ハンノ ‐ ウィキパディア
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ハンノ
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ハンノ(英:Hanno ポエニ語:□□□)とは、現在のガボン、コンゴ、コンゴ民主共和国、アンゴラ、サントメ・プリンシペの沿岸部地域に存在したフェニキア人の国家。11の都市国家の同盟からなる。紀元前6世紀にカルタゴの航海者ハンノが現在のガボンに到達し、その後、紀元前6世紀から紀元前5世紀頃にカルタゴのフェニキア人が殖民都市を築き以後、18世紀にフランスに支配されるまで、カルタゴの後継国家として存続していた。
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歴史
紀元前6世紀にカルタゴの探検家、航海者ハンノが新たな殖民都市を築く土地を探すべく60隻の船団を率いてアフリカ沿岸部の航海を行った。この際に現在のガボンに当たる地域まで航海者ハンノは到達した。
その後、カルタゴ本国のフェニキア人によって殖民は行われた。現在のガボンに当たる地域の沿岸部に、最初の殖民都市ハンノが紀元前6世紀から紀元前5世紀頃に築かれた。殖民都市ハンノはこの地域のフェニキア人の中心的都市となり、ここを中心にその後、フェニキア人は大陸の沿岸線に沿って南に新たな殖民都市を築き、紀元前3世紀の時点で、殖民都市の数は4つにまで拡大した。
紀元前3世紀には殖民都市ハンノからゴマス提督による船団が海洋探検に乗り出し、マダガスカル島へと到達。そこでマンゴーやバナナを殖民都市ハンノへと持ち帰り栽培が始まった。
第二次ポエニ戦争後、カルタゴは海外領土の殆どを喪失したがハンノは、以前からカルタゴ本国との関係性は遠隔地であった事もあり希薄であり、特産品でもあったマンゴー、バナナ、動物の毛皮等を本国へと輸出はしてはいたが、それ以外では殆ど本国の影響を受けていない半ば独立した地域であった事から、カルタゴとローマの領土割譲の条約には含まれなかった。
しかし、その後、ハンノと地中海世界との関係は急速にフィードアウトしていった。カルタゴ本国が力を大きく失った事で、ハンノからカルタゴ本国への輸出量は大きく減少した。そして、決定的となったのが第三次ポエニ戦争でカルタゴ本国が共和制ローマによって敗北し滅亡した事である。カルタゴ本国が滅亡した事でハンノは地中海世界との接点を失った。地中海世界との貿易は敵対国であったローマがその覇権を握った事でできなくなった。また、ローマはカルタゴの後継国とも言えるハンノの存在を知れば攻撃を仕掛けてくる恐れもあった事からハンノは地中海世界との接点を恐れた。
その後ハンノは、地中海世界から完全に切り離された状態で独自の歴史を歩む事になった。ハンノが再び地中海世界との接点を持ったのは1500年以上先の事である。
カルタゴ本国の滅亡後、ハンノのフェニキア人は殖民都市ハンノを中心にカルタゴの後継国家として振舞った。フェニキア人は大陸の沿岸線に沿って南にさらに新たな殖民都市を築き、プリンシペ島にも殖民都市を築いた。殖民都市の数は最終的には11つまで拡大し、これに伴って支配地域も拡大していった。
ハンノは人口増加と殖民都市間との域内貿易によって繁栄し、また、現地のバントゥー系の諸民族とも貿易を行って繁栄した。中央アフリカ南部の諸民族とも交易が行われた記録も残っており、ハンノのフェニキア人は中部アフリカから中央アフリカにまで及ぶ広域の交易ネットワークを構築した。
この交易ネットワークは中部アフリカと中央アフリカ地域のアフリカ諸民族に大きな影響を与え、文字が伝来し、それまで文字の概念が無かったこれらの地域の人々に文字の概念が広がり、ハンノで使われていたフェニキア文字の他、独自のコンゴ文字、スワリ文字等、複数の文字を生み出した。また、カルタゴやハンノで信仰されていた宗教も伝来させた。
しかし、こうしたフェニキア人の生活圏と影響力の拡大は現地に元々住んでいたバントゥー系の諸民族との対立も招いた。ハンノとバントゥー系の諸民族は戦争を繰り返し、こうした脅威に対応する為に紀元53年に当時ハンノにあった6つの全ての殖民都市が互いに同盟関係を結び、これによってハンノは正式に成立した。
紀元103年には、ハンノの同盟都市の一つ、殖民都市デンテルが貿易不均衡を理由に殖民都市ルーニに宣戦布告した。これに対し、他の殖民都市が殖民都市ルーニを守る為に殖民都市デンテルに宣戦布告した(ルーニ戦争)。ルーニ戦争はハンノが成立して以降では最大級の本格的な戦争となった。
戦争は紀元103年から紀元173年までの実に70年間にも渡って続いた。殖民都市デンテルの王アポルティウス2世はハンノが対立していたバントゥー系の諸民族とも同盟を組み戦争を行った。アポルティウス2世は同盟を組んだバントゥー系の諸民族に対し、戦争に勝利すれば、ハンノの半分の都市を差し出すと約束した。これによって勢力を拡大した殖民都市デンテルの軍はハンノの諸殖民都市と敵対した。
このルーニ戦争は戦争中、ハンノの同盟都市の内、3つが殖民都市デンテル側に寝返る等の展開もありながらも、最終的にはハンノ側が勝利した。ルーニ戦争の様子は後にハンノのフェニキア人の神話にも影響を与えた。ハンノのフェニキア人の神話にはルーニ戦争が新たに書き加えられている。
その一方で負けた殖民都市デンテルには多額の賠償金が課せられ、軍は解体させられ王政も崩壊した。殖民都市デンテルと同盟を組んでいたバントゥー系の諸民族はルーニ戦争の終結後も、ハンノとの対立を続けた。
その後のハンノはルーニ戦争程の大きな戦争は長期間に渡って発生しなかった。バントゥー系の諸民族との対立や戦争は度々起きたが、その殆どにおいて、それはハンノの支配地域を覆す様な事には以後ならなかった。
ただし、ヨーロッパ人が到来するまでにハンノの政治の歴史においては、大きな変化と言える変化は度々起きた。各殖民都市の政体は各殖民都市ごとに変わる事はよくあった。共和制、民主制、王政が時代によって各殖民都市ごとに移り変わる事がよくあった。ハンノの中心的都市であった殖民都市ハンノでは政治体制が18世紀までに、共和制が3回、民主制が3回、王政が2回と合計8回に渡って時代によって様々な政体に移り変わった。
1469年にポルトガル人が初めてハンノのプリンシペ島へと到来した。欧州との接触は第3次ポエニ戦争以来の事であり、実に15世紀ぶりの事であった。
ポルトガル人はハンノの存在に驚愕したとされる。ポルトガル人の探検家は地中海世界以外のアフリカ大陸は未開の土地であると考えていた。しかし、ハンノは欧州にも引けを取らない高度な文明を築いていた。そればかりか、その起源は千年以上前に共和制ローマと地中海の覇権を競い滅んだカルタゴであった事はさらにポルトガル人や、この情報をポルトガル経由で知った欧州人を驚愕させた。
それに対しハンノでは接触してきたポルトガル人の事をルシタニア人と呼び、また、その他の欧州人の事をローマ人と呼んだ。ハンノでは地中海世界の存在は半ば神話として伝わっており、ローマ人を恐れていた。そして当時においても、地中海世界はローマの覇権の下にあると考えられており、その様な考えの下でのヨーロッパ人の到来はハンノ全体に大きな不安を与えた。
この様なハンノ側の不安に対し、ポルトガル側は最新の欧州情勢を伝える事でハンノの不安を払拭したとされる。ポルトガル人はローマは既に滅びた事をハンノに伝えた。ポルトガル人による説明により、ハンノ側は15世紀ぶりに欧州の最新の情勢を知る事となった。
1492年にはポルトガルの下級貴族であったアルヴァロ・デ・カミニャとアントニオ・カルネイロの二人が欧州人としては初めて、ハンノの中心的都市であった殖民都市ハンノへと訪れた。アルヴァロとアントニオの二人は殖民都市ハンノの繁栄とその壮大さに驚愕したとされる。
当時、殖民都市ハンノの人口は60万人に達し、この都市の人口規模は当時の欧州の平均的な都市人口を大幅に超える人口規模であった。さらに、ハンノの各都市は上下水道を備えており、これはローマ帝国崩壊後の欧州では珍しい事であった。
また、ハンノはカルタゴ文化やヘレニズム文化を色濃く残していたが、これは、ルネッサンスが始まったばかりの欧州にその後、非常に大きな影響を与える事になった。ハンノとの接触後、暫くの間、ハンノとヨーロッパの玄関口となったポルトガルのリスボンはイタリアのローマやフィレンツェと並んで文化、芸術、学問の中心地となった。
その後、ハンノには欧州各国から多くの交易船が訪れる様になった。ハンノは欧州に対して、マンゴーやバナナ等の果物、象牙、芸術品や工芸品、奴隷を輸出した。この取引によってハンノは空前の経済発展を達成したとされる。
しかし、16世紀後半から17世紀に入ると、ハンノの都市国家間の結束は乱れ始めた。欧州との交易によって齎された富を巡って各殖民都市の間で不和が流れた。ハンノの各殖民都市はルーニ戦争の勃発経緯を見ても分かる様に交易や経済を重視する性格があった。
こうしたハンノの不和に対して、ポルトガル、フランス、イギリス、オランダが介入を始め、影響力を拡大させた。1711年にはこうした同盟都市間の不和と欧州各国の介入の煽りを受け、ルーニ戦争以来の大規模戦争となるハンノ戦争が勃発。ハンノの同盟都市間での大規模な戦争へと発展した。
ハンノ戦争は1711年から1732年のハンノの和約による戦争終結まで続いた。ハンノ戦争はハンノの和約によって終結し殖民都市間の同盟であるハンノも存続したが、同盟都市関係は希薄となり、もはや都市間の連絡機関程の機能しか果たされなくなり、各殖民都市を繋いできた同盟都市関係は事実上消滅した。
安全保障上の同盟関係ではもはや無くなったハンノの各殖民都市はその後、1743年にはサントメ・プリンシペがプリンシペ島にあったハンノの殖民都市ごとポルトガルの植民地となったのを皮切りに次々とポルトガルやフランスやイギリスの支配下へと堕ちていった。
ハンノの中心的殖民都市であった殖民都市ハンノは1885年までハンノの殖民都市としては最後まで独立を保った。
1831年に殖民都市ハンノは、最高議会の決定により自国からのフランスの影響力排除を決定して挙兵した。これによって殖民都市ハンノとフランスは戦争状態となり、各地で戦闘を繰り広げた(第二次ハンノ戦争)。しかし、殖民都市ハンノは目的を達成する事は叶わず、最終的には殖民都市ハンノでの攻防戦であるハンノの戦いを経てフランス軍に敗北する事となった。
ただし、ハンノの戦いにおいて、殖民都市ハンノ側は都市を囲う城壁や城壁上の防衛兵器を駆使した籠城戦を展開し、一度もハンノの市街地にフランス軍を侵入させる事なく善戦し防衛には成功していたが、都市への水供給を寸断され深刻な水不足に陥った事から最高議会によって降伏の決定がなされた。
なお、この第二次ハンノ戦争は、歴史上、最後にファランクスを運用する重装歩兵や、投石器やバリスタ等の攻城兵器が本格的に運用された戦争として知られている。さらにこれらの装備を運用したハンノ軍が、鉄砲や大砲を運用するフランスの近代軍隊と戦った戦争としても知られている。ハンノ軍の重装歩兵は錬度が高く、槍と盾を構えた重装歩兵の部隊とその後方のフェニキアンボウ(合成弓)を装備した弓兵の部隊が一体となって戦列を乱さずに走りながらフランス軍を攻撃した様子はフランス軍側からフェニキアンアタックと呼ばれた。
一般的にハンノ軍は槍や弓だけで近代フランス軍と戦ったと誤解されがちではあるが、ハンノ軍側にもフランス軍と同様に大砲や鉄砲は存在した。ハンノ軍は鉄砲や大砲も扱いつつも、重装歩兵や弓兵などの兵種の存在も重視し、鉄砲や大砲以外にも複数の武器を扱っていくという独自の軍隊の編成を採用していた。しかし、その為、フランス軍の鉄砲や大砲の保有量に対してハンノ軍側の鉄砲や大砲の保有量が圧倒的に不足する結果を招いた。
第二次ハンノ戦争後も殖民都市ハンノは名目上は独立を保った。しかし、それは完全な独立状態ではなく、フランスの保護下に入っており、事実上のフランスの植民地の状態だった。
しかし、その状態も1885年のベルリン会議によってフランスの植民地と決定されるまでの事であり、ベルリン会議の決定によって、殖民都市ハンノはフランスの正式な植民地となった。これによってカルタゴの後継国家であったハンノは滅亡した。
殖民都市ハンノの領土であった範囲はフランス領ガボンへと最終的には統合され、1910年にはフランス領赤道アフリカの一部となった。
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その後
第二次世界大戦後、1958年から1975年にかけてフランス、イギリス、ポルトガルによる植民地統治の時代は終わりを迎えた。その後、かつてハンノを形成していた地域にはガボン、コンゴ、コンゴ民主共和国、アンゴラ、サントメ・プリンシペが建国された。
しかし、これらの地域では、フェニキア人とバントゥー系の諸民族との民族対立が現在でも続いている。例えばガボン、コンゴ、サントメ・プリンシペでは国家人口の半数がフェニキア人であるが、政権での主導権を巡ってフェニキア人の政党とバントゥー系民族の政党が争っている傾向にある。
コンゴ民主共和国やアンゴラでは独立当初にフェニキア人が黒人によって虐殺される事件も起きた。こういった民族対立が影響しフェニキア人の中には、フェニキア人国家を作るべきだとする分離独立運動を起こしている人々も存在する。分離独立を主張する人々の多くはかつてのハンノをフェニキア人の理想の国家像として掲げている。こうした分離独立運動を行う勢力の中にはテロ等の過激な手段を行う勢力も存在する。
なお、1998年から2003年までコンゴ民主共和国において勃発した第二次コンゴ内戦では諸外国に多くのフェニキア人難民が発生し日本にも2007年現在、108人のフェニキア人難民が登録されている。第二次コンゴ内戦においても一部の黒人武装勢力によるフェニキア人虐殺が問題となった。
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学問と文化と芸術
ハンノでは学問、文化、芸術の探求が盛んだった。ヨーロッパ人がハンノに初めて到来した時、ハンノの一般市民の識字率の高さに驚いた記述が多くある。ハンノの各殖民都市では現代で言う義務教育の様な教育が各地のムーサイ神殿で行われており、都市における識字率は7割を超えていたとされる。また計算ができる者も非常に多かった。
さらに学問においては、天文学が発達していた。欧州において地動説が本格的に登場したのは16世紀にコペルニクスが登場して以降の事であるが、欧州とは違い、学問に対する宗教弾圧等が無く自由な学問が発展できたハンノでは4世紀にはすでに、殖民都市ハンノの哲学者アンテュロスが地動説を提唱し、ヨーロッパ人が初めて到来した14世紀時点ではハンノにおいて、多くの一般市民までもが地動説を信じていた。この地動説の普及度合いを示す話として、15世紀初頭にポルトガルのキリスト教司祭フランシスコ・ルターが布教の為にハンノへと訪れ、天動説を主張し地動説を否定した際に市民から大顰蹙を受け司祭がポルトガル本国に怒りの書簡を送った記録が残されている。これは、ハンノにおける市民の学問に対する理解度が非常に高かった事を示す話として今日にも伝わっている。
さらに、地動説に加えて、重力の存在や地球球体説も知られていた。ハンノの哲学者は重い物には軽い物を引っ張る力があると考え、これを元に太陽が中心に存在する理由を当て嵌め考えていた。この重い物には軽い物を引っ張る力があるという考えは、ムーサイ神殿での教育を通じて多くの市民にも広く伝わっていたという。重力の存在は地球上から人や物が落ちない理由として広く伝わっていた。また、重力に関連してハンノの哲学者の間では銀河系に関する説明でも、銀河系の中心部には星々を引き付ける巨大な質量を持つ星が存在すると考えられていた。
これらの考え方は14世紀にヨーロッパ人到来するまでには既にハンノでは常識として確立されていた考え方であった。
また、15世紀の時点において、欧州に先んじて初歩的な蒸気機関が利用されていた。蒸気機関は都市の城壁を守る投石器の動力として利用されており、いつ頃から使用されていたかは定かではないが、少なくと10世紀頃には使用されていたとされる。この投石器の存在は、欧州にその存在が伝わるとレオナルド・ダ・ヴィンチもこの存在に言及して触れており、彼は紀元前のシラクサ包囲戦で使われたと伝わるアルキメデスの投石器の技術が失われずに現代まで伝わったのではないかと著書の中で推察している。なお、このハンノの投石器は第二次ハンノ戦争中のハンノの戦いにおいて、殖民都市ハンノの城壁を攻撃するフランス軍に対して使用されフランス軍を恐れさせた。
なお、レオナルド・ダ・ヴィンチにまつわる逸話として、レオナルド・ダ・ヴィンチはその人生において、ハンノに対して非常に強い興味を持ち、ハンノへの旅行を何度も計画していたが、ダィンチ自身の事情によってその度に行く事が叶わず、晩年にようやく渡航する準備が整ったが渡航直前の1519年5月2日に死去してしまった。出発の予定日は5月5日であった。
・世界遺産
ハンノを構成した11の殖民都市全てがユネスコの世界遺産に登録されている。また、ハンノが整備した中部アフリカから中央アフリカ南部を結ぶ交易路、ハンノ街道や、マダガスカルで発見された紀元6世紀から7世紀頃のものと思われるハンノのフェニキア人が移住を試みた集落跡なども世界遺産に登録されている。ハンノ関連の世界遺産は全部で13件がユネスコに登録されている。
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宗教
ハンノではカルタゴと同じ様に、バアル崇拝とアスタルト崇拝とタニト崇拝が融合し、さらにエジプトの神々やギリシャの神々を崇拝する独自の宗教形態が維持された。この宗教形態はハンノの下でさらに発展し、カルタゴでも崇拝されていた神々に加えて、バントゥー系民族が崇拝していた神も崇拝されていた。
このハンノの宗教形態は欧州との接触後も続いた。ハンノにも欧州からキリスト教が伝来し信者の数を急速に増やしたが、ハンノの殖民都市では神殿の影響力が強く大多数の信仰が維持された。
ハンノが欧州の植民地となった後も、ハンノの宗教形態は続いた。しかし、植民地時代にそれまで都市部で大きな影響力を持っていた神殿の影響力がしだいに喪失していった為、この時代にキリスト教は大きな影響力を持つようになった。フェニキア人の大多数がこの時代にキリスト教徒となった。
植民地からの独立後に初めて行われたエコノミストによるフェニキア人の宗教実態を調べた調査では、2000年の時点で、フェニキア人の16%がハンノの宗教形態を信仰し、77%がキリスト教徒、0.8%がイスラム教徒、0.2%がゾロアスター教徒、6%が無神論者だった。
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ハンノの社会
ハンノは古代ギリシャの様に、市民、外国人、奴隷の3つの身分階級に分かれていた。市民は特定の殖民都市に市民権を有する住民であり、外国人は他の殖民都市の住民や市民権の無い都市居住者、奴隷は戦争捕虜や市民の義務を果たさなかった者などがなった。なお、奴隷となる人間はフェニキア人が奴隷になる事もあったが、多くの場合、ハンノと対立していたバントゥー系の諸民族が奴隷となった。
奴隷は稀に解放される事もあったが、基本的には農作業、商売、鉱夫、職人、家内の雑用、公文書の保管、市中の警備など、ありとあらゆる部門で非常に酷使された。4~5人程度の家族であれば、男性の奴隷1人を従事させれば家族が充分に生活できる報酬を得られたとされる。解放された奴隷は外国人の身分へとなれた。
ハンノの社会は古代ギリシャと類似した社会を有していた。これは、ハンノの各殖民都市において、時代によっても政体が、共和制、民主制、王政へと代わる代わる変容はしてはいたが、民主政治も時には行われていた為であるとされる。
市民は7歳から8歳の年齢になると、ムーサイ神殿で教育を受けた。ムーサイ神殿では読み書き、計算、体育の他、各種学問の教育を履修した。16歳が成人であるとされ、成人になると、軍隊や選挙等の政治に参加した。
教育は市民以外でも外国人や奴隷でも読み書きの学習自体は無料で受けられたという。都市に住まう者は読み書きに関しては必修であり奴隷でも読み書きができる者は多かったとされる。奴隷は読み書きができない場合、読み書きができる者に比べて、より過酷な労働に就かされる事が多かった。
外国人は、ムーサイ神殿に対して学費を支払う事で市民と同じ教育を受ける事ができた。
ハンノの社会は古代ギリシャと似た社会をしていたが、古代ギリシャとは違い女性の社会的地位は高かった。ハンノにおいて女性は男性とほぼ同じ社会的地位であり、唯一女性が就けない職は軍人だけだった。その為、ハンノの社会では多くの女性哲学者や女性政治家が誕生した。
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ハンノの著名な出身者
・ゴマス提督 ・プリウス・カリオス(軍人・政治家)
・アポルティウス2世 ・大ハンノ(哲学者)
・アンテュロス(哲学者) ・カルタナ・ギスコ(哲学者・政治家)
・大コノン(哲学者) ・モニカ・マゴ(軍人・政治家)
・小コノン(哲学者) ・エリエンテス1世
・エウロポス(軍人・政治家) ・エリエンテス3世
・リュシストラントス(軍人・政治家)・デマゴテス(哲学者)
・クソ(哲学者・政治家) ・フィロトス(数学者・哲学者)
・ハルモニ・フォーキン(海賊) ・ケフィア(博物学者・数学者)
・大ケフィソドス ・カティア(哲学者・政治家)
・小ケフィソドス
・ピッシアス(軍人・博物学者)
・メレトス・ヒュパティア(哲学者・政治家)
上記以外のハンノの人物については「ハンノ出身の人物一覧」の記事を参照。




