航海者ハンノ ‐ ウィキパディア
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ページ/ノート
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航海者ハンノ
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航海者ハンノ(こうかいしゃハンノ 英:Hanno the Navigator, Hanno II of Carthage)は、紀元前450年頃のカルタゴ出身の人物。地中海を越えてアフリカ大陸西岸のガボンに到る大航海を実行した。この功績によって後世では他のハンノの名を持つ者たちと区別して航海者と名づけられている。ハンノの意味はフェニキア語で慈悲深いを意味する。
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概説
カルタゴの発展期にカルタゴは新たな植民市を建設可能な土地を求めており、西アフリカ沿岸地域に注目した。カルタゴの政府の命により航海者ハンノは60隻もの船団を率いてカルタゴを出発した。彼に率いられた船団はジブラルタル海峡を超えて海岸沿いに南下し、現在のガボン付近にまで到達した。
彼はこの航海の様子を記録に残しており、その中での一節に以下のような記述がある。
その記載によると航海者ハンノの船団は航海中に毛むくじゃらの奇妙な人間たちを発見して、意思疎通を試みたが、殆どは森の中へと逃げてしまった。だが、女を3人の捕獲には成功した。しかし、女たちは非常に凶暴で抵抗した為に航海者ハンノ達は彼女らを殺したと言う。地元の通訳にこの毛むくじゃらの女共は何の人種なのかと尋ねてみると、地元の通訳は彼女らの事をゴリライと呼んだ。
これが現在のゴリラの語源である。
これらを含んだ航海者ハンノの航海記録はカルタゴの後継国家であるハンノを通じて、欧州に齎され「カルタゴの提督ハンノの航海」としてポルトガル語、フランス語、ラテン語に翻訳されて現在まで伝わった。
航海者ハンノによるアフリカ西岸の航海による功績は非常に大きく、航海者ハンノによる探検後、現在のガボン付近にはカルタゴからフェニキア人が移住し殖民都市を築いた。
この最初に築かれた都市の名前や、カルタゴの殖民都市が建設された地域一帯の事を、移住したフェニキア人達は航海者ハンノの名前からとってハンノと呼んだ。ハンノの名前はその後、国家の名称にもなった。
こうして、ハンノへと移住したフェニキア人であったが、地中海世界のフェニキア人文明はその後、第三次ポエニ戦争によってカルタゴが滅亡した事で完全に途絶えてしまったが、ハンノの存在によってフェニキア人やカルタゴのフェニキア人の文化、伝統、宗教、学問などが存続された。
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伝承の経路
航海者ハンノの記録はカルタゴの後継国家であるハンノを通じて、欧州に齎され「カルタゴの提督ハンノの航海」としてポルトガル語、フランス語、ラテン語に翻訳されて現在まで伝わった。
一方で欧州側では航海者ハンノの記録は一切残っていなかった。また、ハンノの存在についても、ハンノの殖民都市が残した記録から、カルタゴからの移住者によって殖民が行われた事や、カルタゴ本国に対してハンノからマンゴーやバナナ等の果物を輸出していた記録が残されているが、この様な殖民が行われていた事や、マンゴーやバナナ等の果物がカルタゴへと輸出され流通していた事を示す記録は欧州側には現存していなかった。
欧州側がハンノの存在を知るのは14世紀にポルトガル人が初めてハンノと接触した時である。
現在に伝わる航海者ハンノの記録やハンノとカルタゴ本国との関わりを示す記録は全てがハンノ側で記録、保管されていたものである。
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海路の推定
航海者ハンノの船団が進んだ海路は現在の歴史家の間で少なくともガボンまでは到達していた事は合意されている。それ以降の説については学者ごとに意見のばらつきがあるが、さらに南下していた可能性も否定できない。




