本土復帰問題 ‐ ウィキパディア
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本土復帰問題
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ここでの本土復帰問題とは2003年に第二次大戦後、永らく日本国より分離独立していた伊豆諸島が日本国に本土復帰した後に発生した問題の事である。沖縄県や奄美群島における本土復帰後の問題に関しては本土復帰の記事を参照。
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目次
1.概要
2.本土復帰
3.本土復帰後の各種問題
3.1政治的統合問題
3.2交通問題
3.3貨幣問題
3.4教育制度問題
3.5銃規制問題
3.6国営企業問題
3.7伊豆沿岸警備隊統合問題
4.再分離独立運動の出現
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概要
伊豆諸島は第二次世界大戦後、日本の敗戦によってGHQの意向で1950年に日本国より分離独立し伊豆諸島共和国として53年間の間、独立国家として存在していた。しかし、30年近くにも及ぶ伊豆国内議論と日本国と伊豆政府との本土復帰に関する交渉によって伊豆諸島は日本国への本土復帰に成功した。しかし、本土復帰後、伊豆諸島は独立期間が長かった事もあり、多くの問題を生じさせた。
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本土復帰
伊豆諸島において、伊豆諸島の島民は独立後すぐに日本への復帰を訴える声が多かった。この運動は次第に大きくなり、1980年代には日本復帰運動として本格的になった。さらに三宅島の噴火の際には住民の避難作戦に日本の海上保安庁も参加しこれによって運動は勢いを増した。運動の高まりによって伊豆政府は日本国との本土復帰交渉を開始したが、アメリカ政府は伊豆諸島の日本国への復帰には否定的な考えを見せ、これによって伊豆政府と日本国との間の本土復帰交渉はその後、1997年まで停滞する事になった。しかし、アメリカ政府は伊豆への方針を転換し伊豆と日本の本土復帰議論を進める事を承認した。これによって伊豆政府と日本政府との間の本土復帰交渉が十数年ぶりに再開し、伊豆国内での本土復帰反対派と本土復帰派の議論も行われ、そしてついに2003年6月26日、伊豆諸島共和国と日本国との間で「日本伊豆本土復帰統一条約」が締結されまた、日本政府とアメリカ政府間でも「伊豆諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(米国との伊豆返還協定)」を締結した。これによって、伊豆諸島は日本国に本土復帰した。
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本土復帰後の各種問題
・政治的統合問題
伊豆諸島共和国と日本国が統合するに当たって、大きな問題となったのは伊豆諸島共和国を統治する伊豆政府の扱いだった。名目上は日本国への復帰であった為、伊豆政府は日本国に吸収合併される事になったが、この問題は伊豆政府と日本政府間の交渉によって妥協点が得られた。伊豆諸島共和国は日本国への復帰後、共和国の領域である伊豆諸島全域を伊豆県へと再編し伊豆政府は県議会へと移行するという物である。しかし、本土復帰後も各島の町村レベルでは行政ルールを巡る問題などが起き、日本政府との議論が続いている。
・交通問題
伊豆諸島共和国はアメリカ同様右側通行の制度を取っていた。しかし本土復帰にあたって見直される事となり、日本政府は沖縄の本土復帰の際の交通ルール変換を実施し2004年に日本と同じ左側通行へと移行された。しかし、現在でも伊豆諸島で比較的交通量の多い伊豆大島では交通事故の件数が2004年以降、ルール変更前に比べて高い傾向にある。
・貨幣問題
伊豆諸島共和国ではアメリカドルが通貨として流通していた。その為、本土復帰後は日本政府は日本円への変換を進めるキャンペーンなどを行ったが、当時、日本の経済が低迷していたという状況が影響し円への変換が進まなかった。その為、現在でも伊豆諸島ではドルの普及率が高く全国平均でも最も高い地域となっている。伊豆諸島ではドルの普及率は70%台を未だに維持しており、日本円が普及していない事もあり、伊豆諸島内の商店では日本国であるにも関わらず日本円で買い物が出来ないという商店も多い。
・教育制度問題
伊豆諸島共和国では学校としてアメリカ方式の教育プログラムが採用されていた。その為、本土復帰に際して伊豆諸島では教育プログラムの日本化が行われた。しかし、急速な教育制度の改革には問題があるとして、2008年までは延期されその後、2009年度に教育制度の全面的な改訂が行われた。
・銃規制問題
伊豆諸島が日本に復帰した当時、伊豆諸島はアメリカ同様の銃規制がされていない国家であった為、国内の住民が保有する銃の量は2003年時点で全住民の83%にまで達していた。国内ではライフル銃、散弾銃、拳銃、自動小銃等がアメリカ企業を通して流通していた。本土復帰に際して日本政府は伊豆諸島の銃を規制する動きに出たが、伊豆諸島の銃愛好者の連盟である伊豆ライフル協会はこれに反発し伊豆県議会に対して銃規制の阻止を訴えた。これによって伊豆県議会も日本政府に対して銃規制には社会的影響が大きすぎるとし反対の立場を取るようになり、さらには伊豆大島では連日伊豆ライフル協会によるデモが行われた。これを受けて日本政府は伊豆県議会との議論や伊豆ライフル協会との協議を行い、最終的に、本土への持ち込み禁止と自動小銃の所持禁止で話がついた。しかし、民主党政権時代には再び銃規制を日本政府が求める様になった。
・国営企業問題
伊豆諸島共和国には伊豆太平洋汽船、伊豆石油公社と呼ばれる2社の国営企業が存在していた。当初、日本政府は当初、2社を民営化する予定であったが、伊豆太平洋汽船、伊豆石油公社の両社はその規模に比べて毎年、赤字を出しており民営化は出来なかった。そのため、両社は本土復帰後は日本政府の支援によって実質的な国営企業のままとなった。その後、伊豆石油公社に関しては三井石油に買収される形で民営化存続したが、伊豆太平洋汽船は現在でも国営企業のままであり一部では税金を浪費していると非難されている。
・伊豆沿岸警備隊統合問題
伊豆諸島共和国には伊豆沿岸警備隊という実質的な武装治安組織が存在していた。伊豆沿岸警備隊は島寿司級カッターと呼ばれる哨戒艦を8隻と補給艦1隻を保有していた。さらには全隊員にM16自動小銃などの銃火器も配備されていた。本土復帰の際、伊豆沿岸警備隊は日本伊豆本土復帰統一条約によって伊豆諸島における海上治安維持活動を海上保安庁と共同で行うと明記されていた事もあり、存続していたが、民主党政権時代の2010年に事業仕分けの対象となり、規模の大幅な縮小と将来的な組織解体が発表された。これを期に伊豆沿岸警備隊をめぐって様々な摩擦や問題が起きるようになった。
・伊豆大島占拠事件
2010年、伊豆沿岸警備隊は事業仕分けによって大幅な予算削減と保有する哨戒艦8隻の内、4隻を退役させ、隊員1500名の内、半数を民間に転属。さらに将来的には伊豆沿岸警備隊を組織解体し海上保安庁に統合する事が決定された。この決定に対し、伊豆沿岸警備隊は日本政府を非難する声明と日本伊豆本土復帰統一条約違反であると表明した。しかし度重なる批判にもかかわらず予算削減などは行われた。これを受けて伊豆沿岸警備隊では組織内に日本政府に対して武力で訴えるという強行派が台頭し始め、6月26日、伊豆沿岸警備隊はM16自動小銃などの銃火器で武装した部隊を伊豆大島の大島町に展開し事実上の島の占拠を行うという事件を引き起こした。事件当初、日本政府は海上保安庁や警察を派遣して事件の収束を図ろうとしたが、後の交渉によって事業仕分けで決定された伊豆沿岸警備隊に対する決定を白紙に戻す事で占拠状態を解除する事になった。この事件後、伊豆沿岸警備隊の長官は引責辞任を取る事になった。
・海上保安庁との関係悪化
伊豆大島占拠事件後、伊豆沿岸警備隊は海上保安庁との関係が急速に悪化した。伊豆諸島内での海上警備活動を巡って両者は対立するようになり、特に問題が顕著になったのは2011年の伊豆大島港に無人の伊豆太平洋汽船を名乗る船籍不明のウォータージェットフェリーが高速で衝突し港の桟橋が破壊された事件であり事件当初、伊豆沿岸警備隊は事件の捜査を開始したが、これに対して海上保安庁は伊豆沿岸警備隊に対して捜査権を移譲するように求めた。伊豆沿岸警備隊はこれを拒否したが、日本政府側は海上保安庁を支持しこの事件に関する伊豆沿岸警備隊の捜査権は剥奪された。この一件後、伊豆沿岸警備隊と海上保安庁の組織対立は鮮明化した。
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再分離独立運動の出現
民主党政権下で多く発生した伊豆諸島との多くの摩擦は伊豆諸島の人々に多くの心的変化をもたらした。伊豆諸島では伊豆諸島の再分離独立を求める団体が複数出現し本土に対するイメージが大きく悪化した。政権交代後、政権は自民党政権に移行されるが、再分離独立運動の熱は冷めなかった。自民党政権成立時に伊豆諸島で行われた政府系シンクタンクの世論調査では再分離独立を支持すると答えた住民は全体の47%にまで及んだ。現在、日本政府は伊豆諸島において民主党政権下で悪化した本土に対する関係やイメージを修復する為に多くのキャンペーンや支援を自民党主導で行っている。これらの成果もあってか2017年に行われた世論調査では再分離独立を訴える声は30%台にまで減少した。




