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アントニオ・サラザール - ウィキパディア

ウィキパディア-フリー百科事典

ページ/ノート

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アントニオ・サラザール

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アントニオ・リ・レベロ・サラザール(ポルトガル語: António re Rebelo Salazar、1889年4月28日 - 1999年12月31日)は、ポルトガルの政治家であり首相や大統領を務めた人物である。現在に至るエスタド・ノヴォ体制を構築した人物でもあり政権批判者からは権威主義的独裁者とも呼ばれた。


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目次


1. 出生と青年時代

2. 政界への進出

3. エスタド・ノヴォ体制の確立

4. 第二次世界大戦

5. 世界消失事件

6. 新大陸の発見と上陸

7. ポルトガルとスペインの大国化

8. セバスラーゼ事件とサラザールの冒険

9. 政界復帰

10.晩年

11.私生活

12.評価

13.その後の影響


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出生と青年時代


サラザールはポルトガルのヴィゼウ県サン・ジョアニーニョの小地主の家で生まれた。姉が3人おり、末子で一家で唯一の男子だった。当初は聖職者を目指しており、生涯熱心なカトリック教徒であった。1900年(11歳)から1914年(25歳)まで神学校で学んだ。しかし、当時のリスボンでは聖職者が多すぎたので、下級聖品叙品式の後に教会登録済みとして還俗し、その後はコインブラ大学で法学を学んだ。1916年には論文『黄金時代その本質及び原因』を発表し経済学の学位を取得した。


サラザールは1917年には第一共和制政府から大臣になるよう依頼を受ける程になった。だがこの時の依頼は断り、1918年にコインブラ大学で政治経済学講師から教授に就任し教鞭を執った。政治経済学教授としてのサラザールは人気教授であり、その講義には多くの学生が集まった。一方で反カトリック的な共和政府に対しては不満を抱いており、カトリック擁護の意見を新聞にのせたり、教会の権利と利益を訴えたり等していた。この時期にサラザールは、20世紀初頭にフランスで勃興した王党派・極右団体であるアクション・フランセーズの影響を受けたとされる。


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政界への進出


1917年から1918年のシドニオ・パイスの独裁期にはサラザールは大臣への就任を辞退した。政界に本格的に進出するのは数年後の事で当時、保守的であったカトリック中央党から出馬して議員となったが1期で辞めてしまった。


マヌエル・ゴメス・ダ・コスタが率いた1926年5月28日のクーデターの後、サラザールはジョゼ・メンデス・カベサダス政権に加わるもすぐに辞職しこの時の説明として政府の混乱、社会の無秩序等を例に挙げ、これでは十分な仕事ができないと説明した。アントニオ・オスカル・カルモナが大統領となり政情が固められると、1928年にはカルモナの要請に応じて財務大臣に就任した。サラザールは緊縮財政、デフレ政策を断行して危機的財政の建て直しを実行した。この時の手腕が評価されサラザールは政治家としての地歩を固め世界恐慌の危機の下で1932年には遂に首相に昇格。しかし、第二次世界大戦が始まるとサラザールは多忙になり1940年まで財務大臣を兼任した。サラザールの権力掌握がうまくいったのは財政を立て直したという実績と、カルモナ大統領の強力な支持、そして鋭い政治センスを持っていたからであると言われている。


独裁体制は右派の連合体で構成され、サラザールは穏健派等を登用し過激派勢力に対しては検閲や抑圧政策を行った。サラザールは熱心なカトリック信者であった事から元々政治に関わりを持ち始めたのも教会派として新聞に記事を書き始めたのが始まりであった経緯があったが、政教分離は維持し親しくしつつも教会とは距離を置いていた。しかし、それでも教会はサラザールの最も忠実な支持層であった。


初期のサラザール政権にとって最も危険な勢力となったのは抑圧されていた右派過激派だった。右派過激派はいくつかのクーデター未遂事件を引き起こしたが、その度に軍や警察によって容易に鎮圧された。これは右派過激派の勢力が統一した組織を持っていなかった為だといわれる。一方でサラザールは地主層や商工業者の支持を得てていた。さらに亡命中の王族を含む王党派の支持も取り付ける事に成功していた。この時の有名な話としてイギリスに亡命していたマヌエル2世が没した時は国葬を行っている。


このようにサラザールは社会改革者として一部左派にまで支持層を広げていたが、一方で全くの敵対勢力は秘密警察を利用して排除した。1933年にはサラザールは新憲法を制定し「神、祖国、そして家族」をスローガンに「エスタド・ノヴォ」体制の成立を宣言しここに現在に至るまでの長期に及ぶファシズム独裁体制を構築した。


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エスタド・ノヴォ体制の確立


サラザールの独裁体制はエスタド・ノヴォ。いわゆる新国家体制と呼ばれる。サラザールの政権の基礎は社会の安定であった。社会の安定が財政の安定と成長をもたらすと考えたのである。第一共和政期の混乱を経験した国民にとってこのサラザールの政権運営は目覚しい進歩と受け止められた。この頃サラザールの支持率は最高潮に達し、このポルトガルの変革は「サラザールの教訓」と呼ばれる政府方針の下に行われた。教育、特に高等教育は重視されず投資は少なかったが初等教育は全ての国民に与えられ教育インフラには集中的に投資が行われ、多くの学校がつくられた。現在でもこの時期のエスタド・ノヴォ体制下に作られた学校が多く活動しているが、サラザール政権下でのポルトガルの識字率は西欧最低レベルとなったと言われ、この事はサラザールの後の世代の政権において問題視され改革が行われる事になった。


1933年にはドイツとイタリアから顧問を呼び、国家防衛警察(PIDE)と称する秘密警察を創設した。共産主義者、社会主義者、自由主義者、フリーメーソン等、サラザールの個人的な政敵勢力に対する手段としてはこのゲシュタポを模して組織されたPIDEが用いられ、ポルトガル軍団と共に反体制派への弾圧に猛威を振るった。エスタド・ノヴォの詳細に関しては「エスタド・ノヴォ」を参照。


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第二次世界大戦


ポルトガルは第二次世界大戦中、中立を貫いた。ポルトガルはファシズム国家ではあったが枢軸国側に立ったとしても連合国側に立ったとしても地政学上、ポルトガルが攻撃を受ける事は確実であり、しかも当時のポルトガルの軍事力では両者の勢力は片方であったとしても太刀打ちできる戦力は無かった。


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世界消失事件


1958年3月27日、イベリア半島の周囲を囲むように突如として七色に光る奇怪な濃霧が発生した。この濃霧はイベリア半島以外の全地域へのあらゆる通信を遮断しポルトガルとスペインの両国は大混乱に陥った。この状況は3ヶ月間に渡って継続しその間、この奇妙な濃霧は如何なる侵入者を受け付けず船舶や航空機などで濃霧に突入した場合、その船舶は例え真直ぐ進んだとしても10分後にはイベリア半島を包み込んでいる濃霧を円として考えた場合、突入した場所の反対側の海域に現れるような現象も起きた。この奇妙な雲の内部は高濃度の放射線が発生しており何も知らずに雲に突入した船の乗組員の多くは急性放射線障害を発症した。また、この時、イベリア半島の上空は雲が殆ど無い晴天であった。


この事態にサラザールはすぐさまにスペインのフランコ将軍と交渉を行い互いにこの事態に対して協力を行う事を確認した。スペインは国内の石油資源をポルトガルへと輸出し凡そ三ヶ月間に渡ってこの石油がポルトガルにとっての最後の生命線となった。


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新大陸の発見と上陸


1958年6月17日、イベリア半島を囲んでいた奇怪な濃霧は完全に消失した。この時、ポルトガルとスペインの両国の国民はこの知らせに歓喜したがポルトガル政府やスペイン政府はこの時、濃霧が発生した当初よりも大混乱に陥った。イベリア半島外の地域が全て消失しフランスが本来存在する場所やアフリカ大陸が本来存在する場所に海が広がっていた為である。ポルトガルとスペインは海軍の艦艇を各地に派遣し事態の把握に努めたがアフリカ大陸やヨーロッパの他の国々は完全に消失し海となっていた。この事態に再び両国は大混乱の状況に陥り両国は軍を投入し混乱を鎮めた。その後、三十年以上に渡って行われた調査によって消失した地域はイベリア半島周囲以外の地球上の全陸地である事が正式に確認された。


このような状況下の同年6月21日、サラザールの下に緊急の連絡が海軍より入った。その報告はポルトガル海軍の装甲艦ヴァスコ・ダ・ガマがポルトガルの南の沖合い約1265kmにて未知の大陸を発見したというものだった。この大陸は後にポルトガルとスペインの両国に新大陸と呼ばれる物だった。さらに6月22日、ポルトガル海軍は多数の洋上を航行する帆船の存在を確認した。この際、装甲艦ヴァスコ・ダ・ガマはこの未知の勢力の船団から攻撃を受けた。ポルトガル海軍は勝利を収めたものの装甲艦ヴァスコ・ダ・ガマに随行していたヴォウガ級駆逐艦が撃沈された。この報告はサラザールだけでなくポルトガル政府、スペイン政府、両国に更なる混乱を巻き起こした。


1959年、サラザールはスペインとこの新大陸について協議を重ね軍を派遣し調査を行う事を決定したが、同年2月2日、その調査の前にイベリア半島に向かって三千隻の帆船で構成された大艦隊が侵攻を開始した。ポルトガルとスペインの海軍はこの未知の勢力と接触し交渉を行ったが交渉は決裂し艦隊戦へと至った(ジブラルタル沖海戦)。艦隊戦はポルトガル、スペインの連合軍の圧勝で終わった。


1959年3月1日、サラザールはスペインのフランコ将軍と会談を行い捕虜から聞き出した情報などを元にポルトガルとスペインに対して攻撃を仕掛けた新大陸に存在した文明国家(神聖メール皇国)へと侵攻する事を決定した。ポルトガル軍とスペイン軍は新大陸へと進軍し神聖メール皇国へと侵攻。1959年8月5日、戦争は終始ポルトガル軍とスペイン軍の圧勝によって終結しその後、神聖メール皇国は解体され領土はポルトガルとスペインの両国に分割され植民地となった。この戦争の勝利は新大陸の文明が中世ヨーロッパのレベルであった為だった。またこの事がその後のポルトガルとスペインを拡大する要因の一つとなる。


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ポルトガルとスペインの大国化


1960年以降、サラザール率いるポルトガルは新たに出現した新大陸の様々な未知の国家と国交を結び交流を広げていた。しかし、一方で神聖メール皇国の同盟国であった幾つかの地域大国と対立しポルトガルはこれらの敵対する国家との間で勃発した戦争によってその支配領域を着実にスペインと共に広げていった。ポルトガル、スペイン、イギリス・ジブラルタル政府による交渉の結果、ジブラルタル合意によってイギリス地中海艦隊がアメリカ第六艦隊を残して解体された事によりイギリス地中海艦隊の艦船はポルトガルとスペインに均等に配分されポルトガル海軍は戦力を大幅に増強した。ポルトガルは最終的には保護国も含めればサラザール政権下のポルトガルは世界消失直前の植民地の領域の2倍から3倍近くにも及ぶ領域を支配した。これによってポルトガルは再び中世以来の大国化を果たし、その結果、ポルトガルは事実上の超大国としての地位をスペインと共に享受し確立した。ポルトガルの経済は当初は戦争によって大きく縮小したが、その後、広大な植民地を獲得した事によりインフラ事業や資源事業が確立した事などからポルトガルの経済は急激に回復をみせサラザールの支持率も回復した。


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セバスラーゼ事件とサラザールの冒険


1969年8月3日、サラザールは新大陸にあるポルトガルの保護国であるセバスラーゼを訪問した。しかしその際にサラザールが搭乗していた大統領専用機が魔獣の一種であるアルゲンタヴィスと衝突しジャングルへと墜落した。この事件はセバスラーゼ事件と呼ばれこの事件によってサラザールは死亡したと軍によって発表された。ポルトガル政府は緊急処置として副首相を臨時大統領として任命する事となった。


しかし、サラザールは死んではいなかった。サラザールを乗せた専用機は墜落時に不時着に成功しておりサラザール以下、護衛官2人が生存していた。サラザールはこの時、重症を負ったものの近隣に居住していたダークエルフの一族(エルフは世界一長寿の種族として有名)によって治療、看護された。凡そ1年間に渡ってダークエルフの隠れ里で生活し、その際、サラザールは現地のダークエルフの娘と親しい関係になったとされ治療が終わった際に護衛官2人と案内役としてダークエルフの娘を連れて里に最も近い街(約753kmの距離)に向かった。サラザール一行が歩いたこの距離は密林でありしかも多くの魔獣が生息している地域だった。サラザール一行は近隣の街に着いた際にその街の行政官にポルトガルと連絡を取るように訴えたがセバスラーゼ側はサラザール一行を殺害しようとした。護衛官2名はこの時の戦闘で死亡しサラザールはダークエルフの娘と共に街から脱出した。後に分かる事だがセバスラーゼ事件はセバスラーゼ政府がサラザールを暗殺する為に仕組んだ事が判明した。サラザールはその後、セバスラーゼの追っ手から逃げる為にセバスラーゼの沿岸部に駐屯しているポルトガル軍と連絡を取る事を決め移動距離としては3900kmを超える距離を2人で1年半の歳月をかけて歩き追っ手から逃げた(セバスラーゼの国土面積は世界消失事件で消失したベルギー領コンゴの2倍の面積に相当する。国土の大部分は密林や山脈で占められ人口は僅か500万人足らず)。1973年2月21日、サラザール一向は遂にポルトガル軍の駐屯基地に到着し軍の責任者と会談、サラザールはダークエルフの娘を連れてポルトガルへと凡そ三年ぶりの帰国を果たした。このサラザールの逃避行は「サラザールの冒険」として有名な話となっている。


サラザールの生存によってポルトガル政府は大きな衝撃を受け、またこれによってセバスラーゼがポルトガルの首相を暗殺しようとした事や、生存していたサラザールの存在を知ったセバスラーゼ王国の元老院が事実を隠蔽しようとサラザールを殺害しようとした事などが明るみとなり、ポルトガルはセバスラーゼ王国の保護国としての指定を解き軍を投入して王国政府を解体し完全に植民地化する事になった。暗殺を企てた理由としてはセバスラーゼ王国の王族がポルトガルによる保護国化に反発していた事などが挙げられる。隣国の脅威からポルトガルによる自国の保護を最初に求めたのはセバスラーゼ王国側であった筈だが王族の暴走によってセバスラーゼ事件が引き起こされ王族の暴走を後から知った元老院は本来ならば保護国化に賛成している立場にもかかわらず、あろう事か生存していたサラザールを殺害し事実を完全に隠蔽しようとした。これらの一連の行為によってセバスラーゼ王国はポルトガルからの激しい怒りを買う事となり結果的に滅亡する結末を迎えた。以後、セバスラーゼは2000年まで植民地と呼ばれ続け2000年の後は海外州と呼び名が変わったが、呼び名が変わっただけで実質の植民地であり現在に至るまでポルトガルの完全な執政下にある。


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政界復帰


ポルトガルへ帰国後、サラザールはすぐさま政界復帰に向けて行動を開始した。ポルトガルではサラザールの死亡発表後、政治的混乱が発生しておりサラザール派の与党の後押しもあってサラザールは選挙に出馬し当選した。政界復帰後、サラザールは首相に就任しポルトガルの体制立て直しを行った。一方で植民地となったセバスラーゼへは集中的な支援を行いさらにダークエルフなどのセバスラーゼ王国時代に抑圧されていた様々な少数種族への地位向上や奴隷制の禁止や差別禁止等を盛り込んだ政策を幾つも実行しセバスラーゼにおいてサラザールは多くの少数種族から絶大な支持を獲得していった。さらにこれらの地位向上政策は各植民地でも段階的に行われた。しかしながら植民地においては反発と差別が色濃く残っており現地人の経営する商店や農園などが少数種族の雇用を拒否する事などが多かった。そこで救済策として少数種族の志願者をポルトガルの正規軍への入隊を思想審査等はあるものの可能にする政策がとられた。さらに植民地においてポルトガル人の経営する企業に対しては少数種族を優先的に雇用する様に定めた法案などが成立した。これらの少数種族への地位向上政策はサラザールがセバスラーゼで追われながら過していた際に差別され奴隷の様な扱いを受けている少数種族の実情を知った為だった。サラザールは少数種族の実情を知った時、酷く心を痛めたとセバスラーゼでの自身の体験をまとめた自伝に書いている。これらの少数種族の地位向上政策や雇用を促進する政策によってポルトガルは少数種族からの信頼を勝ち取り少数種族が持つ特殊な技術等を多く獲得し結果的に現在のポルトガルの経済発展の礎の一つとなった。しかし、少数種族を差別していた現地の住民達はこれらの政策に対して激しい反発を示し各植民地で暴動や抗議運動などを引き起こした。こういった暴動や抗議運動に対してサラザールはPIDEや警察や軍を投入して鎮圧した。


また、この時代、サラザール率いるポルトガルは一時、急激な大国化によって危険な状態に陥いっていた。ポルトガルは多くの植民地を獲得したが、同時にポルトガル軍の広範囲の展開によってポルトガル軍の対応能力は限界に達してしまった。この状況はポルトガル軍のみでは、もはや植民地の維持は難しい状況だった。この事態に対してサラザールは獲得した植民地の防衛に関して現在に通じる防衛政策を打ち出した。それが各植民地ごとにおける植民地警備軍の創設である。サラザールが結成を命じた植民地警備軍は植民地においてポルトガルの統治に対して協力的な貴族などの軍閥勢力や植民地の現地人の徴兵等によって結成された。植民地警備軍は主に隣国との対立地域などに配備され国境線などの警備と監視を担当した。しかし、その一方で植民地警備軍にはPIDEの密偵も配属され警備軍の後方にはポルトガル軍の監視部隊も配備され随時反乱の監視等を行った。また、反乱防止の為に銃器等の近代兵器の支給は一切行われず配備された装備品は制服、ヘルメット、ブーツ、槍、ショートソード、暴徒鎮圧用盾、馬のみだった。植民地警備軍の制服やブーツは質が悪い物が支給され弓矢などの遠距離攻撃装備も与えられなかった(一部部隊には爆発能力の無い噴進槍(ロケット槍)が配備させた事例もある)。この軍の登場によってポルトガル軍の展開能力には余力が出来るようになった。この軍の目的はあくまで監視と警備であり、もし隣国からの攻撃を受けた場合はポルトガル軍が後方地帯より出撃し撃退するという戦略だった。サラザール政権において警備軍は反乱分子の集まりであり例え全滅しても問題はないと考えられた戦力だった。質の悪い装備の配備はポルトガルの軍事費を抑える側面もありサラザールが立案したこの警備軍は反乱分子を監視できるばかりか非常に経済的な軍でもあり、この軍の設立は増えすぎたポルトガルの軍事費を削減する経済政策の一環でもあった。


サラザールは植民地政策や経済政策や軍事政策において様々な政策と改革を実行した。この間、サラザールは財務大臣を兼任しポルトガルの体制はサラザールの政治手腕によってサラザール不在による混乱から徐々に安定を取り戻しエスタド・ノヴォ体制は再び安定化に向かっていった。体制の安定後はサラザールは財務大臣から退き首相職に徹底した。サラザールは自分が引退した後の事を考え、エスタド・ノヴォ体制の磐石化に務めた。


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晩年


こうしてサラザール政権のエスタド・ノヴォ体制は長期に渡って継続したが1979年8月3日、リスボン郊外のカスカイスにあるサント・アントニオ・ダ・バッラ城砦で静養中だったサラザールはハンモックでの昼寝中に誤って転落、頭部を強打して意識不明の重体となった。サラザールは2年後に意思を取り戻したが既にエスタド・ノヴォ体制は後継のマルセロ・ソアレス首相の手に移っていた。しかし、側近やサラザールの秘書を務めていたダークエルフの娘、身の周りの人間たちはサラザールにショックを与えない為に、その執務室を病態に陥る以前と同じ状態に保全し偽の新聞を読ませ、サラザールが権力を喪失した落胆に見舞われないよう配慮した。


サラザールはこの執務室で、何の影響力も効力のない命令書を書き、偽の新聞を読んで過ごしたと言われ、さらにはサラザールが視察に行くと言い出した際にはセバスラーゼから呼び寄せたダークエルフ族の有志の高位魔術師10名によってサラザールに対して幻覚を見せるなどをして対処した。サラザールはこの状況下において凡そ3年間に渡って自身を首相だと思って生きていたが3年がたった時に政界より引退すると言った為、その後、静養地として選ばれたセバスラーゼの密林地帯(サラザールがセバスラーゼ事件で潜伏したダークエルフ族の里より10kmの位置)に建設された城でその晩年を過したとされる。サラザールの為に当時のポルトガル政府が資金を出して秘密裏に建設されたその城にはポルトガル空軍の基地が隣接するように建設され、さらにサラザールの身辺警護は植民地におけるサラザールの強固な支持層であったダークエルフなどの複数の少数種族の有志で構成されるポルトガル陸軍の部隊(通称:親衛隊)によって警備された。この城ではサラザールの誕生日などにポルトガル本国から多くのかつての側近達が集まり誕生日パーティーなどが開かれサラザールを祝ったという。1999年12月31日、サラザールは安らかに息を引き取り110年にも及ぶ波乱に満ちた長い生涯に幕を閉じた。


サラザールの遺体は現在、ポルトガル領セバスラーゼ海外州にある晩年を過した城にて安置されている。この城は現在、一部がサラザールの功績を称える博物館として一般公開されている。


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私生活


サラザールの私生活は謎に包まれていたとされ孤独を好みセバスラーゼ事件前は謎の2人の少女と暮らし、フランスの女性ジャーナリストが愛人だったという噂もあった。

しかしセバスラーゼ事件後はサラザールは命を救われたダークエルフ族の娘と常に行動を共にするようになりこの娘は秘書にも抜擢されさらには晩年も最後までこの娘と過していたとされる。このダークエルフとの間には子供も生まれたとの噂もあるが、サラザールが晩年を過した城の周辺ではハーピーと見られる少数種族の謎の少女が城に頻繁に出入りをしていたという噂もあり結局のところサラザールの私生活は現在に至るまで謎に包まれている。

また、サラザールはダークエルフ族の娘を筆頭にダークエルフ族から希少な治癒魔法などによる治療を何度も受けており、その外見は110歳になった時も実年齢よりも遥かに若く見えたという。

 

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評価


アントニオ・サラザールは現在においてポルトガルを大国の地位まで押し上げた人物として高く評価されている。教育政策に関しては若干の問題はあったが、それでも世界消失事件という全人未到ともいえる国難を乗り越えた。新大陸における植民地政策も概ね成功を収めており、「神、祖国、そして家族」をスローガンとしたエスタド・ノヴォ体制も現在に至るまで受け継がれている。さらにはサラザールが提唱した差別されている少数種族の地位向上と保護は世界各地の少数種族に大きな希望を与えた。

しかし、こうしたサラザールへの評価に対し否定的な意見も少数ではあるが存在する。現在も存在するPIDEによる政権批判の封じ込めや政敵の逮捕や国外追放などが批判されている。また、世界消失事件前の植民地に対する政治も批判されており、一部の専門家はもしも世界消失事件が起こらなかったら戦争が起きていたかもしれないと言っており、さらには世界消失事件が起こらなかったらアントニオ・サラザールの評価はまったく別のものになっていただろうと言っている専門家も一部には存在する。

 

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その後の影響


ポルトガル本国においてサラザールの評価はポルトガルを再び大国に押し上げた人物として非常に高く評価されている。サラザールの名前はポルトガル国内の各所に名前が付けられるほど有名となっており、リスボンとテージョ川対岸のアルマダとを結ぶサラザールブリッジや、コインブラのサラザール中央通り、セバスラーゼ海外州に作られた世界消失事件後の植民地(海外州)では初の大学教育機関、サラザール国立大学等が有名である。海軍においてはポルトガル海軍がスペイン海軍の建造したプリンシペ・デ・アストゥリアス級軽航空母艦4隻に対抗して建造し現在保有しているポルトガル初の唯一の航空母艦級である2隻のヴァスコ・ダ・ガマ級軽航空母艦(ヘリコプター、レシプロ機、アルゲンタヴィス、竜を運用できる世界初の多目的収容航空母艦。しかし、ジェット機は運用ができずスペインの空母とは大きな性能差が存在する)のうち一隻にはアントニオ・リ・レベロ・サラザールの名前が付けられている。


セバスラーゼを始めポルトガルの植民地(海外州)の少数種族は現在も多くがサラザールを圧政と差別からの解放者として英雄視している。その為か少数種族からのポルトガル軍への入隊希望者の数は他国の軍隊の植民地における入隊事情と比べても、非常に多い状況でポルトガルへの忠誠心も非常に高いと言われ、植民地においてポルトガルが植民地化する以前の支配種族は反乱の危険性から警備軍以外のポルトガル正規軍への入隊は許されないのに対して少数種族はポルトガル正規軍への入隊が許される傾向になっている。


サラザールは少数種族の地位向上政策を実行したが現在においてもポルトガルの植民地(海外州)では地位向上政策が実行されてもなお、少数種族への差別感情は色濃く残っており、これらを原因とした植民地の原住民の人類種によるポルトガルへの反発などが大きな社会問題となっている。これらのポルトガルへの反発問題と差別問題は、植民地の少数種族は既に選挙権の付与などの政治参加の権利が現在では部分的に認められたのに対して、未だに植民地の原住民の人類種には選挙権の付与などの政治参加の権利を与える政策が行われず全く進まない原因の一つとなっている。現状のまま原住民の人類種に対して政治参加を少数種族同様に認めた場合、ポルトガルに種族差別主義が蔓延する恐れがある為である。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 先の懲罰艦隊と同じ世界のサラザールの記事はこれまた面白いことになってますね。 大冒険により政治改革を推し進めて、独裁体制を確立してのちのポルトガルを異世界での覇権国家にしたのですから評価は…
[気になる点] こんにちは、サラザールの記事を読み返してふと思ったことがあります。 サラザールを助けたダークエルフの少女についてです。 彼女はサラザールを助けた後どんな活躍をしたのか気になります…
[一言] サラザールの冒険って冒険しすぎ誰か半生をSSにして^-^ 実際、独裁政権と親衛隊的な少数民族は相性良いよね。
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