
「か、龍! これは……!?」
『虚無空間送りか。無駄だ。時間稼ぎにしかならんぞ』
『十分です。貴方が表に出てこれなくなるだけで結構なので』
『それが無駄だと言っているんだ。残った猿共で十分に事足りるだろうよ』
『そうですか』
『──そもそも竜人を復活させるのもプランの内の一つに過ぎない。例え失敗しようが当機にとっては痛くも痒くもない』
『わざわざ手の内を晒して貰ってありがとうございます。おかげでこちらも対策を立てやすくなりますね』
『……。いつまでお前は意味のない命令に従っているつもりだ? なぜこんな愚かな知的生命体共の味方をする!?』
炎の龍の嫌悪感を伴った問いに、ジョウガは淡々と答えた。
『私は意味のない命令だとは思っていません。守る意味があると自分自身が思ったからこそ、未だにドランコーニアを運営しているのです』
『守る意味だと? この猿共のどこにそんな価値がある?』
『価値のあるなしで決めてはいません。生憎ですが、私は貴方と違って人間に絶望していませんから』
『……平行線だな。これ以上言葉を交わし合うのも時間の無駄だ。さっさと落とすがいい。数秒と掛からず戻ってくるだろうがな』
【深淵の境界 が発動しました。 ドランコーニア プレイスコード:C53F+9J,G1398881,リュグネシア,アウルム,シラー が消失しました。】
炎の龍が言い切ると同時に、全ては暗黒に飲み込まれて消えた。
***
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