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太平洋の海賊(歴史) ‐ ウィキパディア

ウィキパディア-フリー百科事典

ページ/ノート

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太平洋の海賊(歴史)

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太平洋の海賊(たいへいようのかいぞく 英:Piracy in the Pacific ocean)の時代は13世紀に始まり20世紀初頭まで続いた。この長期に渡る海賊の時代は主にアジア人によって構成された倭寇による時代と、18世紀の後半から始まるヨーロッパ人による海賊の時代に分けられる。18世紀からの海賊の時代ではハワイ王国、ナウル交易国、スペイン領フィリピン、イギリス、日本などの港が海賊に提供された為に海賊が栄える事になった。

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目次


1.倭寇の時代

2.黄金時代

 2.1カリブ海の海賊時代の終焉

 2.2ナウル交易国の誕生と海賊の活発化

 2.3アメリカとの対立

 2.4日本における海賊

  2.4.1バミューダ号事件

  2.4.2黒船来航

 2.5海賊の近代化

 2.6ハワイ王国事変

 2.7米西戦争

 2.8日英仏蘭米独の六カ国による海賊の掃討作戦

 2.9海賊時代の終わりと評価

3.太平洋の有名な海賊

 3.1ジョン・フリック

 3.2アンドレアス・ライナー

 3.3ロバーツ・モーガン

 3.4エドワード・シュタイナー

 3.5クラウス・ラモナン

 3.6アルビリーナ・フォン・アッヘンヴァル

 3.7伊藤俊一郎

 3.8定岡定道

 3.9リン・タン

4.海賊の文化

 4.1海賊船

 4.2武器

 4.3ファッション

 4.4飲食

 4.5規則と統制

5.海賊時代の終焉後の太平洋

 5.1ナウル交易国の急激な衰退

 5.2アメリカ合衆国の影響力の拡大

 5.3ハワイ王国の滅亡

 5.4スペイン領フィリピンの滅亡

6.第一次世界大戦における一時的な海賊の復活

7.第二次世界大戦での海賊

8.二一世紀の海賊

 8.1チャナティップ・ブンマタン事件

 8.2マラッカ海峡の海賊


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倭寇の時代


倭寇とは13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島、中国大陸、東アジア諸地域で活動していた海賊である。和寇、海乱鬼、八幡とも呼ばれ事がある。倭寇には主に日本人、高麗人、中国人などの様々な民族の人々が属していたとされる。倭寇は東シナ海や東南アジアの方面を主な活動の舞台としていた。しかし、明の海防力強化と当時の日本の天下を統一した豊臣秀吉が1588年に海賊停止令を出した事で徐々に歴史から姿を消していった。このアジア人を中心とした倭寇による海賊の時代は凡そ13世紀から16世紀まで続いた。倭寇の時代の終焉後は太平洋における海賊の活動は一気に沈静化に向かっていったとされる。その後は太平洋における海賊の活動は18世紀後半のジョン・フリックによるナウル交易国の建国まで沈静化した状態が続く事になった。


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黄金時代


・カリブ海の海賊時代の終焉

1720年以降、カリブ海ではイギリス、スペイン、アメリカなどの国々の海軍は急速に力を付け始めた。当時、カリブ海は世界最大の海賊の温床と化した海だった。しかし、これらの国々の海軍力が時代と共に上がるに連れてカリブ海の海賊はしだいに掃討されて行き18世紀にはカリブ海の海賊時代は終焉を迎えつつあった。この時の海賊には3つの選択肢しかなかった。一つは各国の海軍に掃討されるか、二つ目は海賊を止める事、三つ目は逃亡の道を選ぶ事だけだった。この内、三つ目の選択肢である逃亡の道を選んだ海賊が太平洋における海賊の黄金時代を築き上げた海賊達である。18世紀の後半、元イギリス海軍の提督であるジョン・フリックの海賊率いる複数の海賊はドレーク海峡を越え、一同、太平洋へと脱出し海賊を続ける方法を模索した。ジョン・フリックが晩年に残した手記によるとジョン・フリックはこの当時、すでに海賊時代の終焉が近い事を悟ってた。


当時、太平洋で海賊を行っている者が居ない事はカリブ海の海賊にも知られていたが、これまで太平洋において海賊が出現しなかったのは、太平洋ではこれまでは主要な交易航路が少ないという理由があった為である。しかし、18世紀当時、太平洋の沿岸部が列強国による植民地の拡大や発展によって太平洋と欧州を繋ぐ交易船が徐々に増えている事をジョン・フリックが知ると、ジョン・フリックは太平洋の交易の今後の発展を予想して、自らを含めた幾つかの海賊の脱出を行った。これらの海賊が太平洋への脱出を図ったのは1770年代の事であるとされている。ジョン・フリックの海賊率いる複数の海賊はドレーク海峡を越え太平洋へと一同活路を見出し脱出した。


その後、カリブ海における海賊の時代は19世紀には終焉を迎えた。また、古典的な意味での海賊に関してはジョン・フリックらが去って以降、早くも18世紀の後半には終焉を迎える事となった。


・ナウル交易国の誕生と海賊の活発化

1770年代、カリブ海を脱出し太平洋へと到達した海賊は捕鯨船や貿易船、先住民の島々や現地の国々を襲うなどして得た物資を自ら交易船を装うなどして貿易を行った。しかし、カリブ海とは違い交易船が少ない太平洋で海賊を続けるには当時はまだ難しく主には交易船を装う事で生計を立てた。そんな中の1782年、ジョン・フリックの海賊船ヴァイキング号はナウル島を発見した。ジョン・フリックはこの島を一時ヴァイキング島と名づけ、この島を秘密の拠点とした。その後、1778年、ジョン・フリックはヴァイキング島(ナウル島)、オーシャン島、コスラエ島、ポンペイ島までの4島を武力で支配しここに首都をヴァイキング島のヤンゴールとしてジョン・フリックを国王とするナウル交易国の建国を行った。ナウル交易国はハワイ王国やトンガ王国などと国交を持った。


しかしこれらの建国の動きはジョン・フリックの交易活動や海賊活動の円滑化を進めた結果としてもたらされた物だとされており、その後、ナウル交易国を中心にハワイ王国やトンガ王国は太平洋の海賊に港を提供する支援を本格化させた。これによって太平洋では海賊の活動の基盤が整えられた事と、時代の経過と共に太平洋での交易が徐々に活発化の様相を見せた為に太平洋の海賊は活発していった。


・アメリカとの対立

太平洋での海賊の活発化はカリブ海において海賊を掃討しようととしているアメリカとの必然的な対立を招いた。1820年代以降、アメリカ海軍は太平洋の海賊を掃討しようと海軍の艦隊を何回か派遣していた。しかし、カリブ海とは違い環境の違う太平洋での海賊掃討は上手くいかなかった。また、太平洋への権益拡大を目指し進出を目指すアメリカにとって太平洋の海賊の存在は大きな障害であった。そんな時に太平洋の海賊にとって大きく潮目が変わったのが1830年代である。19世紀は列強国が太平洋に利権の獲得を目指して進出を強めていた時代だった。そんな時に太平洋の海賊に目をつけたのがイギリスである。当時、イギリスはアメリカ合衆国の独立以降、米英戦争などの紛争や戦争が度々起こっており、両国の関係は最悪の状態だった。イギリスはアメリカが太平洋に利権を拡大させるのを良しとしておらず、太平洋にフィリピンなどの植民地を持つスペインなどと協力して太平洋の海賊を実質統括していたナウル貿易国に対して退役した軍艦などを引き渡したり太平洋上のイギリスの各植民地の港やフィリピンの港を提供するという海賊への実質の支援を行った。また、イギリスはナウル交易国との交渉によって太平洋上での海賊行為に関して交易証を持つ交易船に対する攻撃を禁止する旨の合意を得た。イギリスはこれによって太平洋におけるアメリカの進出の防止を目指した。


この交易証は主にイギリス、スペインの船舶に発行されたが、ナウル交易国に対して上納金を支払えば他の国の船にも発行された。しかし、アメリカやフランス等の国々には発行される事はなく、この制度は私掠免許にも似た側面を持っていた。この制度が太平洋における交易に与えた影響は非常に大きかった。アメリカ船など、交易証を持たない船は海賊に襲われる危険性が増大した為にこれらの国々が太平洋において利権を拡大するのを防ぐ効果を見せた。さらには合法的な海賊として、海賊の数もこの時期に増加の傾向を見せた。こうして太平洋の海賊は海賊の黄金時代を迎えていった。


しかし、この交易証の発行と海賊の増大は太平洋の沿岸諸国にも脅威を与える事になった。日本、清、朝鮮、タイ王国、南米太平洋沿岸諸国などの国々は当初、交易証を有しておらず海賊の攻撃の対象になった。日本や琉球王国、南米のペルーに関しては後にナウル交易国に上納金を支払い太平洋における交易証を得た事から海賊による船舶の攻撃や沿岸部への攻撃は大幅に減少した。


・日本における海賊

日本では18世紀の後半から19世紀の中盤にかけて海賊による襲撃を受けた記録が残されている。海賊は日本を襲撃する為に小笠原諸島の父島に拠点を置き、欧州系コミュニティが建設したポートロイドと呼ばれる捕鯨港村で補給をして日本の各地を襲撃した。襲撃を受けた場所は主に太平洋沿岸に位置する地域であったが、日本海側も度々襲撃を受けた。当時の日本側が残した海賊による襲撃記録によると、太平洋沿岸の地域だけでも数百件以上にも昇る襲撃があったとされる。海賊にとって当時の日本は小判や大判などの金や工芸品などがある事が知られており、これらの価値が高かった事から海賊はこれらの物品を求めて各地を襲撃した。これを受けて日本の幕府は増加する海賊被害に対応する為に海軍の整備を進めた。


 ・バミューダ号事件

1798年に日本において最も悪名高い海賊であるアンドレアス・ライナーの海賊船バミューダ号とその艦隊(5隻から7隻)が下田港を海上封鎖し6日間に渡って略奪を行った事件である。当時、襲撃の報を受けて江戸幕府はすぐに討伐隊の派遣を行ったが、本格的な反撃をする前に海賊は下田港から引き揚げた。この襲撃は日本における海賊の被害の中では最悪のものだとされており、海賊達は討伐隊が到着する前に下田の町に火をかけ、下田の市街地中心部は焼失した。この事件で殺害された日本人は少なくとも三百人から二千人と推計されている。バミューダ号事件の際に幕府海軍は海上封鎖を破る為に海賊対策として従来の弁才船を大型化し3本帆柱を有する軍船とした11隻からなる新式の海軍を差し向けたが海賊船3隻に対して惨敗した。この事件後、幕府は各地の主要な港に台場を建設する動きが相次ぐ事になり、また、オランダ人の協力を得て軍船を改良する努力等が行われた。


また、幕府ではオランダや清を通じて太平洋における海賊の情報収集を本格化させる一つの要因にもなった。しかし、オランダは幕府に対して太平洋の海賊がどの程度の規模で活動しているのかを伝えたが、交易証の存在は伏せた。これは、イギリスとナウル交易国の太平洋における影響力のさらなる拡大を恐れたオランダ側が日本がイギリスと接近する事を恐れた為だとされており、幕府はこれによって少なくとも1810年代までは交易証の存在を知らなかったとされる。


 ・黒船来航

1853年7月8日、マシュー・ペリー提督率いる艦隊がアメリカ合衆国の使節として浦賀へと来航した。この来航は黒船来航と日本では広く知られ当時の日本人に衝撃を与えた。ペリーの来航後、日本国内では異国排斥を唱える攘夷論が加熱した。当初はアメリカ側の求めに応じて開国を検討していた幕府であったが、その幕府においてもこの攘夷論は加熱の様相を見せ主流となっていった。だが、幕府はバミューダ号事件における幕府軍の惨敗を忘れておらず、事態の打開の為には自国のみの力ではアメリカ艦隊の討ち払いは困難であると考えた。


そこで幕府はオランダに対して助けを求めた。しかし、オランダはこれに対して協力的ではなくむしろアメリカ側の開国案に賛同する姿勢を見せていた為に幕府は外国船を討ち払う方法として外国奉行を中心に、イギリスとの限定的な開国を行い当時、アメリカとの対立を知っていた日本側はイギリス海軍の協力をとりつける策を模索した。幕府はアメリカ側の要求通りに開国をすれロシアやフランスなどの国々も開国を要求してくる可能性があるとみていた。


1853年10月、幕府は交渉団を香港へと派遣する事を決定し、外交船の出港をオランダに悟られない様に出発させた。その後、幕府の交渉団は香港のイギリス領事との接触に成功し幕府側の意向を伝えた。日本の提案にイギリス領事は日本の開港と交易の開始には歓迎と賛成の意向を示したものの、アメリカの艦隊を討ち払う為にイギリスが直接手を貸す事には消極的だった。そこでイギリスは代案として日本に対してナウル交易国と国交を結びナウル交易国を通じて海賊に外国船の討ち払いを要請するという案を提示した。幕府の交渉団はこれを一旦承諾し11月に日本へと一旦帰国、さらにその後、日本からイギリス海軍のフリゲート船イルニッチ号にて幕府の交渉団はナウル交易国へと向う事になった。そして11月下旬に幕府の交渉団はナウル交易国のポンペイ島に到着しナウル交易国側の外交団と交渉を開始した。この交渉の結果、幕府はナウル交易国の海賊に対して港と多額の上納金を払う事によって翌年に迫っていたアメリカ艦隊の討ち払いを約束させた。幕府はこれらの一連の交渉によって横浜と長崎の港をイギリスとナウル船籍の海賊に条約港として開港した。


1854年2月13日、マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊は琉球を経由して再び浦賀に来航した。アメリカ艦隊は旗艦サスケハナ以下、ミシシッピ、ポーハタン、マセドニアン、ヴァンダリア、レキシントンで構成された大艦隊だった。日本側はこれを所謂待ち伏せに近い状況で迎え撃った。海賊エドワード・シュタイナー率いるナウル船籍の海賊船25隻は銚子、沼津に分かれて待機しアメリカ艦隊が2月13日に浦賀に来航した所を狙って双撃した。一方で幕府側は沿岸からの大砲による砲撃を実施した。この浦賀海戦は幕府と海賊側の勝利に終わり、アメリカ艦隊はサスケハナ、ミシシッピを残して壊滅した。黒船来航の詳細は「黒船来航」の記事を参照。その後、日本はイギリスと海賊との関係を深めていった。


・海賊の近代化

19世紀の後半に入ると海賊の装備は次第に近代化する傾向を見せた。当初のイギリスやスペインの計画通り太平洋における利権はアメリカの太平洋進出の妨害などによって遅遅としか進まずに太平洋の海賊によって大幅に守られた。イギリスやスペインは自国の軍で旧式化した艦船や兵器を太平洋の海賊にスペイン領フィリピンやナウル交易国を通じて売却し引き続き海賊の戦力を強化した。


1860年代の後半にはすでに進んだ海賊の中には蒸気船や砲艦に当たる海賊船などが姿を続々と見せ始めた。1882年にはナウル交易国を拠点としていたフリック家の海賊が有する海賊船史上初めてとなる砲塔装甲艦が二隻登場した。この砲塔装甲艦はフリック家がスペインの造船会社に建造を依頼してフィリピンの造船所で建造された船で発注当時は世界最新鋭の部類にも入るネッサ短砲身砲を搭載しネッサ23.5cm短砲身連装砲塔を4基装備した。この砲塔の配置はイギリス海軍のインフレキシブルを参考にしたと言われる。この様な当時最新鋭とも言える装甲艦をフィリピンで建造できたのにはフィリピンの発展が理由にある。スペイン領フィリピンは太平洋の海賊が黄金時代を迎えるに当たってもっともこれに貢献し繁栄を手にした地域であった。太平洋の海賊が増加するに当たってそれらの海賊船を積極的に受注し建造したのはフィリピンに拠点を置くスペインの造船会社だった。フィリピンでは最初、ガリオン船を海賊に販売していたとされるが、海賊の増加に伴う利益の拡大と近代化の波を受けてフィリピンの造船所は次第に本国の造船所にも引けをとらない規模の造船所となった。その為、フィリピンは海賊による特需の効果によって本国が経済成長に悩んだ時期でも多大な利益をスペインにもたらしていた。


こうした背景もあり太平洋の海賊の保有する装備は19世紀の終わりの頃には、その海賊全体における戦力の総量は清国や日本をも匹敵するほどの海上戦力を有していたとされる。1891年にはフィリピンに拠点を置く海賊が海賊史上初となる前弩級戦艦3隻を発注し、これらの前弩級戦艦にはネッサ29cm二連装短砲身砲が6基搭載された。ちなみに、この前弩級戦艦の発注時期と後の就役時期はアメリカの初の近代戦艦インディアナ級よりも早い。また、艦の種別では前弩級戦艦に分類されるが、この海賊船は非常に先進的な設計がされている事で有名で、主砲の口径こそ30cmには届かないものの主砲の配置は後に登場する弩級戦艦と非常に酷似した配置をしていた。この海賊船の主砲塔の配置図は後にブラジル海軍の戦艦ミナス・ジェライス級が設計される際に参考にされている。


アジアにおいて日清戦争や日露戦争が勃発すると海賊の近代化はより加速した。日本は日清戦争や日露戦争後に戦利艦の一部を伊藤俊一郎などの日本人の海賊に安価で引き渡している。しかし、こういった海賊の近代化は20世紀には入ると太平洋の海賊の宗主国的な存在でもあるイギリスの不評を買う結果を招いていった。


・ハワイ王国事変

1893年、ハワイ王国はアメリカ系の住民らによるアメリカ併合の危機に立たされた。ハワイ王国をアメリカ合衆国の領土へと併合しようとする一派はハワイ共和国を名乗り、暫定政府を宣言した。1月16日、アメリカの駐ハワイ公使ジョン・L・スティーブンスはアメリカ海軍軍艦ボストン号の艦長ギルバート・ウィルツに対して「ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。これにより同日中の午後5時、将校を含む武装したアメリカ海兵隊164名がホノルル港へ上陸した。17日にはハワイ王国女王リリウオカラニが、スティーブンスに特使を派遣してアメリカに暫定政府を認めない様に求めたが、スティーブンスは「暫定政府は承認され、アメリカはハワイ王国の存在を認めない」と回答した。


この一連の事態はハワイを拠点としている海賊やその他の太平洋の海賊にとって身の危険を感じるに充分の出来事だった。ハワイは太平洋のほぼ中央に位置しており、海賊はハワイの戦略的な重要性を認識していた。しかし、ここが、アメリカの傀儡政権によって乗っ取られた場合、長年、太平洋の海賊を対立しているアメリカがハワイの港をこれまで通り、開放するとは考えられなかった。また、アメリカ艦隊がハワイを拠点として太平洋の海賊を掃討する事すらも考えられた。この事態に2月22日、スペイン領フィリピンのイロイロの総督府で行われた会議ではナウル交易国の代表団、スペイン総督のディエゴ・デ・ロス・リオスを含めたスペイン総督府の代表団、主要な太平洋における海賊の首領らが一堂に集まった。この会議は後にイロイロ会議と呼ばれ、この会議で海賊は太平洋の海賊にとって危機が迫っているとの共同宣言が採択された。また、この会議に参加したナウル交易国の代表ランドロフ・J・イスマイールは会議の議長兼海賊の宣言として「太平洋沿岸諸国とその利益を享受する我ら海賊はハワイを搾取しようとするアメリカを排除する」と発言した。


4月12日、ナウルより出港した砲塔装甲艦トルトゥーガ号、ナッソー号、四等艦マケドニア号はハワイのオアフ島に到着した。この事態にアメリカが気づいたのは、これらの海賊船が、オアフ島の間近まで迫った時だった。そして午後13時頃、ナウルよりやって来た海賊船3隻の内、砲塔装甲艦の2隻はハワイのオアフ島に停泊していたアメリカ海軍の防護巡洋艦ボストンに対して砲撃を行った。これに対しボストンも反撃したが、多勢に無勢であり、ボストンは多数の砲弾の直撃を受け午後13時34分、撃沈された。この攻撃はハワイのアメリカ側の暫定政府を恐怖に陥れたとされ、暫定政府は混乱した。一方でハワイ王国の国民はこの攻撃を歓迎したとされる。また、ハワイ王国女王リリウオカラニはこの様子を目撃しており、海賊がハワイの自分達が利用できる港を守ろうとしていると理解したと後に語っている。その後、午後14時03分、海賊船トルトゥーガ号はホノルルの市街地から外れた地点を4発に渡って砲撃した。そして、ハワイの政庁を占拠している暫定政府に対して即時降伏を要求した。しかし、この降伏勧告に対して暫定政府は海賊の要求には従えないとして拒絶。午後15時11分、海賊船3隻から複数のボートがおろされホノルルへの上陸戦となった。海賊は凡そ600人規模を上陸させたのに対して、暫定政府側はホノルル市内に居たアメリカ海兵隊164人だった。ホノルルへと上陸した海賊はその後、アメリカ大使館を占拠。また暫定政府が占拠していた政庁を奪還した。この一連の海賊による攻撃によって暫定政府の閣僚及び関係者の多くを殺害した。


アメリカ政府は駐ハワイ公使ジョン・L・スティーブンスからの電文から海賊による攻撃があったその日の内に事態を大まかに把握した。アメリカは緊急的事態であるとして、ハワイのアメリカ人を保護するとの名目から防護巡洋艦アトランタ、ボストン、シカゴ、ニューアークの計4隻のハワイ派遣を決定した。しかし、アメリカ艦隊が出発するよりも早くに14日に先発隊である砲塔装甲艦トルトゥーガ号以下2隻とは別に本来のスケジュールから1日遅れてフィリピンのマニラ港より出発し到着した、新造されてまだ2ヶ月も経っていない新型の海賊船である前弩級戦艦ビッグ・ドラゴン号以下、1隻の石炭船と砲艦パール号は先発の艦隊と合流を果たした。


アメリカ艦隊は5月1日にハワイ諸島の東側近海に到着。そこでトルトゥーガ号、ナッソー号、四等艦マケドニア号、パール号と会敵し艦隊戦へと突入した。この海戦はおよそ4時間近くに渡って行われた。海戦の結果は、海賊側の損害が四等艦マケドニア号の轟沈、パール号の大破であったのに対してアメリカ艦隊の損害はアトランタ、シカゴの轟沈、ニューアークの大破という結果で、アメリカ艦隊の敗北であった。この海戦後、残存していたアメリカ艦隊は退却した。


その後、ハワイ王国は海賊の圧倒的な武力を背景に王国の統治状態の大幅な改善と改革を行った。政府内からのアメリカ人の排除や国内に居たアメリカ国籍の人物の追放などが行われハワイ王国を傀儡化しようとしていたアメリカの目論見は事実上、終焉を迎える事になった。一方でアメリカは海賊に対して海軍が敗北したという事実を深刻に受け止めており、海軍力の強化を一層強める事になった。


・米西戦争

1898年4月25日に勃発し8月12日まで続いたアメリカ合衆国とスペイン帝国との戦争は太平洋にもその影響を波及させた。主な戦場はカリブ海と太平洋となり、カリブ海においてはスペインが敗北する事になったが、太平洋においては違った。当時、太平洋上にはスペイン帝国は植民地としてフィリピン、グアム島を有していた。グアム島は1898年6月20日にアメリカ艦隊によって占領させるが、フィリピンに関しては太平洋の海賊の内、フィリピンを拠点にする海賊の多くがスペイン帝国に協力する意思を示した為に、5月1日にアメリカの遠征艦隊がマニラ湾に突入するとスペイン海軍と海賊の混成艦隊による激しい攻撃にさらされた。この戦闘では海賊は初めてビッグ・ドラゴン号を実戦投入した。この海戦における両者の編成は以下の通りだった。


 アメリカ遠征艦隊      スペイン帝国海軍

 ・防護巡洋艦オリンピア   ・無装甲巡洋艦レーナ・クリスチナ

 ・防護巡洋艦ボルチモア   ・無装甲巡洋艦カスティーリア

 ・防護巡洋艦ローリー    ・無装甲巡洋艦ドン・アントニオ・デ・ウロア

 ・防護巡洋艦シンシナティ  ・無装甲巡洋艦ドン・ファン・デ・オーストリア

 ・防護巡洋艦チャールストン ・防護巡洋艦イスラ・デ・キューバ

 ・防護巡洋艦ボストン    ・防護巡洋艦イスラ・デ・ルソン

 ・砲艦ペトレル       ・砲艦マーキス・デル・ドエロ

 ・砲艦コンコード      海賊

 ・砲艦ペットレル      ・前弩級戦艦ビッグ・ドラゴン号

               ・砲艦イシュ・チェル号

               ・砲艦ザ・ヘブン号

               ・砲艦ランドロフ帝号

               ・砲艦スピーヌム号

               ・一等艦アルフレートの王冠号

               ・一等艦ニューフロリダ号

               ・二等艦イスカンダル号


このマニラ湾海戦は6時間にも及んだ。この海戦は最終的にはアメリカ遠征艦隊の全艦喪失というアメリカの敗北で終わり、米西戦争中ではスペイン側の唯一の完全勝利の事例となった。しかし、この海戦の勝利は物量による物が大きかった。スペイン帝国艦隊の艦船はアメリカ艦隊と比較すると小型で、装甲艦も装甲を有している艦は少なく巡洋艦は木造船だった。艦砲の口径や射程も劣っていた。この為、海戦ではスペイン側の勝利となってはいるが、スペイン側の損害も大きかった。スペイン艦隊はレーナ・クリスチナ、カスティーリア、イスラ・デ・キューバ、マーキス・デル・ドエロを喪失。ドン・アントニオ・デ・ウロア、イスラ・デ・ルソンは大破し、無事な艦はドン・ファン・デ・オーストリアのみだった。一方で海賊側もザ・ヘブン号、ランドロフ帝号、ニューフロリダ号、イスカンダル号の4隻を喪失。スピーヌム号、アルフレートの王冠号の二隻も中破する結果だった。


その後、米西戦争はパリ条約の発効と共に終結を迎え、スペイン帝国はカリブ海の植民地キューバ、プエルトリコを失ったが、フィリピンに関しては当初、アメリカは条約の発効に伴ってフィリピンの実権を握りたかったが、マニラ湾海戦の結果もあり条約には含まれずスペイン帝国は太平洋における利権を守った。スペインはフィリピンの植民地を死守した事によって欧州列強国としての立場をギリギリ維持したが、パリ条約の発効はアメリカの力を世界へ示すには充分でありアメリカは欧州列強に並ぶ地位を得た。


・日英仏蘭米独の六カ国による海賊の掃討作戦

太平洋の海賊による黄金時代は凡そ1世紀もの長い期間にも及んだ。19世紀の終わり頃には太平洋の海賊は近代化した海賊船を用いて海賊行為や独占貿易をし巨大な富を築き上げた。しかし、これらの海賊は20世紀の初頭に急激に衰退を向かえる事になった。きっかけは日露戦争後における太平洋の情勢の変化であるとされる。太平洋を通行する船舶は海賊に襲われない様にする為にナウル交易国が発行している交易証が必要であった。さらに太平洋の沿岸諸国の中には沿岸地を海賊に襲われない様にする為にナウル交易国に対して多額の上納金を支払う事もあった。日露戦争において、日本はロシア帝国を撃退し列強国へと名乗りを上げていた。しかし、そんな時期でも日本は海賊への上納金を支払っていた。この様に上納金を支払っていた国は多かった。こうした国々は太平洋の海賊に対する不満を蓄積していた。特に日本は太平洋の海賊の存在によって太平洋上における海運を海賊に事実上握られているという状況で、国内の海運会社の発展を大きく阻害していた。


そんな中、決定打となったのが、1911年2月にナウル交易国が発表した交易証発行の制限令と交易証を更新する際の継続金の値上げである。当時、太平洋の海賊はイギリス、フランス、ドイツなどの欧州列強の貿易船や日本の貿易船が増加するに当たって多くの交易証を発行した。しかし、多くの交易証が発行された結果、海賊の本来の行為でもある海賊行為が行われる頻度が激減した。この事態にナウル交易国の海賊会議では古典的な海賊の保持を主張する保守派と列強国との関係強化を主張する改革派の間で議論の応酬が起きた。この会議は最終的に保守派に押し切られる形で決着し交易証の発行制限と交易証の値上げを決定するに至った。この事態に海賊の宗主国でもあるイギリスは強く反発した。


当時、イギリスは太平洋の海賊に対して強い不満を持っていた。太平洋の海賊は当初こそはイギリス傘下の組織とも言える程までにイギリスと密接に関係を構築していた。しかし、時代が経過していくにつれて太平洋の海賊の勢力は非常に強力になり、イギリスの予想を遥かに上回り太平洋における貿易までもをほぼ独占する様になった。さらには太平洋の海賊の一部はインド洋にまで進出しインド洋におけるイギリスの海運を脅かした。イギリス政府は度々、ナウル交易国を通じて海賊に対して抗議を申し入れたが、あまり効果は無く、インド洋におけるイギリスの海運は脅かされ続けた。イギリスは海賊の支援の打ち止めも考えたが、太平洋の海賊は太平洋沿岸諸国からの上納金や海運で得た利益などにもよって経済的には自立してしまっており単なる支援の停止では効果は望めなかった。また、イギリスは太平洋の海賊の存在から欧米各国からも強い批判の対象にもなっていた。特にアメリカ、フランス、オランダなどの国々は太平洋を独占しようとしているとしてイギリスは敵視にも近い形で批判されていた。しかし、イギリスはそれでも、スペインと共に太平洋における貿易によって多大な利益を得ていた事と交易証が他国とは違い、イギリスは実質無料に近い値段で大量に発行する事ができていた事から太平洋の海賊との関係は継続していた。


しかし、そんな中の1911年2月にナウル交易国から発表された交易証発行の制限令と交易証を更新する際の継続金の値上げはイギリスにとってまさに寝耳に水の発表であった。イギリスはこの発表に際してなんの説明も受けていなかった。イギリスはこれを受けてすぐにナウル交易国に問い合わせを行い、発表の事実確認を行った。ロンドンのナウル交易国領事館がこれを認めるとイギリス議会は紛糾した。その後、イギリスはすぐにナウル交易国に対して説明を要請した。これを受けてナウル交易国は王子を含む交易大臣と代表団を香港へと派遣した。イギリス代表団とナウル交易国代表団の会談は4月に香港総督府で行われ、ここでイギリスは発表に至った経緯などの詳細な説明を受けた。その後、イギリス代表団はナウル交易国に対して発表の全面的な撤回を求めた。しかし、ナウル交易国代表団はこれを拒否し議論は平行線を辿った。


イギリス議会では海賊政策が失敗しているとして太平洋の海賊の支援を見直すべきだとの意見が強くなった。6月にはアメリカが太平洋の海賊を討伐すべきだと主張した。するとこの主張は欧州各国にも波及しイギリス議会においても海賊はすでにイギリスのコントロール下から完全に外れており暴走しているとの意見が多くなった。そして、7月3日、イギリス議会はナウル交易国に対して易証発行の制限令と交易証を更新する際の継続金の値上げの発表を全面撤回するように求める最後通牒を送る事を正式に決定した。これに対してイギリスと共に太平洋の海賊を支援し利益を享受してきたスペインはイギリスの判断は早計だと遺憾の旨を伝えた。しかし、7月5日、イギリス政府は正式にナウル交易国に対して最後通牒と警告をロンドンの領事館を通じて打電した。


イギリス政府からの最後通牒と警告にナウル交易国の政府首脳陣は困惑したと伝えられている。ナウル交易国政府はこの発表当初、イギリスがここまでの抗議をしてくるとは想定していなかった。その為、この最後通牒と警告を巡ってナウル交易国政府の閣僚らは大きく二分されたとされる。古くから続くイギリスとの関係を重視してきた閣僚らはイギリスの要請に従うべきだと危機感を露にした。一方で古典的な海賊行為の維持を主張する閣僚はハワイ王国事変や米西戦争での海賊の勝利を引き合いに出し、例え、イギリスが艦隊を送ってきても太平洋の海賊が結束し総力を挙げれば撃退できると主張した。両者の意見は平行線を辿り、スペイン領フィリピンの総督パスクワル・リカフォルト・パラシオが仲介しナウル交易国に対してイギリスの本気度と要請の強さを警告したが、結局、閣僚内の意見が纏まらずにイギリスが最後通牒の返答期限とした8月14日に間に合わなかった。


そして、これを受けてイギリスは返答がなされなかったとして、議会では太平洋の海賊を討伐する決議が採択された。また、太平洋上におけるイギリス植民地の港を海賊には一切の例外なく解放しない事も採択された。8月17日、イギリス議会はイギリス海軍艦隊の派遣を正式に決定。また、日本やスペインにも討伐に協力するようにとの要請が出された。スペインは海賊の討伐には反対しこれを拒否。一方で日本は協力する意向を示した。その後、この海賊討伐に関して、アメリカ、フランス、オランダ、ドイツもイギリスの決定を歓迎しまた、イギリス主導の海賊掃討作戦に参加するとの意向を正式に宣言した。そして8月29日、ロンドンで行われた太平洋における海賊対策の国際会議にてイギリス、日本、アメリカ、フランス、オランダ、ドイツは自由の太平洋宣言を発表し、六カ国の海軍による太平洋の海賊の掃討が宣言された。また、この自由の太平洋宣言では太平洋の海賊に向けて以下の様な救済も提示された。


 ・投降の意思がある海賊は1911年10月までに自由の太平洋宣言国

  に対して武装を放棄し投降する。

 ・投降した海賊は過去の罪を全て不問とし全員の身の安全を保障する。

 ・投降した海賊の海賊船は宣言国が押収するが正等に査定した上で全乗

  組員に査定金を配当する。

 ・投降した海賊の個人資産は押収しない事を約束する。

 ・投降した海賊の生活は最低3年間、宣言国が保障する。


この自由の太平洋宣言の発表後、宣言の期日である10月までに太平洋の海賊の凡そ3分の1は宣言国に投降したとされる。しかし、その一方でその他の海賊はこの宣言を受けて、9月3日、ナウル交易国領ポンペイ島のパリキールにて徹底抗戦を宣言した。


そして1911年11月、イギリス、日本、アメリカ、フランス、オランダ、ドイツの六カ国は太平洋の海賊の掃討に向けた艦隊作戦を本格化させた。この掃討作戦は1911年11月から1912年6月まで行われた。この間、太平洋の海賊はこれらの列強国の艦隊による攻撃を受けることになった。この間に太平洋上で発生した列強国軍と海賊側の海戦は散発的や群発的に発生した例も含めれば、後に集計された海戦の数は148件にも及んだ。この内、大規模な海戦は年代順にハワイ沖海戦、小笠原諸島海戦、グアム沖海戦、バンダ海海戦、スールー海海戦、宮古島沖海戦となっている。


また、自由の太平洋宣言の海賊投降の期限内に起こった事件としては日本の横浜港で発生した横浜港事件があげられる。横浜港事件は1911年9月7日に横浜港湾内で発生した。当時、日本ではまだ横浜港は条約港として海賊にも開港されていた。大日本帝国政府は宣言が発表されて以降、この港を拠点としていた海賊に港湾奉行所からなる使節団を派遣して自由の太平洋宣言に従い武装放棄と投降を呼びかけていた。しかし、交渉は上手くいかなかった。そんな中の9月7日、横浜港に展開していた帝国陸軍第八砲兵連隊の将兵が訓練中に誤って港を砲撃する事故が発生した。この砲撃を攻撃と勘違いした停泊中の海賊船は反撃を行った。これに対して帝国陸軍も反撃。当初は事故で発生した砲撃ではあったが、最終的には大規模な戦闘へと至った。この事件によって当時、横浜港に停泊していた海賊船9隻の内、4隻を撃沈。海賊は小笠原諸島のポートロイドへと脱出した。しかしこの事件の砲撃戦で横浜の街が受けた影響は非常に大きく、横浜の港湾施設はその多くが破壊され、一般人にも多くの死傷者を出した。事件後、帝国軍を監督する御覧奉行所は第八砲兵連隊の指揮官を更迭処分にした。


1911年11月5日、アメリカ太平洋艦隊は戦艦2隻、防護巡洋艦6隻、水雷艇12隻からなる艦隊を海賊の港となっているハワイ諸島へと派遣した。対する海賊は砲塔装甲艦2隻、無装甲巡洋艦3隻、砲艦12隻、一等艦9隻で対抗した。海戦はハワイ島の東側沖合い8kmの海域で行われた。この海戦は11時間にも及ぶ大規模なものとなった。この海戦の結果は結果的には両者痛みわけという結果に終わった。アメリカは水雷艇全艦を喪失し防護巡洋艦1隻を喪失した。一方で海賊側の損害は砲塔装甲艦ナッソー号の喪失、無装甲巡洋艦3隻、砲艦5隻の喪失という深刻なものだった。詳しくはハワイ沖海戦を参照。


また、11月5日は同日中に日本においても作戦が実施された。大日本帝国海軍は海賊の拠点港にもなっていた小笠原諸島の父島のポートロイドを攻略する為に戦艦4隻、防護巡洋艦5隻、海防艦4隻、駆逐艦3隻を派遣した。一方、ポートロイドには海賊船として海防艦4隻、砲艦2隻、四等艦3隻が集結。また父島や母島などに沿岸砲を複数設置していた。海戦は大日本帝国海軍の勝利で終わり、海賊は最終的に海防艦1隻を残して全艦喪失した。生存した海賊船高雄は帝国海軍に押収され海賊船の船員は全員が逮捕された。また大日本帝国軍は作戦後、父島のポートロイドや母島を長年違法に占拠されているとして海軍の部隊を上陸させて占領しポートロイドで最も高い建物である聖ジョージ教会の時計塔の屋根に日本国旗を掲揚した。この一連の海戦による日本海軍の損失は防護巡洋艦1隻の大破、駆逐艦2隻の喪失だった。海戦の詳細は小笠原諸島海戦を参照。


1911年11月9日、海賊の海防艦パールキングハット号と武装捕鯨船2隻はアメリカ遠征軍の補給基地となっていたグアム島に対して凡そ20分間の砲撃を実施した。この攻撃によってグアム島の集積基地が破壊され、港に停泊していた警戒用の水雷艇2隻も大破した。集積基地に駐留していたアメリカ海兵隊にも89名の隊員中6名の死傷者が出た。その後、パールキングハット号はボートでグアム島への上陸を決行し、グアム駐留アメリカ海兵隊基地を攻撃し凡そ3時間に渡って基地内の物資を略奪した。しかし、略奪から3時間が経過した時にサイパン島に水の補給の為に立ち寄っていたアメリカ海軍の防護巡洋艦セントルイス、補助巡洋艦ディキシーがグアムの異変を察知した事から急行しパールキングハット号と会敵した。双方の艦隊はグアムの沖合いで砲撃戦となったが、まもなく海賊船は全滅した。海賊船の処分後、セントルイス、ディキシーは攻撃を受けたグアム島に接岸し生存者の救援に当たった。グアムに駐留していたアメリカ海兵隊89名の内、生存者は67名だった。海戦の詳細はグアム沖海戦を参照。


1911年12月16日、バンダ海において、イギリス海軍、オランダ海軍の連合艦隊と海賊による大規模な海戦が行われた。イギリス海軍は戦艦6隻、巡洋艦7隻、砲艦9隻、駆逐艦18隻を派遣しオランダ海軍は戦艦1隻、海防戦艦3隻、駆逐艦1隻、水雷艇8隻が参加した。対する海賊は東インドを舞台に活躍していた海賊クラウス・ルーデルマン率いる装甲巡洋艦フライングダッチマン号以下、無装甲巡洋艦1隻、防護巡洋艦2隻、駆逐艦2隻、砲艦3隻、一等艦4隻、二等艦8隻、武装捕鯨船19隻が戦闘に参加した。この海戦は16日から18日までの長い期間に渡って継続された。この海戦の結果、東インドにおける有力な海賊の勢力だったクラウス・ルーデルマン率いる海賊の艦隊は事実上壊滅した。クラウス・ルーデルマンもフライングダッチマン号と共に沈んだとされ、この海戦で残存した海賊船は駆逐艦2隻、武装捕鯨船3隻のみだった。一方でイギリス・オランダの連合艦隊が受けた被害はイギリス艦隊が、駆逐艦6隻の喪失。駆逐艦2隻、巡洋艦1隻の大破。駆逐艦1隻、砲艦1隻が小破。オランダ艦隊が、駆逐艦1隻の喪失だった。海戦の詳細はバンダ海海戦を参照。


1912年2月26日、フィリピン近海のスールー海において宣言国による一連の太平洋の海賊の討伐における戦闘で最大規模となる大規模な海戦が勃発した。スペイン領フィリピンは国内の海賊に港を提供しないようにというスペイン本国の指示に従わずに海賊に対する港の提供を継続しており、フィリピンの各地には海賊討伐が始まった時期でも太平洋における最大規模の海賊のコロニーが形成されていた。これに対して当初はアメリカとドイツがフィリピンの占領を提案していたが、イギリス、フランス、オランダがこれに反対した為に代案として宣言国はフィリピンから海賊を追い出す為にフィリピンの制海権の奪取を計画した。そしてこの作戦が開始されたのが2月26日である。この作戦にはイギリス、アメリカ、フランス、オランダの艦隊が参加した。参加戦力はイギリス海軍が戦艦6隻、巡洋艦6隻、駆逐艦7隻。アメリカ海軍が戦艦3隻、装甲巡洋艦19隻、防護巡洋艦7隻、駆逐艦14隻、水雷艇11隻。フランス海軍が戦艦2隻、装甲巡洋艦4隻、水雷艇9隻。オランダ海軍が海防戦艦1隻、水雷艇1隻だった。一方で海賊側の戦力は詳細な資料が殆ど残されていない為に細かな所までは分からないが、後年発見された資料などによって少なくとも戦艦3隻、砲塔装甲艦2隻、無装甲巡洋艦5隻、砲艦22隻、駆逐艦4隻、水雷艇9隻、一等艦10隻、二等艦7隻、三等艦7隻、四等艦11隻、五等艦29隻、武装捕鯨船24隻が参加したと考えられている。この海戦は2月26日から3月1日までの5日間に渡って続いた大海戦であった。この海戦は近代海戦では珍しい乱戦にもなった。連合艦隊と海賊の船は互いに接近しあい、砲火は水平射撃も行われた。この海戦は最終的にはイギリス、アメリカ、フランス、オランダの連合艦隊の勝利で閉幕した。ただし、5日間にも及んだ海戦ではあったが、組織的な海戦及び激しい海戦は28日までの3日間でありそれ以降は掃討戦が主だった。この海戦の結果、連合艦隊が受けた損害は、イギリス艦隊が巡洋艦2隻、駆逐艦1隻の喪失。戦艦2隻の大破。アメリカ艦隊が防護巡洋艦3隻、駆逐艦8隻、水雷艇全艦の喪失。装甲巡洋艦5隻の大破。駆逐艦4隻の中破。フランス艦隊が装甲巡洋艦1隻の損失。装甲巡洋艦3隻の小破。オランダ艦隊が水雷艇1隻の喪失。海防戦艦1隻の中破だった。一方で海賊側は過半数の海賊船が失われた。また、この海戦では太平洋の海賊において海賊の力の象徴的な存在でもあった海賊船の砲塔装甲艦トルトゥーガ号、前弩級戦艦ビッグ・ドラゴン号、前弩級戦艦ブラック・シャーク号、前弩級戦艦クイーン・ドラゴン号が失われた。さらにこの海戦によって太平洋の海賊の近代海軍船戦力は事実上、ほぼ壊滅の状態となった。この海戦後、連合艦隊はフィリピンの制海権を掌握していった。海戦の詳細はスールー海海戦を参照。


1912年3月19日、イギリス海軍は日本海軍に対してスールー海海戦後にフィリピンから脱出した一部の海賊船が日本方面への向かったと情報を伝えた。この情報提供を受けて沖縄周辺で活動していた日本海軍の巡視艦隊は弩級戦艦の薩摩と河内を警戒を強化した。そして、宮古島の沖合いにてフィリピンより逃れてきたと思われる海賊船6隻を河内が発見。海賊は砲艦2隻、駆逐艦1隻、五等艦3隻の艦隊だった。河内は薩摩に発見の通信を入れるが、艦長は単独で撃破できると考え海賊船に対して停船を命令。海賊船がこれに従わなかった為に戦闘に突入した。河内は左舷に2発の海賊の砲艦からの魚雷による攻撃を受け中破するが、単独で海賊船全艦の撃沈に成功した。


スールー海海戦後、太平洋の海賊の敗北が事実上決定的となった事からナウル交易国では、元々イギリスとの対立に反対していた政府閣僚などの勢力が活動を活発化させた。1912年3月29日、ナウル交易国の首都ヤンゴールにおいて、対立反対派の政府閣僚を支持するイギリス等との戦闘に参加しなかった海賊の一派らが政府に対してクーデターを計画し、一等艦マケドニアⅡ世号による湾岸要塞砲への砲撃をもってクーデターが実行された。対立反対派はこのクーデター計画の数日前にイギリスに対してクーデターを行う事を香港のナウル交易国領事館を通じて通達しておりイギリス政府はこのクーデター計画を歓迎した。また、反対派は政権の奪取後、イギリスへの全面的な協力と交戦を主張した閣僚の身柄を宣言国に引き渡す事を約束し、その代わりナウル交易国の独立保障を求め、イギリス政府はこれに賛同していた。そして、3月29日にクーデターが実行にうつされ、クーデター勢力は王宮及び議会を占領し交戦派の閣僚全員を逮捕した。その後、4月1日、ヤンゴール港にイギリス海軍の戦艦セント・ヴィンセント、コリンウッド、ドレッドノートが来航し代表団がナウル交易国臨時政府の閣僚らと会談。その後、この3隻の戦艦は湾内に停泊を続けた。これに対してアメリカはイギリスに抗議しナウル交易国は解体すべきだと主張した。しかし、イギリス政府はナウル交易国には多くのイギリス系住民が居住しており今回の戦闘に参加していない彼らは保護しなければならないとしてアメリカの抗議を避けた。また、アメリカはナウルには複数の海賊船が未だに存在しているとも主張したが、5月9日、ナウル交易国はイギリスのアドバイザーの下、ナウル海軍の創設を発表。同国内に存在する海賊船を全て接収編入し、ナウル交易国政府はナウルには海賊は居ないと宣言した。そして、この宣言をイギリスも支持した。この海軍の創設と海賊船の接収をもって、歴史学上は太平洋の海賊の歴史において黎明期から中心的な存在であったナウル交易国を拠点とする組織的な海賊は事実上消滅したとされる。


その後、自由の太平洋宣言国による太平洋での海賊討伐は6月まで続いた。


・海賊時代の終わりと評価

太平洋の海賊の時代の終焉はカリブ海の海賊などとは違い急なものだった。太平洋の海賊は20世紀に入ったばかりの頃はまだ黄金時代の真っ只中だった。海賊は太平洋以外の海にも進出しインド洋にもその手を伸ばしていた。しかし、ナウル交易国の建国をもって訪れたとされる太平洋の海賊の黄金時代は1911年11月から1912年6月の僅かな期間をもって終焉を迎えた。記録上、この時期に最後に討伐された海賊は6月20日にドイツ海軍の巡洋艦によって撃沈された海賊船グリーンパーク号が最後であるとされる。


後に歴史家のクレープス・ガーレルマンは太平洋の海賊について、イギリスが当初、計画したアメリカの太平洋進出の妨害といった側面で見れば、その後の太平洋でのアメリカの利権拡大の過程を見れば、太平洋の海賊は当初の計画通りの役目を果たしていたと称している。しかし、その一方でクレープス・ガーレルマンは、太平洋の海賊が終焉を迎えた原因は古典的な海賊主義者が後ろ盾であったイギリスを裏切ったのが大きいとも称している。クレープス・ガーレルマンは、もしもイギリスの指示に従っていたのなら太平洋の海賊は第二次世界大戦の前後くらいまでは続いていたであろうとしている。


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太平洋の有名な海賊


・ジョン・フリック

ジョン・フリックは18世紀後半から19世紀前半にかけてカリブ海、太平洋で活躍した海賊である。元々はイギリスの貴族でありカリブ海におけるイギリス艦隊の提督を務めていた経歴を持つ。しかし犯罪者として追われる事になりジョン・フリックは海賊へと転進し、イギリス海軍で培った自身の技量によって海賊船の船長に選ばれるまでになった。太平洋への脱出後は自分と共に脱出した他の海賊らと共に太平洋での活動に終始し、ナウル交易国の建国を行い国王となった。晩年は太平洋の海賊の活動基盤や規律、統制といった問題の改革を行い後の黄金時代の基礎を構築した。


・アンドレアス・ライナー

18世紀の後半から19世紀の初めにかけて、日本人を恐怖に陥れた非常に残忍な海賊である。日本の庶民の間では鋸引きアンドレスと呼ばれた(襲撃地で美女を捕らえては鋸で切断し殺害する事を楽しんでいた為)。江戸幕府はアンドレアス・ライナーに対して極悪の罪人として討伐を各藩に命じていた。アンドレアス・ライナーはバミューダ号の船長として海賊船6隻を従えて小笠原諸島の父島のポートロイドを拠点に日本の沿岸都市を襲撃した。しかし、1809年に船で反乱がおきアンドレアス・ライナーは静岡沿岸でボートに乗せられた所を幕府の軍船に捕まり1809年3月9日に奉行所より死罪が言い渡され市中引き回しの上、鋸挽きの刑を受けた。


・ロバーツ・モーガン

18世紀後半から19世紀の初めにかけて活動したフィリピン系スペイン人の海賊である。フィリピン、東南アジア、中国、朝鮮、日本にかけて広い範囲で活動した。ロバーツ・モーガンの海賊船によって沈められた船は300隻にも達するといわれる。ロバーツ・モーガンが船長を務めた船は四等艦ブラック・ブーツ号で元々はオランダ海軍の軍艦で、海軍から売り払われ貿易船として使用されていたこの船を襲撃し自身の船とした。また、ロバーツ・モーガンは他の海賊と同盟を組まずに海賊行為を行った。だが、ロバーツ・モーガンの記録が最後に残っているのは1811年のフィリピンのクラベリアでの記録だけであり、逸話として失踪前、ロバーツ・モーガンは日本の江戸湾を襲撃する計画を立てていた話が残っておりブラック・ブーツ号と自身が購入したバミューダスループ1隻を引き連れてクラベリア港から出港した後から行方が不明となったとされる。


・エドワード・シュタイナー

母がインディアン部族チェロキー族からの出身。エドワード・シュタイナーは19世紀の海賊の中でも戦術家として名高い海賊である。主には南米のチリやペルーなどの国々の襲撃と交易船を装った交易によって生計を立てていたとされる。1830年にはアメリカでチェロキー族に対して行われた強制移住政策(涙の旅路1826年)の事実を知りこれに報復を考えたエドワード・シュタイナーがアメリカのロサンゼルスへの襲撃を企画しこれを成功させ三百人以上にも及ぶ一般人の大量殺戮と大略奪を行った。日本の歴史においては1854年2月13日のペリー艦隊の撃退の際に海賊艦隊の司令官として参加しペリー艦隊の撃退を成功させた事で有名。


・クラウス・ラモナン

19世紀後半から20世紀にかけて活動していたナウル交易国の海賊である。フリック家の海賊が有する海賊船史上初めての砲塔装甲艦トルトゥーガ号の船長を務めた。ハワイ王国事変やハワイ沖海戦(1911年)では海賊艦隊に勝利を導いた立役者である。しかし、スールー海海戦ではトルトゥーガ号は轟沈しクラウス・ラモナンも死亡したとされる。


・アルビリーナ・フォン・アッヘンヴァル

19世紀に太平洋で活動していたドイツ系イギリス人の女海賊である。元々はイギリス海軍の将校だったが、幼少の頃よりカリブ海の海賊の話に憧れがあり、軍を退役した後に同じく海賊に興味のある退役軍人を集めて海賊となった。イギリス海軍の一等艦ロイヤル・ソブリンをイギリス海軍から供与され太平洋においてイギリス植民地の港を拠点にアメリカ船を対象に海賊行為を行い、アメリカの貿易船など100隻近くを略奪し沈めた。


・伊藤俊一郎( いとう しゅんいちろう)

伊藤俊一郎(1836年2月1日‐?)は日本の水戸藩武家の出身の海賊である。記録上、近代において日本人で初めて海賊になった人物である。1854年に釣り船から落ちて漂流していた所をイギリスの捕鯨船に助けられポートロイドで海賊と交流し、その後、1855年に幕府の許しを得て海賊となった。ポートロイドや横浜を拠点に海賊および貿易活動を行い、1868年の第三次長州征伐に際しては幕府の要請で幕府海軍の援助を行い友人の海賊船船長らと共同で艦隊を編成し薩長同盟軍の海上戦力を壊滅させ薩摩や長州の沿岸部を強襲し略奪行為を行い薩長同盟を大混乱に陥れ薩長同盟軍の士気低下など大きな影響を与えた。


・定岡定道( さだおか さだみち)

定岡定道はポートロイドの聖ジョージ教会で生まれたとされ、19世紀後半から20世紀の初めに活動した海賊である。日本人の海賊としては歴史上最後の海賊の有力者である。定岡定道は19世紀の後半から伊藤俊一郎が創設した海賊艦隊を引き継ぎ日本海軍からの退役艦などの提供を受けて近代艦隊を育成した。しかし、これらの近代艦隊は横浜港事件や小笠原諸島海戦で日本海軍によって討伐され定岡自身も小笠原諸島海戦で死亡した。定岡定道が乗船をしていた海賊船は葛城型海防艦の大和が有名。


・リン・タン

19世紀の後半にフィリピン、サイパン島、長崎、ポートロイドを拠点に活動していた中国人の女海賊である。リン・タンはアヘン戦争でかつて東インド貿易会社の船として参加した経歴のある蒸気船、海賊船ネメシス号の船上で生まれた。この船はスペイン系ナウル人の海賊船だったが、リン・タンが18歳になる頃に船長はナウル人に代わり、リン・タンは22歳の頃に若くして船長となった。リン・タンは主に中国の貿易用ジャンク船を利用して中国の交易船を騙して接近し白兵戦をしかけるという手法を用いて交易船の物資を根こそぎ奪い取りその後ネメシス号からの砲撃で交易船を沈めるという残虐な海賊行為を行い中国でその悪名を轟かせた。リン・タンが29歳になる頃までには旗艦としてネメシス号の他、ジャンク船11隻を自身の指揮下に入れていたとされる。その他には中国沿岸部や朝鮮半島の各地を襲撃し略奪行為をした。しかし、29歳以降の記録は定かではない。


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海賊の文化


・海賊船

カリブ海での海賊時代は海賊は航海計画や乗組員のリストを決して外部に公表したりはしなかった。これは太平洋の海賊においても初期の頃は同じであった。しかし、ジョン・フリックが行った太平洋における海賊の改革後は海賊はナウル交易国の海賊省に書類を提出しなければならなくなった。それでも航海計画などは提出しなくても良かったが、大まかな活動海域や乗組員のリストなどは提出しなければならなかった。これに伴って発行されたのが海賊証である。しかし、この海賊証の発行なしに海賊行為を行った海賊船は違法船としてナウル交易国国王の命令により登録海賊船全船による討伐の対象となった。


太平洋の海賊が運用していた船の種類は多い。主に海賊が好んで使用した船種はガレオン船、バミューダスループ、戦列艦、蒸気船、砲艦、砲塔装甲艦、装甲艦、駆逐艦、前弩級戦艦、水雷艇などだった。主に蒸気船以降の船種は19世紀後半から始まった海賊の近代化によってもたらされた。この近代化はイギリス海軍、スペイン海軍、日本海軍からの退役船やスペインが海賊からの依頼を受けて建造した新造船によるものである。また、太平洋の海賊は帆船を列強国による太平洋の海賊掃討の時代にも使用していた。ただし、太平洋の海賊の時代の末期に使われていた帆船はその多くが何らかのエンジンを積んでおり、エンジンを搭載していない帆船は海賊の帆船における割合からみれば10隻中1隻程度の割合だったと言われる。帆船の海賊船は戦闘などの際には搭載エンジンを使用した。この動力が搭載された帆船の中でも海賊の中でも象徴的なのがスペインの造船会社が開発した近代動力式ガレオン船である。これはスクリューエンジンを搭載し3本マストの内、1本のマストを煙突と一体化させた船で外見上は普通のガレオン船にも関わらず長時間の移動こそはエンジンを止めて帆を張らなければならなかったが、戦闘においてはある程度、充分な速度を発揮したとされている。これらの帆船の動力化などの技術や煙突を廃し排気口を船の側面につける技術が導入され浸透した結果、動力付き帆船は燃料費節約の面や建造コスト、改装コストなどのコスト面での安さを理由に海賊に広がった。


・武器

太平洋の海賊が使用していた武器はその大半がイギリス軍やスペイン軍からの退役品であったとされる。これは海賊時代末期の頃でも変わらなかったが、艦載砲などに関しては19世紀後半から20世紀初頭までに運用された砲艦、砲塔装甲艦、装甲艦、駆逐艦、前弩級戦艦、水雷艇などの近代艦には最新の火砲が搭載された例も多い。


・ファッション

太平洋の海賊は20世紀に入っても、カリブ海の海賊の頃の様なファッションをしていた。当初はこの様に固定化されたようなものではなかったが、カリブ海の海賊の終焉後は次第にこれらの服装は太平洋の海賊にとって自身が海賊であるという事のアイデンティティに変化していった。


・飲食

太平洋の海賊はヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人、インディアン系など世界各地の様々な人種によって構成されていた。その為、太平洋の海賊はそれらの出身地に由来する様な様々な食べ物や飲み物が多く出回った。


・規則と統制

太平洋の海賊における海賊船の規則はカリブ海の海賊と同様に「行動規範」があり、それに沿った海賊船の運営がなされていた。行動規範に関しては「カリブ海の海賊(歴史)」の記事を参照。


ジョン・フリックはカリブ海の海賊の衰退と終焉の原因は列強国の海軍が海賊を討伐する中、海賊が個々に勝手に動いていた事が原因であると考えていた。その為、太平洋の海賊はカリブ海の海賊とは違い高度に組織化されたものとなった。簡略組織図としては、ナウル交易国議会・海賊議会>各海域の有力海賊長>各海賊船となっている。各海賊船は船ごとに自治を有しているが、その船の自治権よりも上位として各海域の有力な海賊の長があり、最上位には1年に2回、太平洋沿岸諸国の選定会場で開かれる各海域の有力な海賊の長達による海賊議会と、海賊を支援する立場にあるナウル交易国の議会がある。太平洋の海賊はこの上下関係を厳格に守り海賊を行っていた。ただし、各海賊がこれらの取り決めを必ず守らなければならないという明文化された規則は無かったが、ナウル交易国議会や海賊議会での取り決めを破った海賊には様々な制裁が加えられた為に、太平洋の海賊にとってこれは実質、守らなければならない規則として受け入れられていた。このナウル交易国議会や海賊議会での取り決めを破った海賊への制裁はナウル交易国議会と海賊議会が共同運営する秩序院から言い渡され、制裁は軽い順から、補助金の減額、補助金の停止、16日以内の賠償金支払い命令、海賊証の効力停止、討伐の5つの制裁が用意されていた。


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海賊時代の終焉後の太平洋


・ナウル交易国の急激な衰退

1912年の太平洋の海賊の掃討以降、これまで海賊を中心的に支援していたナウル交易国は急激に衰退した。ナウル交易国はイギリス、スペインの支援を受け、太平洋において海賊による黄金時代を築き上げたが、海賊の掃討後は、これまで主要な収入源であったイギリス、スペインからの支援金や、太平洋沿岸諸国からの上納金。貿易船への交易証の発行金などが得られなくなり、経済的に困窮した。この経済不況によってナウル交易国では人口の流出やこれまで都市に集中していた人口の地方への拡散など多くの社会問題が発生した。この経済的な困窮は第二次世界大戦後の1961年に始まったリン鉱石の採掘開始まで続いた。


・アメリカ合衆国の影響力の拡大

太平洋の海賊が掃討された事によってアメリカ合衆国はこれまで海賊によって阻まれていた太平洋への進出が大いに可能となった事から太平洋での利権拡大に本腰を入れる事になった。


・ハワイ王国の滅亡

ハワイ王国はハワイ王国事変の経緯などを見ても分かる通り海賊による恩恵を大きく受けた国であった。太平洋の海賊によってハワイ王国は外国からの脅威に対抗する事ができていた。しかし、太平洋の海賊の掃討後、これまで、安全保障の要的な存在であった海賊が力を失い事実上消滅した事によってハワイ王国は危機に陥った。アメリカ合衆国はハワイ王国に対して海賊を支援していたと外交的軍事的な圧力を強めてゆき、1914年にはハワイ王国のアメリカ併合という結果を招いた。


・スペイン領フィリピンの滅亡

スペイン領フィリピンはこれまで太平洋の海賊の経済的な恩恵を非常に受けていた。フィリピンは太平洋の海賊にとって交易の要所であり、新規の海賊船の造船も黄金時代の後年は大半がスペイン領フィリピンの造船会社によって行われていた。これらの経済的な恩恵はスペイン本土よりも経済事情が良いという状況を生み出していた。しかし、太平洋の海賊の掃討後、これらの収入が得られなくなったスペイン領フィリピンは大不況に陥った。この不況によってスペイン領フィリピンの人々は政府への不満を強めていき、独立派の台頭を招いた。スペインはフィリピンに軍隊を派遣しスペインがかつての世界帝国の名残でもあり証でもあったフィリピンの防衛にあたった。しかし、1915年、フィリピンはスペインより独立。フィリピン第一共和国が誕生しスペインはフィリピンを失った。こうして独立を勝ち取ったフィリピンであったが、その後1919年にアメリカ合衆国の植民地となる道を辿る事になった。


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第一次世界大戦における一時的な海賊の復活


1914年から1918年の間に勃発した第一次世界大戦では海賊行為が一時的に復活した。これを行ったのをナウル人やフィリピン人であり、戦争の混乱に乗じて各地で散発的な海賊行為が発生した。特にナウルに関しては国家的主導による海賊行為(ナウル侵攻)が行われ、ドイツ領ニューギニアの島々のある海域を中心にナウル交易国海軍の艦船や漁船が活発的に活動した。この第一次世界大戦における海賊行為では史上初めて水上機が使用された。


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第二次世界大戦での海賊


第二次世界大戦初期、東南アジアを中心に水上機による海賊行為が多発した。第一次世界大戦における一時的な海賊の復活の際に水上機が海賊行為に使用されて以降、一部の黄金時代に富を築き上げた元海賊はこぞって水上機を購入し森林地帯が多く身を隠せる様な場所が多い東南アジアにおいて空からの襲撃と海からの小型船による海賊行為が行われた。しかし、第二次世界大戦が東南アジア全域に波及していくと、これらの海賊(空賊とも呼ばれる)は次第に消滅していった。


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二一世紀の海賊


・チャナティップ・ブンマタン事件

チャナティップ・ブンマタン事件は2002年にインドネシアで発生した事件である。第二次世界大戦後に発生した海賊事件では最も有名であり大規模な事件だった。チャナティップ・ブンマタンはタイ王国出身の実業家で、インドネシアにおいて民間軍事会社ヘリオポーツ社を設立し、ヘリコプター1機を搭載する事ができ単装砲を1門を装備したコルベット艦ブラックブーツ号を保有していた。しかし、表向きは民間軍事会社であったヘリオポーツ社であったが、非公式に魚雷を使用できる小型潜水艦を保有しており、ヘリオポーツ社は裏ではブラックブーツ号を旗艦として、小型潜水艦とヘリコプターを使った貿易船の襲撃を行い、人質を取り身代金を請求する犯罪を行っていた。さらにヘリオポーツ社は人質をヘリコプターでさらうと、海中に潜んだ潜水艦で標的の船を撃沈した。このヘリオポーツ社が行った海賊行為によって沈められた船の数は14隻にも及ぶ。事件自体は2003年にインドネシア警察がヘリオポーツ社に立ち入り捜査をし、犯人側との戦闘の後に事件の首謀者であったチャナティップ・ブンマタンが逮捕された事によって終息した。逮捕後、チャナティップ・ブンマタンは警察の取調べに対して海賊に憧れていた事を証言した。


・マラッカ海峡の海賊

海上交通の要所であるマラッカ海峡ではボートを用いた海賊行為が発生している。


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― 新着の感想 ―
[一言] 海賊が戦艦クラスの船さえ用意して帝国主義全盛期に暴れるとは面白いですね。 フライングダッチマン号とか気になりますね。 チャナティップ・ブンマタン事件を含め21世紀の東南アジアでの海賊退治は…
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