長岡京の戦い ‐ ウィキパディア
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長岡京の戦い
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長岡京の戦い( ながおかきょうのたたかい )は、弘仁2年(811年)1月から3月に現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区に当たる地域に存在した奈良時代の日本の首都、長岡京の周辺で文室綿麻呂率いる日本の朝廷軍と、富螺御爾烏洲( ふらみにうす )率いる蝦夷軍が戦った戦い。
後世において日本史最大の歴史的転換点の戦いだと評価される。蝦夷征討における40年戦争の一連の戦いにおいて最大の転換点でもある。
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開戦の経緯
宝亀5年7月25日、桃生城襲撃事件をきっかけに宝亀5年7月23日、光仁天皇が征夷決行の許可を命じた事で日本の朝廷と東北の蝦夷との戦争である40年戦争は始まった。
戦争初期、日本の朝廷軍は蝦夷に対して優勢に戦況を進めたが、宝亀9年の伊治城の戦いで蝦夷軍に敗北したのを境に、戦況が悪化し蝦夷の指導者であった富螺御爾烏洲率いる蝦夷軍にしだいに敗北を重ねていった。
各地の戦いで勝利を収めていった蝦夷軍は勢力を広げ、弘仁1年の終わり頃には、ついに日本の首都である長岡京にまでその勢力を達した。朝廷側は蝦夷側に対して和平を求めたが実現せず、長岡京の戦いは勃発した。
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戦いの状況
長岡京の戦いが日本史に与えた影響は重大であるにも関わらず、長岡京の戦いについての詳しい状況の推移は余り記録に残っていない。これは、朝廷軍と蝦夷軍との戦闘によって長岡京の大半が焼失した事が原因であると見られている。ただし、当時の当事者が残した記録などから大まかな戦いの流れは推測されている。
朝廷軍に対して、蝦夷軍は技術的、戦術的に優れていたとされる。当時、蝦夷は非常に先進的な勢力であった。朝廷側は40年戦争の中盤まで蝦夷は自分たちよりも文化的にも劣った勢力であると見ていた。確かに40年戦争の勃発前の蝦夷は古代東北の豪族が各地を支配する古い体制が残る地域で、文明的にも朝廷側の方が進んでいたとされる。
しかし、蝦夷は40年戦争が始まる凡そ10年程前の天平神護1年頃(※天平宝字5年頃だとする説もあり)に富螺御爾烏洲を指導者に豪族に対する民衆の蜂起が起き、日本史上初の民衆による政治体制である共和政治(民主政治とも言われる)が成立していた。これ以降、蝦夷は急激なスピードで発展を続け、政治体制などの制度面の他、軍事面で大きな躍進を遂げた。
40年戦争中、蝦夷軍は富螺御爾烏洲の指導によって非常に組織化された高度な軍隊を整備していたとされる。紀古佐美によれば、蝦夷の兵は革命前には統率の取れない兵であったそうだが、40年戦争中の蝦夷軍は優れた集団戦を得意とし、兵達は盾で壁を作り、盾と盾の間から槍や剣や矢で攻撃をしたのだという。
蝦夷軍には兵科や戦術の概念があり、また、朝廷軍よりも多くの専門兵科が存在した。例としては、スリングに特化した投石紐兵の兵科や、薬草などの薬学に特化した専門家も兵科として導入していた。現在では朝廷側の残した史料の研究により蝦夷軍が複数の兵科を使った鉄床戦術を行っていた可能性が指摘されている。
蝦夷軍は規格統一した防具や武具を使用したとされる。一般兵は蝦夷兜、鎖帷子、皮鎧、脛当て、腕当て、槍、投槍、投矢、短剣、弓、弩、身を隠せる大きな丸い盾、身を隠せる楕円形の盾などで武装した。指揮官クラスの兵士は蝦夷兜、短甲や挂甲、脛当て、腕当て、狼か熊の毛皮を着用し武器や盾は一般兵と同じ物を使って武装した。
また、スリングの弾頭に規格統一化された鉛玉を採用した他、欧州におけるオナガーと良く似た構造の国崩しと呼ばれる投石機や、大型のクロスボウの様な構造をした大強弓と呼ばれる据え置き型の弩砲も発明し青銅製の矢などを運用していた。これらの戦争機械はかなりの規模で運用されていたとされる。
これに対して、当時の朝廷軍は蝦夷軍ほどの統率や組織化はできておらず、戦争機械も投石器や大型の弩、自体は有していたが、蝦夷軍ほど大規模には有していなかった。
長岡京に達した蝦夷軍は長岡京を守る文室綿麻呂率いる日本の朝廷軍と攻防戦を繰り広げた。両軍の正確な兵力は不明だが、双方の軍が数万の兵力に達したと考えられている。蝦夷軍は長岡京の周辺地域を包囲し、これに対して文室綿麻呂率いる日本の朝廷軍は朝廷を守る為に長岡京を防衛した。
長岡京は蝦夷軍の侵攻に備えて5年の歳月をかけて、街を囲む防塁や防御陣地を建設し備えられていた。朝廷軍はこれらの防塁や長岡京周辺に築いた防御陣地を駆使した。これに対して蝦夷軍は前述の攻城兵器などを用いて長岡京の攻略を目指した。
長岡京のあった周辺地域では、現在でも当時使われた投石機の砲弾や油の壷の破片、投石紐の鉛玉や、大強弓の青銅製の矢が大量に発掘されている。こうした発掘品は当時の戦いの激しさを物語っている。
弘仁2年2月には長岡京に隣接していた平安京が蝦夷軍の副指揮官であったアテルイの軍団の侵攻にあい略奪され、同じく長岡京に隣接していた平城京も攻撃を受けた。ただし平城京の守備隊は蝦夷軍の軍団を退ける事に成功した。
長岡京での戦闘は膠着状態となったが、全体の推移としては蝦夷軍の優勢に推移していたとされる。しかし、戦いの終盤、蝦夷軍の指導者、富螺御爾烏洲が直接指揮する騎兵部隊と文室綿麻呂率いる騎兵部隊が衝突した。その際に文室綿麻呂は戦いを富螺御爾烏洲との一騎打ちに持ち込む事に成功した。
この一騎打ちの戦いで文室綿麻呂は弓を射ってこれが富螺御爾烏洲に命中した。両者は戦いを引き、その場では富螺御爾烏洲は一命を取り留めた。しかし、富螺御爾烏洲が受けた傷は深く、それから数日後に死んでしまったという。
富螺御爾烏洲の死に、蝦夷軍は大混乱に陥った。富螺御爾烏洲は軍の総指揮者であるのと同時に蝦夷の民衆の指導者であり、精神的な支柱だった。これを受けて、蝦夷軍の副指揮官であったアテルイは全軍団に対して退却を命令。これによって長岡京の戦いは終結した。
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戦後の影響
・朝廷側
長岡京の戦いを朝廷側が制した事により、朝廷は滅亡を免れた。蝦夷は君主制の打倒を目指していたとされる。もしもこの時、朝廷側が敗北していた場合、日本の歴史は大きく変っていた可能性がある。
さらに、長岡京の戦いによって蝦夷側の指導者であった富螺御爾烏洲が討ち死にした事により、蝦夷側は統制が乱れ、以降の戦いは朝廷側に次第に有利となっていった。そして、その後10年の時間をかけて朝廷軍は蝦夷に対して反抗し、最終的には東北地方を制圧し蝦夷に対して勝利を収めた。また蝦夷軍によって平安京で略奪された品々も多くが奪還に成功している。
しかし、この戦いによって当時の首都であった長岡京は大半の面積が焼失し、都に存在した歴史的、文化的な建造物や物品の多くが焼失した。また、この戦いによる被害が決定打となって長岡京は正式に放棄される事が決まり、日本の首都は平安京に遷都される事になった。こうして奈良時代は終わりを迎え平安時代が到来を告げた。
・蝦夷側
蝦夷征伐後の東北では朝廷によって行われた廃平政策の影響で、共和制蝦夷(民主制蝦夷とも言う)が残した文字記録等の資料や痕跡は大半が失われている為、蝦夷側の情報は断片的にしか分からないが、富螺御爾烏洲の死が与えた影響は蝦夷側には甚大であった事が分かっている。富螺御爾烏洲は蝦夷の民衆の指導者であり軍の指導者であった。その突然の死は、蝦夷側に軍事的、政治的に大きな影響を与えた。
断片的に発掘や発見されている蝦夷の資料や、個人が残した手記や口伝などによれば、富螺御爾烏洲の死後、蝦夷の民衆議会は次の指導者を巡って争いが起きたとされる。そして、それまでは富螺御爾烏洲によって抑えられていた平民派と豪族派の民衆議会議員による政治の主導権を巡った争いが加熱した。
こうした政治の権力闘争は40年戦争の戦況にも大きな影響を与えた。弘仁4年には朝廷軍との戦争中にも関わらず、富螺御爾烏洲の死後、軍の指揮官を務めていたアテルイが民衆議会に召集され指揮官を解任された記録も残されている。こうした民衆議会への現場の軍指揮官の招集や解任劇は40年戦争の終わり間際まで続いた。この一連の政治、軍事の混乱は蝦夷の敗北を決定ずけた。
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現代社会への影響
長岡京の戦いは後世において、2つの現代にも通じる大きな意味合いを持った戦いであったと評価されている。1つ目は現在まで続く世界最古の王朝である日本の天皇家と天皇制を存続させる事に成功した事。これによって現在の日本の伝統と文化の基礎が存続し日本という国家そのものが守られた。
2つ目は、まだ封建制度下にあった当時の日本社会において誕生した東北の民衆による共和政治が滅亡するきっかけとなった事である。共和制蝦夷が作り上げた当時の日本列島における多くの先進的な制度や体制は蝦夷征伐後、共和政治を恐れた朝廷による廃平政策によって多くが徹底的に破壊、処分され歴史上から姿を消してしまった。
共和制蝦夷の政治の舞台であった民衆議会ですらも朝廷側の史料で屋根の無い石造りの円形の建物であったとの記録は残されているが、記録はその記載のみであり、民衆議会は破壊され石材は全て朝廷が新たに建築した建物の石材に使われ、跡には何も残らなかったという。実際に民衆議会があった場所は現代に至るまで一切特定ができておらず、その痕跡についても発見はできておらず、どの様な建造物であったのかも、残された朝廷側の史料では、その記録が詳細な物ではない為に不明である。
共和制蝦夷による膨大な文字資料も焼かれるか海や川や湖や沼地などに捨てられた。この様に廃平政策は徹底された。
現在では共和制蝦夷の名残があるのは、廃平政策でも破壊されずに残され朝廷によって利用された富螺御爾烏洲が整備を指示したとされる蝦夷街道と、1965年に発見された岩手県奥州市にある共和制蝦夷が建造したとみられる全長18.4kmにも及ぶ水道遺構のみである。
共和制蝦夷滅亡後、日本において、再び議会政治が行われる様になったのは千年以上後の明治維新の時まで待たなければならなかった。
・共和制蝦夷と富螺御爾烏洲の評価
日本の朝廷を滅ぼそうとした共和制蝦夷とその指導者であった富螺御爾烏洲の存在は蝦夷征伐後、長らくその存在はタブー視された。共和制蝦夷と富螺御爾烏洲は朝廷に逆らった朝敵として扱われ逆賊の代名詞にもなった。それは議会政治が始まった明治維新後においても同様であった。共和制蝦夷と富螺御爾烏洲は日本の歴史上初めて民主主義を実践した先駆者であったが、それと同時に朝敵でもあった。
しかし、共和制蝦夷と富螺御爾烏洲は第二次世界大戦後にその存在が脚光を浴びる事になった。第二次世界大戦後、敗戦下の日本においてGHQは日本に民主化を根付かせる方法を模索していた。その際に富螺御爾烏洲の存在がGHQの目にとまった。GHQは共和制蝦夷と富螺御爾烏洲を日本における最初の民主主義者と位置づけ、富螺御爾烏洲を戦後日本の民主化の象徴とした。
ダグラス・マッカーサーは富螺御爾烏洲の銅像の製作を指示し、国会議事堂前の正面中央に、民衆議会で演説をする富螺御爾烏洲像を設置させた。1946年に発行された日本銀行券の100円札にも肖像画として富螺御爾烏洲が選ばれている。また、学校教育でも富螺御爾烏洲や古代東北の共和政治などが扱われる様になった。
なお、余談だが、富螺御爾烏洲の銅像や日本銀行券の肖像画の姿は全て後世に考えられた想像図である。富螺御爾烏洲の容姿は文中や口伝などでしか残されておらず、絵などは残されていない。その為、現代日本で富螺御爾烏洲と言えば、短甲風の鎧と蝦夷兜を着てその上から熊の毛皮を被った姿で国会議事堂前に設置されている民衆議会で演説をする富螺御爾烏洲像の姿を想像するが、その顔や体格などは後世に考えられた想像の姿である。
富螺御爾烏洲に関しては「富螺御爾烏洲」「共和制蝦夷」「民衆議会で演説をする富螺御爾烏洲像」「蝦夷・ローマ文化渡来影響説」「蝦夷・ローマ人渡来説」の記事を参照。




