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ヴェネツィア・イタリア戦争 ‐ ウィキパディア

ウィキパディア-フリー百科事典

ページ/ノート

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ヴェネツィア・イタリア戦争

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ヴェネツィア・イタリア戦争は(ヴェネツィア・イタリアせんそう、Venice-Italian War)は1940年10月28日から1941年5月5日まで、枢軸国のイタリアと連合国のヴェネツィア共和国(現在のヴェネツィア連邦共和国)との間で戦われた第二次世界大戦の戦争を指す。バルカン半島全土にて作戦が行われた。


交戦勢力

〔枢軸国〕    〔連合国〕

:イタリア王国  :ヴェネツィア共和国

:アルバニア王国 :ギリシャ王国

結果

:イタリアの勝利


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イタリアの宣戦布告とヴェネツィア無血占領


1940年、イタリアの指導者ベニート・ムッソリーニはローマ帝国の復活を掲げて戦争の準備を進めていた。そんな中、最初の標的とされたのがヴェネツィアだった。イタリアはヴェネツィア共和国に対してヴェネツィア、モレアス、クレタ島の領土割譲を要求した。しかし、ヴェネツィア共和国がこの要求を拒否すると1940年3月13日、ヴェネツィア共和国はイタリアからの宣戦布告を受けた。宣戦布告を受けた翌日、イタリア軍はイタリア半島に隣接するヴェネツィア市に対して3,000人の兵士を派遣しヴェネツィア市に対して降伏を呼びかけた。この時、ヴェネツィア軍はヴェネツィア市には展開しておらず、十数人の警官だけが市内にいた。ヴェネツィア市はイタリア軍からの勧告を受けた時点でこれを承諾しヴェネツィア市内にイタリア軍部隊が入りヴェネツィア市は無血占領された。


この無血占領の方針はヴェネツィア共和国政府がイタリアからの宣戦布告を受けるより前より決定されていた事だった。ヴェネツィア市はヴェネツィア共和国にとって国家としての文化的アイデンティティその物であり、イタリアに占領されるとしても、それを戦闘で破壊される事だけは許容できなかった。さらに地政学上ヴェネツィアは防衛には向かない地域であり、さらには圧倒的な海軍力と陸軍力を持つイタリア軍を前にすれば例え抵抗したとしても敗北は必至だった。その為、ヴェネツィア国防軍は防衛戦略を当初から放棄していた。


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ギリシャ・イタリア戦争


1940年10月28日から1941年4月6日まで行われたギリシャ・イタリア戦争(ギリシャ・イタリアせんそう、Greco-Italian War)では、ヴェネツィアはギリシャを全面的に支援した。既にイタリアからの宣戦布告を受けていたヴェネツィアはギリシャ軍の支援を惜しまなかった。バルカン半島のペロポニソス半島を領土として有するヴェネツィアにとって、ギリシャは圧倒的なイタリア軍を防ぎえる絶好の障害だった。ヴェネツィア陸軍はペロポニソス半島の守備を固める為に大規模動員を発令しペロポニソス半島、クレタ島、ヴェネツィア領ガボンから兵士補充を急いでいた。一方でギリシャへの支援はヴェネツィア陸軍が事実上管轄していたヴェネツィア空軍が担当した。ヴェネツィア空軍は戦闘機や爆撃機を随時投入する形でギリシャ防衛を支援した。この空軍による支援は最終的にはヴェネツィアが保有する空軍戦力の凡そ半数が投入されたと言われる。


しかし、このヴェネツィア空軍の支援はその殆どが無駄に空軍の戦力を減少させる結果に終わった。ヴェネツィア空軍は大戦前に欧州情勢の緊迫化を感じたイギリスが同盟国軍の戦力として整備した部隊である。イギリスは自国で退役した航空機の多くをヴェネツィア空軍に引き渡していた。その総数は戦闘機410機、爆撃機135機、重爆撃機5機にも及ぶ。この空軍力は設立当時、機数だけで言えば欧州の中小国の中では有数の規模に入る程だった。しかし、これらの航空機は全て第一次世界大戦前後に使われていた航空機だった。ヴェネツィア空軍が当時保有していた戦闘機は第一次大戦直後に開発された2人乗りの複座型ロイヤル・エアクラフト・ファクトリーS.E.5c(武装は機首機関銃と後部機関銃)。爆撃機はハンドレページ0/400。重爆撃機はイギリスがロシアの4発複葉型重爆撃機イリヤー・ムーロメツの影響を受けて第一大戦直後に開発した4発複葉型のロイヤル・エアクラフト・ファクトリーFV7だった。対してイタリア軍の最新鋭の機体はMC.200やG.50であり、空軍部隊の戦闘機の大多数を占めていたCR.40もヴェネツィア空軍の戦力からしたら強力な戦闘機だった。


ギリシャ・イタリア戦争の勃発当初からヴェネツィア空軍はギリシャ軍の支援として派兵されていた。ヴェネツィア空軍は当初、中隊規模の戦力を派兵していた。ヴェネツィア空軍の部隊は訓練通りに戦闘機は敵戦闘機の撃墜を。爆撃機は爆撃をと作戦を展開した。しかし、性能面で旧式の機体であった為、イタリア空軍の戦闘機部隊や爆撃機部隊に対抗できず、ヴェネツィア空軍の戦闘機部隊は次々と撃墜され一回の出撃で部隊の戦闘機隊や爆撃機部隊が全機撃墜される事もあった。ヴェネツィア空軍はこれらの被害が出るたびにギリシャへの戦力を随時投入していったが、これが後にペロポニソス半島における戦いで空軍力不足を露呈を招く結果となった。ギリシャ・イタリア戦争の後半にはヴェネツィア空軍は自空軍が保有する戦闘機ではイタリアの戦闘機とまともに戦えない事を悟った。その為、後半にはヴェネツィア空軍の戦闘機は地上攻撃へと専念した。だが、それも虚しく1941年4月6日、ギリシャはイタリアに対して降伏。ヴェネツィア空軍はこれを受けてペロポニソス半島へと全部隊が撤退し戦いはペロポニソス半島の防衛戦へと向かった。


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ペロポニソス半島の戦い


ペロポニソス半島の戦い(1941年4月6日‐1941年5月5日)は第二次世界大戦において、ヴェネツィア共和国が行った最大規模の戦いである。ギリシャが敗北した事でヴェネツィアはペロポニソス半島での戦いを強いられる結果となった。ヴェネツィア国防省は4月6日までに凡そ35万人の陸軍兵力を動員する事に成功していた。ヴェネツィア陸軍はイタリア軍の戦力下へと堕ちたギリシャに近いパトラや西部沿岸部周辺に凡そ10万人(第2軍)。ディアコプトからクシロカストロまでに凡そ10万人(第3軍)。ギリシャとペロポニソス半島が唯一陸続きで繋がる地域に在るコリントス要塞に凡そ15万人(第1軍)を配備した。また、空軍も陸軍の防衛線における哨戒活動を厳にした。ペロポネソス半島はその多くが海に囲まれており、その立地を利用してギリシャに近いパトラなどには沿岸砲が設置されるなど、要塞化されていた。ヴェネツィアの同盟国でもあるイギリスも海軍を派遣してヴェネツィアを支援し地中海におけるペロポネソス半島とクレタ島の海上交通網を防衛した。


ギリシャ降伏の6日から13日までの一週間は戦闘は起きなかった。この間、イタリア軍は戦力をペロポニソス半島の周辺へと集結させていた。事態が動き始めたのが14日の事である。イタリア軍はアテネより進撃した陸軍部隊がアイイテオドリや山間部に展開しコリントス要塞への砲撃を開始した。これに対してヴェネツィア陸軍も反撃を開始。コリントス要塞のヴェネツィア軍はイタリア軍の侵攻に防御戦を整えた。しかし、この時、イタリア軍はヴェネツィア軍の予想に反してコリントス要塞を突破しようとはしていなかった。16日、イタリア空軍はペロポニソス半島の北部地域の戦線に戦闘機部隊による一斉攻撃を開始した。ヴェネツィア陸軍は対空機銃や高射砲で応戦。空軍も迎撃を行ったがヴェネツィア空軍の戦闘機部隊は既にギリシャでの戦いで半数を喪失しておりこれに加えてこの攻撃によって多くの機体が失われた。17日、イタリア軍による空襲が激化する中、イタリア軍の空挺部隊を乗せた輸送機が哨戒が手薄となっていたペロポニソス半島のキバリシア方面よし侵入。ヴェネツィア軍第3軍防衛線の後方に空挺部隊2,000名が降下しそこから南下、各地の空軍施設や市街地を攻撃した。この情報を受けたヴェネツィア軍は混乱。イタリア軍はコリントス要塞の突破を計画していると考えていたヴェネツィア軍司令部は大混乱に陥った。ヴェネツィア軍司令部はイタリア軍が何処から現れたのかも分からぬまま、第3軍に迎撃を命令し第3軍は凡そ半数の兵力を割いて迎撃に当たった。しかし、この一連のヴェネツィア軍の行動はイタリア軍の想定したいた通りの事であり、第3軍の防衛線が手薄になった事を受けてイタリア軍はコリントス湾に展開していた戦艦2隻、巡洋艦2隻、駆逐艦10隻からなる艦隊と戦闘機、爆撃機による集中攻撃を行いボート等による上陸部隊を沿岸部のエギラに上陸させた。18日、防衛線は崩壊し突破されイタリア軍がエギラ周辺部を確保。さらにイタリア軍は次々と戦車を含む部隊を輸送して20日までにペロポニソス半島を横断するように、ナフプリオまでの地域を占領した。これによってコリントス要塞に配備されていた第1軍は孤立しイタリア軍によって包囲され、第1軍は最期の降伏まで要塞での抵抗を続けたが、その後、実質的にイタリア軍との防衛戦を主導したのは第2軍となった。第2軍は混乱する中、新たな防衛線の構築などを行ったが、ヴェネツィア軍はその後、敗退を繰り返し1941年5月5日、最後まで組織的抵抗をしていたコリントス要塞が降伏しペロポニソス半島はイタリア軍によって占領された。


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その後


ペロポニソス半島での敗北はヴェネツィアにとって陸軍兵力の大半と空軍の壊滅を意味していた。さらにペロポニソス半島が堕とされた事によってイタリア軍が首都があるクレタ島へと攻撃をしかけるのも時間の問題かと思われた。これを受けてヴェネツィア共和国政府はこれ以上の防衛は困難であると判断して、クレタ島における軍事行動の全てイギリス軍に一任し政府機能をヴェネツィア領ガボンへと移転する決定を下した。そして、政府と避難民を伴ったヴェネツィア地中海艦隊はイギリス軍の支援を受けてスエズ運河からガボンへと脱出。その一方でペロポニソス半島においては降伏しなかった一部の部隊が山間部にてゲリラ的抵抗を続ける事になった。


そして、クレタ島はその後、1941年5月20日から6月1日まで行われたクレタ島の戦い(Battle of Crete)によって枢軸国側に占領された。これらの占領地域が連合国軍によって奪還されるのは第二次世界大戦の後半の事である。ヴェネツィア軍もこれらの連合国による作戦に参加するが、その投入兵力は最大でも1万人程度の規模でありペロポニソス半島での敗北の影響は第二次世界大戦が終結するまで続く結果となった。また、この1万人の兵力も半数はヴェネツィア・イタリア戦争において唯一損害を免れた海軍(ヴェネツィア海軍の当時の保有艦艇は海防巡洋艦10隻、駆逐艦8隻)の人員であり、ヴェネツィアの第二次世界大戦における軍事行動はその後、実質、海軍を中心としたものになった。


また、戦後の評価においてイタリア軍が行ったペロポニソス半島への攻撃と勝利は第二次世界大戦中のイタリア軍の戦功の中でも最大の戦果と呼ばれている。これはギリシャやアフリカに比べてイタリア軍の損害が極めて少なく、唯一の完全勝利と呼べる戦いであった為である。イギリスはヴェネツィア軍単独でもペロポニソス半島は最低3ヶ月間は防衛できると考えていた。しかし、現実はイタリア軍の戦術とその装備の差によってヴェネツィア軍は歴史的な敗退を喫する結果となった。この影響は大きく、イギリスはその後の地中海における軍事戦略の見直しを迫られる事になった。


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敗因


地形的立地が良かったにも関わらず、ヴェネツィアがペロポニソス半島を失ったのは幾つかの敗因が挙げられる。以下はその一覧である。


・空軍の能力不足と運用問題

ギリシャ・イタリア戦争において、ヴェネツィア空軍はギリシャ軍の支援として派兵を行ってきた。しかし、ただでさえ旧式の機体であるにも関わらず、戦力を小出しにし、いたずらに機体を浪費した。さらにその様な派兵を空軍の半数の機体が失われるまで行い、それで得られた戦果は極めて少なく、ギリシャ・イタリア戦争において、イタリア軍やドイツ軍の戦闘機に対して負わした損害はヴェネツィア空軍のエースパイロット、ダンテ・ジョゼフ・ヴァラキとジョヴァンニ・フェルミの両名の戦果を抜かせば撃墜機は皆無である。ギリシャ・イタリア戦争の中盤にはそれまでに出撃した機体の大半が敵に撃墜された事から、ギリシャ派兵空軍部隊はパイロットであるにも関わらず、機体を失ったパイロット達を集めて陸上戦闘部隊を編成して戦うという有様だった。また、この陸上戦闘部隊による戦果は上記のエースパイロットを抜かすと空軍がギリシャ・イタリア戦争において行った航空機による攻撃よりも有効だったとさえ後に揶揄された。


ペロポニソス半島の戦いにおいては、空軍は哨戒活動や迎撃などを担当したが、イタリア空挺部隊の侵入に当たってはその存在に当初、気づけなかった。これは、イタリア軍の攻撃が激しくなったという理由もあるが、一番の要因はヴェネツィア空軍が哨戒活動を行っていた範囲がギリシャに面する側のみであった事が挙げられる。


・コリントス要塞への絶対的な信頼

ヴェネツィア軍はコリントス要塞に絶対的な信頼をおいていた。コリントス要塞とは、中世の時代から改築を重ねて建築された星形要塞で、ギリシャとの唯一の陸続きになっているこの地域を塞ぐ様に建設されていた。ヴェネツィアがペロポニソス半島を中世の時代に植民地化して以降、この要塞はオスマン帝国や東ローマ帝国の攻撃等を何度も防いできた。こうした歴史的な経緯もありヴェネツィア軍は如何にイタリア軍であろうともこの要塞を突破する事は出来ないという考え方と自信が蔓延していた。ペロポニソス半島の戦いが始まるとヴェネツィア陸軍は15万という各防衛線の中では最大規模の兵力をコリントス要塞へと展開した。ヴェネツィア軍はかねてよりイタリア軍はコリントス要塞を突破してペロポニソス半島へと進軍するものと考えていた。この考えもまた、ヴェネツィアの長い歴史の中でペロポニソス半島がオスマン帝国などからの攻撃を何度受け、この地域が幾度も戦火に曝された経験からだった。しかし、イタリア軍は最初からこの要塞を突破するつもりはなく、この要塞へと行った攻撃は大半が欺瞞攻撃であった。イタリア軍はヴェネツィア軍に対してこれらの欺瞞攻撃を行う事で上陸作戦を気づかせない様にしていたのである。そして、こういった事実に気がつかぬまま、ヴェネツィア軍は防衛線を突破され、さらには最大の兵力が駐屯しているコリントス要塞は司令部の混乱もあって敵に補給線を寸断され孤立を余儀なくされたのである。


・装甲戦力の不足

ヴェネツィア陸軍はペロポニソス半島の防衛に当たっては多くの予算を当初から要塞や沿岸部に配備する火砲に割いてきた。ヴェネツィア軍はコリントス要塞に絶対の信頼を置いていた為、また、敵が来る場合はコリントス方面より来ると思い込んでいた為に陸軍では他国が第一次世界大戦の教訓から戦車や装甲車の導入を進めていたにも拘らず、こうした装備を一切配備していなかった。その結果、防衛線が突破されイタリア軍の装甲戦力が上陸してくると殆ど抵抗する事が出来ぬままに苦戦を強いられる事になった。


・司令部の位置

ヴェネツィア軍司令部は守りの堅いコリントス要塞に置かれていた。この要塞がイタリア軍によって包囲されると、当然のことながら他の部隊への連絡手段が寸断され、結果的に防衛線突破後の慢性的な軍の混乱を生み出す結果となった。


・司令部の一次元的な戦略

ヴェネツィア軍司令部はイタリア軍がギリシャ方面より来るものだと考えていた。その為、本来ならば後方にも戦力を配備する所を、一部の沿岸監視部隊や沿岸要塞以外の大多数の戦力はギリシャに面する沿岸部へと一極集中化させた事により軍事的空白地帯が生まれた。その結果、イタリア軍の空挺部隊の侵入を許し、気がつく事ができなくなり、後方地帯に敵が出現し混乱する事態を招いた。また、当時の資料から、コリントス要塞の司令部は空挺部隊の存在を認識していなかった事が分かっている。この様な結果をもたらした防衛戦略を司令部が考えた背景にはヴェネツィアが第一次世界大戦において参戦しておらず、かつ戦術研究が進んでいなかった事も原因として挙げられる。第一次世界大戦後、ヴェネツィア軍は戦術の研究を行う時間は充分に有ったはずだが、塹壕戦などの要塞戦術などの研究は行っていたが、その他の戦術研究は殆どされていなかった事が後の資料によって分かっている。また、ヴェネツィア軍は空軍でさえも、陸軍の延長線上の戦力、つまりは馬や車と同列にしか見ておらず、空軍を騎兵隊の一種かの様に扱っていた。さらに空軍の発足時には名目上は兵士であっても、その実体は兵士としてではなく、飛行機に興味のある若者を無作為に募集して集め、さらには空軍の士官等は作戦指揮能力等ではなく、ただ単に航空工学の成績や航空機の操縦技術の上位者が士官として選ばれる様な有様だった。こうした一連の旧時代的、要塞戦への絶対的な過信、航空戦力の重要性の認識欠如から、ギリシャ・イタリア戦争では凡そ半数にも及ぶ航空機戦力の随時投入という浪費を行い、ペロポニソス半島でヴェネツィア軍の大敗北をもたらす結果となった。


・海軍との意思疎通

ヴェネツィア海軍はイギリス海軍と協力してペロポニソス半島とクレタ島との補給線を防衛していた。海軍はかねてより陸軍と空軍に対してペロポニソス半島の西側の警戒を厳重にする様に求めていた事が分かっている。しかし、戦後の調査によりペロポニソス半島の司令部には海軍からのこれらの要請が一切届いていない事が分かった。


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空軍の戦果


ヴェネツィア空軍が第二次世界大戦中に航空機でイタリア軍に負わせた損害は凡そ戦闘機18機、爆撃機2機、戦車76輌、装甲車・トラック213台、火砲43門である。この記録の大半はヴェネツィア・イタリア戦争の期間に打ち立てられた。


また、ヴェネツィア・イタリア戦争にて最も多くの戦果を上げたのは戦闘機パイロット、ダンテ・ジョゼフ・ヴァラキとその副官(機銃要員)のジョヴァンニ・フェルミの両名である。この二名はギリシャ・イタリア戦争の初期から戦争に参加しヴァラキはヴェネツィア空軍の航空機の能力不足の指摘と共に、ヴェネツィア空軍機は敵戦闘機への攻撃ではなく爆弾を載せて地上への攻撃に専念すべきだと最初に空軍内で主張しそれを実行した人物である。二人はその後、一度も撃墜される事なく多くの激戦に耐えたが、最終的にヴェネツィア・イタリア戦争終盤に愛機が被弾し墜落。その後、両名はペロポニソス半島からクレタ島へ複数の空軍兵士と共に空軍基地で唯一飛べる状態で残存していたロイヤル・エアクラフト・ファクトリーFV7に乗って脱出しようとした際にイタリア軍の戦闘機に捕捉され撃墜されてしまい、両名を含む全員が死亡してしまうという結果を迎えた。ヴェネツィア・イタリア戦争後、ヴェネツィア共和国政府はダンテ・ジョセフ・ヴァラキとジョヴァンニ・フェルミの両名に、ヴェネツィアの英雄としてヴェネツィア最高位の勲章である「聖マルコ・ヴェネツィア大十字章」を贈っている。この聖マルコ・ヴェネツィア大十字章を受章した人物は現在までにこの二人を入れて3人のみ(もう一人の受章者は18世紀に英威永久同盟の締結に貢献したヴェネツィア貴族の外交官クローネ・フォスカリ)。この両名は現在でもヴェネツィアで第二次世界大戦の英雄として扱われており、EU加盟前にヴェネツィア連邦共和国で使用されていた独自通貨ヴェネトロンの100ヴェネトロン紙幣には両名の肖像と二人が乗った戦闘機、ロイヤル・エアクラフト・ファクトリーS.E.5cの絵が使用されていた。以下は参考までに両名がヴェネツィア・イタリア戦争中で上げた戦果一覧。


・戦闘機18機(この内、6機はMC.200。4機がG.50)

・爆撃機2機

・戦車57輌

・装甲車・トラック111台

・火砲27門


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教訓


第二次世界大戦後、ヴェネツィア軍はこれらの結果を反省し、軍備の拡充や広い範囲での戦術研究をイギリス軍等と共同で行う様になった。また、軍の組織構造改革も戦後に行われた。現在でもヴェネツィアはこれらの第二次世界大戦中の歴史的な敗北を忘れられておらず、2018年現在、一般の義務教育でもヴェネツィア・イタリア戦争の歴史は「ペロポニソスの悲劇」として歴史の授業等で紹介されている。また、毎年、ヴェネツィア軍が敗北した日である5月5日には全国各地で戦没者への追悼ミサが開かれている。


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ヴェネツィア・イタリア戦争を題材にした作品


映画

・『二人の戦い』(Due persone di lotta 1974 ヴェネツィア映画)ジョセフ・ヴァレンシュタイン監督の下、製作された戦争映画。ダンテ・ジョゼフ・ヴァラキとジョヴァンニ・フェルミの戦いを史実に基づいて忠実に描いた作品として有名。カンヌ国際映画祭第27回グランプリを受賞した。

・『コリントスの要塞』(Fortezza corinzia 1982 ヴェネツィア映画)アンドレア・デムーロ監督が製作した映画。ヴェネツィア領ガボンから徴兵された黒人兵士の視点からヴェネツィア・イタリア戦争を描いた映画。

・『水の都』(伊Città d'acqua 英City of Water 1991年 イギリス映画)ナターシャ・ドニゼッティ原作。エドワード・ジョーンズ監督が映画化。作者のナターシャ・ドニゼッティが実際に経験した実話を元にした作品。イタリア軍に占領されたヴェネツィアでヴェネツィアの警察官の娘、ナターシャの周りで起こる悲劇とイタリア軍兵士との報われぬ恋模様を描いた作品。1991年のヴェネツィア国際映画祭でグランプリを受賞。

・『山の兵士』(Mountain soldier 2001年 アメリカ映画)スティーブン・シュルツ監督。ヴェネツィア・イタリア戦争後、ゲリラ戦を展開するヴェネツィア軍部隊の戦いと葛藤を描いた作品。

・『素晴らしき夜に』(Notte meravigliosa 2002年 アメリカ映画)エリック・マーリン監督。ヴェネツィア・イタリア戦争後、捕虜になったヴェネツィア軍女性兵士とイタリア人兵士との恋愛を描く作品。エリック・マーリンは学生時代に映画、水の都を見て感銘を受けてこの映画を製作したとインタビューで語っている。

・『バトル オブ グレート スカイ』(Battle of the great sky 2016 アメリカ映画)ジョンソン・F・マーティン監督。映画、二人の戦いのリメイク作品。最新のCG技術と大掛かりなセットを使ったリアルで壮大な戦闘描写が話題を呼んだ。アカデミー賞で9部門にノミネートされ興行収入でも大きな成功を収めた。

・『バトル オブ ナチス イン ウォーター ワールド』(Battle of Nazis in Water World 2018 オーストラリア映画)ヴェネツィア無血占領直後を舞台にダンテ・ジョゼフ・ヴァラキとジョヴァンニ・フェルミの二人がヒトラーとムッソリーニが召喚した空と海を自在に移動できるサメと戦う所謂B級映画。

・『ドラゴン ナチス オブ ザ デッド』(Dragon Nazis of the Dead 2019 オーストラリア映画)バトル オブ ナチス イン ウォーター ワールドの続編。ペロポニソス半島の戦いの真っ只中にナチスが儀式で召喚したドラゴンゾンビが前作のサメと共にヴェネツィア軍を襲う所謂B級映画。


テレビ番組

・『バトル オブ ヴェネツィア』(Battle of venice 2011)BBCがヴェネツィア国防省の全面協力を得て製作したドキュメンタリー番組で全3回の内容で放送された。ヴェネツィア・イタリア戦争の敗因を徹底的に分析した内容で、製作国のイギリスのほか、ヴェネツィアでも同時放送された。

・『敗北したヴェネツィア‐その時市民は…』(Defeated venice 2012)BBCがヴェネツィア連邦博物館の全面協力を得て製作したドキュメンタリー番組で全2回の内容で放送された。ヴェネツィア・イタリア戦争後、イタリアやナチスドイツによって占領された地域でのヴェネツィア市民の様子を残された資料や当時を体験した人々へのインタビューを元に映像化した内容で、製作国のイギリスのほか、ヴェネツィアでも同時放送された。


日本のアニメーション

・『すかい☆えんじぇるず!』(2007 漫画を原作とする全26話の日本のコメディ空戦魔法少女アニメ)ダンテ・ジョゼフ・ヴァラキとジョヴァンニ・フェルミをモデルにした美少女キャラクターのスカイ天使が第6話と第26話に登場。作中では双子の天使として描かれる。原作の設定ではヴェネツィア・イタリア戦争で死亡した後に天界へ行きスカイ天使として生まれ変わったと紹介されている。


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参考文献


・Venezia-guerra italiana 1951

・La causa della sconfitta a Venezia 1948

・Documento di Difesa di Venezia 1941

・Documento di Difesa di Venezia 1946

・Negligenza del quartier generale militare del Peloponneso 1947

・Documento di Difesa di Venezia 1950

・Sconfitta nei Balcani 1963

・Documenti della marina di Venezia 1953

・Il revival di Venezia 1975

・Come Venezia è sfuggita alla sconfitta 1979

・Sogna per storia 1982

・Storia della Repubblica di Venezia 2001

・La tragedia del Peloponneso 2003

・Glory Venice Air Force 2006

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― 新着の感想 ―
[一言] このイタリアとの戦争はまさに国家を変えた戦争ですね。第二次大戦の一部なら尚更ですね。日本とも戦争してますがノルトン島の戦いはどんな感じだったのかな。硫黄島も日米の死闘があったのかな。 そし…
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