新鑼鑼地方 ‐ ウィキパディア
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ページ/ノート
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新鑼鑼地方
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新鑼鑼地方(あららちほう 韓国語表記:아라라도)は、朝鮮半島の九州地方の北部に位置する日本国の地方。日本国と大韓民国との国境地帯。日本国において唯一、他国と陸上で国境線を接する地域である。
新鑼鑼地方には火呂須県( ひろすけん )、大門県( だいもんけん )の2県があり、両県を合わせた人口は245万人。横浜市の人口(377万人)よりは少ない。
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目次
1.地理
2.地域
3.歴史
4.方言
5.人口
6.交通
7.メディア
8.経済
9.国境と国際
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地理
山岳地帯が多く、深く入り組んだ海岸線が特徴的な地形である。最も高い標高の山は田威夏鳥山( たいげとさん )で標高は2,404m。気候は大韓民国よりは南に位置している為、大韓民国よりは温暖傾向のある気候で九州地方の気候に比較的近い。
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地域
・人口は約245万人(2021年10月1日‐国勢調査)
・面積は21,712.7km2
・人口密度は1km2あたり約105人(2006年10月1日‐国勢調査)
・新鑼鑼地方2県の県民総生産の合計は115,105億円(2008年度‐県民経済計算)
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歴史
・先史時代
新鑼鑼地方には紀元前1300年頃から高度な文明が存在した事が発掘調査により分かっている。この文明の事を新鑼鑼文明と呼ぶ。新鑼鑼文明は線文字Bと呼ばれる独自の文字体系や建築、美術の文化を有し新鑼鑼地方において独自の文明圏を築いた。しかし、新鑼鑼文明は非常に閉鎖的な文明であったと見られている。新鑼鑼地方は朝鮮や日本列島に隣接していたが、互いの交流は殆ど行われなかったと考えられており中国、朝鮮、日本の歴史には長期に渡って新鑼鑼地方が登場する事がなかった。
新鑼鑼文明のその起源は古代ギリシャのミケーネ文明であると考えられている。古代ギリシャのアカイア人の一派が大陸を横断し朝鮮半島に定住を図ったと考えられている。これは線文字Bと全く同じ文字や、新鑼鑼地方で発掘されている調度品や遺跡に非常に酷似した物がギリシャにおいては新鑼鑼地方よりも古い紀元前2000年頃の時代の物が発掘されている為である。この為、新鑼鑼文明の起源は古代ギリシャのミケーネ文明であると考えられている。
現在の定説ではミケーネ文明が紀元前1200年のカタストロフによって混乱に見舞われた時期に前後して何らかの理由でギリシャから離れたアカイア人の一派が新鑼鑼地方に辿り着き文明を再建したと考えられている。しかし、アカイア人がどの様な経路を通って新鑼鑼地方に辿り着いたかは不明である。これは物証が殆ど発見できていない為である。インド・中国ルート説、ロシアルート説、海洋ルート説など複数の仮説が提唱されている。
アカイア人の新鑼鑼地方への移動と新鑼鑼文明に関しては「紀元前1200年のカタストロフ」「アカイア人の大移動」「新鑼鑼文明」「ミケーネ文明」の記事を参照。
近年、新鑼鑼文明はミケーネ文明を研究する上で非常に注目されており、新鑼鑼文明とミケーネ文明には酷似する点が多い為、発掘品や遺構が非常に少ないミケーネ文明の謎を解き明かす重要な手がかりとして注目されている。
さらにその後、アカイア人の後にも古代ギリシャとは密接な関係があったと考えられている。不思議なことに古代ギリシャがそうであった様に、アカイア人による新鑼鑼文明も滅亡を迎える事となった。滅亡の原因は分かっていないが、新鑼鑼文明の後には古代ギリシャからやってきたと見られる一派が古代ギリシャ型の文明を築いた。どの様な経緯で古代ギリシャ人がこの地で古代ギリシャ型の文明を築いたのかも詳しくは分かっていないが、現在の仮説ではアレクサンドロス大王の東方大遠征に参加した古代ギリシャ人の一部が古代中国を経由して新鑼鑼地方に流れ着き、新鑼鑼地方を征服したのではないかとされている。ただし、アカイア人の移動と同じく、この古代ギリシャ人の移動に関しても確かな証拠などが発見されている訳ではなく、アレクサンドロス大王の東方大遠征に参加した古代ギリシャ人の一部がやってきた事を示す証拠は発見されていない。
※新鑼鑼地方を含めた周辺地図。緑が日本。なお、この地図は細部が簡略化されている為、関門海峡等が描かれていない事は留意。
※新鑼鑼地方の範囲。緑が新鑼鑼地方。
※ギリシャと新鑼鑼地方。
※世界地図で見たギリシャと新鑼鑼地方の位置。
・中世
新鑼鑼地方が日本や朝鮮、中国の記録に現れ始めたのは日本における奈良時代初期の事である。日本においては西暦715年に九州地方に対して突如、言葉が通じない軍勢が攻めこんできたという記録が最初(新鑼鑼人の侵入)。なお、同年の朝鮮半島においても新羅において新鑼鑼人の侵攻が発生している。この時期にそれまで不干渉を貫いていた新鑼鑼人の方針に変化が生じたと推測されている。
新鑼鑼地方には古代ギリシャの様に複数の都市国家が存在した。その中でも最も強い国力を持っていたとされるのが火呂須と大門である。火呂須と大門は軍事同盟を結び侵攻した。なお、この火呂須と大門という呼び方は日本側の呼び方で、新鑼鑼人の自分達を表す呼び方は火呂須はΠύλος、大門はΛακεδαίμωνだった。
新鑼鑼人の突然の侵入は日本及び朝鮮に多大な影響を与えた。新鑼鑼人の軍勢は725年までに九州地方の全域を日本の朝廷から奪取し制圧し、朝鮮側においても多くの地域が制圧された。なお、新鑼鑼地方の名前の新鑼鑼とは、この時の侵攻の際に新鑼鑼人の軍勢がアララ(ーイ)!と雄たけびを上げながら攻めてきた事が由来である。この事から日本や朝鮮では攻めてきた勢力を新鑼鑼人( アララじん )と呼ぶ様になり、新鑼鑼人が住む地域は後に新鑼鑼地方(アララちほう 韓国語での表記は아라라도)と呼ぶ様になった。
新鑼鑼人の国家形態は都市国家であった為、制圧された九州や新羅の地域では、間接的な統治が用いられた。それぞれの村や町が一つの都市国家として見られ、そこに新鑼鑼地方から派遣されてきた僭主が統治を行うというものだった。
日本及び朝鮮はこの新鑼鑼人の侵入に対して対抗し奪われた領土の奪還を試みた。以降、新鑼鑼人との戦争は日本においては平安時代まで続いた。日本の朝廷軍は海戦では新鑼鑼人の三段櫂船に圧倒され、本州や四国にも新鑼鑼人の侵攻の手が及んだが、新鑼鑼人による本州や四国への侵攻は朝廷軍がこれを退ける事に成功した為、その殆どが失敗した。陸戦においては互いの領土の推移は殆ど変わらず、両者、一進一退の攻防が続いた。日本及び朝鮮側の記録によれば、新鑼鑼人は陸戦において非常に精強な軍隊であったという。
新鑼鑼人と日本の朝廷は平安時代に入った798年に大門の和約を結んだ。これによって日本の朝廷と新鑼鑼人は和平を締結し、日本側は九州地方の新鑼鑼人による支配を認めた。一方で新鑼鑼人はこれ以上の日本への侵攻をしない事を約束した。この大門の和約によって長期に及んだ新鑼鑼人と日本の戦いは事実上終結を迎えた。大門の和約後、日本と新鑼鑼人は交易関係を結び、貿易を行う関係となった。一方で朝鮮側は801年に和約を結んでいる。
なお、この新鑼鑼人の侵入から平安時代までにかけて新鑼鑼人の食文化は大幅に変化を遂げた。それまで新鑼鑼人は主食としてパンやゴマ、ナッツ類、豆類、ゴマ、大麦の粥、ドライフルーツなどを食していたが、新たに支配した地域で行われていた稲作が伝わり、米や粟がこれらに変わって主食化した。
大門の和約後、新鑼鑼人と日本は交易を行う様になった。お互いが交易を行う関係となった事で、新鑼鑼人と日本側は多くの交流を持つ様になった。以降、双方は互いの文化や技術が流入しあう関係性になった。
新鑼鑼人が日本側に与えた影響の代表例としては羊や亜麻、新鑼鑼船(ガレー船)の伝来が挙げられる。平安時代の初期、新鑼鑼地方と羊毛の取引が行われる様になった。平安時代の中期に入ると羊自体を新鑼鑼地方から輸入し、日本においても羊毛を目的に本格的な放牧がされる様になった。その後、羊の放牧は日本各地に広まっていった。羊の羊毛は着物の材料や防寒具の材料として重宝された。
麻の一種である亜麻に関しても新鑼鑼地方から伝わり日本において本格的な栽培が行われる様になった。これが行われる様になった理由は新鑼鑼人が鎧の材料として亜麻を利用していた為だとされている。当時の朝廷は亜麻を鉄草と呼び、朝廷は下級の兵士用の防具を作る為に新鑼鑼人が作る亜麻製の鎧の製法を真似た。
また、新鑼鑼船に関しては、新鑼鑼人との戦争中に日本の朝廷の軍隊は新鑼鑼人の三段櫂船に苦しめられた事から、日本側も新鑼鑼人に対抗して新鑼鑼船の建造を行う様になった。しかし、新鑼鑼船は当初は戦船として導入されたが次第に、平安時代には戦目的よりも交易船としての側面も強くなっていった。
一方の新鑼鑼人が日本から受けた影響は、前述の主食の変化の例も挙げられるが、それ以外にも仏教や神道の神々が新鑼鑼神話(羅羅地方で信じられていた神話。ギリシャ神話とほぼ同一の宗教だった)にも取り入れられた。また、日本や朝鮮の製鉄技術が新鑼鑼人の製鉄技術よりも進んでいた事から製鉄技術の技術向上が進んだと考えられている他、日本や朝鮮の木造建築の文化が流入し新鑼鑼人の建築様式に大きなインスピレーション的影響を与えた。
その他、馬具が新鑼鑼人に齎された。馬具の存在は新鑼鑼人に大きなインパクトを与えたとされている。それまで、新鑼鑼地方には鐙などが無く、馬に乗る際には騎乗者は両足の大腿部で馬の胴を締め付けて乗馬をする必要があった。この為、乗馬は幼少期の頃から馬と慣れ親しんでいなければ難しい特殊な技能であったが、これが鐙が齎された事によって新鑼鑼地方においても、乗馬の難易度がそれまに比べて大幅に下がる事となった。
この様に新鑼鑼人と日本や朝鮮は和約以降、交易を通じて互いの交流を深めていった。朝鮮との交流は時の朝鮮の王朝が度々、領土の奪還を目指して新鑼鑼人に対して戦争を仕掛けていた為、交流は時代ごとに限定的であったが、日本の朝廷は新鑼鑼人と事を構える事は殆ど無かった為、日本と新鑼鑼人は安定的な交流が続いた。平安時代の中期には両者は双方の住民が自由に行き来する事すらできる様になっていた。
その一方で新鑼鑼人による統治は苛烈だったと伝えられている。朝廷の命により大門へと渡った滋岳川人は自身の著書である新鑼鑼地方や新鑼鑼人による支配を受ける九州地方を旅した事を記した新鑼鑼行記において、新鑼鑼人は支配した地域で元から住んでいた住民を大規模に奴婢化し、元々あった神社や仏閣などはその多くを破壊し新鑼鑼神話(ギリシャ神話とほぼ同一の新鑼鑼地方の宗教)の神々を祭った神殿を各地に築いていると記している。
滋岳川人は九州地方を旅した際、大門から派遣されていた僭主にこの地が朝廷(日本)の物だった頃の権力者達や役人はその後どうなったのかを聞いた際、僭主は男の軍人は全員処刑し、女と子どもは奴隷として売り、幼児と年寄りは狼や野犬の餌にしたと語っていたと聞き記している。
また、新鑼鑼人に支配された地域の住民は原馬蘆異と呼ばれ蔑まれていた事が分かっている。原馬蘆異という表記は日本語による表記であり当時の新鑼鑼人による表記はβάρβαροι。言葉の意味としては聞きづらい言葉を話す人々という意味である(当時の新鑼鑼人は古代ギリシャ語と極めて類似した新鑼鑼語を喋っていた)。
※新鑼鑼人の最大勢力図。緑が新鑼鑼人勢力の地域。赤が火呂須と大門。
平安時代の後期に入ると日本では騒乱が度々発生する様になった。治承・寿永の乱においては、新鑼鑼人は平家方の支援を行った。大門は平氏政権の創始者である平清盛と同盟関係を締結しており、源氏による反乱が起きると平家を支援する為に軍勢を派遣した。この軍勢の派遣は新鑼鑼人の侵入以来の出来事であったという。壇ノ浦の戦いにおいて、大門は新鑼鑼船からなる艦隊を参戦させており、平氏と共に戦った。この壇ノ浦の戦いは源氏、平氏の双方が三段櫂船や五段櫂船を投入するという一大海戦となった。
壇ノ浦の戦いで平家が敗北すると、平家の一部は九州地方へと逃れた。その後、平氏政権を打倒した源氏による鎌倉幕府が成立するが、鎌倉幕府は平家を支援した大門と対立した。この対立は鎌倉時代の中期まで続き、四国においては断続的に大門による侵攻も起こった。
しかし、こうした状況が大きく変わったのがモンゴル帝国による新鑼鑼地方及び九州地方への侵攻であった(元寇)。モンゴル帝国による高麗侵攻は1231年から始まり、1259年、反モンゴル帝国急先鋒の武臣政権が倒れたことで、モンゴル帝国に降伏した。高麗侵攻の際、新鑼鑼人はこれを静観した。高麗の陥落後、モンゴル帝国は新鑼鑼地方と接触を持った。クビライは新鑼鑼地方へと2度、使節団を送っており、モンゴル帝国への臣従を促した。しかし、これに対して、大門はこれを拒否し2度目の使節団を処刑した。
なお、第一回使節団の記録が残されており、最初の使節団を率いた正使・兵部侍郎のヒズルは初めて訪れた新鑼鑼地方の事について、新鑼鑼人の政治形態に困惑を示す記述をしている。新鑼鑼人はこの時代においても都市国家の形態を崩してはおらず、むしろ、この時代はその最盛期であった。この時代、新鑼鑼地方及び九州地方や朝鮮の新鑼鑼人支配地域には千を越える都市国家が存在していた。ヒズルは村や町が国を名乗っていると困惑を示し、また、その政治について、王が居る国もあれば、クリルタイの様に合議制の国(※ヒズルは合議制としているが恐らくは民会の事を指していると推測されている)や、クリルタイの様な合議制と王が二人も居る様な国もあり、誠に理解しがたいと述べている。それでもなお、ヒズルは度重なる新鑼鑼人との交渉を経て、新鑼鑼人の都市国家をとりまとめる強い影響力を持った国が火呂須と大門である事を突き止めると、両者と会談を持つ事がようやくできている。
また、ヒズルが困惑を持って記した事に新鑼鑼人の世界の捉え方もあり、ヒズルは報告にて新鑼鑼人がモンゴル帝国や歴代の中国王朝などを全く敬っていないとも記している。新鑼鑼人は愚かにも自分達は神々の子孫であると述べ、さらには自分達が世界の中心であるとし文明の中心だと考えているようだと報告している。このヒズルによる報告の内容は当時の新鑼鑼人の世界の捉え方を知る重要な資料である。このヒズルによる報告の内容から新鑼鑼人が中国を中心とした中華思想の影響を受けていなかった事が分かる。
クビライは元々、新鑼鑼地方を日本侵攻への足掛かりとするつもりであったとされる。クビライは使節団が処刑された事を知ると怒り、1270年、軍勢を新鑼鑼地方へと差し向けた(第一次日本侵攻)。この第一次日本侵攻の際、モンゴル帝国軍に対して新鑼鑼人は全ての都市国家が出兵し連合軍を形成した。最初の戦いは現在の韓国、テグ広域市一帯の地域で起こった大邱の戦いである。大邱は朝鮮の歴代王朝と新鑼鑼人の対立において長年、新鑼鑼人の最前線地域として幾度も戦いに関わってきた都市の一つであった。これまで大邱は一度も陥落した事が無かったが、モンゴル帝国軍は新鑼鑼人の連合軍を撃破し広域は破壊し略奪し尽くされ住民は大半が虐殺された。
その後も現在の韓国に当たる地域を舞台に新鑼鑼人とモンゴル帝国は激戦を繰り広げた。しかし、モンゴル帝国は現在の韓国に当たる地域の大半を最終的には制圧し前線は1274年には新鑼鑼地方との境界線近くにまで移った。しかし、前線が後退した事によって陸地における防衛腺が狭まり新鑼鑼人にとって守りやすくなった。さらに新鑼鑼人は強力な三段櫂船や五段櫂船からなる艦隊を有していた事からモンゴル帝国軍よりも海戦では優位な立場だった。
1276年、モンゴル帝国と新鑼鑼人は一時的な和約を結んだ。これによって第一次日本侵攻は新鑼鑼人側が現在の韓国に当たる地域の支配喪失。一方でモンゴル帝国側は現在の韓国に当たる地域の平定の一方、朝鮮半島の完全な制圧は失敗という結果に終わった。なお、その後、新鑼鑼人が現在の韓国に当たる地域の支配を回復する事は無かった。
クビライは第一次日本侵攻の失敗を海軍力の不足が原因であると考えた。クビライはすぐに第二次日本侵攻を計画したとされ、軍船の建造を命じた。そして、第二次日本侵攻が始まる1283年までの間、5度使節を送り新鑼鑼人に対してモンゴル帝国に対する臣従を求めた。なお、軍船の建造と使節派遣は並行して行われた。
1283年、第二次日本侵攻が始まった。この第二次日本侵攻は最初から膠着した戦いとなった。新鑼鑼人の連合軍も準備を整えていた為である。海戦においてもモンゴル帝国軍は多くの戦船を投入したが、海戦においては新鑼鑼人の優勢は崩れなかった。しかし、モンゴル帝国軍は徐々に前進し、そして、1286年、ついに大門へと到達した。ここに大門の戦いへと至り、この大門の戦いで大門王の阿利栖都出模州(ありすとでもす、Ἀριστόδημος)は民や兵の大半を避難させると、自分は十万人のモンゴル帝国軍に対して僅か1千人の兵士で囮となり挑むという壮絶な最後を遂げた。
モンゴル帝国軍及び新鑼鑼人が残した記録によれば、阿利栖都出模州は最初に戦死したが、大門の兵士達はその死体を終始守り続けていたという。モンゴル帝国軍は8度、阿利栖都出模州の遺体を奪い、大門の兵士達は8度、遺体を奪還したという。そして8度目に遺体を奪還した時、最後の兵士が死亡したという。阿利栖都出模州の後継には息子の安毛白牡(あげしらおす、ἈγησίλαοςΒ')が就いた。
この大門の戦い後も各地では激戦が繰り広げられたが、モンゴル帝国軍はついに新鑼鑼地方の全域を掌握した。これにより戦争の前線は九州地方へと移った。この事態にもう一人の大門王である大門史上初の女性大門王としても知られる那位亜(ないあ、Νάγια)が鎌倉へと渡り鎌倉幕府の執権である北条時宗と会談した。両者はモンゴル帝国の侵攻に際して第二次日本侵攻が始まる以前から使節を交わし対応を協議していた。そして、この会談において、モンゴル帝国がついに九州地方にまで進出してきた事を受けて危機感を感じた鎌倉幕府はこの戦争への参戦を決め派兵を決定した。
幕府軍の派兵によって新鑼鑼人の連合軍は態勢を整えた。これによって新鑼鑼人は幕府軍と連合軍を形成した。新鑼鑼人と幕府軍の連合軍はモンゴル帝国軍と激しい激戦を繰り広げた。隈本の戦いにおいてモンゴル帝国軍に対して大勝を挙げると以降、徐々に戦況は新鑼鑼人と幕府軍の連合軍側の有利となっていった。そして最終的には九州地方の全域と新鑼鑼地方の南部を奪還した。そこで戦況は再び膠着状態となったが、1294年にクビライが死没するとモンゴル帝国軍は新鑼鑼地方から引き揚げていった。ここにモンゴル帝国による第二次日本侵攻は終結した。
第二次日本侵攻の終結後も新鑼鑼人の連合軍はモンゴル帝国により奪われた現在の韓国に当たる地域の奪還を目指していたが、戦争による被害が深刻であった為に、奪還を目指した攻撃がかけられる事はついに無かった。
モンゴル帝国は侵攻に際して新鑼鑼人の支配していた地域にあった都市や集落を略奪し破壊し尽くした。さらに住民は虐殺にあい多くが奴隷にされ攫われた。火呂須の自然学者、藍尾歩洲(あいおほす、Αίοφος)はモンゴル帝国から奪還した火呂須のその惨状をこう書き記している。 ”そこに街は無くただ白い屍の道があった” 白い屍とは白骨化した遺体の事である。この藍尾歩洲の記録にもある様にモンゴル帝国の攻撃により支配された地域の都市では至る所に死体が放置されていたという。日蓮宗の宗祖・日蓮の弟子である日昭も九州地方を訪れてその惨状を ”蒙古国去タ痕、町モ無シ何モ無シ生者モ無シ、神モ仏モ無シ” と自身の著書である蒙古集にも記しモンゴル帝国の侵攻による惨状を伝えている。
この一連のモンゴル帝国による日本侵攻の影響は新鑼鑼人に対して非常に深刻な影響を与えた。モンゴル帝国による徹底的な破壊活動により、多くの新鑼鑼人の歴史的な建造物や物品や資料などの多くが失われた。これによって今日、モンゴル帝国による侵攻以前の新鑼鑼人の歴史を知る事は非常に難しくなってしまっている。
さらに、モンゴル帝国の侵攻によって多くの都市国家が消滅したり人口が激減した事など壊滅的な打撃を受けた事により、新鑼鑼人の都市国家体制が事実上、崩壊してしまった。最盛期、1千を越える都市国家が新鑼鑼地方を中心に九州地方及び朝鮮の一部地域内に存在していたが、終戦時点において戦火を逃れる事の出来た都市国家は九州地方の南部、現在の鹿児島県や宮崎県に当たる地域の都市国家しかなかった。戦後、火呂須や大門を中心に新鑼鑼人は新鑼鑼地方の都市国家の再建に乗り出したが、火呂須や大門など幾つかの主要都市の再建は果たしたものの、その他の都市はかつての繁栄を再び取り戻す事は長期に渡って無かった。新鑼鑼地方の完全な支配権はこの時点で火呂須と大門に移り、幾つかの都市国家を除いて、その他の都市国家は独立性だけでなく自治性すらも完全に喪失した(火呂須と大門の領域国家化)。九州地方においても戦火を逃れた都市国家は独立性を保ったが、それ以外の地域では日本からやってきた武士が台頭した。武士は消滅した都市国家の領域を引き継ぎ、朝鮮の方面からのさらなる侵攻に備えて当初は消滅した都市国家の復興の名目で移り住んだが、次第にそれは日本本土における武家社会と同一化していった。これら九州に定着した武士は九州武士とも呼ばれる。
建築文化や鎧文化にも影響があった。建築文化において、それまで新鑼鑼人は交易によって日本や朝鮮の影響を受けつつも新鑼鑼地方の伝統的な基本の様式は守っていた。しかし、モンゴル帝国による侵攻後、新鑼鑼地方では日本様式の建造物が建てられる事が多くなった。中には完全に日本様式で再建された都市すらも存在する(恵比須など)。これらの原因は人口構成の変化によるものと推測されている。モンゴル帝国の侵攻時、新鑼鑼人はその多くが犠牲となった。戦後、復興を進める為に新鑼鑼人は九州地方から半ば強制的に移住者を募った。九州地方から来た移住者には多くの大和民族系の人々が含まれており、彼らは長年の新鑼鑼人による支配の中であっても自分達の建築文化を保っていた。この為、これらの人々が新鑼鑼地方へと移り住んだ結果、日本様式の建物が建てられる様になったと考えられている。
鎧文化に関してはモンゴル帝国の侵攻後、大幅な変化が見られた。それまで、新鑼鑼人は新鑼鑼甲冑( あららかっちゅう )と呼ばれる古代ギリシャ風の鎧をベースとした発展形の鎧が広く利用されていたが、武士が使用していた甲冑が急速に普及した。新鑼鑼人は日本の武士とほぼ同じ甲冑を作る様になり、これに新鑼鑼人の伝統である馬の毛や鳥の羽を使った飾りなどを施して使用する様になった(鎌倉・室町新鑼鑼甲冑)。この鎌倉・室町新鑼鑼甲冑は新鑼鑼地方から九州地方で民族に関係なく広く使用された。
また、この頃から新鑼鑼人の使用言語の日本語化が徐々に進んで行ったと考えられている。この様に新鑼鑼人は様々な面で日本化が徐々に進んでいった(新鑼鑼人の日本化)。
鎌倉幕府が滅亡する前の1320‐1330年代にかけて、鎌倉幕府の影響力が低下を見せると新鑼鑼人と九州地方の武家との間で対立が起こる様になった。1336年に足利尊によって開かれた室町幕府によって室町時代が始まると、本州や四国においては南北朝時代が始まるが、この南北朝時代の間、新鑼鑼地方及び九州地方においても九州乱期(九州戦争)と呼ばれる時代に突入した。この九州乱期は南北朝時代が終わった1年後の1393年まで続いた。
九州乱期は九州地方において、武士と九州南部の都市国家との対立が最初であったとされている。九州の各地において武士と都市国家との間で戦争が起こる様になった。新鑼鑼地方においても、モンゴル帝国による侵攻まで独立性を持っていた地域などで火呂須と大門の支配に反発した新鑼鑼人の住民を中心とした散発的な反乱も起こった。新鑼鑼地方における住民の反乱は火呂須と大門の圧倒的な軍事力により鎮圧されたが、九州地方における戦争は九州地方全土に拡大していった。九州地方における戦争は新鑼鑼人の慣習に則り、互いに戦争と停戦を繰り返す形で行われたという。なお、武士同士の対立もあったとされる。
後年になると九州地方の都市国家は火呂須と大門とも対立する様になった。元々、九州地方の都市国家はその誕生以来、新鑼鑼地方の強い影響下におかれていたが、モンゴル帝国の侵攻後に新鑼鑼地方を支配する火呂須と大門の政策は九州地方の都市国家の不満を大いに貯める結果となった。そして1351年には現在における日向市を中心に反火呂須・大門の同盟である筑紫島同盟(つくのしまれんごう、Νησί Τσουκούσι Συμμαχία)が結成され本格的に火呂須と大門と対立化した。火呂須と大門は九州の武士と軍事同盟、兵祢州同盟(へいねすどうめい、Έλληνες Συμμαχία)を結成しこれに対抗。両者は戦争となった。
この一連の戦争は1393年に日向包囲戦によって筑紫島同盟が敗北した事によって終結し南北朝時代の終わりから遅れる事1年で九州乱期も終結した。九州乱期の結果、九州地方の都市国家は独立性と自治性を完全に喪失し武士の領地として支配を受ける地域と火呂須と大門によって支配される地域に分けられた。これを持って新鑼鑼人の都市国家時代は完全に終焉を迎えた。
戦国時代まで、新鑼鑼地方から九州地方は兵祢州同盟の下、比較的、安定した時代を迎えた。この時代は九州地方の武士と新鑼鑼人の交流がより進んだ時代であるとされる。大門では4年に一度、競技会や祭りを開き各地から新鑼鑼人が集い様々な競技を通じて神々に鍛えた肉体を披露していたり歌や踊りご馳走を儀式で振舞った。この内、競技会はそれまで、新鑼鑼人しか参加できなかったが、この安定期の期間中、史上初めてこの競技会に他民族が参加した。参加したのは九州地方の武士であった。
また、この時代に新鑼鑼人の神々を仏教や神道に組みこむ試みが九州の武士の間で行われ始めたと考えられ、新鑼鑼人の神々を仏教風や神道風に読み上げる事がこの頃から始まったと考えられている。この試みは後に現在も九州地方や新鑼鑼地方で広く民間で信仰されている新鑼鑼仏教や新鑼鑼神道の成立に繋がった。
戦国時代に入るとその初期には新鑼鑼地方から九州地方にかけては大きな戦乱は起こらなかった。しかし、1568年に九州地方の有力武士であった島津家、大友家、大内家の3家が室町幕府の将軍と謁見しこれにより九州地方の大名に任じられると新鑼鑼人はこれを裏切りであると捉え、火呂須と大門はこれら3家と戦争状態に突入した。なお、九州地方の武士側も一枚岩ではなく、これら3家は互いに対抗し対立した他、3家のいずれかに味方した武士の勢力や、新鑼鑼人側に付いた武士の勢力、全ての勢力と対立した武士の勢力など様々な勢力に細分化し、各地で戦いを行った。これにより新鑼鑼地方及び九州地方も本州や四国と同様に戦国時代に組み込まれる事となった。
戦国時代の後期には織田信長が公家の近衛前久を名代に島津家に対して使者を送った。織田信長は島津家に対して臣下の礼を取るようにと勧告した。これに対し島津家は、織田などと言う得体の知れない田舎者の臣下の礼を取るなど笑止千万としてこれを拒否した。すると、織田信長は次に大門に対して使者を送った。織田信長は同盟関係の申し入れを行い共に島津家の討伐を申し入れた。これに対して大門王、真武(しんぶ、Θίμβρων)はこの申し入れを受け入れ、同盟関係を締結した。
1586年の段階において九州地方は火呂須と大門及びそれに協力する九州地方の武士による連合軍と島津家が二分する状況にあった。この年までに大内家は火呂須と大門に敗れ、大友家は島津家に敗れていた。なお、この情勢に織田信長との約束により織田信長から派遣されていた織田信孝率いる織田軍の軍勢も加わっていた。
織田信長の死後、天下統一の道を進んでいた豊臣秀吉は、火呂須の要請により両勢力に対して停戦を命令した。火呂須のこの豊臣秀吉に対する仲裁の仲介を求めた要請は、火呂須の市民の間で厭戦気分が広がっており、これが原因であったとされる。豊臣秀吉は停戦命令を出し実際に戦闘は一時的には収まった。しかし、すぐに島津家側は調停にしたがって停戦を守ろうとしたのにもかかわらず新鑼鑼人側が攻撃を仕掛けてきたと主張し戦いは収まらなかった。これに対して火呂須と大門側も同じ主張をし戦闘は継続されている。
どちらが停戦を先に破ったかについては議論が分かれるが、両者共に停戦に従う気が無かったのではないかとも近年は見られている。近年まで島津家側が九州地方の統一を画策して家内で激しい議論になった末に攻撃を再開したものと見られてきた。しかし、近年では同様の事が大門側にもあった事が分かっている。火呂須が戦争を停止したかった一方で、大門は九州の再制圧を諦めていなかった。また当時の資料から大門の王や民会や長老会は大門に対して一切の相談もなく火呂須が一方的に豊臣秀吉を頼り剰え停戦を命令させた事に猛反発していた。この事から大門側も停戦命令を島津家と同様に破ったとみられている。
停戦命令は破られ戦いは再開したが、これを受けて豊臣秀吉は自軍に九州平定を命じた。この九州平定は前哨戦の戸次川の戦い等では、島津軍は豊臣軍に対して圧倒的な勝利を収めた。しかし、豊臣軍が一方的な敗北を期したことから、豊臣秀吉は第二次攻撃では自らが出陣する事を決めた。豊臣秀吉は関白の地位を利用し40ヵ国に近い大名の諸国から25万人もの兵力を集め投入した。島津家は豊臣軍を日向方面から侵攻してくると予想し、日向に主力の部隊を配備した。しかし、豊臣軍は肥後口から侵攻してきたため、島津家は自身の領国が戦乱に巻き込まれ総力戦となる事を避けて、止む無く降伏を決断した。
その後、交渉により、豊臣秀吉から島津家は停戦命令前の支配地域の内、凡そ3分の1の支配を認められた。また、島津家が引いた後には火呂須と大門に協力していた武士の勢力と豊臣軍の武将が領地を得る事になった。
しかし、この決定に大門は強く反発した。大門王、真武はなぜ関係の無い国に自分達の領地で起こっている戦いをとやかく言われなければならないのかとし、1590年に豊臣秀吉と北条氏との間で起こった小田原征伐に乗じて大門は軍を島津家の領国へと進軍させた。この事態に豊臣秀吉は激怒し小田原征伐後の1591年に凡そ13万人の兵力を動員して大門征伐を実施した。
この大門征伐は火呂須が豊臣秀吉側についた事、また、それまで大門の味方であった九州の武士もその全てが火呂須に従い豊臣秀吉側についた為、大門は単独でこれらの兵力と戦った。兵力差は圧倒的であったとされるが大門軍は豊臣軍の大門への侵攻に対して徹底抗戦し豊臣軍の予想を超えた粘り強さを見せた。これよって豊臣軍の新鑼鑼地方への侵攻は思う様に進まなかった。しかし、1592年に、火呂須軍は大門軍の隙をつき大門への到達に成功した。そして大門にて包囲戦を仕掛けた。火呂須側は大門に対して降伏を呼びかけ火呂須王の説得の末、大門は豊臣秀吉に降伏を申し入れた。
この降伏により新鑼鑼人は九州地方における全ての支配地域を喪失し、新鑼鑼人の支配地域は新鑼鑼地方のみとなった。
なお、戦国時代の後期、ポルトガルのイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは九州地方を訪れた後に新鑼鑼地方を訪れているが、ルイス・フロイスは新鑼鑼地方や九州地方で自身が驚愕した内容を著書の日本史にて書き記している。ルイス・フロイスは九州地方にやってきた際に九州地方各地の町を廻り、そこで新鑼鑼人が築いた新鑼鑼神話の神々が祭られる神殿を目撃しているが、この時の事をルイス・フロイスはなぜギリシャの神殿がヨーロッパから遠く離れた日本にあるのかと新鑼鑼神話の神々が祭られる神殿をギリシャの神殿だと思い驚愕したという。
そして、さらに彼を困惑させたのが、神殿に祭られている神々の彫像であり、これらを見たルイス・フロイスはこれを古代ギリシャの神々の像だと思ったのだという。そして、かつてモンゴル帝国によって破壊された神殿の残骸などを見ながら、新鑼鑼地方へと向かい火呂須と大門を訪問した。この時、ルイス・フロイスは九州地方における驚きよりも、より強い驚きを感じたとされ、ルイス・フロイスは古代ギリシャがそこにはあったと記し、新鑼鑼地方の田舎は新鑼鑼神話の神々が祭られた古代ギリシャの様式の神殿がある事以外は町並みは見慣れた日本の他の町並と余り変わらないが、住民の服装は着物の他、古代のギリシャ風の服を着て、それらを着た人々が入り混じっていたと記している。そして目的地の火呂須や大門の様子に関しては圧倒的に多くの物が古代ギリシャその物であったとし、火呂須には新鑼鑼地方や九州地方において屈指の美しい彫像や建物があり、大門については火呂須に比べると街に飾りっ気は無いがそこかしろに、彼らが偉大だと尊敬を集める戦士達の銅像が建てられていたと記している。
ルイス・フロイスは大門人について恐怖の民族と書き記している。ルイス・フロイスは火呂須人は芸術と学問を愛する温和な人々であるが、大門人は強い戦士を育てる為に産まれたばかりの子を酒に浸け異常があった子供は彼らが神聖視する山から投げ落とすという常軌を逸した行為をしているとし、投げ落とされなかった子供も幼い内に親元から引き離され、戦士になる訓練を受ける。成人の儀式では短剣1本のみを渡され全裸で山へと置き去りにされ1年間、町に戻る事を許されず、この間は奴隷から殺し奪う事を強いられていると記した。その他には町では盗みは見つかれば厳しく鞭で打たれるが、戦いには狡猾さが必要だという事を教え込む為に大門の訓練中の子供や兵士達には見つからない様に食べ物を盗む事が推奨もされているとも記した。ルイス・フロイスはここまで常軌を逸した事をしている異教徒は他には見たことが無いと記している。
戦国時代が終わり、豊臣秀吉による豊臣政権の時代が始まると、新鑼鑼地方は文禄の役及び慶長の役において、日本軍の朝鮮侵攻の玄関口となった。豊臣秀吉によって招集された各大名による軍勢は新鑼鑼地方を通り、朝鮮へと渡った。この際、火呂須と大門は豊臣政権に全面的に協力し、領内の通行の他、港の使用を許した。そして、戦争の中期頃になると豊臣政権側からの要求から作物などの食料物資も提供した。日本側が新鑼鑼地方を通れた軍事的な意義は非常に大きく、新鑼鑼地方がもしも通れぬ場合は日本側は新鑼鑼地方を軍事的に制圧するか、海路で朝鮮まで出兵をしなければならず、軍事的なリスクや大量の船が必要等の問題が発生する事が予想されたが、新鑼鑼地方を通れた事で、安定的な補給路の確保ができた。当時、豊臣秀吉は火呂須と大門の王を自身の本拠地である大阪城に呼びつけ直接、感謝を伝え宴を開いたとされている。
火呂須と大門は文禄の役及び慶長の役には参戦しなかった。大門は参戦する気があったと言われているが、豊臣秀吉に対してかつて新鑼鑼人が治めていた土地の統治権を求めたが、豊臣秀吉がこれを認めなかった為、大門は参戦を見送ったとされる。しかし、火呂須と大門は日本の複数の大名からの要請により、日本が占領した土地の統治に関して通訳の協力をした。新鑼鑼地方は元々、朝鮮と直接、土地が接している他、かつて土地を治めていた経験があった為に日本の他の地域に比べれば朝鮮語を喋れる者が多かった。この為、多くの通訳を送った。
文禄の役及び慶長の役が豊臣秀吉の病死によって日本国内の政情が不安定となった事で、日本軍の撤退によって勝敗がつかぬままに幕を下ろすと、火呂須と大門は豊臣政権から明軍や朝鮮軍からの守備を求められた。火呂須と大門は自分達の土地に明軍や朝鮮軍がやってくる可能性がある事から当然これを承諾したが、火呂須と大門の両国はこれに激怒していたと伝えられており、なぜ他国が起こした戦争のつけを参戦もしていない新鑼鑼人が払わねばならぬのかとの声が上がった。しかし、懸念されていた新鑼鑼地方への侵攻は日本側が明軍との間で取りまとめた無血撤退を承諾するという決め事により、起きる事は無かった。
明と朝鮮は新鑼鑼地方への攻撃について意見が割れていたとされている。明と朝鮮は日本軍が新鑼鑼地方を通って朝鮮へとやって来た他、新鑼鑼人が日本軍の手助けをしていた事を知っていた。しかし、その一方で新鑼鑼人が戦争には参戦していない事などから、日本へと攻撃する場合に新鑼鑼地方を攻めるべきか、別の手段を取るべきかで議論されていた。また、九州地方を日本と見るか、そうでないかと見るかでも意見は割れていたという。
この時、火呂須と大門は撤退する日本軍と入れ替わり朝鮮へと侵攻する事を計画もしていたが、日本が豊臣秀吉の死によって政情不安に陥っていたのと同じように、火呂須と大門においても九州地方の喪失や、文禄の役及び慶長の役の失敗の影響などにより、日本側よりは落ち着いてはいたものの政情が不安定となっていた為に結局、この計画も実行される事はなかった。
1600年、豊臣政権の内部抗争に端を発した徳川家康を総大将とし福島正則や黒田長政らを中心に構成された東軍と、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家、石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍との軍事衝突が表面化した関ヶ原の戦いにおいては、新鑼鑼人は徳川家康を支持した。この徳川家康への支持は新鑼鑼人の豊臣政権への反発、そして、新鑼鑼人が最も敵対視していた島津家が西軍についた事が大きかったとされる。
関ヶ原の戦い前の8月25日、火呂須と大門は挙兵し島津の領地へと向け進撃した。これによって島津家と新鑼鑼人による水俣の戦いが起きた。水俣の戦いは決着がつかずに最終的には両者は膠着状態となった。関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、島津家の立場は非常に厳しいものとなった。東軍は島津討伐を決行し黒田、加藤、鍋島勢を加えた3万の軍勢が向かい、この軍勢に火呂須と大門の軍も加わった。
しかし、薩摩沖で幕府の国家運営で行っていた明との貿易船が襲撃され沈められる事件が起きると状況が大きく変わった。この事件の黒幕は島津家だとされ、もしも武力で島津家を潰せば敗残兵が海賊化し、貿易に対する脅威になると、徳川家に対する脅しをかけた。この事態に徳川家康は態度を軟化し、12月17日、島津討伐軍に対して撤退を命じた。これに対して新鑼鑼人は反発したものの、最終的には新鑼鑼人も撤退した。
・近世
徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利し日本の権力を掌握すると征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開き江戸時代が始まった。大坂の陣では火呂須と大門もこれに参加をした。当初、新鑼鑼人は10万の兵力の提供を幕府に対して持ちかけていた。しかし、これに対して幕府側は話を一旦持ち帰り、徳川家康は書簡で気持ちは感謝すると伝え幕府側は最終的には火呂須と大門から1万ずつの計2万の兵力のみの提供を受けた。
1632年の島原の乱でも火呂須と大門は幕府に協力の姿勢を見せ兵力の提供を申し出ている。島原の乱においては幕府側は火呂須と大門の出兵を断った為、実際に兵力が派遣される事は無かった。
江戸時代を通して火呂須と大門は江戸幕府と多くの期間に渡って良好な関係を有した。火呂須と大門は江戸に新鑼鑼通信使( あららつうしんし )を派遣した他、将軍に毎年、新鑼鑼地方の特産品を献上した。江戸幕府は外交政策において、新鑼鑼地方を朝鮮や琉球王国と並んで正式な国交のある通信国とした。
その一方で新鑼鑼地方の火呂須王と大門王は事実上の徳川の家臣として扱われた。火呂須王と大門王は江戸幕府の新しい将軍の就任の際や、自分の国の新王の就任に際しては船で江戸に向かい将軍と謁見した他、世継ぎが一定の年齢にまで成長するまでの間、正室と世継ぎを江戸に住まわせる等した。徳川の系譜の家と火呂須王や大門王との婚姻政策も行われた他、新鑼鑼地方に朝鮮方面の日本の対外折衝の重責を担う幕府の出先機関である新鑼鑼奉行所の設置も行われた。また、江戸幕府の鎖国政策に追従し新鑼鑼地方も朝鮮や明やオランダ以外との国交や通商を持たなかった。
現代において新鑼鑼地方と琉球王国はよく比較される。これは後に両者共に日本として一つの国に纏まった為である。しかし、新鑼鑼地方には明確に琉球王国とは違った側面があった。それは軍事力と独立性である。
琉球王国が日本側の勢力に軍事的に屈服された関係であったのに対して、新鑼鑼地方は戦国時代から続く軍事力の保有を一切の制限なく有し続ける事ができた。また、政治に関しても琉球王国が薩摩藩からの介入を受けた一方で、新鑼鑼地方の政治は独立性を保った。これらは新鑼鑼地方が朝鮮と国境を陸続きで接している事から日本の国土の守りの観点上から江戸幕府はこれを容認していたと考えられている。
江戸時代は250年にも渡って平和な時代であった事から多くの藩は時代経過と共に戦国時代の様な力を失っていったが、新鑼鑼地方は朝鮮と陸続きに接していた為に常に軍事的な緊張状態であった事から、戦国時代に培った技術や戦術の多くが実用的に継承された。制度的に見ても火呂須は古来から続く徴兵制度を維持し火呂須の市民権を持つ者は有事の際には軍への従軍が義務とされ、大門は古来から続く軍国主義的性格を維持した。また、江戸時代において甲冑は大規模な戦闘が発生しない事から、もはや飾り物としての用途でしか使われなくなったが、新鑼鑼地方においては鎌倉・室町新鑼鑼甲冑は標準的な装備として使われ続け、火縄銃や大筒や大砲に関しても幕府に次ぐ保有量を有した。ただし、江戸幕府は火呂須と大門の鉄砲や大砲の大量所持を認める代わりに、火薬に関しては新鑼鑼地方での生産を禁じ江戸幕府からのみ入手する事が出来る様にしていた。
中でも大門が自身の軍事力を維持する為に江戸時代の中期前半に施行した "戦間期における戦士の教練に関する法(Νόμοι για την εκπαίδευση των πολεμιστών στον Μεσοπόλεμο)" は非常に有名である。大門はこの法律により戦争が無い平和の間、奴隷階級や2等市民階級の罪人を処刑などにせずに生かして集め食事等もしっかりとした物を与えた他、日本の幾つかの藩からも罪人の提供も受けた。そして集まった罪人が一定の人数まで達すると罪人に武器を持たせ、あえて合戦を引き起こさせた。大門軍はこれを演習として制圧した。しかし、演習とされつつもその実態は、罪人には盾と兜以外の防具などこそは与えられなかったもの、与えられた武器は殺傷能力が充分にある武器であり、さらには大門軍は罪人を全員殺害する事が命じられていた為、罪人側は殺されまいと必死に抵抗した事から非常に本格的な合戦であった。その為、大門軍側にも怪我人の他、死人が出る事はこの教練ではよくあったという。なお、罪人の数が合戦に必要な数にまで集まらなかった場合には奴隷階級者から強制的に徴発したとされる。
この合戦で生存した罪人はそれまでの罪の一切が免除され自由の身となった他、罪人でない奴隷階級者の参加者の生存者には家族も含めて2等市民階級への身分の格上げがされた。また、もしもこの合戦中に大門兵を5人殺せた罪人や非罪人の奴隷階級者が居た場合には、その罪人や非罪人の奴隷階級者には、それまでの罪の一切の免除に加えて大門の市民権が与えられたという。
なお、この "戦間期における戦士の教練に関する法" は平和な期間にのみ適応される法であった事から、戦争が始まった場合や、もしくは平和であっても飢饉等が発生した場合等には集められた罪人は処刑される取り決めだった。この言わば非常時における罪人の一斉処刑は江戸時代の間、自然災害や飢饉が発生した場合や、一揆や幕末の動乱期に行われた。
こうした精強な新鑼鑼地方の軍事力は徳川吉宗が行った享保の改革にも影響を与えてた。江戸幕府における軍事の要職である大番についていた浅井奉政は大門を訪れた際に、その精強な軍を見て江戸への帰還後に徳川吉宗に、大門は今の天下泰平の世で武士が忘れた武を持っていると報告し、もしも火呂須や大門が反乱を企てた場合、幕府軍は圧倒されてしまうだろうと、危機感を持った、かなりの率直な意見をした。この報告に徳川吉宗は真剣に耳を傾け、この報告を受けて江戸幕府の直轄兵力の軍事力の強化に乗り出したという。それが元文の戦備改革である。元文の戦備改革は江戸幕府の直轄兵力に対して大門から定期的に師範を呼び寄せ手ほどきを受けさせる事の他、戦国時代の戦術の研究などを行う事が主であった。
この元文の戦備改革に効果があったのか、なかったのかについては現代でも意見が分かれる所である。定期的に師範を呼び手ほどきを受けていはいたが、例えば甲冑などは結局、実用的には復活はしなかった。しかし、それでも火縄銃や大砲など運用や戦術の面においてはある程度の戦国時代の水準を取り戻す事はできたとの見方もある。
新鑼鑼地方は朝鮮と陸続きに接していた為に常に軍事的な緊張状態であった事から、この様に軍事力は維持されたが、とはいえ、江戸時代は新鑼鑼地方も平和であった。この為、新鑼鑼地方と日本との交流はこの時代にさらに一層進んだ。
江戸時代にかけて新鑼鑼人はほぼ完全に日本化したと考えられている。江戸時代の中期には新鑼鑼人の使用言語が古代ギリシャ語に極めて類似した新鑼鑼語(新鑼鑼ギリシャ語)から、新鑼鑼訛りの日本語が主流となった。新鑼鑼語の衰退は元寇以降に緩やかに始まったが、この時代についに新鑼鑼語は主流派の立場を失った。それでも新鑼鑼語は江戸時代の中期後半頃までは宗教儀式や公文書などにおいて使用され続けたが、それも江戸時代の徳川吉宗の治世の終盤頃には見られなくなった。その後、新鑼鑼語については急速に失伝していった。その結果として江戸時代の後期には新鑼鑼語を理解できる者は殆ど居なくなってしまっていたという。新鑼鑼語はその後、明治時代に日本が欧米諸国との間で本格的な交流を行う様になった事で欧米経由でギリシャ語の読み方や、古代ギリシャ語の読み方が日本に伝わった事で読法の知識が回復した。言語の日本化の影響は非常に大きく、人名や固有名詞までもが影響を受けた。江戸時代の後期初期の時点で新鑼鑼人の大半が日本式の名前を名乗っていた他、多くの固有名詞も日本名化されていたとされる。
宗教的な側面においては、室町時代から江戸時代初期にかけて新鑼鑼神道や新鑼鑼仏教が成立するとこれらの新宗教が新鑼鑼人に受け入れられ、時代の経過と共に信者を増やしていった。また、新鑼鑼神道や新鑼鑼仏教の広がりと共に通常の神道や仏教も広まった。これに相応する形でそれまでの古来から脈々と続いてきた新鑼鑼神話の信仰は衰退していき、幕末の頃には新鑼鑼地方にあった本来は新鑼鑼神話の信仰様式で建てられた神殿群の多くも新鑼鑼神道や新鑼鑼仏教の寺院へと変わっていた。
文化的な側面でも新鑼鑼人が古来から続けていた様な建築様式の建物の新規建設が急速に少なくなり変わりに日本様式の建造物がほぼ完全に一般化した。火呂須や大門など一部の中心都市では公共性の高い建築物などは伝統的な建築様式が依然として主流であり続けたが、それでも一般人の住居や商店などの建築様式は日本様式がこの頃にはほぼ完全に主流となった。この様に火呂須や大門においても一般の建物の建築様式が日本化した事によって、これらの都市は元寇以降、徐々に日本化していく新鑼鑼地方においても、長期に渡って新鑼鑼人の伝統文化の最後の牙城であり続けていたが、それも多くの面で日本化する事になった。
服飾文化に関しては新鑼鑼地方の全土において、古来から続く新鑼鑼人の服装よりも着物を着る人が大多数となったという。この変化は火呂須と大門にまでも及んでおり、一般人だけでなく、役人や政治家、王に至るまでもが着物を着る人が多くなった。なお、髷に関しても日常的に見られる様になり、役人や政治家や王の中にも髷を結っている人が幕末までにはかなり多くなっていたという。なお、髷や着物は強制ではなく、基本的に服装や髪型は各々の自由であった。また、余談として最後の火呂須王や大門王は双方の王共に着物を日常的に着て髷を結っていた他、名前も完全な日本名であった。
髷は火呂須と大門で人気のものが違っていたという。火呂須の男性の間では総髪や総髪茶筅など、髪を剃り上げない形の髷が流行した。大門においては身分によって流行が違っていた。大門市民や二等市民階級の市民の間では丁髷や本多髷など、髪を剃り上げる形の髷が流行した。なお、二等市民階級の市民は特にこれといった制限は受けなかったが、大門市民においては髪を剃り上げる髷は贅沢であると考えられ、髪を剃り上げる形の髷は年齢が40を超えない限り禁止にされていた。奴隷階級は髷自体が贅沢であるとして、総髪以外は髷を結う事自体が認められていなかった。
新鑼鑼人の日本化は元寇後に徐々に始まっていったが、この様に、江戸時代に入っても新鑼鑼人の日本化は収まる事無く続き、江戸時代が終わる頃には、ほぼ完全に日本化していると言っても良い様な状況となった。
一方で完全に日本化しなかったと言える面もある。それは古代ギリシャ的な性格を残した政治制度や、芸術分野である。政治制度においては周辺地域が全て封建的でありながら、例えば火呂須においては王の権力は戦時以外では世俗的であり、火呂須市民権を持った市民による民会が大きな力を持っていた他、大門も2人の王が居る体制や、この王の権力が平時には世俗的である事、大門市民権を持った市民による長老会や民会や監督官の体制など、周辺地域とは一線を画した体制が敷かれていた。これらの古来から続く政治制度は江戸時代においても脈々と維持された。
芸術分野は例えば、彫刻や絵などは日本や朝鮮、中国などの他国からの影響もありつつも伝統的な面がかなり強く維持された。新鑼鑼地方美術の特徴としては作品の造形が他の同年代の日本や朝鮮などの芸術品と比べても写実性を強く意識した物が非常に多かった事だとされる。人物の彫刻として作られる物は男性以外にも女性を題材とした彫刻が非常に多く作られた他、人物を題材とした彫刻は肉体美を強調した物が多かった。男性の筋骨隆々な姿や、女性の体のライン等が非常によく表れた彫刻などである。これは同年代の周辺地域ではあまり見られない芸術スタイルであった。例えば日本においては、女性の題材の像などを作ったとしても、女性の体のラインを強調する様な事は余り見られなかった。
実際、新鑼鑼地方で作られる肉体美を強調した像は江戸時代の間、規制されていた時期も存在する。徳川家宣の治世下において、新鑼鑼地方のこうした美術品がある種のブームを起こした。しかし、これに日本の仏教界で反発が起こり、徳川家宣は卑猥だとして新鑼鑼地方からの、これらの美術品、特に女性の像に関しての輸入や国内(新鑼鑼地方を含まない日本の地域)での製造を禁止する御触れを出している。だが、こうした御触れは厳密には守られる事はなく春画の様に非公開での販売がされた。
幕末、欧米諸国の日本への来航によって日本は開国すると新鑼鑼地方も幕末の動乱に呑まれていった。火呂須と大門は当初、江戸幕府を支持していた。長州征伐では大門軍が幕府軍に参加し2度の長州征伐における江戸幕府の軍事的な勝利の結果に貢献した。幾つかの重要な戦いにおいて大門軍は長州軍を撃破した。しかし、第二次長州征伐では軍事的な勝利は獲得したものの、徳川家茂が死去した事による混乱により幕府軍が途中で撤退した事で、政治的には長州藩が勝利した。
なお、政治的な勝利を収めた長州藩であったが、この第二次長州征伐によって長州藩は壊滅的な被害を負った。長州軍は戦闘により壊滅的な打撃を負った他、領内の大幅な衰退を招いた。その冴えたる例が大門軍であったとされており、長州藩の記録によれば大門軍は撤退する際、長州藩各地の街や集落を略奪し焼き討ちした他、野や山に火を放った。また、井戸にも毒を投げ込んだとされる。これらの破壊行為は長州勢力のその後の影響力の大幅な低下を決定づけたとされる。
この様な大門軍による破壊行為は各勢力から批判された。これは江戸幕府側からもされており、勝海舟は大門軍の長州藩での破壊行為に対して、今は戦国の世に非ず、大門の蛮行ここに極まれりと批判している。対する大門はこの破壊行為に関して、幕府の敵を討ち払ったまでとし、戦国の世から伝わる俗識と一蹴したが、この第二次長州征伐が原因となり日本の各勢力の中で孤立する結果を招いた(大門の孤立)。
大門は江戸幕府が第二次長州征伐中に大門軍が戦況を圧倒的な優位な状態で進めている中で幕府軍の撤退を決定した事や、第二次長州征伐後に江戸幕府側からも長州領内での破壊行為を非難された事に不満を募らせ、また、その他にも江戸幕府との間で意見の対立が頻発する様になった。こうして大門は江戸幕府から距離と取る事になった。こうして大門は孤立化したが、しかし、その後、坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋があり、薩摩藩が江戸幕府に不満を募らせる大門に接触を持った。
この接触によって1867年に電撃的に成立したのが薩摩、火呂須、大門による薩火大同盟( さっひだいどうめい )である。それまで親幕府の勢力であった火呂須と大門が一転して討幕派に加わるという大事件だった。火呂須と大門がなぜ討幕派に合流したのかについては諸説あるが、現在の日本史の教科書に採用されている説は、大門が第二次長州征伐の際に兵力に勝る17万人の幕府軍が僅か3,500人の長州藩に苦戦する様子を目の当たりにした事が最も大きな原因ではないかという説である。この説は現在、定説となっている。
第二次長州征伐において、当初、大門軍は幕府の招集に応じて出兵し2万人を動員したものの、戦いに参加する予定は無かったという。兵力に勝る幕府軍はすぐに戦いは決着がつくと考えていた。しかし、西欧式の武器や戦術に秀でていた長州軍に対して幕府軍は苦戦し大きな被害を出した。この状況に徳川家茂が大門軍に出兵を要請し、これにより大門軍が参戦した事で戦況は幕府軍側の優勢となったという。大門軍の軍隊は鉄砲こそ大量に所有していたものの、お世辞にも近代化された軍隊ではなかった。鉄砲は大半が火縄銃をミニエー銃化させた改造銃か、通常の火縄銃だった。大砲も大筒を改造した物を持ち込んでいたという。さらに、この時代においても大門軍の様相は伝統的な鎌倉・室町新鑼鑼甲冑姿であった。しかし、大門軍は戦術、士気、練度、体力に秀でており、この事から長州藩を圧倒した。
なお、第二次長州征伐において大門軍と戦った長州藩の前原一誠は大門軍を、時代遅れの元亀天正の頃(戦国時代の事)から出てきた化け物と評している。また、長州藩の記録には大門軍の部隊の中には火縄銃を走りながら発砲し再装填を行う部隊と遭遇したという俄には信じられない様な記録や、大門軍の鉄砲隊は異常な程、弾込めが早く早撃ちに優れている為、甚だ危険だとする様な長州藩の伝令記録も存在する。
戦いに参加した大門軍は江戸幕府に大きな不安を抱いたとされる。長州征伐に派遣された大門軍の司令官を務めた大淀景季は、幕府軍、甚だ脆弱なり国の守り甚だ不安、と大門に手紙を書いており、民会においても大門軍の重鎮が、このままでは西洋に対抗できず清の二の舞を演じるという主張がされ、議論されていた事が分かっている。これらの議論は火呂須にも伝わり、火呂須の親幕府の姿勢にも大きな影響を与えた物と考えられ、火呂須の民会においても同様の議論がされた事が分かっている。
また、定説ではないものの、近年登場した学説としては、火呂須と大門が一転して討幕派に加わったのには、火呂須と大門の王族の血筋が影響したという説もある。この説は火呂須と大門の王族は過去に徳川家と婚姻政策が行われている事から徳川御三家ではないものの、血筋を辿れば徳川家にも行きつく事から、火呂須と大門は江戸幕府を打ち倒し自分達の幕府を開幕しようとしたのではないかという説である。この説は京都大学の岡田昌義教授が著書の新日本史で提唱している説であるが、この説は説を裏付ける史料が発見されていない為、あくまで岡田昌義教授の推測に基づく説となっている。
1870年に勃発した戊辰戦争では、火呂須と大門は新政府軍に味方した。独自の兵士の大規模動員の仕組みを有していた火呂須と大門の兵士の動員可能数は当時の日本においては屈指であった為、戊辰戦争中、火呂須と大門は最大の兵士供給勢力だった。戊辰戦争における新政府軍の総兵力が22万であるとされるが、この内、火呂須と大門は双方ともに5万の兵力を出兵していた為、新政府軍の凡そ半数が火呂須と大門の兵士だった事になる。
戊辰戦争において、火呂須と大門の兵士は相も変わらず、伝統的な鎌倉・室町新鑼鑼甲冑の姿の兵士が中心となって参戦したが、大門軍の様相に関しては第二次長州征伐における経験から、鎧の色が赤では目立ち過ぎるとして、鎧が黒に変更されているという様な変化はあった。また、新政府方の勢力から欧米製の銃火器や大砲なども多くが供給された事から、使用された鉄砲の水準は第二次長州征伐時よりも高い物が使われる傾向となった。なお、それでも完全に火縄銃をミニエー銃化させた改造銃や単純な火縄銃が姿を消した訳ではなかった。
戊辰戦争において、火呂須と大門の内、最も目立った活躍をしたのは大門軍であったとされる。黒田清隆は火呂須軍と大門軍に関して、火呂須軍は人数が多く戦術も優れた面もあるが、薩摩や土佐の兵に比べると練度と士気は低いと評し、大門軍は装備こそ旧式ばかりだが、戦術、練度、士気のどれをとっても精強だと評した。
・近代
戊辰戦争後、火呂須と大門は新政府に協力した。特に創設されたばかりの日本軍において大きな役割を果たし、薩摩閥、土佐閥に並び、日本軍の一角を成す派閥である火呂須閥と大門閥を形成した。なお、火呂須閥に関しては他の藩閥に比べると限定的な影響力であったのに対して大門閥は薩摩閥に匹敵する大派閥だった。
火呂須閥は火呂須が古来から市民徴兵制を敷く関係から日本が新たに目指す富国強兵や徴兵制軍隊の創設の政策に貢献し日本政府は外国人専門家の他、火呂須からも多くの助言を求めたという。また、火呂須は徴兵制軍隊の創設だけでなく、議会制度の確立や国民の権利に関する分野においても日本政府に対して古来から民会を持つ立場から助言を行った。こうした火呂須からの助言は日本政府の制度設計に大きな影響を与えたと考えられており、後に日本政府は1891年にプロイセン憲法をモデルにした大日本帝国憲法を発布する事になるが、この大日本帝国憲法の条文の中の国民の自由と権利に関する条項に関して、火呂須の意見が反映された内容も採用された。また、1890年の市制および町村制の導入にも火呂須からの意見も参考にされた。この様な事から現代において火呂須は日本の市町村制の母などとも言われる事もある。
一方の大門閥は完全に軍事的な派閥に収まったとされる。なお、大門閥の評価に関しては火呂須閥が好意的な評価を受ける一方でそれと比較すると余り好ましい評価は現代に至るまで少ないのが現状である。原因として大門閥の存在によって日本の近代化が大きく阻害されたとの見方がある為である。日本政府や薩摩閥、土佐閥を筆頭に大門閥以外の多くは日本の軍制に関して、西洋化が急務である事を主張した。しかし、これに対して大門閥は武器の近代化については認めていたものの、歩兵装備や戦い方や制度までを全て西洋化する必要は無いと主張していた。
特に日本政府はフランス式に軍備や制度の統一化を決定していたが、大門閥や大門はこれに従わなかった。西洋化の推進を行う派閥は大門を非難し、土佐閥の北村重頼などは大門閥に対して、古い体制が江戸幕府が滅亡した原因であったと諭すと、大門閥の先山寛二は江戸幕府が滅亡したのは天下泰平の世にうつつを抜かし兵の教練を怠ったからであり、それに対して我らはどうかと返した。
有名な論争として甲冑口論が有名である。この論争は時代遅れの甲冑を廃し西洋式の軍服に統一するべきだとする日本政府や他の藩閥の意見と甲冑は時代遅れではないと主張する大門閥との意見対立である。この論争において西洋式の軍服に統一しなければならない理由として、甲冑のデメリットの点が多く挙げられた。これに対して、大門閥は何度も教練を怠っているからだや、工夫を怠っているからだと返したという。これに土佐閥の森岡正元などが論争中に話が通じん!と怒って部屋から出て行った話も残っている。
例えば、土佐閥の藤本太郎は甲冑は重くて動きにくいと指摘した。すると大門閥は教練を怠っているからだと答えた。幼い頃から訓練をし続ければ、甲冑を着ていても野や山を長時間、走る事も川を泳ぐ事も出来ると答えた。薩摩閥の山本権兵衛は甲冑を着ていては西洋の銃が扱い辛いと指摘した。すると大門閥は工夫を怠っているからだと答えた。甲冑に西洋式の銃専用の肩当を付ければ問題ないと答えた。この様な議論が甲冑口論では行われたと言う。
日本政府は軍事制度を西洋を基本とする事に決めていたが、大門閥はこれにも反対を示していた。日本政府が軍の西洋化を推進する一方で、大門閥は日本政府に対して独自の改革案を提示していた。それは、大門の軍事制度を参考にした軍事制度を日本全土において確立するという改革案である。大門閥の改革案の内容は、要点のみを簡潔にまとめると、西洋列強にも対応できる精強な軍隊を創設する為に、国民の階級を武民( ぶみん )文民( ぶんみん )下民( げみん )の3つに分け、武民は幼少の段階で親元から離し、以降は集団生活と軍事教練を50歳になるまでひたすら続ける事を基本とし、対する文民は経済活動に従事し武民の生活を税によって支える。下民は犯罪者とその子孫である。下民は軍事演習の際に兵力を提供し完全な殺傷能力を持った武器を使った完全な実戦形式の演習の演習相手として兵力を提供する。これが、大門閥が日本政府に対して提案した改革案である。この改革案はつまりは、大門が古来から脈々と続け江戸時代にさらなる発展を遂げた大門における軍国主義体制そのものである。当然の事ながら、この改革案はすぐに棄却された。
薩摩閥の山本権兵衛や西郷隆盛などは大門が提示したこの改革案について常軌を逸していると評している。山本権兵衛に至ってはこの改革案を見た後、徳川の世の方が遥かにマシと身内に述べている。
なお、なぜ大門閥がこの様な改革案を提出したのかについては、それなりの理由があった。それは大門閥が欧米列強の日本への介入の余地を極力排除するべきだと考えていた為である。大門閥は近代戦争に対応していない武器の西洋化は仕方ない事であるが、それ以外の西洋化する事に際しては国内への過度な欧米列強の介入を受ける可能性があると警戒していた。西洋式の軍服や靴などを整える為には、欧米列強から相当数の機械などを買い揃える必要があり、これを欧米列強による経済侵略になり得るとの見方をしていた。大門の軍国主義体制をモデルとした改革案の旗振り役の一人であった大門閥の大嵜尭平などは当時の国際情勢に精通しており、日本をインドにする訳にはいかないとし過度な西洋化に反対し大門閥の改革案を推進した。
この様に大門閥は西洋化を推進する日本政府や藩閥に対して西洋化に反対し、非常に硬派な保守派の筆頭格として存在感を示した。この為、創設された日本陸軍の様相は西洋化された軍服に身を纏った部隊と甲冑など旧来の装備を身に纏った部隊の混成となった。なお、兵士達の様相はこの様に分かれてはいたが、武装に関しては全ての部隊の近代化が進められた。これは、武装に関してはどの派閥も西洋式銃火器の導入の必要性に合意していた為である。
現在、これらの大門閥による主張に対する評価は、大門閥は独自の視点から当時の国際情勢を分析し日本を西洋列強から守ろうとしたと評価もされる一方で、大門閥の過度な西洋化の抑制方針によって近代工場の導入などが遅れ日本全体の近代化が抑制されてしまったと評価されている。また、大門閥が主張していた兵士の教育を強化し軍の精強化を図るという方針も日本各地の事情を一切顧みっていない主張であったと評価されている。
大門閥の主張の問題が露呈した事件として1871年には凡後事件も発生した。凡後事件は令制国の区分における凡後国に当たる地域の日本陸軍の練兵所で起こった事件である。大門閥に属する日本陸軍の将官らが徴兵された訓練兵らに対して非常に過度な訓練を行い211名の訓練兵の内、59名の兵士が死亡、38名が練兵所から脱走した。この事件は日本陸軍内で大きな問題となり、訓練を担当していた将官らが更迭処分を受ける事になっているものの、その後も大門閥が影響力を持つ各地の練兵所では過酷な訓練から兵士の脱走が相次いだ。
この問題に関して当時の大門閥の将官らが交わした手紙などが現代まで現存しており、それらによると大門閥の将官らは訓練兵が脱走している状況について憂慮しつつも脱走する訓練兵らや死亡した訓練兵に対して軟弱過ぎるなどといった様に訓練に耐えられない訓練兵を非難する内容の物が多かった。こうした大門閥の反応は一種のカルチャーショックであったと考えられている。大門の特に軍人は幼少期からの非常に厳しい軍事教練を当たり前としてきた。その為、他の地域においても自分達の軍制は導入できると考えていた。しかし、実際には他の地域では過去に一度も大門の様な苛烈な軍国主義体制は経験した事はなく、軍事教練の一つを取って見ても武士階級であっても当然、大門の様な事はしていなかった。その様な土地で大門が行っていた様な教練を導入し成功させるのは非常に無理のある話であり、土地の住民の事を様々な面で顧みない事であった。
こうした訓練兵の死亡事故や脱走問題は多方面に波及し、過酷過ぎる訓練の内容は多くの大衆に伝わり日本政府や日本陸軍に対する住民の反発を招いた。こうした反発は後の血税一揆にも直結する形で影響した。
なお、この様な大門閥ではあったが、自由民権運動を火呂須閥などと共に推進する立場でもあった。
兎にも角にもこの様に火呂須と大門の評価は様々であるが新政府を構成するメンバーだったが、その一方で火呂須と大門は四民平等の政策や1873年に行われた廃藩置県などの新政府の政策の影響は殆ど受けなかった。これは火呂須と大門がこの頃にはもはや日本人との同化によって意識的には半ば形骸化していたとはいえ、独立した国家であった為である。この時点においてはまだ新鑼鑼地方は政治体系や軍事制度などの独立性を保っていた。
しかし、その状況は大きく変わっていく事となった。そのきっかけは大門閥と日本政府や他の派閥との意見対立である。上記でも述べたように大門閥は日本の西洋化政策に反対し独自の改革案を主張していた。こうした背景もあり、大門閥は日本政府による四民平等政策や秩禄処分、廃刀令など武士の既得権益を剝奪する様な政策に強く反発した。大門閥は日本を守る為には武士階級が必要であるという主張を行い武士を弱体化させうる政策に反対した。
こうした大門閥に発生したのが大門閥排除(明治9年政変)である。それまで日本政府は意見が相反する大門閥に対して不満を募らせていたが、大門を含め火呂須は新政府軍に多大な人的貢献を行っていた為に政府の政策を円滑に動かす為には関係を無碍にはできなかった。しかし、1876年に全国各地で発生していた幾つかの士族の反乱や佐賀の乱、台湾出兵を日本軍が徴兵した兵士により成功を収めると、日本政府内や日本軍内では軍事的に自信をつけていった。そして、板垣退助らを筆頭に、もはや日本の軍は大門を頼る必要は無いとし、時代遅れの思想を持つ大門閥を政府から追放しようという運動が巻き起こった。この運動は大門に不満を持っていた多くの政治的派閥を中心に受け入れられていった。そして、起こったのが1876年の大門閥排除である。
1876年の年末から翌1877年の1月までに大門閥の軍人や政治家などの多くが閑職へ移動されたり、公職を解かれる出来事が起こった。これを大門閥排除と言う。これにより、それまで日本陸軍内において非常に大きな派閥勢力を有していた大門閥は大きく力を喪失した。なお、完全に大門閥の軍人や政治家が放逐され大門閥そのものが消滅した訳でなく、一部の軍人や政治家はこれを免れた。これらの大門閥処分を免れた軍人や政治家はその後も以前よりは規模が大幅に縮小はしたものの、派閥を形成し続け、日本政府内において現代から見て大門閥と呼ばれる派閥を形成し続けた。
大門閥排除により、日本陸軍はそれまで大門閥によって阻害されていた軍の西洋化が一気に推し進められ、1879年までには軍全体の様相が西洋式となった。
しかし、この大門閥排除は大門に大きな衝撃を与え、決定的な出来事となってしまった。大門内においては、日本政府に対する反発が強まった他、大門閥排除後に日本政府が火呂須と大門に対しても身分制度の撤廃などを求める政治的圧力がかかった事から、さらなる大門の反発に繋がった。なお、この日本政府による火呂須と大門に対しての身分制度の撤廃要求に関しては大門だけでなく火呂須にも日本政府に対する不満を与えた。
そうした中の1879年1月19日に九州地方において西郷隆盛を旗頭に西南戦争が始まった。西南戦争は当初こそは政府の政策に不満を持つ士族が政府による西郷隆盛の暗殺計画の露呈により、政府への尋問を目的に武装蜂起を起こした士族の反乱であった。それまでも士族の反乱は度々起きていたが、西郷軍による武装蜂起はそれまでの士族の反乱の中でも最大規模であり、2万から3万規模の士族が西郷隆盛を旗頭に武装蜂起した。これに対して日本政府は8万から10万人を動員して鎮圧に乗り出した。
戦いは概ねは日本軍の優勢で推移したとされる。それでも幾つかの戦いで西郷軍は日本軍を撃破もしたが、戦況自体は日本軍の優勢であった。しかし、そうした中の1879年7月10日。それまで静観を保っていた大門が突如として挙兵し西南戦争に参戦。西郷軍を討伐する為に派兵されていた日本軍を攻撃した。
日本政府や日本軍側はこの時期のこの大門の参戦を予見できなかったとされる。西南戦争が勃発した当初こそは、大門の参戦を警戒していたが、火呂須が大門は西南戦争に加わる事は無いと主張していた事や、日本政府内においても、大門閥排除によって日本政府内における大門の力は大きく削がれたとはいえ、完全に影響力が排除された訳ではないのだから、大門は西南戦争に関与する事はないだろうとする見方が広がっていた。
大門の参戦によって西南戦争は単なる士族の反乱で片づける事のできない規模の戦いへと発展した。大門軍が当初、投入した兵力は凡そ8万人。さらにその兵力は後になる程、増大し最終的には大門軍は15万人の兵力を動員した。大門は全ての健康な男性大門市民を動員し、二等市民階級や奴隷階級からも大規模な動員を実行した。これによって西南戦争は単なる士族の反乱から後に戊辰戦争をも上回る近代日本史上最大規模の内戦へと発展した。
なお、武装に関しては大門軍は日本軍と同等の武装を整えてはいたが、あまりにも動員数が多かった為に全ての部隊には、これらの近代装備は行き渡たらず、戊辰戦争で使われた様な旧式の火縄銃をミニエー銃化した改造銃や通常の火縄銃、和製大砲、大筒も大量に使われた。また、表向きは中立を保っていた火呂須からも秘密裏に大量の武器や弾薬の提供を受けた。
九州地方における戦況は大門の参戦によって状況が大きく変わった。戦況が劣勢であった西郷軍は大門軍と同盟を結び共同戦線を取った。西郷軍の討伐の為に部隊を展開させていた日本軍は大門の参戦の報を聞き、すぐに大門軍に対する備えを整えたが、9月24日までに大門軍及び西郷軍と激しい戦闘を繰り広げた末に、敗退し九州地方から撤退する事となった。これによって九州地方は大門軍及び西郷軍の支配下に置かれ、大門軍及び西郷軍は日本軍が撤退する際に残していった武器弾薬も入手した。
九州地方を制圧した大門軍及び西郷軍は10月末、山口県に上陸し中国地方へと進軍し戦いの舞台は中国地方へと移った。大門軍及び西郷軍は九州地方や進軍する先々で、日本政府の政策に反発する各地の士族を吸収しながら勢力を拡大させた。最終的な大門軍及び西郷軍側の最大兵力の正確な人数は不明であるが、少なく見積もっても25万人に達したものと見られている。これに対して日本軍も動員が可能なほぼ全ての兵力の総力を挙げて対応し20万人の兵力を動員した。
日本政府はこの大門軍の侵攻や士族の大規模反乱に際して、多くの平民に対して政府への協力を呼び掛けた。日本各地では大門軍や反乱を起こした士族に対するネガティブキャンペーンが実施され、大門軍に関しては第二次長州征伐における焼き討ち行為や、新政府樹立後に各地の練兵所で大門の将官が行った過酷な訓練の内容がクローズアップされ、もしもこの戦争に負ければ、その後の世に自由は無いと喧伝された。これらの喧伝に対して多くの平民からは日本政府を支持する動きがみられた。
内戦の構図としては平民階級の多くが日本政府を支持し、一方で政府に不満を持つ士族階級が大門軍及び西郷軍の勢力を支持する形となった(※九州地方や山口県においては西郷軍は民衆から支持された)。大門軍及び西郷軍の勢力に制圧された中国地方の地域の内、現在の広島県、岡山県、鳥取県では、大門軍及び西郷軍の勢力を支持しない平民を中心とした民衆による一揆などが起きた。この一揆に大門軍及び西郷軍の勢力はこれに悩まされる事となったが、大門軍と大門軍方に合流した士族はこれに対して一揆を起こした集落や地域などを焼き討ちしたり破壊するなどして全てを鎮圧した。一揆の首謀者や中心人物達は容赦なく首を刎ねられ晒し首とされたり、藁で身を包まれた上で火を点けられ公開処刑などにされるなどした。中でも大門の一揆撃ち( だいもんのいっきうち )と呼ばれる大門軍や大門軍方に合流した士族による攻撃法は一揆勢に恐怖を与えた。大門の一揆撃ちとは大筒を使った一揆の鎮圧方法の事で、大勢で迫る一揆勢に対して大門軍や大門軍方に合流した士族は至近距離から容赦なく大筒を発射して大勢の死傷者を出した。なお、この様な一揆の鎮圧について、西郷隆盛は反対し大門軍の上層部に書状を送り、即刻、止める様に要請している。
1880年2月、大門軍は京都に到達し桂川の戦いへと至った。この戦闘で大門軍は京都市内へと進軍し、日本軍及び警察と激しい戦闘を繰り広げた。大門軍は一時、京都御所を含む京都市内の重要施設の殆どを制圧したが、日本軍の増援が到着したという報を受けて大門軍が引いた事で桂川の戦いは終結した。しかし、この戦闘により京都市内の3分の2が焼失した。
この桂川の戦いにおいて、京都から近隣の自治体に脱出した京都の住民の中には京都市内に進軍してきた大門軍を見た人々もおり、こうした人々の中には "公方様(将軍様)が怒って戻って来らっしゃった!公方様が怒って戻って来らっしゃった!八つ裂きにされましょうぞ!八つ裂きにされましょうぞ!" と合唱しながら混乱状態になっていた人々も居た。こうした混乱状態は避難者からさらにまだ攻撃を受けていない周辺自治体にも飛び火したとされ、大門軍のさらなる進軍を恐れて町から逃げ出す人々が相次いだという。
大門軍及び西郷軍の勢力はここまで勢力を伸ばした。しかし、日本海軍が豊後水道及び瀬戸内海の封鎖に成功すると戦況は日本政府側に好転を見せる様になった。豊後水道及び瀬戸内海では大門軍及び西郷軍の勢力は徴発した商船を武装化した船や拿捕に奇跡的に成功した日本海軍のコルベット(金剛、比叡、龍驤)の他、コングリーヴ・ロケットを載せた小早船や、大門が所有していた三段櫂船や五段櫂船の甲板上に火呂須がドイツから輸入したクルップ社製の当時としては最新型の野砲や同最新型の野砲を独自に改造し防楯付きの旋回砲化した物を搭載したりなどして投入していたが、日本海軍との戦力的差を覆す事はできず、一定の時間稼ぎの効果はあったものの、豊後水道及び瀬戸内海の制海権は日本政府側によって奪取される事となった。
なお、この封鎖直前に西郷隆盛は九州地方の補給担当者と本州へ運ぶ食料量の調整の為に一旦、九州地方へと引き上げており、封鎖によって本州に取り残されずにすんだ。この西郷隆盛の九州地方の引き上げは後に、この西南戦争自体の行方を左右する重要な意味を持つ出来事となった。
補給路が遮断された事によって武器弾薬の補給がなままならなくなった中国・近畿地方の大門軍及び西郷軍の勢力は京都一帯における戦いや、大阪府内への一時的な侵攻をピークに次第に戦線を後退させていった。1880年10月、日本軍が広島の奪還を目指して進軍し広島の戦いが勃発。激戦の末、この戦いで大門軍及び西郷軍の勢力は大敗し大きな被害を負った。この戦いによって本州における戦いの推移は事実上の決着がついた。
同年11月、山口の戦いが勃発。もはや戦いの結果を悟った大門軍はこの戦いで最後まで温存していた武器や弾薬の全てを投入し日本軍との決戦に挑んだ。壮絶な激戦の末、大門軍の主力部隊は壊滅。これによって本州における西南戦争の組織的な戦闘は日本軍の勝利によって幕を閉じた。
これら一連の本州の戦いにおいて大門軍の内、大門市民権を持つ者で構成された大門軍の主力部隊は日本軍と何度も最前線で積極的な激戦を繰り広げたものの、山口の戦いまで兵力をある程度、温存した。これは大門市民権を持つ者で構成された大門軍の主力部隊が如何に精強かつ訓練された兵士であった事を物語っている。なお、その一方で2等市民階級の大門軍の兵士の消耗は西郷軍とほぼ同等であったとされ、奴隷階級の大門軍の兵士の消耗は大門軍及び西郷軍の勢力の中でも最も激しかったとされる。奴隷階級の大門軍の兵士は士気が非常に低かったと伝えられており、同じ大門軍でもその練度や士気には出身身分ごとに違いがあった。
本州に出兵していた大門軍が敗北した事は大門軍及び西郷軍の勢力に大きな衝撃と落胆を与えた。大門軍が事実上の大門軍及び西郷軍の勢力の主力部隊であった為である。本州への進軍の結果は海上補給路が遮断された事により物資が不足した結果、一時は優勢に進めていた戦況を覆されるという結果に終わってしまった。九州地方には依然として大門軍及び西郷軍の勢力の兵力が温存されてはいたが、主力部隊を失った大門はもはや主力足り得ず、西郷軍に関しても多くの士族を取り入れて勢力が拡大されていたものの、指揮系統に不安が残り、また、弾薬はあったものの、最新鋭の銃火器の多くが本州に送られていた為に、武器も不足気味であった。
大門では本州へと派遣していた軍団の敗北を受けて、臨時に新たに、それまでは軍役なども無かった大門市民の女性までもが臨時に動員され、二等市民階級や奴隷階級からも新たな動員が行われた。しかし、それらの動員された人々全員に行き渡るだけの銃火器はもはや残されていなかった。大門は火呂須に対して参戦を要請したが、火呂須は回答を避けた。
それでも、大門軍及び西郷軍の勢力は防備を固め、日本軍の九州上陸に備えた。しかし、そうした中の12月28日、これ以上の戦闘により、さらなる犠牲者や被害が出る事を憂慮した明治天皇が西郷隆盛や大門の王及び民会に対して使節を派遣し講和交渉が行われる事が決定した。西郷隆盛はこの講和交渉を承諾し日本政府との間で講和交渉を主導的に進める立場となった。西郷軍内では降伏に反対する士族も多かったものの、西郷隆盛はこれらの反対派の士族を説得した。これによって西郷軍は1881年1月13日、日本政府に対して降伏。西郷隆盛ら西郷軍の首脳陣の身柄を東京に置く事を条件に西南戦争に関わった西郷軍の面々の罪を恩赦によって免除する事が決まった。
一方で大門においても講和交渉が進められた。日本政府は大門に日本軍を駐屯させる事、身分制度を廃する事、軍備の制限を要求した。その代わりとして、西郷軍と同じく首脳陣の身柄を東京に置く事を条件に西南戦争に関わった大門軍の面々の罪を恩赦によって免除する他、大門の存続を許すとした。これに大門の民会は紛糾したが、最終的にはこの講和条件を呑む事で決着した。大門の長老会や監督官、民会はもはやこれ以上の戦闘は犠牲者をいたずらに増やすだけと判断した。
こうして2月2日、日本軍は九州地方への上陸を開始し、九州地方を無血占領した。西郷軍は日本軍に対して武装解除し、講和交渉の取りまとめ通りの扱いとなった。
2月6日には大門領内への日本軍の進駐が開始された。12日に日本軍の駐留に反対する大門軍の一部部隊が反乱を企てる事件が発生するなどしたが、これは事前に大門軍によって鎮圧され事なきを得た為に、概ね問題なく日本軍の駐留は進んだ。なお、反乱を企てた大門軍の部隊は九州地方に展開されていた大門軍の部隊の一部であり、本州に派遣はされていなかった為、損害は殆ど受けていない部隊だった。
なお、火呂須に対しても日本政府は反乱勢力に弾薬や武器を提供したとして大門に対する要求と同じ要求を行っていた。火呂須は日本海軍による軍事的な圧力を受け、日本政府の要求を承諾。これによって史上初めて新鑼鑼地方は日本の政府による直接の占領下に事実上おかれる事となった。
これらの講和条件の受諾によって、近代日本における最大規模かつ最後の内戦となった西南戦争は終結する事となった。
西南戦争は日本に甚大な被害を与えた。その被害は戊辰戦争による被害規模を遥かに超える。多くの破壊行為によって各地の集落や街が甚大な被害を受けた他、交戦した両勢力の人的被害も深刻であった。大門軍及び西郷軍の勢力の戦死者数は約4万6千人、一方で日本側の戦死者数は5万7千人と大門軍及び西郷軍の勢力よりも被害が大きかった。日本陸軍は第一師団がほぼ全滅する被害を出した他、他の部隊も深刻なダメージを受け、このダメージを回復するのには、それなりの時間を用する事となった。また、戦費がかさんだ事により、東京の近代化を目指した後の欧化政策に遅れが生じた。
西南戦争中の大門軍について、西南戦争中に本州で大門軍と日本陸軍の第4師団の師団長として戦った高島鞆之助は台湾副総督時代に "我が軍は結局、敵の補給の寸断をしなければ正々堂々と正面からは終ぞ大門軍を撃破する事は出来なかった" と述べ "大門兵は終始、勇猛果敢であり、彼らは武士では無いが正( まさ )しく武士の誉れの様な兵達であった" と大門を賞賛する内容を台湾の新聞社の取材で語っている。高島鞆之助と同じ様に西南戦争時に実際に大門軍と戦った日本軍の指揮官の多くは戦後に大門軍を高く評価する人々が多かった。
※西南戦争中にドイツ人写真家のミヒャエル・モーザーが大門軍及び西郷軍の勢力の実質の統治下に置かれた九州地方で撮影した写真。大分市内に開かれた町奉行所前の様子。槍を持った足軽姿の門番が居るのが分かる。大門軍及び西郷軍の勢力の実質の統治下に置かれた地域の内、九州地方や山口県及びその周辺地域では行政機関として奉行所が復活し、治安維持の為、この様な町奉行所が各地に設置されていた。この様な町奉行所はその地域の旧藩の士族達によって運営された。大門軍及び西郷軍の勢力の実質の統治下に置かれた地域では士族の権力が復権した。
※西南戦争中にドイツ人写真家のミヒャエル・モーザーが大門軍及び西郷軍の勢力の実質の統治下に置かれた九州地方で撮影した写真。町奉行所のお白洲で行われた裁判の様子。髷を結った裃姿の町奉行所の役人たちが居るのが分かる。
※西南戦争中にドイツ人写真家のミヒャエル・モーザーが大門軍及び西郷軍の勢力の実質の統治下に置かれた九州地方で撮影した写真。佐伯市内の茶屋前で撮影された写真。大門軍の戦士と西郷軍の兵士、数名が団子などの軽食を食べている様子。スナイドル銃やエンフィールド銃、シャスポー銃、マルティニ・ヘンリー銃の姿が確認できる。
こうして西南戦争は終結し、講和条件に基づく新たな体制が新鑼鑼地方では始まった。火呂須と大門では身分制度が事実上撤廃され、火呂須においてはそれまで、火呂須市民権を持つ住民と持たない住民、火呂須が事実上完全支配をする火呂須の衛星都市国家の市民権を持つ住民、何処の市民権も持たない住民に分かれ、火呂須市民権を持たない住民は事実上の二等市民として扱われ、何処の市民権を持たない住民はそれ以下の扱いを受けたが、火呂須市民権が火呂須の支配地域全域の住民に与えられる事となった。大門でも大門市民権が拡大され、二等市民階級、奴隷階級の住民が全て大門市民とされた。
火呂須と大門の軍備は、大幅に制限され、それぞれが、500名以上の軍隊を結成する事を禁止にした他、大門に関しては古来から続けていた厳しい軍事教練が禁止され、17歳以下の子供を強制的に親元から離し集団生活や軍事教練を受けさせる事や、大門が古来から60歳までと定めていた軍務期間を40歳までに制限する事などが行われた。また、軍隊では甲冑や着物を着る事は禁止にされ軍隊を編成する場合は西洋式の軍隊である事と定められた。
この様に火呂須と大門の軍備を制限する代わりとして、日本政府は新鑼鑼地方の防備を日本軍が担う事とした。
しかし、これらの身分制度の撤廃や軍備の制限は多くの反発を呼び、1882年、大門において元々、二等市民階級であった住民達が奴隷階級と自分達の身分が同一とされた事に反発し日本政府に対する一揆を起こした。この一揆は身分一揆と呼ばれ、元二等市民階級の住民達は元奴隷階級の住民を襲撃し、これに対して元奴隷階級の住民も元二等市民階級の住民を襲うという報復合戦となった。この一揆に際して大門政府は大門軍を動員し鎮圧にかかるが、この大門軍の部隊も一揆勢力に加わる事態となり、駐留する日本軍に対して救援を要請し、駐留日本軍が一揆の鎮圧を図る事態となった。
この、身分一揆は隣の火呂須にも影響した。日本政府に不満を持っていた火呂須軍はこの身分一揆の情報を知った際、火呂須軍はこの一揆を大門人による日本政府に対する蜂起だと捉えた。これに火呂須軍は呼応する形で武装蜂起し、火呂須領内の日本軍の駐屯地を襲撃し武器弾薬を強奪した。こうして勃発したのが火呂須の乱(火呂須戦争とも言う)である。武装蜂起した火呂須軍は火呂須の民会を襲撃、日本政府に近かった議員を処刑した後、火呂須王を捕えた上で火呂須政府の完全掌握を宣言した。
火呂須の乱はすぐに駐留していた日本陸軍が鎮圧に乗り出した為に、火呂須市街地での市街地戦(火呂須の戦い)を経て直ぐに鎮圧された。なお、この火呂須の乱は日本の歴史上、最後に甲冑が本格的に使われた事件として知られている。大門軍は日本政府から課された様々な規制によって、甲冑を着るが禁止されていたが、火呂須に関しては甲冑に関しては特段、取り決めが無かった事もあり、軍で使用する事が許されていた。火呂須軍は西南戦争までは大門とは違い西洋式軍服の導入を積極的に行うなど、西洋化した軍隊を編成していたが、西南戦争後に軍備を制限されると軍では日本政府に対する反発が広まった事もあり、西洋式の軍服を完全に廃し鎌倉・室町新鑼鑼甲冑としていた。その為、火呂須の乱において火呂須軍は鎌倉・室町新鑼鑼甲冑を使用し、その結果、火呂須の乱は日本の歴史上、最後に甲冑が本格的に使われた事件となった。
しかし、こうした一連の身分一揆や火呂須の乱は新鑼鑼地方のその後の歴史に重大な影響を与える事となった。
同年、日本政府はこれらの新鑼鑼地方での一揆や反乱を受けて、こうした動きが拡大し再び士族の反乱の様な国内の動乱に拡大する事を恐れた。日本政府は新鑼鑼地方の政治体制が日本と違う事を問題視した。伊藤博文などは "新鑼鑼人は日本人の民と何ら変わらないのにも関わらず、統治が分かれているのは不合理" だと述べた。こうした日本政府内の声が高まった事を背景に、日本政府は火呂須と大門の政府に対して、日本国への完全な行政の統合と日本国の領土への正式な編入を行う事を通知した。この時点で火呂須は火呂須の乱の影響により火呂須政府は臨時とはいえ完全に日本政府の統制下にあり、大門に関しても大門政府は依然として国王、長老会、監督官、民会が権力を維持しており、この日本政府の決定に対してこれまで通りの関係を求める反発も起こったが、身分一揆で大門軍が一揆勢に加わり日本軍に救援を要請した影響により、大門全土は日本軍の統制下にあった事から、最終的な決議では民会は日本政府の決定に従う事を議決した。長老会や監督官も民会の決定を支持し、2人の大門王もこれを承認した。これによって新鑼鑼地方は正式に日本領として併合される事になり、火呂須と大門の政府及び統治機構は解体され消滅した。これによって新鑼鑼人の神話によれば遥か紀元前の時代より続いていた火呂須と大門は滅亡する事となった(新鑼鑼処分)。
火呂須の王族の他、貴族は華族とされ、市民権が拡大されるより前から火呂須市民権を持っていた住民は士族に、それ以外は平民とされた。大門は大門の2つの王族とその王族に近い家が華族とされ、市民権が拡大される前から大門市民権を持っていた住民と二等市民階級の住民が士族に、それ以外は平民とされた。なお、これは余談であるが、これによって旧大門地域の士族人口は日本国内において最大規模の人数となった。大門における大門市民と二等市民階級を合わせた人口の割合は大門の総人口の3割にまで達しており、これは日本国内の武士の割合が平均で7%であったのと比較すると圧倒的な数字である。
新鑼鑼処分によって新鑼鑼地方には、旧火呂須の地域に内海県( ないかいけん )、巧像県( こうぞうけん )が置かれ、旧大門の地域には国越県( くにごえけん )、日海県( にっかいけん )が置かれた。新鑼鑼処分は翌年に行われた琉球処分にも影響を与えたと考えられており、新鑼鑼地方が正式な併合を受けた事で日本政府は琉球に関しても併合を進める方向に舵を切ったものとされている。この設置された4県はその後、1931年まで存続した。
この様に新鑼鑼地方は完全に日本に組み込まれる事となったが、同じく併合された琉球(沖縄県)が政治的な影響力を殆ど失ったのに対して、新鑼鑼地方の場合は、日本政府内に火呂須と大門の出身の派閥がその後も存続を続けていた為、一定の政治的影響力はその後も保持し続けた。
特に日本の政策に影響を与えたのが、征韓論であるとされる。火呂須閥、大門閥の双方の派閥は征韓論を支持しており、日本政府内における征韓論の伸張に同じく征韓論を主張する他派閥と協調して大きく影響を与えた。
新鑼鑼地方はその後、1896年に勃発した日清戦争における朝鮮出兵における日本軍の出動拠点となり、1910年に大韓帝国が日本との間で結んだ併合条約によって日本領に併合されると、新鑼鑼地方は朝鮮地域と日本を結ぶ重要な地域となり九州地方から朝鮮地方へ続く朝鮮半島横断鉄道の建設や道路の建設が行われた。
1929年、新鑼鑼地方にある4県を統合する計画が持ち上がった。この計画は新鑼鑼地方4県を一つの県に統合しようという物だった。しかし、この計画には反対論が噴出した。新鑼鑼地方は山々が多い為、4県を1つに統合すると県庁所在地が1ヵ所となり、行政手続きを行うのに非常に不便だとの指摘が相次いだ。また、旧火呂須と旧大門の地域が一つとなる事についての反発も住民の間では起こっていた。こうした反対意見は県会議員にも波及し県会には合併に反対する反対議員連盟も結成されるなどした。こうした反対運動の結果、4県を1つの県に統合しようする初期の合併案は棄却される事となった。
その後、議論の末、1931年、第3次府県統合として新鑼鑼地方の4県は2県に統合される事が決定した。この決定により内海県と巧像県は美国県( みくにけん )、国越県と日海県は新道県( しんどうけん )に統合された。
新鑼鑼地方は第二次世界大戦までに朝鮮地域と九州地方を結ぶ物流中継拠点としての発展した他、亜鉛や銀や鉛が産出した事から採掘産業も発展した。
第二次世界大戦中は、朝鮮地域と九州地方との物流網を寸断する為、アメリカ軍の爆撃機や戦闘機による鉄道や鉄道施設に対する空襲を受けた。日本軍の本土決戦計画においては新鑼鑼地方は山岳地帯が多い為、山岳地帯の地形を生かした防衛計画が練られた。なお、幸いにも本土決戦は起こらなかった為、この計画が実行される事はなかった。
・現代
日本が連合国に降伏してからは、中国地方や四国地方と同じ様にイギリス連邦占領軍(イギリスれんぽうせんりょうぐん、英:British Commonwealth Occupation Force, BCOF, ビーコフ)管轄の占領地域となり、1955年まで占領統治を受けた。
朝鮮戦争においては、日本から韓国に展開する国連軍の物資の物流中継拠点として既存の鉄道や道路などが使用された他、イギリス連邦占領軍の基地などが国連軍の後方基地として使用された。朝鮮戦争中に最も新鑼鑼地方が重要視されたのが釜山橋頭堡の戦いである。北朝鮮軍による攻撃によって韓国軍は釜山一帯の地域以外の支配を喪失し激しい攻撃にさらされた。この際に韓国軍や国連軍の補給線を支えたのが新鑼鑼地方から韓国へ繋がる鉄道や道路である。釜山橋頭堡の戦いは国連軍が勝利し、その後、国連軍と韓国軍は北朝鮮軍を38度線まで押し返す事に成功した。
なお、釜山橋頭堡の戦いの最中、新鑼鑼地方は日本国内では第二次世界大戦後としては初めてとなる空襲警報が複数回に渡って鳴った地域となった。北朝鮮軍は国連軍の補給路を遮断する為にMIG‐15戦闘機による空襲を実施し、鉄道施設への攻撃を複数回に渡って試みた。この攻撃の殆どは連合軍によって阻止されているが、1950年8月13日に、MIG‐15戦闘機3機が新鑼鑼地方上空へと侵入し、大門市の近郊を走っていた国連軍の燃料輸送列車を攻撃する事件が発生している。この攻撃によって燃料輸送列車が爆発炎上し周辺の民家を巻き込む大火災へと発展し燃料輸送列車の乗員2名、民間人19名が死亡、12名が負傷する惨事となった。この事件は北朝鮮が戦争に参戦していない日本に対して行った攻撃として国連総会にて西側諸国から非難された他、日本国内においては終戦記念日の僅か2日前に起こった第二次世界大戦後としては初めての空襲であった為に大きな衝撃と動揺を与えた。北朝鮮外務省はこの攻撃について、日本は実質的な参戦国であるとして攻撃を正当化する主張を日本国外務省に送り付けた。
また、新鑼鑼地方には朝鮮戦争中、多くの韓国人避難民が押し寄せその数は3百万人を越えた。日本政府はこれらの避難民への対応として新鑼鑼地方や九州地方に複数の避難民キャンプを設置するなどの対応をとった。なお、朝鮮戦争後、これらの避難民は一部を除いて大半が日本政府による帰国事業によって1990年までに韓国へと帰国した。
1952年、韓国の大統領、李承晩は李承晩ラインという韓国独自の領土区分の境界線を主張した。李承晩は新鑼鑼地方について、朝鮮地域と九州地方の中間より以南の地域は韓国の領土だと主張した。これに対して日本政府は新鑼鑼地方は日本国の固有の領土だと反論した他、アメリカ政府も日本の領土であると日本政府の立場を擁護した。しかし、そうした中、李承晩ラインを越えた日本の漁船を公海上で韓国が拿捕する事件が相次ぎ、1953年4月20日には韓国の独島義勇守備隊が日本の竹島を占領。そして同年5月11日、新鑼鑼地方においても事件が発生する事となった。
1953年5月11日、韓国の新鑼鑼義勇守備隊が日韓国境線を侵犯し、新鑼鑼地方の北部地域を占領した。この際、日本の警察官や市町村役場の関係者、民間人が殺害や虐待を受けた。日本は韓国の領土侵犯に対して、当初、有効的な対策を打てなかった。当時、日本政府は過激な反日政策を採る李承晩政権を刺激しない政策を採っており、新鑼鑼地方への保安隊の配備は李承晩政権を刺激するという政府の考えからされていなかった。しかし、これを李承晩政権はこれを日本から新鑼鑼地方を奪取する好機と捉え韓国軍の先遣隊を領土侵犯させた(韓国軍新鑼鑼侵犯事変)。
この事件に日本政府は保安隊を動員し韓国政府を非難した上で韓国軍に対して即日、即時の退去を勧告した。しかし、韓国軍との武力衝突を恐れた当時の吉田政権は保安隊を新鑼鑼地方へは派遣せず九州地方に留まらせた。この日本政府の対応は後に多くの国民から非難される事となり、吉田政権は支持率を急落させた。
アメリカ政府はこの事件を韓国が軍事的に暴走していると捉えた。12日、アメリカ政府は韓国政府を非難する声明を発表し新鑼鑼地方からの即日撤退を要求した。しかし、このアメリカ軍の要求に韓国側が反応を示さないと3日後の15日に在日米軍が出動し新鑼鑼地方に展開。新鑼鑼義勇守備隊との武力衝突こそ無かったものの、新鑼鑼義勇守備隊に対して軍事的圧力をかけた。こうしたアメリカ側が日本を全面的に支持する姿勢を見せた事から17日、李承晩政権は新鑼鑼義勇守備隊の撤退した。
李承晩政権はこの新鑼鑼地方の占領に際してアメリカには大使館を通じて事前に新鑼鑼地方に存在する在日米軍基地には一切手を出さない事を伝えていたとされる。しかし、アメリカ側はこの李承晩政権の行動を良しとしてはおらず、韓国側に軍の派兵を止める様に求めていたが、李承晩政権はこれを無視した。竹島を占領した際にアメリカが動かなかった事から李承晩政権は新鑼鑼地方を占領してもこの問題には深く介入はしないだろうという予測をしていた。しかし、実際はアメリカ側の激しい怒りと介入を招く事となり、李承晩政権による竹島の様に新鑼鑼地方を日本から奪取しようという試みは失敗する事となった。
この事件は当時の日本政府側の姿勢が事件後に大きく問題視された。国民からは保安隊を派遣し国民の保護を行わなかった政府に対する批判が集中し、吉田政権の外交姿勢は、吉田の弱腰外交などと非難された他、アメリカ政府からも自国の防衛に対する姿勢に苦言を呈された。アメリカがこの事件に介入の意志を示したのには、幾つかの理由が示されており、李承晩政権がGHQが設定したマッカーサー・ラインを無視し一方的に李承晩ラインを設定した事や、韓国による竹島の占領によって、この問題に対するアメリカ政府の立場を難しくさせた韓国政府に対する懲罰。在日米軍基地の存在や、韓国への軍事物資の陸上輸送路が新鑼鑼地方にあった事などのアメリカ軍の実務的問題など。これらの理由が挙げられ、これらの理由は後に当時のアメリカ国防総省長官のディーン・アチソンがアメリカ議会の公聴会でこの問題に関する質問を受け発言を行った際に述べられた。この発言から分かるのは、もしも新鑼鑼地方に在日米軍基地や韓国への軍事物資の輸送路が無ければ、新鑼鑼地方はそのまま竹島と同じ様に韓国に占領される可能性があったという事であった。
吉田政権は国民による批判に晒されたが、この事件は後の保安隊の自衛隊への改称の際に、大きな影響を与え、それまでは再軍備に関しては保安隊の存在ですら激しい批判などが国内で発生していたが、保安隊の自衛隊への改称の際には国民世論はこの事件の影響もあり、それ以前までよりは再軍備の方針に賛成する人々が増えたとされる。主に沖縄を除いた関西以南の府県の住民の間で自国防衛の為の最低限の軍事力の保有に関しては賛成派が増加した。
この傾向が非常に良く現れたがベトナム戦争であるとされ、ベトナム戦争中、日本国内では非常に多くの反戦運動が巻き起こったが、関西以南では関西以北で起こった反対運動と比べるとデモや暴動の発生件数は比較的ではあるが少ない傾向だった。
韓国軍新鑼鑼侵犯事変は新鑼鑼地方の人々に韓国に対する深刻な不信感を植え付けた。この影響は非常に大きく、1965年、日本の佐藤政権と李承晩政権が日韓基本条約を批准し両国の関係改善が進められ、これ以降、両国間の貿易が拡大する事となったが、当然、貿易が拡大した事によって新鑼鑼地方の鉄道や道路が使用されたが、新鑼鑼地方の人々は韓国との国交に反発し、各地でデモや暴動が起こった。1967年3月7日には韓国行の貨物列車がデモ隊に襲撃され、貨物の中身が列車の外に引きずり出され灯油をかけられ燃やされる暴動事件も発生した。
1969年、火呂須市内で韓国人ビジネス客をターゲットとした連続集団リンチ殺人事件が起こった事を受けて、日本政府は韓国との国交樹立後、新鑼鑼地方での定期的な抗議デモや暴動が治まらなかった事も影響して鉄道以外の道路での国境横断に関してはアメリカ軍や国連軍などの活動を除いて全面的に禁止とする事にした。また、鉄道に関しても客車は新鑼鑼地方を快速で通過しそのまま九州地方の駅へと向かう処置がとられた。この処置は2002年まで続いた。
1980年、新鑼鑼地方において観光産業の促進の為、県名を美国県から火呂須県に、新道県を大門県に、それぞれ古来の地域名称に変更しようという運動が地元の観光協会や県議会議員を中心に巻き起こった。県民投票も行われ、この運動は両県民の支持を受け両県議会は国会に対して県名の変更を求める要望書を送った。
この要望書はその後、1991年まで国会で審議される事となったが、最終的には国会は美国県と新道県の県名変更を認める決定を賛成多数で議決し、これによって同年10月9日、美国県と新道県はそれぞれ県名を美国県は火呂須県に、新道県は大門県に変更した。これによって実に109年ぶりに火呂須と大門の名前が復活する事となった。
なお、火呂須と大門の地名復活は沖縄県にも影響を与え、沖縄県内において沖縄県を琉球県という県名に変更しようという運動も起こった。しかし、沖縄県の名称変更に関しては、1996年の県民投票で僅差で沖縄県派が多かった為、変更される事はなかった。
※現在の新鑼鑼地方の県と県庁所在地。
2002年、日本政府は1969年より続けていた新鑼鑼地方における国境の交通制限を撤廃し通常の国境管理体制に戻す事を決定した。新鑼鑼地方では依然として反対意見も多かったものの、通常の国境管理体制に戻された後も特に大きな混乱が起きる事はなかった。警察庁は事前に事件や騒動が発生する事を見越して新鑼鑼地方に3,000人の機動隊員を派遣していたが、これらが出動する事態にはならなかった。
2003年、マケドニア共和国(現在の北マケドニア共和国)のキロ・トライコフスキ大統領が日本への初訪問の際に火呂須県と大門県を訪問した。
2004年、日本データーバンクが行った世論調査によると、新鑼鑼地方で韓国に対して反感を持つ人々の割合は全体の6割に達したが、これは1999年に行われた同様の世論調査では8割に達した事を考えると大幅に改善した結果となった。世論調査では高齢になるほど韓国に対して反感を持つ人々は多く、若い世代ほど、好感をもっている人々が多いという結果が出た。この数値は年々、改善し2018年には韓国に対して反感を持つ人々の割合は5割にまで低下した。しかし、2019年以降は割合が再び増加し8割が反感を持つという結果となった。この数値は全国屈指の結果である。
2005年、火呂須県と大門県は県内の歴史的建造物や遺跡、田威夏鳥山などの古来宗教上重要な場所などのユネスコの世界遺産登録を目指すユネスコ世界遺産登録推進委員会を発足。2007年、火呂須市と大門市の旧市街地がそれぞれユネスコの世界遺産に登録。2009年、田威夏鳥山が世界文化遺産に登録。2012年、新鑼鑼地方の伝統料理がユネスコの無形文化遺産に登録。2018年、火呂須市と大門市の旧市街地にある物を除く、新鑼鑼地方の元寇以降に建造され現在まで現存し使用されている新鑼鑼様式の神殿や、元寇を生き延びその後も現在まで現存し使用されている神殿が、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
2011年、大門県観光協会が香川県のうどん県宣言をオマージュし、大門県内の銅像設置件数が断トツで全国一である事から銅像県宣言を出した。また、同年中、大門県には日本で最もまずい料理と言われる大門県の郷土料理、目沙流臓物(めざるぞうもつ、μέλας ζωμός)がある事から自虐的に飯マズ料理世界王者の宣言も出した。
2012年、大門県観光協会の銅像県宣言に触発され火呂須県観光協会は、火呂須県の石像の設置件数が全国一である事から石像県宣言を出した。
2016年、大門市内にイオンモール大門がオープン。
2019年、慰安婦問題や徴用工問題、日本が韓国に対する安全保障貿易管理のホワイト国指定を解除した問題、韓国海軍レーダー照射問題などの問題等により日韓関係が過去最悪の水準にまで悪化すると、2002年に撤廃した新鑼鑼地方における国境の交通制限を再び再開した。なお、この交通制限に関しては鉄道のみは従来通りの運航スケジュールとされ2002年まで行われていた交通制限よりは緩やかな内容となった。
この交通制限処置に関して日本国内の幾つかのメディアは政府の対応について、やりすぎとの認識を示したが、新鑼鑼地方で行われたこの交通制限処置に関する賛否を問う世論調査では各社の世論調査共に8割から9割近い住民が日本政府の決定を支持している結果が出ている。その一方で韓国人観光客が来ない事による観光産業の影響についての企業調査も行われ新鑼鑼地方の6割近い観光業者が影響があると回答し、経営者調査では日本政府の交通制限処置の決定に反対する観光業者は5割に達した。
なお、韓国は2018年の新鑼鑼様式の神殿の世界文化遺産登録に際して、登録前、多くの朝鮮地域出身者が奴隷として酷使されたとして、その事を説明する記述した説明版を設置する様に求めるなどしており、この韓国側の要請に対して火呂須県と大門県が反発する問題も起こっており、新鑼鑼地方における反韓感情はこの時には既に増加傾向にあったとされる。
2019年11月、火呂須県議会と大門県議会は韓国に対して元寇時に高麗軍によって破滅的な破壊行為、残虐行為、虐殺行為が行われたとして謝罪と6300億円の賠償を求める共同決議を議決した。この共同決議を火呂須県知事と共に主導した当時の大門県の大里進( おおさとすすむ )県知事は韓国の大統領が日本に対して加害者と被害者という立場は、千年過ぎても変わらないと述べているのだから、我々もまだ時効ではないと述べた。この決議に対して韓国政府は嫌がらせだと火呂須県と大門県を非難した。一方で日本政府は対立のエスカレートを懸念し両県に自制を求めた。
この火呂須県と大門県県の決議が行われた背景について韓国メディアは、火呂須県と大門県は韓国がユネスコに対して、日本が2018年に登録された新鑼鑼地方の各地の神殿の世界文化遺産について、これらの遺跡に朝鮮からの奴隷が酷使された事の説明がされていない事を受けて世界文化遺産の登録取り消しを求める運動を起こした事に対する報復行為だと報じた。また、賠償請求額の6300億円については、徴用工問題における徴用工の全体数(6万2784人)×2018年10月30日に韓国の大法院(日本における最高裁判所)が日本の新日本製鉄に対して元徴用工1人辺りにつき約1千万円の賠償を命じた賠償請求額を四捨五入した額であり、明らかに最近の韓国の日本に対する対応を意識した報復行為だと報じた。
こうした火呂須県と大門県の決議について、日本の国内世論は反対する意見が多数であり、主に、こんな請求をすると韓国と同じになるという意見が多いという結果となった。しかし、その一方で、火呂須県と大門県県で行われた世論調査では歴史的経緯がある為か、賛成と反対が拮抗するという結果になった。
2019年2月、火呂須市内にコストコ火呂須店がオープン。2019年8月、イオンモール火呂須がオープン。
2020年の新型コロナウイルスのパンデミックに際してはクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号が火呂須港に停泊し防疫処置を受けていた事から日本国内のみならず、世界的なニュースとなった。
・新鑼鑼人はいつから日本に組み込まれたのか
2018年に火呂須国際基督教大学によって行われた火呂須県と大門県に住む外国出身者もしくは生まれが外国人配偶者からではない住民1万人を対象に県民意識を調査した最新の世論調査では、自分はなに人かという問いに対して、97%の県民が自分は日本人だと回答した。新鑼鑼人、日本人、新鑼鑼人と日本人の両方の3択の質問では、新鑼鑼人が20%、日本人が32%、新鑼鑼人と日本人の両方が48%の回答だった。新鑼鑼地方は日本から独立するべきかという質問では95%が独立すべきでないと回答した。
この世論調査の結果から、現在の新鑼鑼地方の住民は大勢が完全に日本人であると言える。しかし、歴史的に見た場合、新鑼鑼地方の住民が一体いつ頃から明確に日本化したのかには諸説ある。概ねの学説では元寇以後に日本化が始まりを見せたという事で一致しているが、それ以降は採用する学説によって完全に日本人化したとされる時期に違いがある。これは新鑼鑼人が徐々に日本化していった為である。
例えば、関ヶ原の戦いにおいて、新鑼鑼人は徳川家康率いる東軍についたが火呂須と大門は関ヶ原での戦いに兵を派遣する打診を行っているが、東軍は火呂須と大門を外国の力を借りる事に反対する意見が出た事から断っている。この事から当時の日本側は新鑼鑼人を外国人だと見ていた事が分かる。島原の乱においても兵の派遣を幕府側に打診しているが、同様の理由から断られている為、この時期において日本側の認識は外国人であった事が分かる。
江戸時代、新鑼鑼通信使が江戸に定期的な訪問を行ったが、これについての日本側の認識も一部ではこの使節の派遣が日本への朝貢だと見なす声も聞かれるなど、明らかに外国として扱われていた。江戸幕府の制度上においても新鑼鑼地方は朝鮮や琉球王国と同じく通信国の立場であり、外国だった。しかし、江戸時代の中期頃には制度上は外国として扱われつつも、徳川の家臣としての側面も強くなっていた。
幕末には制度上は外国として扱われたが、もはや新鑼鑼人は同じ日本人とみられる様になっていた。長州征伐に際しては江戸幕府から招集されているが、これは関ヶ原の戦いや、島原の乱において外国人だからという理由で出兵を断られた状況と比較すると対称的である。長州征伐時、当時の江戸幕府や幕府軍から新鑼鑼人を外国人として扱う様な発言や文言などは現在までに確認されていない。
外国としての扱いを受ける事自体は、明治維新後も新鑼鑼処分が行われるまでは、制度上は外国であった。しかし、明治維新頃、新鑼鑼人は同じ日本人として扱われていた。これは新鑼鑼人、日本人の双方がその様な認識であったとされており、新政府は新鑼鑼人が新政府に加わる事を問題視などしていない事から新政府は新鑼鑼人を同じ日本人であると認識していた事が推測でき、新鑼鑼人側においても、新鑼鑼人が新政府へ積極的な参加をしている事から新鑼鑼人側もこの時点では既に自らを日本人として認識していたと推測される。
一方で文化的側面から見れば、新鑼鑼人は、すでに江戸時代の中期の時点で宗教、文化、言語などの日本化が非常に顕著であった事も分かっている。言語はこの時代には既にほぼ完全に日本語化し服装も着物が多数派だった。なお、新鑼鑼人が着ていた着物は概ねが日本のそれと変わらない物だったという。この事から新鑼鑼人はすでに江戸時代中期には完全に日本人となっていたという解釈も可能であり、さらに採用する学説次第では室町時代や安土桃山時代の段階で日本人となったという解釈や、最も先鋭的な学説では、元寇後の段階で新鑼鑼人は日本人となったという解釈も存在している。
なお、2022年現在、文部科学省が定める国定教科書は新鑼鑼人が日本人となった時期は、江戸時代中頃を採用している。
・新鑼鑼人の軍隊の変移
新鑼鑼人の軍隊は平安時代まで古代ギリシャの重装歩兵の様な様相であったと考えられている。平安時代には馬具が本格的に使用される様になった。鎌倉時代から安土桃山時代にかけては、鎧に日本の鎧武者の要素がこれに加わり鎌倉・室町新鑼鑼甲冑が生まれた。和弓や日本刀は鎌倉時代にはすでに確認されており、平安時代には既に日本から伝わっていた可能性がある。戦国時代、火呂須においては、経済的に豊かな市民兵は鎌倉・室町新鑼鑼甲冑の様相で、経済的に豊かでない市民兵が伝統的な重装歩兵の様な様相や、より軽装な様相であった。大門においては大門市民権を持つ兵士は鎌倉・室町新鑼鑼甲冑の様相で、二等市民階級の兵士は伝統的な重装歩兵の様な様相で、奴隷階級の兵士は兜と武器のみが与えられる様相だった。武器には鉄砲や大砲が新たに加わり、戦術も戦国時代のスタイルへと変わった。中でも大門軍の鉄砲隊や焙烙火矢はとりわけ恐れられていた。なお、日本の武士が己が武功を挙げる事に重きを置く傾向があったのに対して、新鑼鑼人の軍隊は個よりも集団を重視する傾向にあったとされる。
江戸時代、新鑼鑼人の軍隊は戦国時代の装備や戦術を継承した。幕末、火呂須と大門共に、その様相は引き続き江戸時代の様相を踏襲した。主要な武器は鉄砲となったが、近代化は充分ではなく、自前で用意できたのは火縄銃をミニエー銃化させた改造銃や通常の火縄銃が主だった。また、大砲の数が軍の規模に対して足りておらず、大筒が多用された。なお、火呂須軍に関してはイギリスから小銃を一定数、購入し一部の部隊に配備し大門軍よりは近代化が進んでいた。戊辰戦争においては薩摩藩などの新政府方の勢力が輸入した武器が提供された為、武器の近代化が進んだ。なお、戊辰戦争前、火呂須軍は白く塗装された鎌倉・室町新鑼鑼甲冑を使用し、大門軍は赤く塗装された鎌倉・室町新鑼鑼甲冑を使用していたが、大門軍は第二次長州征伐での経験を踏まえて戊辰戦争に際しては塗装を目立たない黒に変更した(火呂須軍は引き続き白だった)。
明治時代、火呂須軍と大門軍の武器は近代化された銃火器を充分に配備したが、兵士の様相には引き続き鎌倉・室町新鑼鑼甲冑は使用された。ただし、変化が無かった訳では無く、火呂須軍では伝統的な鎌倉・室町新鑼鑼甲冑の割合は大幅に低くなり、兵の半数以上は西洋式軍服を導入した。大門軍も大門市民権を持つ兵士の様相は完全に鎌倉・室町新鑼鑼甲冑であったものの、二等市民階級の兵士の様相は次第に変化し伝統的な重装歩兵の様相は士官階級者のみに限られ、一般の兵は筒袖上衣、陣羽織、段袋、端反笠もしくは伝統的な重装歩兵の兜、背嚢、亜麻で作った靴やブーツを組み合わせた様相か、着物(青色系や灰色系の着物)、袴(黒系色や紺系色などの袴)、額当て、たすき、背嚢、亜麻で作った靴やブーツの組み合わせの様相のいずれかへと変化した。奴隷階級の兵士は、背蓑、肩蓑、胴蓑、丸蓑、黒い陣笠もしくは韮山笠、藁靴を組み合わせた様相だった。
西南戦争の末期、本州に出兵していた大門軍本隊が敗れると大門は兵士の緊急動員を行ったが、この際、緊急動員された兵士達は全ての兵士が銃火器を装備するには銃火器の数が不足していた為に、その様相は伝統的な重装歩兵の鎧や盾や槍までもを蔵より持ち出して装備させるという様相だった。なお、この臨時動員では大門市民権を持つ女性も動員されており、本来であれば大門市民権を持っていたとしても男性しか軍に行く事は無かったが、非常時と言う事で女性も動員された。大門市民権を持つ大門市民は男女共に幼い頃から肉体作りに励む為、女性であっても、あらかたの武器を扱えたという。その為、銃の他、多くの女性が弓を装備したとされている。なお、銃火器の数は不足していたが弾薬は豊富に存在していた為、こうした弾薬の火薬は流用されコングリーヴ・ロケットの量産が臨時に行われた。こうして生産されたコングリーヴ・ロケットは数が不足していた大砲や鉄砲の代わりとされた。大門のコングリーヴ・ロケットは、日本の近代戦史上、日本に初めて大規模に配備された最初のロケット兵器となった。
大門のコングリーヴ・ロケットは西南戦争後、政府に没収され、一部は後の日清戦争に投入された。
西南戦争後、大門軍は政府から西洋化を強制された為、西洋式の軍装を導入した。火呂須軍はそれ以前は軍の西洋化を進めていたが、火呂須軍内部で政府への反発が強まった事もあり、西南戦争後の制限された軍備下においては鎌倉・室町新鑼鑼甲冑を全ての兵士が着用した。
なお、これは余談だが、現代において新鑼鑼人の戦士の姿を想像すると火呂須軍が白い甲冑を着て槍と身を隠せる大きさの盾を持っている姿を。大門軍が赤い甲冑を着て槍を持ち、大門の国章である赤いΛマークが入ったブロンズ色を基調とした身を隠せる大きさの盾を持っている姿を想像する人が多いが、これは戦国時代の火呂須軍と大門軍の鎌倉・室町新鑼鑼甲冑を着た兵士の姿からきている。
火呂須軍は戦国時代から明治時代にかけて白い鎌倉・室町新鑼鑼甲冑を使用し、身を隠せる大きさの盾はその盾の持ち主が思い思いの色や絵を描くなどして使っていた。大門軍は戦国時代から江戸時代にかけては赤い鎌倉・室町新鑼鑼甲冑を使用し、その後は黒い鎌倉・室町新鑼鑼甲冑を使用した。身を隠せる大きさの盾は火呂須軍が統一した色や絵ではなかったのに対して大門軍では全ての盾に共通の色、模様が使用され、模様は決まって赤色で大門の国章である赤いΛマークが描かれていた。
また、さらに余談として、武士にとって刀は精神的支柱とも言える重要な武器であったが、新鑼鑼人の戦士にとっては刀はそこまで重要な武器ではなかった。新鑼鑼人の戦士も刀を広く使っていたが、刀はあくまで単なる予備の武器という認識だった。新鑼鑼人の戦士にとっての精神的支柱の武器は槍と盾であったとされ、槍と盾は新鑼鑼人の戦士を象徴する武器であった。とはいえ、幕末の頃になると槍と盾はあくまで象徴的な位置づけとなり、戦いの主役は完全に鉄砲に移行した。
※火呂須軍の盾。盾ごとに様々な模様が描かれている。東京国立博物館館蔵品。
※左が古代から戦国時代における大門紋とその使用の一例。右が幕末から西南戦争で使われた大門紋(後大門紋という)とその使用の一例。大門紋は大門を表すΛマークで構成され、対して後大門紋は大門を表す金色のΛマークの上に金色の日の丸があるという構成だった。Ⅰは古代から戦国時代における大門紋。Ⅱは簡略化された大門紋。Ⅲは戦国時代における大門紋の使用例の一例(戦国時代に使用された大門の旗印のひとつ)。Ⅳは後大門紋。Ⅴは幕末から西南戦争における後大門紋の使用例の一例(幕末から西南戦争にかけて使用された大門の旗印のひとつ)。これらの大門を表す紋は盾や兜などの軍装に描かれていた。なお、後大門紋は使い分けがされていた様で、後大門紋は盾には描かれず、盾にはⅡの大門紋が使用され続けた。
・長州との遺恨
戊辰戦争における対立から現在においても奥羽越列藩同盟に属していた会津地方(元会津藩)と新政府に属していた鹿児島県(元薩摩藩)、火呂須県(元火呂須)、大門県(元大門)との間では遺恨が残っているとされるが、かつての長州藩である山口県と大門県の間においても、第二次長州征伐を巡って現代において遺恨が残っているとされる。長州藩は第二次長州征伐において各地が甚大な被害を受けた他、明治維新後、長州藩の地域では大門について、裏切り者や寝返り者などと批判の声が残った。これは大門が当初は江戸幕府方であったにも関わらず新政府方に付いた事や、最終的には倒幕という長州藩と同じ目標を目指したにも関わらず、同じ討幕派の長州藩を攻撃したという事から言われている。
2007年には、DEFアサヒテレビの番組、新しいカップルさんいらっしゃいで大門県出身者の夫と山口県出身者の妻が出演し、山口県出身者の妻が実家で結婚に際して両親に説明した所、大門県の出身者との結婚に反対されたという体験談が語られた。
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方言
新鑼鑼方言は日本語と新鑼鑼語が組み合わさった方言である。新鑼鑼地方で話される言語が時代経過と共に次第に日本語化する過程において、新鑼鑼語での表現法などが組み合わさった。今日、新鑼鑼方言は、東北方言に次いで難しい方言として知られている。詳細は「新鑼鑼方言」の記事を参照。
また、方言ではないが、江戸時代中期まで新鑼鑼地方の公用語であった新鑼鑼語は現在、火呂須県と大門県においては、小学校の国語の授業で郷土学習の時間が設けられ、新鑼鑼語に触れる授業が行われている。また、火呂須市と大門県市の市立高校では、選択科目の授業で新鑼鑼語の学習が用意されている。
なお、新鑼鑼語に関連して、2012年に文部科学省が行った調査によると火呂須県と大門県の双方の地域を合わせた現代ギリシャ語の話者の人口は日本国内において全国一の規模であった。これは新鑼鑼語が古代ギリシャ語に類似した言語である為、これに関連してギリシャ語を学ぶ学生や個人が多い事が理由として考えられている。
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人口
火呂須県の人口が約139万人、大門県の人口が約106万人。両県を合わせた地域の総人口は245万人となっている。横浜市の人口(377万人)よりは少ない。地域人口は高度経済成長期以降に緩やかな減少傾向に入り、人口の他県への流出が長年の懸念事項となっている。また、少子高齢化もこの問題に拍車をかけている。
地域の産業人口は第三次産業の従事者が最も多く、続いての産業は火呂須県が第二次産業が多い傾向にあり、大門県が第一次産業が多い傾向にある。3番目の産業は火呂須県が第一次産業、大門県が第二次産業という順となっている。
宗教は文化庁による統計で2013年時点で神道及び新鑼鑼神道が43%、仏教及び新鑼鑼仏教が50%と最も多く、残りは新鑼鑼神話信仰が4%、キリスト教系が1%、その他が1%となっている。
地域の政治性は衆議院選挙や参議院選挙においては保守寄りの政治家が当選する傾向にあるとされている。この為、保守派の牙城とも称される他、自民党系の国会議員が多く当選している事から自民党王国とも称されている。中でも大門市を含む大門県第1区は選挙区の設置以降、現在までに一度も左派系の国会議員が当選していない事でも知られる。その一方で地方自治体レベルの政治性においては、非常に細分化した特徴を持っており、保守系や左派系を問わず、新鑼鑼地方は全国で一番、地域政党が多い地域である。新鑼鑼地方を除いた日本の他の地方の地域政党数は全てを合計しても現在、46党しかないが、新鑼鑼地方の地域政党数は全国最多の67党である(なお、地域政党数全国2位の地方は九州地方)。なお、大門県の大門市の市議会議員及び市長は第二次世界大戦後に日本の地方自治制度が現在の地方自治制度になって以来、一度も左派系の政党が議席を持った事が無い事で有名となっている。
・部落問題
新鑼鑼地方の部落問題は調査媒体によっては全国で最も深刻であるとされる。新鑼鑼地方での部落問題は日本のそれ以外の地域とは背景の事情が違う。新鑼鑼地方では士農工商が施行されておらず、独自の身分制度が施行されていた。
火呂須(現在の火呂須県)においては火呂須市民権を持つ市民、火呂須の衛星都市(火呂須の制度上で形式上、都市国家として扱われていた都市)の市民権を持つ市民、そして市民権を持たない住民に分かれていた。火呂須市民権を持つ市民は事実上の一等市民として扱われ、火呂須の衛星都市の市民権を持つ市民は事実上の二等市民、市民権を持たない住民は法律の保護を受けない扱いを受けた。
大門(現在の大門県)においては大門市民権を持つ市民、二等市民階級の住民、奴隷階級の住民に分かれた。
火呂須県における部落問題は当時の身分制度が明確には制度化されていなかった事もあり、時代経過により現代においては新鑼鑼地方以外の他の地域と同様に部落問題は希薄化しつつあるとされている。しかし、その一方で大門県における部落問題は調査媒体によっては日本国内において最も深刻であるとされる。大門県においては元奴隷階級の住民に対する差別が発生しているとされる。そしてその差別事案の認知件数も調査媒体によっては全国で最も高い水準である。
大門県における部落問題の理由としては元大門市民、元二等市民階級を合わせた人口規模の多さが関係していると言われており、新鑼鑼地方以外の他の地方では士族の人口規模は全人口の7%を占めるに留まっている一方で大門県における士族の人口は明治時代において3割にも達していた。これは全国屈指の規模であり、大門が滅亡し身分制度が消滅した後も、元、上位の身分階級者の人口規模が多かった為に差別意識が根強く残ってしまったと見られている。また、奴隷階級の住民は大門の身分制度下においては真の意味での奴隷として扱われていた為、上位身分階級者の差別意識が身分制度が消滅しても根強く残ってしまったとも見られている。
国や県は新鑼鑼地方における部落問題の解決に力を注いでおり学校教育などの教育の場や県政などを通じて差別の根絶を目指している。
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交通
新鑼鑼地方には空港は存在していない為、空路での交通は存在していない。公共交通機関はバス、タクシー、鉄道、フェリーが主である。鉄道はJR新鑼鑼・九州が運行しており新鑼鑼線、火呂須線、朝鮮横断鉄道の3路線が運行されている。新幹線は西九州新幹線の路線を朝鮮横断鉄道が通る大門市まで延長する計画が持ち上がっているものの、現状では新幹線の乗り入れは行っていない。フェリーは本州間と九州間を繋ぐ海路が運行されており、フェリーは本州への主要な交通手段の一つである。
新鑼鑼地方の主要な公共バス会社は18社程存在している。火呂須県と大門県で運行されている主要な公共バス会社は以下の通り。
・火呂須交通 ・大門観光バス
・大門交通 ・火呂須観光バス
・JR新鑼鑼バス ・新鑼鑼中央交通
・西日本鉄道株式会社 ・丹代交通
・西鉄バス北九州株式会社 ・大王バス
・福岡交通株式会社 ・ペンギンバス
・JR九州バス株式会社 ・日本海バス交通
・アレキサンダーバス ・臨海バス
・塔和グループバス
・昭和自動車株式会社
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メディア
火呂須県と大門県はNHKを除く民放は、大門放送、大門第一放送、火呂須放送協会、火呂須CBS放送(※アメリカのCBSTVとは無関係)、テレビHBS放送のローカルテレビ局の5局しかない。それ以外のネット局については九州や本州から電波を受信するしか方法がない。
しかし、新鑼鑼地方は山が多い地形である為、内陸部ほど電波が届きにくくなっている。この様な地形的事情から新鑼鑼地方は日本で最もケーブルテレビが普及している地域であり、2020年の総務省の統計によると、火呂須県のケーブルテレビの普及率は85.3%、大門県のケーブルテレビの普及率は82.1%となっており、この火呂須県のケーブルテレビの普及率は全国でも一位の規模である。
ただし、国内メディアの状況はその様な状況であるが、韓国と隣接している為、韓国のテレビ番組を受信可能なテレビを使用すれば北部の地域では韓国のテレビ番組が受信可能である。
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経済
・第一次産業
新鑼鑼地方は農業、畜産業、漁業、林業、養蜂がバランスよく分布している。出荷額も多く米、大麦、小麦、オリーブ、ベリー系果実、柑橘類、サツマイモ、バナナなどを生産している。また、新鑼鑼地方のワインの生産量は全国2位である。
・第二次産業
鉱物の採掘業が栄えている他、火呂須県は韓国と国境を接している事から工業地帯も多い。また、古くから石像作りや銅像作りが盛んに行われていた為、現代においても日本有数の石像、銅像の生産地である。
・火呂須県と大門県の像
火呂須県は古来からの習慣もあり彫刻作品が現代においても数多く作られており、火呂須県内には随所に彫刻作品が存在している。伝統的な物から現代アート的な物まで幅広く作られている。
大門県も古来からの名残で銅像を設置する文化があり、その結果として日本国内において屈指の銅像設置県となっている。県内には随所に銅像が設置してある他、毎年、新たな銅像も制作されている。大門県の銅像の特徴としては人間をモチーフにした像が多い事が挙げられる。例えば、大門県内の神社の境内には戦国時代の大門の戦士の像が置かれている神社が多い他、大門市内にも様々な時代の大門の戦士の像が随所で見られる。
両県は日本国内において土地の風土的に最も銅像や彫刻などのシンボリックな作品に重点を置いている風潮が存在している。
しかし、こうした彫刻作品や銅像の製作文化は一部では批判の対象ともなっており、例えば、大門県では知事、副知事、県議会議長、各市町村の長の像(全身像や胸像)を作る事が習慣となっており、大門市には歴代のこれらの政治家の銅像を展示する大門県立銅像展示館まで作られている。しかし、こうした事に地方交付税を含めた税金が投入されている事から税金の無駄遣いとの指摘がでており、近年は公費で製作する政治家の銅像のサイズを制限する方針や、公費での県議会議長の銅像の製作を取りやめる方針が打ち出されている。しかしながら、依然として税金の無駄遣いとの指摘は根強い状況である。
大門県におけるこうした像の問題に関しては火呂須県においても同様の問題が出ており、火呂須県においては大門県の様に政治家の像ではないもの、県内の公共施設の建設や改築などにおいて彫刻作品を含めた高価な資材が使われる傾向がある事から、これらが税金の無駄遣いではないかという指摘がされている。
・第三次産業
新鑼鑼地方の産業生産額に占める第三次産業の割合は高く、新鑼鑼地方のほぼ全域が市場として発展している。近年、火呂須県と大門県は観光産業の促進に努めており、両県の毎年の観光客数は2019年、新鑼鑼地方と九州地方の県を合わせたランキングで火呂須県は1位を獲得し、大門県は2位を獲得し上位2位を独占する結果を獲得した。
・自衛隊基地と在日米軍基地
自衛隊基地は火呂須県に5カ所、大門県には4カ所があり、在日米軍基地は火呂須県には3カ所、大門県には5カ所、設置されている。これらの自衛隊や在日米軍の基地は周辺の自治体の地域の経済に、一定程度の影響を及ぼしている。
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国境と国際
新鑼鑼地方は日本国内で唯一、外国領土と直接、接している地域である。新鑼鑼地方は韓国と接しており、両国間でが朝鮮横断鉄道を使った人や物の輸送が活発に行われている。朝鮮横断鉄道は第二次世界大戦までは満州鉄道と接続し中国まで路線が開通していた。第二次世界大戦後は日本から中国への直接の便は廃止となり、朝鮮戦争の勃発までは日本からの便は平壌までとなった。朝鮮戦争の勃発後は北朝鮮への路線が廃止され、さらに韓国軍新鑼鑼侵犯事変が起こると韓国への路線も民間の便は一切が廃止された。2002年、日韓関係の改善により交通制限が解除され韓国への民間の鉄道路線が復活した。
道路に関しても韓国と接続しているが、韓国軍新鑼鑼侵犯事変後は鉄道路線と同じ様に封鎖された。2002年に日韓関係の改善により鉄道路線と共に民間に開放が行われた。しかし、2019年に日韓関係の悪化を受けて道路に関しては交通制限が復活し道路を使った民間の交通は一切が停止された。
・韓国との関係
新鑼鑼地方は韓国と直接、接している地域である為、経済的な関係は非常に強い。これは第1次産業、第2次産業、第3次産業まで多岐に渡る。貿易や観光産業などである。特に観光産業に関しては新鑼鑼地方を訪れる外国人観光客の内、凡そ半数は韓国人旅行客である。しかしながら、韓国への反韓感情が全国的に見ても強い傾向にある為、必ずしもその関係は全面的に良好ではない。韓国の外務省は日本へ行く韓国人旅行者に対して新鑼鑼地方に行く際には注意をする様に勧告を出している。この様な勧告がされている地域は日本国内においても新鑼鑼地方が唯一である。
領土に関する問題も存在する。韓国では韓国軍新鑼鑼侵犯事変の後も新鑼鑼地方を韓国の領土だと主張が根強く存在しており、韓国政府が公式に新鑼鑼地方の領土を主張する事はないものの、政治家個人レベルや地方自治体レベル、政治団体レベルでは主張がされる事がある為、新鑼鑼地方では非常に反感を持たれている。特に2008年に韓国の国会で韓国国会議員50名が新鑼鑼返還要求決議案を提出した際や、2013年に京畿道議政府市議会が、新鑼鑼地方が地理的、歴史的、科学的に韓国の領土であるとし韓国政府と国会に対応を求め、日本政府に新鑼鑼地方の即時返還を要求する決議した際などには、火呂須県議会と大門県議会は日本政府に対して韓国による侵略に備えて新鑼鑼地方の自衛隊増強を要請する決議と要望書の提出を共同で行っている。
2008年7月23日には、韓国の退役軍人らで構成する抗議団体21人が大門県議会前で「独島は韓国領土、新鑼鑼も韓国領土」と主張する横断幕を掲げ抗議活動を展開し、これに対して、この運動を聞きつけた市民が道路を挟んで対峙し、怒号が飛び交う騒然な状況となった。この状況は最終的には市民の一人が火炎瓶を団体に投げこむ事件に発展した。この火炎瓶は命中せず、負傷者は出なかった。この抗議団体は7月20日にも火呂須県議会前でも抗議活動を行っており、火炎瓶を投げた市民はこの団体が次は大門県議会前で行われると考えて事前に準備をしていたと後に警察の事情聴取にて語っている。なお、火呂須県議会前での抗議活動においても現場に居合わせた市民がこの抗議活動に対して非難の声を上げ怒号が飛び現場は騒然としている。
・北マケドニアやギリシャとの関係
火呂須県と大門県は北マケドニア共和国と友好的な関係を築いており、県の教育委員会は北マケドニアの教育省と教育事業の提携を行い、互いに協力を行っている他、考古学研究でも提携関係を築いている。また、両国の市町村同士の交流も盛んであり、火呂須県は火呂須市を筆頭に北マケドニア共和国の17の自治体と姉妹都市関係を締結しており、大門県においても大門市を筆頭に18の自治体と姉妹都市関係を締結している。こうした協力関係もあり、2020年時点では日本に滞在している在日北マケドニア人418名の内、凡そ半数の216名は新鑼鑼地方に滞在している。この216名という数字は全国地方別の在日マケドニア人の人口の中でも全国で最も多い規模となっている。
一方でギリシャとは一時は関係が冷え込んだ時期もあった為、県や自治体同士の直接的な関係は殆ど存在していない。しかし、その一方で新鑼鑼地方にはギリシャ語の話者が多い事から日本からギリシャに滞在や移り住んだり、事業を行っている人々も一定数存在している。これはギリシャも同じであり、在日ギリシャ人302人(2018年統計)の内、在日ギリシャ人が居住している地方の中では新鑼鑼地方は全国で3番目に在日ギリシャ人の人口が多い地方となっている。
・マケドニア主義
新鑼鑼地方の起源はアレクサンドロス大王の東方大遠征であるという定説から、新鑼鑼地方は古代ギリシャ文明からの直系文明が断絶する事なく続いている世界唯一の地域だとして、新鑼鑼地方もしくは日本こそがアレクサンドロス大王の帝国の真の後継地域(または後継国家)だと主張するマケドニア主義が新鑼鑼地方を中心に日本国内において少なくはあるものの、一定の支持者を持っている。マケドニア主義は1930年代に竹内彰三が提唱し1980年代に同志社大学の岡田常義教授が発展、普及させた思想。マケドニア主義については「マケドニア主義」の記事を参照。
マケドニア主義を巡っては様々な主義主張が展開されており、新鑼鑼地方を有する日本国こそがアレクサンドロス大王の帝国の後継国家だとする国粋主義的思想から、新鑼鑼地方は日本から独立するべきだとする様な新鑼鑼地方の独立主張論まで様々である。
国粋主義的なマケドニア主義を巡っては同じ日本の国粋主義者(※マケドニア主義者ではない普通の日本の右派)の中からも議論の対象とされる主張を展開するマケドニア主義者も一部には存在しており、例えば、日本を建国した神武天皇はアレクサンドロス大王の事だとする主張をしている人々も存在している(神武天皇アレクサンドロス大王説)。マケドニア主義者ではない通常の日本の国粋主義者の中には、こうした主張をする人々に対して反感を持つ人々も存在する。
この日本のマケドニア主義はギリシャとの外交摩擦に発展した事があり、2003年にマケドニア共和国(現在の北マケドニア共和国)の大統領が来日し新鑼鑼地方を訪問した際に、当時の火呂須県知事が、マケドニアの国名を現代に継承するマケドニア共和国は新鑼鑼地方と同じくアレクサンドロス大王の帝国の正統な後継者と発言して、これがギリシャに伝わりギリシャ政府から日本政府に対して遺憾の意が伝えられる事も起きている。
また、1994年にもユーゴスラビアから独立したマケドニア共和国がギリシャから国名やマケドニア共和国のシンボルとして使われたヴェルギナの太陽を変更するようにとの要求を受けて両国間で外交問題に発展していた際にも、当時の火呂須県知事がギリシャ政府の対応を非難する内容を自身が会長を務める火呂須文化協会の名義でマケドニア共和国の新聞社に寄稿し、これもギリシャ政府から懸念を示されるという出来事も起きている。
※火呂須県議会庁舎前にあるポセイドンとティロの像。
※大門県議会庁舎前にある鎚御迩陀洲(ておにだす、Λεωνίδας)像と阿利栖都出模州像。鎚御迩陀洲は奈良時代の新鑼鑼人の侵入の際に大門軍を率いた大門の王。
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