トーマス・スチュワート ‐ ウィキパディア
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トーマス・スチュワート
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トーマス・マーカス・スチュワート(英語:Thomas Marcus Stewart 1925年2月13日‐1963年1月4日)はカナダ王国サスカチュワン州サスカトゥーン出身の画家、写真家、芸術家。
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目次
1.概略
2.来歴
3.小話
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概略
主に逆四角錐をモチーフに恐怖、不安、絶望、死をテーマに、作品を見た者に不安を感じさせる作風が特徴。壮大で美しい作品が多かった。トーマスの作品には特に絵画においては、逆四角錐が、その全てにおいてモチーフとされているのが最大の特徴だった。最初の絵画は、空に浮かぶ巨大な逆四角錐に無数の人が折り重なりながら潰されている作品であるが、この作品にも見られる様に逆四角錐は必ずと言って良い程、絵画に登場した。
ただし、写真に関しては空がテーマであった様で、空の写真を数多く残した。
生前は殆ど評価されなかったが、ポーランドの画家ベクシンスキーの作品が評価されると、ベクシンスキーの作風とやや似た傾向のあったトーマスの作品は評価される事になり、ベクシンスキーと並んで評価される事が多くなった。
トーマスはベクシンスキーと対比的にしばし見られる。ベクシンスキーが内向的な性格であったのに対して、トーマスは外向的な性格で、交友関係の幅も広く、友人とピクニックやドライブによく行ったり、バーやクラブなどに良く通っていた。友人は比較的多く交友関係も幅広い人物だったという。1963年にトーマスは交通事故により急死してしまったが、その年には友人たちに来年(1964年)にバイクでアメリカ大陸横断の旅を計画している事を自慢げに話していた。
生前はクラブのウェイターや、自宅の隣にあった軽食店の店員として働いた。
絵画や写真といった作品の制作活動はあくまで趣味として行っていたが、芸術活動以外にも趣味があり、第二次世界大戦中にカナダ軍に志願する前から、自転車やバイク等の乗り物に興味があったとされる。芸術活動をする様になってからも、自転車やバイクをいじるのが趣味で自宅のガレージによく入り浸っていた。
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来歴
1925年2月13日、カナダ王国サスカチュワン州サスカトゥーンで生誕。
18歳の時にカナダ軍に志願し第二次世界大戦に従軍するが、最初の実戦として1943年8月にアリューシャン諸島のキスカ島への連合軍の上陸作戦に参加した(コテージ作戦)。
しかし、初めての実戦として参加したが、この作戦で日本軍はキスカ島には既におらず、それを知らない連合軍が攻撃を仕掛けた形だった為、連合軍は島に上陸した後、混乱し同士討ちによる被害を受ける事になった。この被害者の1人がトーマスであった。
トーマスはアメリカ兵から放たれた銃弾を頭部に受けた。重症であったものの、奇跡的に一命を取り留めた。一命は取り留めたものの、軍に復帰できる状態ではなかった為、カナダ本国の軍病院に入院する事になった。
この負傷はその後、トーマスが画家や写真家や芸術家を目指す大きな、きっかけとなった。
負傷による治療を終え、頭部を覆っていた包帯を取った後、トーマスは軍病院で幻覚に悩まされた。それは空を見ると巨大な逆四角錐が浮かんで見えるというものだった。
トーマスはそれを周囲の人々に訴えたが、当然、そんな物はある訳が無く、これによってトーマスは一時、精神病院へと転院する事になった。しかし、トーマスは幻覚を常に見えている訳でなく、1日の間で一部の時間帯に幻覚が見えるというもので、さらに次第にトーマスも自身に見えている巨大な逆四角錐が幻覚である事を自覚していった為、精神病院の医師の判断で入院の必要はないと診断され、薬のみの処方ですぐに退院した。
これ以降、トーマスはよく空を眺める様になり、独学で絵を描き始めた。これがトーマスが芸術家を目指すきっかけとなった出来事である。自身が見る幻覚をモチーフに自身が抱えていた感情をテーマに描いた。
トーマスは絵画以外にも写真を多く残しているが、こちらはトーマスが自身に見える幻覚に向かってカメラのレンズを向けて撮影した写真ではないかと現在ではみられている。トーマスはこうした写真を一千枚以上に渡って残した。
トーマスは幻覚の話は精神病院からの退院後は殆ど周囲の人々には言わなかったとされるが、休日、用が無い時などは、家の窓から幻覚が見える時間帯になると空をずっと眺めてその幻覚をスケッチするという事をしていたのだという。
1963年1月4日、自宅から自転車を漕いで職場に向かう途中、飲酒運転の車が暴走し歩道に突っ込む交通事故が起きた。トーマスはこの事故に巻き込まれ死亡した。死因は全身の強打による即死だったとされる。享年38歳という若さだった。
死後、遺体はサスカトゥーンのヒーブロー墓地に埋葬された。2000年には埋葬されている墓に、トーマスの実家があった地域の地元の人々による寄付がされ、トーマスを記念した記念碑が設置された。トーマスを記念する記念碑はサスカトゥーンのジェフェリーパークにも設置されている。ジェフェリーパークの記念碑は、トーマスの作品の特徴である逆三角錐をモチーフに作られた。
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小話
トーマスの作品の多くはトーマスの死後、生前のトーマスが勤めていた実家近くのレストランのオーナーがトーマスの両親から譲り受けて所有していた。また、勤めていたクラブにもトーマスの両親から譲り受けられた作品があった。
こうして保管されていたトーマスの作品は、ポーランドのベクシンスキーの作品が有名になると、これを知ったレストランのオーナーが、地元の美術館に、ベクシンスキーの作品と似た様な作風の作品があると連絡を取り、これによって展覧会が開かれた事で一躍、トーマスの作品は世間の注目を浴びる事になった。
トーマスの作品は現在、大半がトーマスの出身地であるカナダのサスカトゥーンにあるトーマス・マーカス・スチュワート記念館が所有、管理している。しかし、この記念館ではトーマスが作成した作品の大半が維持、管理されているが、記念館のオーナーであるジェフ・マイケルによると、生前のトーマスが残した絵画の作品帳簿が存在しており、その作品帳簿によれば、現在所在を確認できない作品が23作品ほどあるという。この23作品はトーマスが生前にバザーで販売した物であると見られている。
この23作品はこの内、3作品が写真としてトーマスが撮影したものが残っている為、どの様な作品であったのかが、分かっているものの、残りの20作品については、どの様な絵画であったのかを窺い知れる写真などが一切の残っていない為、どの様な絵画であったのかは一切が不明である。
トーマス・マーカス・スチュワート記念館は2004年にこの行方不明の23作品について、発見者には1作品辺り3,000ドル相当の懸賞金を支払う事を発表しているが、2022年現在、これら行方不明の23作品はいずれも発見されていない。
生前、トーマスは趣味として自転車やバイクを弄る事を趣味としていたが、トーマスのバイクは両親が死後も保管を続け、さらにトーマスの友人にその所有権が引き継がれた事から現在までに現存している。トーマスのバイクは2002年にオークションにかけられ、アメリカ人資産家のトム・チャーチルによって85,000ドルで落札された。以降、現在までトーマスのバイクはトム・チャーチルによって所有されている。
日本においてトーマスの作品が初めて上陸したのは2001年に東京の上野芸術美術館で開催された展覧会が最初である。ベクシンスキーの画集の販売イベントに合わせて、ベクシンスキーの作風とやや似ていた傾向にあったトーマスの作品の展覧会も一緒に開かれた。
この展覧会での販売イベントではベクシンスキーの画集の販売がメインであったが、トーマスの画集も出版社や美術館側の予想を大きく超える形で反響があり、トーマスの画集はイベント主催者側が当初、用意していた分を売り切り完売した。
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