バンコク・ブンカー - ウィキパディア
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バンコク・ブンカー
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バンコク・ブンカーとはタイ連邦共和国の旧首都のバンコクに存在する第三次世界大戦前に当時のタイ王国政府によって建設された西側諸国による空襲や核攻撃から都市全体を防護する為の堅牢な防空施設である。世界最大の建築物でありギネス世界記録にも登録されている。
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目次
1.歴史
2.大戦後のバンコク・ブンカー
2.1占領軍による政策
2.1.1解体計画案と失敗
2.2世界最大規模のスラム化
2.3無法地帯化と犯罪の温床
2.3.1政治状況及び治安状況
2.4消滅事件前の環境
3.消滅事件の発生と経緯
3.1放射幕の出現
3.2事態の悪化
3.3完全消滅
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歴史
第三次世界大戦前の1965年、冷戦の激化に伴い核戦争の脅威が世界中に蔓延する中、当時のタイ王国政府は王国の首都、バンコクの王宮周辺の官庁街や寺院などの一部施設を施設ごと堅牢なコンクリート製の防護施設で覆い保護しようと考えた。これらの施設の建設アイデアは第二次世界大戦中にナチス・ドイツがUボートを防御する為に沿岸部に建設したUボート・ブンカーから着想を得た。そしてこの案は承認されこのブンカーの建設が開始された。これらのブンカーは僅かな期間で建設が完了したが、政府はこれらの防護施設をさらに拡大させる方針を取った。その結果、ブンカーの防護範囲は次第に住宅街にまでも拡大し第三次世界大戦が勃発する1996年には王宮を中心に半径約5km直径10kmにも及ぶ巨大な構造物となり名実共に世界最大の建築物となった。この巨大なブンカーは人類史上でも類が見ないほどの施設である。しかし、この巨大な防護施設に対する世界の反応は冷ややかな物で欧米諸国などでは核兵器の前では無用の長物であろうと罵られた。しかしタイ王国の国民にはこの施設は大きく賞賛された。
バンコク・ブンカーは大きく分けて三層の段々構造になっており、第一層のブンカーの上に第二層のブンカーを、第二層のブンカーに第三層のブンカーと言う様に建設された。この構造は海側から見ることによって確認できる。日本のメディアではひな祭りの捧げ物として有名な菱餅のようだとも紹介された。この三層構造は地上の第一層が高さ約100m続いて第二層も第三層も高さは約100mだった。防護用の天井の厚さは3つの層、全てが共通で広島型や長崎型の核兵器には耐えられる物だった。側面に関しても建築が完了していた第一層は全て壁が設置され第二層にも一部に壁があった。この構造はまさに首都を丸ごと防御するという内容だった。
しかし、この都市を丸ごと収容する超巨大施設の建設はバンコクの都市構造を大幅に変えることになった。第一層や第二層内部の街は初期においては個々の建物が密集する通常の都市であったが次第に建物が政府の主導によって区画ごとに単一建造物化、高層化してゆき第一層に関しては天井まで届くほどの密集した姿になった。しかし、バンコク・ブンカーの地下原子力発電所や近隣の発電施設の豊富な電力供給によって都市の内部は太陽が無くても明かりには困らない環境であった。また、都市を横断するように幾つものコンクリートのトンネルで覆われた車線が広く取られた主要道路、鉄道もあり物流も維持された。しかし、余りに巨大な為、施設は第三次世界大戦勃発時には完成せずに第三層においては建造中であちこちにクレーンが現在でも放置されている。
この様な超巨大施設が冷戦当時、建造できた理由としては当時のタイ王国のアジアにおけるその経済力を示している。現在でこそタイ王国は第三次世界大戦の東側陣営の敗戦によって解体されタイ連邦共和国として再編され経済大国の影も無いが、当時は東側諸国において、その経済力はソビエト連邦につぐもしくは同等の大国で世界の大国からみても経済大国だった。タイ王国は当時その軍事力と経済力を背景に東南アジア条約機構を創設し東南アジアの国々を実質の傀儡国家としておりソビエトや西側諸国による取り決めで核兵器の所有そのものが認められなかったものの列強国と肩を並べる存在だった。
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大戦後のバンコク・ブンカー
第三次世界大戦中、タイ王国は東側陣営として西側陣営の国々と戦争を行った。タイ王国は大戦中、アメリカ軍やオーストラリア軍を撃退しフィリピンやオーストラリア、太平洋の諸島にまでその力を示したがソビエト連邦の敗戦、中華人民共和国の敗戦、インドの敗戦によってタイ王国は東側陣営で最後の国家となりその後、タイ王国本土の陥落や東南アジア諸国における陥落そして最期のオーストラリア戦によるタイ王国国王による無条件降伏宣言によって第三次世界大戦は東側陣営の敗北によって終結した。その間、バンコク・ブンカーはタイ王国本土戦においてタイ王国側の最後の拠点となった。バンコク・ブンカーはNATO軍による激しい空爆や砲撃にさらされたがその堅牢な防御能力によってバンコクへのNATO軍の直接の侵攻をことごとく阻んだ。しかし、バンコク防衛をになっていたタイ王国国防軍と国王親衛隊が撤退し残存部隊が無条件降伏した事によってタイ王国本土戦は終結した。この時の空爆によってバンコク・ブンカーの建造中の第三層部分はその多くが天井が抜け落ちたりその天井の無い部分を狙って行われた空爆によって第二層の中央部は被害を受けた。しかし、それでも空爆による第一層まで届いた攻撃は無かった。また、側面の攻撃でも第一層の破壊された壁は極一部だった。タイ王国は敗戦したがバンコク・ブンカーは本土戦においてその目的を果たし多くのバンコク市民を守ることに成功した。この防御の成功にはNATO軍による核兵器の使用が東南アジア及びオーストラリア大陸地域でなかった事が大きい。
・占領軍による政策
タイ王国の敗戦後、タイ王国は占領したNATO軍によって占領統治された。この際、占領軍によってバンコク・ブンカーの存在は大きな議論を呼んだ。当時、占領軍はバンコク・ブンカーを完全に掌握できずタイ王国の他の地域では占領軍の執政が行われていたのに対してバンコク・ブンカーでは占領下にあるにもかかわらず独自の政治が行われていた。当時のバンコク・ブンカーの人口は300万人を超えており最盛期の853万人から比べたら戦後の人口流出によって人口は減っていたがそれでも、非常に多くの住民が生活をしていた。そこで占領軍はバンコク・ブンカーの住民に退去命令を出すなどし住民の締め出しを行おうとした。占領軍はバンコク・ブンカーへの送電の停止を実施。これによってバンコク・ブンカーは電力不足に陥ったが地下原子力発電所が稼動していた為、生活は可能であった。しかしこの外地よりの送電の停止の影響は大きくこれによって300万人いた人口から30万人近い住人がこの地を離れた。
・解体計画案と失敗
2000年になると占領軍はバンコク・ブンカーの解体計画を発表した。通常の作業による解体は実質不可能である為、核爆弾を利用しての解体が提案された。そこで占領軍はこの解体計画を実行する為に住民の締め出しを行ったが、占領軍とこれに反対する住民による抵抗運動やマフィアとの抗争によって住民の退避は思うように出来ず、さらに占領軍の内部でもバンコク・ブンカーには歴史的な寺院などが残されたままだとして反対する意見も出た。こうした異論も噴出し住民達の抵抗などもあったため結果として解体計画は頓挫し失敗した。
・世界最大のスラム化
大戦後、バンコク・ブンカーは世界最大のスラムと化した。占領軍の統治に反発する者や貧しい者等が住み着き占領軍による完全な統制ができなくなった。占領軍の治安部隊は何度もバンコク・ブンカー内に派遣され住人の摘発などを行ったがそれに対する住民の激しい反発などによって上手くいかなかった。2020年、消滅事件が発生する直前に行われた住民の調査では人口は160万人であった。
・無法地帯化と犯罪の温床
住民の減少と共にバンコク・ブンカーの都市区画の多くに人が居住しない区画が無数に誕生した。こうした区画の出現は反社会的な組織の温床となり多くの犯罪組織がその拠点を置いた。麻薬や大麻などの違法薬物の蔓延。売春行為の常態化。賭博行為。犯罪組織の武器製造の主要拠点化。こうした事からバンコク・ブンカーは世界最大の無法地帯とも言われその治安のレベルはタイ連邦共和国の他の地域では治安が比較的安定したのに対してバンコク・ブンカーの治安は国内で屈指の最悪の状態であった。イギリスのシンクタンクが公表した統計では全住民の内10人に1人は違法行為に手を染めているとの統計結果もでた。マフィア等の犯罪組織の中には旧タイ王国時代のタイ王国国防軍や国王親衛隊も含まれておりこれらの組織はマフィア化しておりバンコク・ブンカー内において反政府的な活動や麻薬の製造、販売、武器の違法製造等を行っていた。旧タイ王国国防軍や旧国王親衛隊は共に薬物売買や縄張り争いなどの理由や政治的な対立から稀に銃撃戦を含む抗争を発生させており、この抗争による治安部隊との戦闘を度々発生した。これらの旧軍の流れを汲むマフィアは当時の軍服である国防軍のシュタールヘルムやM36野戦服。王国親衛隊のM43規格帽にM44野戦服を好んで使用していた事からタイ連邦共和国ではこれらを反政府軍として登録されていた。
・政治状況及び治安状況
バンコク・ブンカーの政治は占領軍やタイ連邦共和国の干渉を実質受けにくい状況となっていた。その為、住人による独自の政治体制が構築され住民が住まう区画ごとに住民達が一丸となり日本の町内会に当たる組織が幾つも作られた。また、マフィアなどの犯罪組織が治安維持の役目をになっていた。マフィアの支配している区画ごとに様々なルールがあったとされる。
・消滅事件前の環境
占領軍の政策によってバンコク・ブンカーへの外部からの送電が止められてからはバンコク・ブンカーはブンカー内の地下区画にあった地下原子力発電所だけに頼らざるおえなくなった。この発電所は住民が管理しておりタイ連邦共和国政府や占領軍の影響を殆ど受けていなかった。使用可能な電力が少なくなった事によってバンコク・ブンカーは住民が流失し激減し現在の160万人で安定した。住民が居住している区画や商業区画には電力が優先的に供給されておりその他の区画には電力は殆ど供給されておらず明かり一つ無い闇が広がっている。バンコク・ブンカー全体で見ると電力が使える区画は全体の30%程である。水などはチャオプラヤー川からの給水によって供給されている。最上階である第三層の屋上には住民によって広大な平地を利用して畑などが作られた。また、ブンカーの第一層や地下の区画には未だに第三次世界大戦前や戦中に作られた兵器生産工場などが取り壊しが殆ど出来ぬまま残されておりこうした区画の倉庫には未だに放置されたままの戦車や戦闘機などの兵器が多数放置されている。こうした工場ではマフィアが工場を一部再稼動させ違法に銃器等を生産しているとみられる。第三層や第二層の中央部分には所々に大戦中の空爆や砲撃の跡が残されており第三層の天井部分の天井が抜けている箇所やその瓦礫によって下層の第二層も壊れている場所や建設用のクレーンが倒れている場所などがある。
バンコク・ブンカーの港側には潜水艦や駆逐艦などを収容する為の旧タイ王国海軍のブンカー区画が存在する。この区画はタイ連邦共和国警察軍の駐留基地となっており海上警備船などが係留されている。また、バンコク・ブンカーの周辺にはバンコク・ブンカーを監視する為のタイ連邦共和国警察軍の駐屯地や警察署、占領軍治安部隊の施設がバンコク・ブンカーを取り囲むように点在する。
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消滅事件の発生と経緯
・放射幕の出現
2008年2月21日、バンコク・ブンカーのを取り囲む様に周囲700mの範囲でオレンジ色の幕の様な光が突如として出現した。当初はバンコク・ブンカーからの排気ガスによる現象ではないかと見られていたが最初の出現から7年後の2015年3月1日、膜状の光は光量を急激に増し明らかな異常現象となった。
・事態の悪化
これまではこの膜状の光を徒歩などで越えても問題は無かったが、2015年3月1日以降、この光の幕に致死量の中性子線が出現し生身の人間が通り抜ける事が出来なくなった。これによってバンコク・ブンカーに居住する160万人の住民と放射幕内に基地を設けていたタイ連邦共和国警察軍や占領軍治安部隊、総勢8632人が内部にて孤立する事態となった。この事態に対してタイ連邦共和国政府やNATOは支援物資を遠隔操作による無人列車で提供する事となった。
・完全消滅
2017年、放射幕は更なる変化を見せ始めた。放射幕の外部から見て放射膜内に見えるバンコク・ブンカーの姿が日に日に薄れ始めその薄くなった背後にまるで映像がダブルかのように地球上に存在しない未知の山脈の光景や平原の光景が映り始めた。一方で放射幕内の治安部隊や占領軍の報告では内部から放射幕越しに外部を見ると海や広大な平原、そして見たことも無いような山脈が見えた。この事態はその後も悪化しバンコク・ブンカーの姿はどんどん姿が薄くなっていき2017年11月8日、ついに有線による内部との通信も雑音が多くなり困難となり12月に入ると鉄道による物資の搬入も不可能となった。そして12月11日、バンコク・ブンカーの姿は完全に消え、放射幕には未知の山脈や平原の姿のみが映るようになり12月12日、放射幕は未知の山脈や平原の姿すら映さなくなり新たにチェレンコフ光に似た光を出現させNATO軍や世界各国の科学者が見守る中、12月13日に日付が変わると共に放射幕は急激に光量を減少させ消滅した。消滅後、バンコク・ブンカーのあった場所には何も残されておらず植物に覆われた平原のみが残された。この平原には地球上では発見されていない未知の植物が無数に生い茂っていた。現在、この平原地帯はNATO軍の管理下にあり全域が透過壁のドームで覆われ研究機関による調査が行われている。




