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リヒテンシュタイン騎士公国 ‐ ウィキパディア

ウィキパディア-フリー百科事典

ページ/ノート

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リヒテンシュタイン騎士公国

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リヒテンシュタイン騎士公国。通称リヒテンシュタインは、スイスとオーストリアに囲まれた立地の国土を有し中央ヨーロッパの位置する君主制国家である。首都はファドゥーツに置かれ、欧州自由貿易連合(EFTA)の加盟国であり、また同じく君主制国家であるケメト国(ケメト王国)とテーベ君主同盟を形成している。


公用語:ドイツ語

首都 :ファドゥーツ

総人口:64,761人

民族 :ゲルマン系のドイツ・アレマン人

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目次


1.国名

2.歴史

 2.1中世

 3.2近代

 3.3現代

3.政治

4.軍事

5.国際関係

6.地方行政区分

 6.1オーバーラント

 6.2ウンターラント

 6.3ヴェストイディアンラント

7.地理

8.経済

9.国民

 9.1言語

 9.2宗教

 9.3身分

 9.4植民地の人口

10.交通

11.文化

 11.1スポーツ

12.観光


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国名


リヒテンシュタインの正式名称はリヒテンシュタイン騎士公国である。媒体によってはリヒテンシュタイン公国とも呼ばれる。しかし、騎士公という単語はリヒテンシュタインでのみ使用される単語である為、欧州の国では一般的にリヒテンシュタイン公国と呼ばれる事の方が多い。日本ではリヒテンシュタインの元首であるリヒテンシュタイン家の当主の称号がドイツ語でFürstであり、Herzog(公爵の意味)より一段階下の爵位である事から、日本語では公爵ではなく侯爵と訳される場合もある。その為、騎士公国や公国ではなく、リヒテンシュタイン騎士侯国、またはリヒテンシュタイン侯国とも呼ばれる。


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歴史


・中世

リヒテンシュタインに当たる地域はローマ帝国のラエティア属州を構成する一地域だった。西ローマ帝国の滅亡後にラエティア属州はこの地域に駐屯していたコミタテンケス(野戦軍)によってラエティア帝国が成立。帝国の成立後、ラエティアは領土を幾つかの伯爵領に分割した。その後、ラエティア帝国は大王テオドリック率いる東ゴード帝国などとの戦争を何度か行い一時は現在のオーストリアに当たる地域や北イタリアに当たる地域を領土化するまでに拡大したが、カロリング帝国が台頭してくるとラエティア帝国はその領土を大幅に縮小させラエティア属州だった頃の範囲にまで狭まった。ラエティア帝国は滅亡の危機に陥り、それを回避する為にカロリング帝国の属国となる道を選択した。属国とはいえラエティア帝国は実質カロリング帝国を構成する領土とされたが、暫くの間はカロリング帝国の下でラエティア帝国は一定の繁栄の時代を手にした。しかし、980年代にカロリング帝国が崩壊するとラエティア帝国は属国ではなく再び独立国として道を歩んだ。だが、1013年に神聖ローマ帝国が帝国に加わらなかったラエティア帝国を吸収しようと攻撃を開始するとラエティア帝国はスイス誓約者同盟、神聖ローマ帝国から離反したパダーニャ地域(後の北イタリア王国)と同盟を結びこれに対抗した。この同盟は1019年にラエティア・北イタリア連合帝国となった。これによって神聖ローマ帝国に対抗し独立を維持した連合帝国だったが、この連合帝国の内政は非常に混乱したものとなった。この内政の混乱の主な原因は君主を巡る対立であり、初代皇帝はラエティア帝国皇帝が務めたが、スイス誓約者同盟やパダーニャ地域からの反発によって連合帝国は誕生後わずか20年弱で皇帝は退任した。同盟や軍事機構自体は機能は続けたが、その後、一世紀以上にも渡って無君主の時代が続いた。この状況が変わったのが、1100年代の事である。当時、ラエティアとスイスを跨いで成立していたリヒテンシュタイン公爵領を治めるリヒテンシュタイン家は領地がラエティアとスイスの双方を跨いでいた事もあってラエティアとスイスの貴族や公爵との関係を良好に進める事ができた。当初こそは下級貴族であったリヒテンシュタイン家だが、1150年代以降に他の貴族や公爵がリヒテンシュタイン公を君主におす意見が強くなった。これらの勢力はリヒテンシュタイン公を象徴的な君主とする事で国の安定化を目指した。この勢力によって1160年代までにリヒテンシュタイン公はラエティア・北イタリア連合帝国の皇帝として一世紀以上ぶりに君主として君臨した。しかし、リヒテンシュタイン公の政治的な権力は自身の領地以外では実質皆無であり、国政への影響も殆ど皆無であったとされ、あくまで君主の位は象徴的な物へと収められた。リヒテンシュタイン公が皇帝に就任すると議会は国名をラエティア・北イタリア連合帝国から、ラエティア・北イタリア諸連合王国と改名する事を決定した。さらに皇帝の称号も国王へと変更された。


その後、1200年にラエティア地域の一部の公爵がラエティアの神聖ローマ帝国への併合を目的に反乱(秋の戦い)を起こし後に連合王国軍に鎮圧されるとラエティアの地域はリヒテンシュタイン公爵領に併合された。これに伴い国名はリヒテンシュタイン・北イタリア諸連合王国となった。ただし、リヒテンシュタイン公の政治的な影響力はこれまで通りとなった。この体制はその後、リヒテンシュタイン・北イタリア諸連合王国の崩壊まで続いた。(リヒテンシュタイン・北イタリア諸連合王国が崩壊するまでリヒテンシュタイン家が有していた公爵の位と象徴的国王の位に関しては「リヒテンシュタイン家」「ラエティア・北イタリア諸連合王国の政治」「リヒテンシュタイン・北イタリア諸連合王国」の記事を参照)。


16世紀初頭、リヒテンシュタイン家のぺリオス1世はポルトガルのマゼラン艦隊が世界一周の航海を成功させた報を聞きまだ見ぬ世界に思いを馳せた。ぺリオス1世は公爵家の資産を使って自身も探検をしようと考えた。しかし、周囲に反対されたぺリオス1世は自身の代役として三男のぺリオンを指名し探検に出発させる事にした。この航海をする為にぺリオス1世は公爵家と王家の間柄で独自の交流があった北アフリカ大陸の東側地中海沿岸を支配するケメト国に協力を打診した。当時、ケメト国の王家( ファラオ )とリヒテンシュタイン家は家族ぐるみでの交流があり、しかも当時、造船技術先進国であるケメト国から協力が得られれば航海の成功率は限りなく上がると思われた。そして1532年、リヒテンシュタイン家はケメト国の援助を受けケメト国海軍の中古のハトシェプスト船(全長130mを越える当時としては最高峰の大型帆船)を一隻入手し、さらにリヒテンシュタイン・北イタリア諸連合王国の貿易会社から中古で購入した3隻のガレオン船で艦隊を編成しぺリオンを筆頭に新大陸を目指して航海に出発した。そして、この艦隊は5年後にハトシェプスト船ぺリオスと随伴船1隻が北イタリアのサボナに帰還し航海を無事に成功させた(ぺリオン艦隊)。ぺリオンはこの航海によってセントルシア島とバルバトス島を発見。また、現在のガイアナに当たる地域の沿岸にも到達した。この報は連合王国内で大きな話題となった。ぺリオス1世は連合王国議会に知人の公爵議員を通じて発見した土地の領有化を提案した。しかし議会はこれを否決した。これを不服としたぺリオス1世はリヒテンシュタイン家が独自に開発を行う許可を議会に求めた。これに対しては議会はこれを承認した。ただし、連合王国はこれに一切関与しないとした。


リヒテンシュタイン家は議会の決定を受けてケメト国と引き続き共同で発見した地域の開発を行う事にした。開発の人員はリヒテンシュタイン公爵領の領民とケメト国の人員で構成された。その後、これらの地域はリヒテンシュタイン海上帝国(もしくはケメト・リヒテンシュタイン海上帝国)と呼ばれ最終的にはセントルシア島とバルバトス島の2島に加えて現在のガイアナに当たる地域を支配する事になった。


この様にリヒテンシュタイン・北イタリア諸連合王国は領土やその影響範囲を拡大したが、1803年から始まったナポレオン戦争ではジュネーヴの戦いでフランス軍に大敗した事によってフランスの影響下にはいってしまった。また、このフランスの影響下の時期に旧ラエティアを支配していたリヒテンシュタイン公爵領は大幅に縮小し大部分がフランスの領土となった。公爵領自体はその後も存続したが、この公爵領の面積はほぼ現在のリヒテンシュタインの領域へとほぼ確定させた。


また、このナポレオン戦争の期間中、植民地であるセントルシア島とバルバトス島は本国の陥落後もフランスに追従せずにケメト国と協力して活動した。これに対してフランスは使者を送り、フランスの敵国であるケメト国との協力を止めてフランスに従属する様求めたがこれを断った為にフランスは戦列艦10隻からなる艦隊を派遣している。このフランス軍侵攻によってセントルシア沖海戦やバルバドス島の戦いが引き起こされた。セントルシア沖海戦でリヒテンシュタイン側の民兵による武装貿易船13隻からなる艦隊が全滅した事でセントルシア島がフランス軍によって占領され、さらにバルバドス島にフランス軍が上陸すると最終的にはジャックマンズ要塞でのリヒテンシュタイン騎士団による篭城戦へと発展した。しかし、ガイアナからケメト国軍の援軍が到着すると両島にいたフランス軍は撃退され退却した。


ナポレオン戦争の終結後にはフランスの影響を脱する事ができたが、国内ではスイス、北イタリアの地域間の政治的な抗争が激化した。そして1819年、北イタリアの地域が北イタリア王国の独立を宣言した事でリヒテンシュタイン・北イタリア諸連合王国は事実上崩壊した。リヒテンシュタイン家は連合王国の崩壊に伴って連合王国の象徴的な君主としての立場を失った。しかし、連合王国の崩壊後、リヒテンシュタイン家はリヒテンシュタイン公国の成立を宣言。さらにスイスとの同盟関係は継続して事実上スイスの庇護下に入り自国国内に保有する軍を廃止した。ただし、リヒテンシュタイン公国はスイスの庇護下に入った後も、独自の外交を展開し、ケメト国との関係を維持。リヒテンシュタイン海上帝国が連合王国が崩壊した後もリヒテンシュタインに継承した事から両国の関係は非常に強固なものとなった。


・近代

19世紀に入ると、リヒテンシュタインは永世中立国としての立場を欧州において確立した。植民地から齎される金などはリヒテンシュタインの発展に大きく役立った。しかし、20世紀に入り二度の世界大戦が勃発すると、侵略の危機が叫ばれた。特に第二次世界大戦では国内にドイツとの統一を主張するナチスシンパの政党であるリヒテンシュタインのドイツ国民運動の動きが大きくなった。これに対してリヒテンシュタイン公はこの運動を押さえ込む為にこれまで植民地の治安維持を任せていたリヒテンシュタイン騎士団を緊急で召集した。リヒテンシュタイン騎士団は国内でのナチス運動を集会の禁止や外出の制限令などによって抑える事によってナチスドイツのリヒテンシュタインに対するアンシュルスを防いだ。戦後、ナチスシンパによる運動を抑える事が成功した事によってリヒテンシュタイン騎士団の国内での評価は非常に高くなった。国民の多くも騎士団に対して大変高い敬意と支持の声を示していた事から、リヒテンシュタイン公と議会は国名をリヒテンシュタイン騎士公国とする事にした。


・現代

2003年2月12日の国民投票では憲法改正が主題となった。この憲法改正では国家元首であるリヒテンシュタイン公に政府解散や裁判官指名の裁可権を与え7か月間署名を拒否された法案の廃案が提案された。当時のリヒテンシュタイン公ハンス・ベンチス1世は国民投票で憲法改正が否決された場合は、自身がリヒテンシュタインより出国すると国民を脅した。投票の結果は65.4%の国民が賛成した事で憲法は改正された。


2003年7月19日、ハンス・ベンチス1世は1年後に公務から身を引いて息子のアダムスに騎士公国の統治を譲ると国民に宣言した。2004年に宣言通りアダムスを摂政に任命。


2011年9月13日、ケメト国で人類史上最悪の原因不明の大災害、ケメト消滅事件が発生した。この災害は北アフリカのケメト国の領土範囲内で発生した災害であり、9月13日の午前7時に突如、ケメト国からの全通信が途絶した。この事態に欧州各国を含めた周辺諸国はすぐにケメト国への調査を行った。そして、それらの調査によってケメト国があった地域が隣国から綺麗に国境線から海になっている事が確認された。ケメト消滅事件の詳細は「ケメト消滅事件」の記事を参照。


このケメト消滅事件がリヒテンシュタイン騎士公国に与えた影響は非常に大きかった。リヒテンシュタイン騎士公国にとって、ケメト国はスイスとほぼ同等、もしくはそれ以上にも経済的な結びつきが非常に強い最重要国だった。リヒテンシュタイン騎士公国はケメト国と共同でリヒテンシュタイン海上帝国を形成しており、海上帝国を構成する植民地からの収入の凡そ4割はリヒテンシュタイン騎士公国の経済を大きく支えていた。しかし、この海上帝国を維持する上で最も大きな役割を果たしていたのはケメト国であり、ケメト国は植民地運営に関する財政上、人員上、安全保障上の面で多くを担当していた。しかし、ケメト国本土の消滅が意味する所は海上帝国の維持全てが実質、リヒテンシュタイン騎士公国に圧し掛かる事を意味していた。これに対してリヒテンシュタインは消滅事件後すぐにセントルシア島、バルバトス島、ガイアナを管轄している国家警察へと連絡を取り、また、駐留ケメト軍との連絡を密にした。


しかし10月1日、ガイアナにおいて独立を訴える住民達による大規模デモが発生した。植民地警察はこれを鎮圧したが、デモは10月3日にはガイアナ全土に拡大、暴動へと発展。セントルシア島、バルバトス島にもこれは飛び火した。これに対してリヒテンシュタインは駐留ケメト軍からの要請によりガイアナにリヒテンシュタイン騎士団からなる国家警察戦力を集中させ、暴徒鎮圧に乗り出した。国際社会はこの混乱に対してリヒテンシュタインに植民地を放棄するように訴えたが、リヒテンシュタインとガイアナに拠点を置くケメト臨時政府はこれを拒否した。この混乱は後に約一ヶ月でセントルシア島、バルバトス島においては混乱は終息へと向かう事となったが、ガイアナでは国境を接する周辺国から民兵などが独立派を支援した為に内戦の様相となった。リヒテンシュタインは当初こそはガイアナでの戦闘にも国家警察を投入し治安維持の面からケメト軍を支援したが、2013年5月までにはケメト軍、リヒテンシュタインの支配地域はガイアナの沿岸部から凡そ半分以下までに縮小した。しかし、それでも内戦の長期化が懸念され、さらにはすでに植民地からの収入に大きく頼っていたリヒテンシュタイン経済は大きな打撃を受けていた。その為、リヒテンシュタインはすでに経済的にも支援の限界に達しているとし、ケメト軍と協議の上、ガイアナに展開していた国家警察を全てセントルシア島及びバルバトス島に引き上げさせた。また、リヒテンシュタインは7月8日に欧州連合からの人道的配慮の要請の一部を受け入れて植民地ガイアナに関しては今後、治安部隊の派遣などはしないと表明し、まだガイアナに展開されているリヒテンシュタイン騎士団も順じ撤退させるとした。しかし、人道支援は続けるとして、ケメト軍への医療的支援や輸送機の貸し出しは継続した。


2013年9月9日には、リヒテンシュタインは実効支配を維持し残っている2島の植民地に関して、セントルシア島の独立を近い将来に承認する事を決定した。この決定は表向きは植民地の住人の意思を尊重したとされたが、実際には、植民地の維持に際して経済的に困難であるとする理由の方が強かった。一方でバルバトス島に関しては観光産業の開発が進んでおり財政面でも黒字であった事から今後も恒久的にリヒテンシュタインの領土であり続けるとしている。


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政治


リヒテンシュタインの国家元首はリヒテンシュタイン公である。当主は男子世襲制となっている。リヒテンシュタインは欧州最後の絶対君主制国家とも呼ばれており、他の欧州君主制国の国家元首が象徴的儀礼的な立場であるのに対して、リヒテンシュタイン公は政治的権限を有している為、リヒテンシュタインの統治体制は絶対君主制であるといえる。しかし、時の公に統治能力が無いと判断された場合は公の執務を停止、または退位させる事ができる事がリヒテンシュタイン騎士公国憲法で定められている。さらには、必要に応じて国民投票によって君主制の存廃を決める事ができる為、国民の権利と自由は十分に保障され立憲政治や法の支配、議会民主制も確立されている事から、立憲君主制とされる場合も多い。


また、リヒテンシュタインにおいてリヒテンシュタイン公爵は国家警察や騎士団の前では騎士公を名乗るのが国名の改名後からは慣例となっている。


リヒテンシュタインの立法府は一院制の国会(ドイツ語:Landtag des Fürstentums Liechtenstein)が設置されており、議席の定数は25議席、任期は4年とされており、選挙権、被選挙権はオーバーラント、ウンターラント、ヴェストイディアンラントの選挙区から国内に居住する18歳以上のリヒテンシュタイン市民に与えられている。ただしリヒテンシュタイン市民権を持たない植民地の住民はこれに含まれない。


2016年現在の議会の議席配分は進歩市民党6、国家騎士党5、祖国連合8、海賊党4、自由のリスト2となっており、進歩市民党と国家騎士党は連立与党を形成している。


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軍事


リヒテンシュタインは18世紀、リヒテンシュタイン・北イタリア諸連合王国の崩壊後にスイスの庇護下に入った事で独立を維持してきた。このスイス庇護下時代にリヒテンシュタインは軍を解体している。それ以降、公には軍事組織を保有した事は無く、リヒテンシュタインの安全保障はスイスが担っている。しかし、治安維持組織として国家警察とリヒテンシュタイン騎士団を有している。これらの治安機関はスイスやケメトの軍や警察とも密接な協力関係を構築している。


・国家警察

国家警察は内務を担当している副首相管轄の組織となっている。1,600名の警察官が在籍しており内1,500名は非リヒテンシュタイン市民の植民地出身者で構成され植民地の治安を担当している。編成は大まかに本土と植民地に分けられており、本土には100名の警察官が配備され残りは全て植民地に配備されている。国家警察の装備は、30名の警察特殊部隊アーガス以外の大多数の一般警察官には銃火器類装備は一切配備されておらず、通常時は唐辛子スプレー、テーザー銃、警棒、防弾ジョッキのみが配備され、暴動などの際には槍型スタンガン、モーニングスター、ライオットシールド、アイアンヘルム、グリーブが配備されている。この暴徒鎮圧用の装備は2011年以降は植民地では常用されている傾向にある。対暴動用の装備にモーニングスターやアイアンヘルム、グリーブが配備されている理由はリヒテンシュタイン騎士団からの影響が大きいと考えられている。また、国家警察は航空装備として12機のMDエクスプローラー、2機のピラタスPC‐6、1機のブラックバーン・ビバリーを保有し、海上装備として4隻のCB90高速攻撃艇を保有している。航空機や船舶の装備は全てヴェストイディアンラントに配備されている。


・リヒテンシュタイン騎士団

リヒテンシュタイン騎士団は儀礼的な要素の強い組織である。また、現存する騎士団の中では唯一治安組織として活動を続けている組織でもある。リヒテンシュタイン騎士団の指揮権はリヒテンシュタイン公が有しており、議会の承認があれば騎士団に対して命令を出す事ができる。また、この騎士団の立場に関して1998年にリヒテンシュタイン議会で警察か軍かの議論になった事があるが、リヒテンシュタイン政府は騎士団の装備は儀礼的かつ暴徒鎮圧用の装備であるとして軍隊には当たらず、あくまで国内有事の際の治安部隊であるとの見解を示している。騎士団の拠点は中世の時代に築かれたバルバトス島のジャックマンズ要塞に置かれている。


リヒテンシュタイン騎士団のその歴史は16世紀後半にまで遡る事がでる。当時のリヒテンシュタイン・北イタリア諸連合王国からヴェストイディアンラントへと移住した人々を中心に当時のリヒテンシュタイン公の命令を受けて組織された。当時、ヴェストイディアンラントに移住した人々は原住民からの脅威を度々受けており死者も出ていた。これはリヒテンシュタイン公の耳にも入っていた。その為、リヒテンシュタイン公はヴェストイディアンラントに移住した人々に対して騎士団の創設を命じ、さらには人員を集める為に騎士団への入団を条件に騎士の位を与えた。その後、この騎士団はヴェストイディアンラントにおいて、リヒテンシュタイン公の威光を原住民に対して示す役割を果たし、さらには植民地の共同支配者でもあるケメトの軍と密接に協力して原住民や外敵と戦う事になった。このリヒテンシュタイン騎士団はリヒテンシュタイン・北イタリア諸連合王国の崩壊後も存続し植民地の住民の警護と保護に当たった。第二次世界大戦の前後にはリヒテンシュタイン本土のナチスシンパの運動を抑制する為に軍隊がなかった本土に騎士団を呼び出す事で治安を維持した。本土への呼び出し前は騎士団が本土では活動していなかった事もありその知名度はかなり低かったが、本土への召還後は、ナチスシンパの運動を止めた功績が国民に認められた事や、騎士団の活動が植民地を中心とした物から本土中心の活動に転換した事からリヒテンシュタインにおいてその知名度は知らない者はいない程までに増加した。


現在、リヒテンシュタイン騎士団には4,293人の騎士団員、退役騎士団員、名誉騎士団員が在籍しており、その内500名が騎士団の実動部隊を構成している。騎士団の兵種は5つに分けられ、重騎兵、槍騎兵、銃騎兵、砲騎兵、重機甲騎兵となっている。騎士団は名誉騎士団員以外はその大半が騎士の階級の人々によって構成されており、名誉騎士団員はスイスや北イタリア等の外国出身者である。騎士団は近年まで極めて儀礼的な要素の強い組織だった。騎士団は設立初期から長年に渡って植民地でのその方針を原住民に対するリヒテンシュタインの威光を示しリヒテンシュタイン人の権益を守る事に焦点を当ててきた。16世紀から17世紀の頃、騎士団は原住民を弾圧する際にヨーロッパの伝統的な鎧や剣で身を堅めた。これらの装備は当時ではすでに鉄砲や大砲などの登場によって兵の軽装化が進んでいた事に逆行していた行為だったが、この目的は原住民に騎士団に対する畏怖を抱かせ反乱を抑止する目的があった。しかし、時代が経過していくと、この騎士団は植民地の住人からは畏怖の対象としては見られ続けていたものの、本国の国家警察が植民地でも活動を始め治安任務の大半が国家警察に移ると騎士団はナチスシンパの運動を抑制する為に本国に召還された時を除いて設立初期の実動的な組織からリヒテンシュタインの歴史を象徴する非実動的、儀礼的、象徴的な組織へと変わっていった。騎士団の活動はその殆どが訓練や儀仗兵的な役割のみとなった。


しかし、近年の植民地における植民地解放を訴える独立派による抗議運動の激化や治安の急速な悪化は再び騎士団の治安部隊としての役割を復活させる事になった。2011年から2015年3月までの間、騎士団は主にガイアナの都市部において暴徒鎮圧など治安維持を行った。2016年現在は、バルバトス島に展開されており、現地の国家警察を指揮下において現地の治安情勢を担っている。


騎士団の装備はその大半が欧州の伝統的な装備品となっている。騎士団の実動部隊は重機甲騎兵に属する騎士以外は全員が中世のスウェーデンに見られた様なデザインのフルプレートアーマー(槍騎兵に関しては頭部ヘルメットがナイトヘルムとなっている)を装備している。重騎兵:武装としてはツーハンデッドソードやロングソードの様な剣、ライオットシールド。槍騎兵:ハルバードや槍、ライオットシールド。銃騎兵:マラッカ式ライフル銃、ショートソード。砲騎兵:牽引式バリスタ、ショートソード、テーザー銃。重機甲騎兵:ケメト軍から払い下げられたL3豆戦車でケメト軍時代に小型の旋回小口径砲砲塔を搭載されたタイプや通常のCV33型を合計で24両保有。その他、ケメト軍から払い下げられた輸送トラックや重機甲騎兵騎士の護身用装備としてテーザー銃を保有。


この様に騎士団は重機甲騎兵以外は中世の伝統的な欧州の装備を非常に多く配備している。これらの装備は一見、時代錯誤ではあるが、暴動の鎮圧の際には有効的であるとリヒテンシュタイン政府は見解を示している。しかし、国家警察も含めてだが、暴徒の鎮圧とはいえ、その鎮圧に剣、槍、モーニングスター等の刃物や鈍器を使う行為に対しては諸外国より大きな批判の声がある。ケメト消滅事件後の植民地での独立運動の過激化に際しては国家警察や騎士団がこれらの装備で暴徒の鎮圧を実際に行っており、国際人権団体は少なくとも一連の期間中にデモや暴動に参加した一般市民の内、凡そ3千人の死傷者が出ていると報告している。また、国際人権団体はリヒテンシュタインの治安に関する法律も批判している。リヒテンシュタインの法律では国家警察や騎士団が暴動を鎮圧する際に暴徒が治安部隊員の誘導や静止を聞かずに人に危害を与えると考えられる場合はその暴徒の殺害が事実上容認されている為である。


また、騎士とは本来、騎乗して戦う者を指す。しかし、リヒテンシュタイン騎士団の構成員は騎乗しない要員に対しても騎士の号が用いられている。これはイギリス陸軍の王室騎兵隊の状態とやや似ており騎士といいう符号は歴史的呼称を現代に引き継いでいるだけある為、あまり意味をなしていない。また、これは騎士団の構成員の殆どが騎士階級の家系の出身者であり騎士の名誉的称号を持っている事も現在の騎士団における各要員の呼称が兵科に問わず騎士の符号が用いられている大きな理由の一つともなっている。


・ヴェストイディアンラントの安全保障

ヴェストイディアンラントの安全保障はケメト国によって一任されている。これはケメト消滅事件後も変わっておらず、ヴェストイディアンラントには3万7千人規模のケメト国軍の陸軍、海軍、空軍からなる大陸軍が駐留している。ケメト国軍はヴェストイディアンラントに海軍戦力としてドゥアムトエフ級フリゲート(伊ルポ級フリゲート)6隻、モンチュ級ミサイル駆逐艦2隻、メンヒト級潜水艦(諾ウーラ級潜水艦)2隻を配備し、陸軍及び空軍には攻撃ヘリや戦闘機等の航空機や戦車や装甲車等の戦闘車両も複数配備している。これらは現在、ガイアナにおける内戦にその殆どが投入されている。


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国際関係


リヒテンシュタインは欧州自由貿易連合(EFTA)の加盟国である。欧州経済領域(EEA)シェンゲン協定にも加盟している。また、ケメト国との間では16世紀に結ばれたテーベ君主同盟を現在に至るまで有している。


・スイス

リヒテンシュタインは安全保障上スイスの庇護下に置かれている。両国の関係は外交、経済、政治的にも非常に深く、さらに実質的にはリヒテンシュタインの安全保障はスイスによって担われている。また、スイスは中世の時代にリヒテンシュタイン・北イタリア諸連合王国の構成国であった事から、当時の同盟条約の一部が現在でも有効であり、両国の間ではシェンゲン圏構築の前から国境が解放されていた。


・イタリア

イタリアの北部は中世の時代にリヒテンシュタイン・北イタリア諸連合王国の構成国であった北イタリア王国があった。国同士の関係は他の欧州各国と差ほど変わらない関係を築いているが、地域的な交流は現在に至るまで継続されており、市町村レベルではファドゥーツと姉妹都市関係を結ぶなど関係を深めている。


・ケメト国

リヒテンシュタイン家はケメト国王家と長い間に渡って友好的な関係を築いてきた。また、ケメト国はリヒテンシュタインにとってスイスに次ぐもしくは同等の重要な友好国である。16世紀に結ばれたテーベ君主同盟は現在でも継続されており、この君主同盟は両国の関係促進とリヒテンシュタイン海上帝国の共同統治を明文化した物である。リヒテンシュタインとケメト国は共にリヒテンシュタイン海上帝国を形成し植民地を共同で開発。また、共同統治を行ってきた。その為、両国の関係は歴史的な経緯を見ても非常に深い。しかし、ケメト消滅事件後は共同統治を行ってきたリヒテンシュタイン海上帝国の植民地維持を巡って混乱が発生している。欧州連合や国際社会はリヒテンシュタインに対して全植民地の放棄を訴えているが、リヒテンシュタインはガイアナのケメト国臨時政府と協調して、これらの要求を一部を除いて応じていない。また、リヒテンシュタインにはケメト国からスイスに留学に来ていた為にケメト消滅事件の難を逃れる事ができていた唯一のケメト国王家の人物、ケメト国第33王朝のイアフメス第3王女がスイス留学期間の終了後にリヒテンシュタイン国内に滞在しており、リヒテンシュタイン政府は王女の生活や安全などを保障し保護している。


・日本とリヒテンシュタインの関係

日本とリヒテンシュタインは良好な関係を有している。日本政府はこれまでに、ヴェストイディアンラントへのインフラ整備の支援を名目に政府開発援助(ODA)から18億円をリヒテンシュタインに無償で出資している。2019年には両国が国交及び友好関係を締結して丁度100年を迎える。


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地方行政区分


リヒテンシュタインの領土を構成する地方は大きく分けてオーバーラント、ウンターラント、ヴェストイディアンラントの3つの地域に分けられる。本土を構成する地方はこの内、オーバーラント、ウンターラントの2つの地方であり、これを構成する11の自治体は基礎自治体(ドイツ語:Gemeinde 読み:ゲマインデ)と呼ばれる。南米の植民地(セントルシア島、バルバトス島、ガイアナ)であるヴェストイディアンラントは地域の規模としてはリヒテンシュタイン本土よりも遥かに広大な領土であるがヴェストイディアンラントと1つの自治体として数えられる。


・オーバーラント

 ・ファドゥーツ(首都)

 ・シャーン

 ・トリーゼン

 ・トリーゼンベルク

 ・バルザース

 ・プランケン

・ウンターラント

 ・エッシェン

 ・ガンプリン

 ・シェレンベルク

 ・マウレン

 ・ルッゲル

・ヴェストイディアンラント

 ・ヴェストイディアンラント

  ・バルバトス島ブリッジタウン(リヒテンシュタイン政府管轄役所所在地)


・ヴェストイディアンラントの行政

ヴェストイディアンラントの行政システムは同地域がケメト国との共同統治地域である為に、本土とは若干違う行政システムとなっている。リヒテンシュタイン人が多く暮らしているバルバトス島やセントルシア島では基本的な行政などはリヒテンシュタイン本国とあまり変わらない。しかし、ガイアナの行政はデメララ=マハイカ地域、アッパー・デメララ=ベルビセ地域の2地域がケメト国の行政を基準とした行政が敷かれている(1910年に結ばれたアレクサンドリア合意によってリヒテンシュタインはバルバトス島、セントルシア島の優先行政権が与えられ、ケメト国にはデメララ=マハイカ地域、アッパー・デメララ=ベルビセ地域の優先行政権が与えられている)。その他の地域に関してはリヒテンシュタインとケメト国が共同で行政を行っている。ヴェストイディアンラントには本土に匹敵する程のリヒテンシュタイン人が暮らしているがバルバトス島、セントルシア島、ガイアナに分散して在住していた為、現地の居住実態などを基に各地にはリヒテンシュタインの行政機関の出張所が設置される。また、バルバトス島のブリッジタウンにはヴェストイディアンラント内のリヒテンシュタインの行政機関をまとめるリヒテンシュタイン政府管轄役所が置かれている。


ただし、2016年現在はガイアナでの内戦の影響から各地に分散して暮らしていたリヒテンシュタイン人の大半はバルバトス島やセントルシア島に引き上げており、これに伴って行政機関の出張所の数も大幅の削減されガイアナにおいてはジョージタウンに出張所を残すのみである。また、セントルシア島は近い将来に独立させる事がリヒテンシュタイン政府とケメト国臨時政府の間で決まっており、今後、独立すればリヒテンシュタインのセントルシア島における行政機関は撤収すると思われる。


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地理


リヒテンシュタインの本土は所謂、二重内陸国の状態にある。しかし、リヒテンシュタインが二重内陸国か否かには議論がある。リヒテンシュタインは共同統治とはいえ、南米に植民地を持っており、これらの植民地は海に接している為である。


リヒテンシュタイン本土の面積は東西に6km、南北に25kmで日本の小豆島と同等の面積しかない。本土のみの領土面積では世界で6番目に小さい国となる。本土の半分はドイツ、シュヴェービッシュ・アルプスの延長線上にある事から山地となっている。気候は比較的温暖である。


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経済


リヒテンシュタインの主要な産業は精密機械、牧畜、漁業、医療、観光、海運、国際金融、切手発行などが挙げられる。また、スイスとは関税同盟を締結しており、電話や郵便などの制度はスイスと共通となっている。リヒテンシュタインは租税回避地( タックス・ヘイブン )としても有名であり、外国企業のペーパーカンパニーが集中している。リヒテンシュタインの税収の40%はこれらの企業からの法人税であり、これによって国民に対する所得税、相続税、贈与税は無い。


・リヒテンシュタイン海上帝国

リヒテンシュタインとケメト国が共同で運営しているヴェストイディアンラント(南米の植民地)ではテーベ君主同盟条約に基づいて植民地経営(鉱物採掘・農場の2分野)で得られた利益の43%はリヒテンシュタインに入っている。この海上帝国全体における経済活動がリヒテンシュタインの経済にもたらす恩恵は非常に大きく、リヒテンシュタインのGDP(国内総生産)の凡そ34%は海上帝国からの利益である。しかし、2011年のケメト消滅事件後は海上帝国の維持を安全保障面で大きく工面していたケメト国本土が消滅した事で植民地運営に混乱が生じており、ガイアナでは植民地解放を訴える勢力によって事実上の内戦状態となっている。海上帝国からの利益の大半を出しているガイアナの混乱は植民地からの利益に大きく影響しており鉱物採掘に関しては2011年以降、事実上ストップしているのが現状である。その為、海上帝国全体での経済はマイナス成長が続いている。


また、植民地からの利益を除いたリヒテンシュタイン本国単独でのGDP値は39億スイス・フランである。


・通貨

リヒテンシュタインは標準通貨としてスイス・フランとケメト・センテを採用している。スイス・フランは本土においての標準通貨で、ケメト・センテは植民地での標準通貨である。だだし、スイス・フランを植民地に持ち込んでの使用や逆にケメト・センテを本土に持ち込んでの使用は出来ない。その為、本土や植民地にこれらの通貨を持ち込む際には両替が必要である。


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国民


国民の大半はドイツ系ドイツ・アレマン人の住民である。また、少数のイタリア系住民や、ヴェストイディアンラントにおいてはドイツ系住民と原住民(アラワク族、シボネイ族など)との間で混血住民も存在する。人口比率として最も国民の人口が最も多い地域は本土となっている。


・言語

公用語はドイツ語である。ただし、アレマン語系最高地アレマン語の方言が含まれる。トリーゼンベルクではヴァリス語も話されている。


・宗教

ローマ・カトリック79%、プロテスタント8%、ケメト神話(ホルス信仰、ヌト信仰、イシス信仰、バステト信仰など)6%、イスラム教4%、その他3%。


・身分

リヒテンシュタインで公爵(リヒテンシュタイン家)と騎士は特別な意味を持つ。リヒテンシュタイン家は君主として社会的な地位がある。一方で騎士は名誉的な意味を持つ。リヒテンシュタイン騎士団の実動部隊に属する人間は国内の小売店やレストラン、ファストフード店などでリヒテンシュタイン騎士章手帳を店員に提示すれば会計レジで客が列になって並んでいる場合、優先的に精算を受けられる優遇処置が存在する。


・植民地の人口

植民地であるヴェストイディアンラントには全体として約119万人の人々が在住している。この内、リヒテンシュタインの行政権が強いセントルシア島、バルバトス島の人口はそれぞれ、セントルシア島約172,000人、バルバドス島約256,000人、合計約428,000人となっている。2012年まではヴェストイディアンラントでは6千人近いリヒテンシュタイン人が各地に分散して暮らしていたが、現在はこれらの人々の大半がバルバドス島に避難しており人口が集中している。ヴェストイディアンラントに暮らすリヒテンシュタイン人の人口は約3万人弱である。これらのリヒテンシュタイン人はバルバトス島の25万人の人口を構成している。また、ヴェストイディアンラント全体の人口比率としてはリヒテンシュタイン人が約3万人、ケメト人が約16万人(大半がガイアナに集中)、残りの約100万人を原住民系の住民が占める形となっている。原住民の民族としては、アラワク人、カリブ人、ワラオ人、シボネイ族などが大半を占める。


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交通


リヒテンシュタイン本土の主要な交通機関は路線バスである。これはリヒテンシュタインバスと呼ばれ、リヒテンシュタインの国旗と同じ配色の車体である上下に青色と赤色の特徴的なバスが本土の各所を巡回して運転している。このバスはスイスのザルガンスやブックスなどにも路線を有している。


また、鉄道と空港に関しては本土には民間路線は存在しない。鉄道はオーストリア国鉄の鉄道がオーストリアからリヒテンシュタインを跨いでスイスと繋がっているが、リヒテンシュタイン国内には貨物駅であるシャーン・ファドゥーツ駅以外の駅は無い。空港に関しても本土には空港は存在しておらず、最寄の空港はスイスのチューリッヒ国際空港である。


ただし、ヴェストイディアンラントにおいては、セントルシア島、バルバトス島、ガイアナ・ジョージタウンの3ヵ所にリヒテンシュタインとケメト国が共同で運営している国際空港が設置されており、これらの空港をハブ空港としてリヒテンシュタインは1979年から同国初のフラッグ・キャリアとしてエア・ヴェストイディアンラント・リヒテンシュタイン社を設立している。エア・ヴェストイディアンラント・リヒテンシュタイン社はボーイング777型機4機、ボーイング747‐8F型機2機、ボーイング737型機3機の計9機の航空機を国内線や国際線として就航させている。


ヴェストイディアンラントの陸路ではリヒテンシュタインバスやケメト国のバス会社も路線バスを運航しているが基本はローカルバスやタクシーが主流となる。また、海上交通に関してはケメト国の民間フェリー会社やローカル海上タクシーが運航している。


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文化


・スポーツ

欧州小国競技大会を開催し参加している。また、オリンピックにも選手団を排出してる。初参加は1936年のベルリンオリンピックで以後、殆どのオリンピックに参加している。1988年のデンデラオリンピックまではメダルの獲得は無かったが、以後は幾つかのメダルを獲得する様になり、現在では合計で11個のメダルを獲得している。


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観光


リヒテンシュタインは観光産業の育成に長年力を入れている。主な観光地は本土のファドゥーツ城など首都ファドゥーツが有名である。また、ヴェストイディアンラントのセントルシア島、バルバトス島の観光産業にも力を入れており、両島にはリゾートホテルやアクティビティ施設が建設されているなど、欧州からの観光客も多い。中でも開発の進んでいるのはバルバトス島であり観光産業の育成は概ね成功しているとされる。同島には大航海時代に南米探検を行ったぺリオン艦隊旗艦のハトシェプスト船の復元船(レプリカ船)も一般公開されておりヴェストイディアンラントの開拓とリヒテンシュタイン、ケメト国の両国友好のシンボルにもなっている。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] リヒテンシュタイン騎士公国もヨーロッパ地域以外の領土を持っているのでこれまた統治が大変な国ですね。 この記事に出てくるケメト国ってスリーシティーシフトのあの国なのかな。リヒテンシュタイン騎…
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