ラムセス12世 ‐ ウィキパディア
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ラムセス12世
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※2262年のセパト会議の席上で撮影されたラムセス12世。
ラムセス12世(英:Ramses XII 生誕:2157年9月2日‐2347年3月3日)はエジプトの軍人・政治家。エジプト・アラブ共和国の大統領及びエジプト帝国の初代ファラオ。共和制エジプトにおいてエジプト軍軍事情報庁長官、エジプト軍最高評議会議長、国防大臣、エジプト国軍総司令官、エジプト陸軍元帥、第一副首相などを歴任し第61代エジプト・アラブ共和国大統領に就任した。その後、エジプト帝国の初代ファラオに就任。
エジプト・アラブ共和国大統領(第61代・62代・63代・64代・65代)、エジプト帝国初代ファラオ(在位2222年‐2347年)。
称号:エジプト帝国ファラオ
:エジプト・アラブ共和国大統領
:エジプト・アラブ共和国終身大統領
:エジプト人民の父
:ナイル世界の修復者
:人類文明の修復者
:エジプト文明の復興者
:地球人類市民の第一人者
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目次
1.概要
2.生涯
2.1生い立ち・軍人へ
2.2上下エジプトの統一と共和制エジプト大統領への就任
2.3ナイル世界の統一
2.4アラデールへの侵攻と領土拡張
2.5共和制エジプトの終焉とエジプト帝国の誕生
2.6ネオケメティズム統治政策
2.7禁忌の復古
3.死去
4.逸話
5.家族
6.評価
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概要
世界終焉後、地球世界で唯一残された地域にも関わらず、それまでの既存国家が崩壊し激しい内乱状態に陥っていたナイル世界で勝ち抜きエジプトを統一。さらにナイル世界を統一しパクス・エジープト(エジプトによる平和)を実現した。また、美術や文化における古代エジプト美術の復興政策であるネオ・ケメティズムを実行し、古代エジプト美術を復活させ支配地域において、このネオ・ケメティズムを推し進めた事でナイル世界周辺地域の広域に大エジプト文化圏を形成させた。
さらに、ナイル世界外の支配地域においてイスラム教の布教を国策として推進した事から、エジプト帝国並びにパクス・エジープトは世界史上2番目となるイスラム帝国を形成した。なお、その領土範囲はウマイヤ朝イスラム帝国の領土範囲を大幅に超えており、エジプト帝国によるイスラム帝国は史上最大のイスラム帝国であった。
なお、名前のラムセス12世であるが、これは改名された名前であり、改名前の名前はオマル・サイード・シッシーという名前だった。ラムセスとは、古代エジプト第19王朝のファラオの名前であり、ラムセス1世から11世までが存在する。シッシーは古代エジプトの偉大なる王であるラムセスにあやかって自身をラムセス12世と名乗った。
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生誕
・生い立ち・軍人へ
2157年9月2日に上エジプトのケナ県のデンデラのラクダでキャラバンを営む交易商の長男として生まれた。シッシーの一族は古くは2010年代頃からトラックで運送業を営んでた一族の末裔であり、デンデラを拠点に上エジプトと下エジプト地域を行き来するラクダ・キャラバン交易商を営んでいた。キャラバンの本拠地であるケナ県は、古代ローマ時代から続く地域で、ナイル川の中流右岸に位置する。ナイルの水運と、紅海沿岸サファーガへのキャラバンが接続する交通の要所である。なお、父親は人類で母親は魔族の種族の一派であるケルピー族であり、シッシーは人類と魔族のハーフとして生まれた。
両親はシッシーに家業を継がせるつもりであったが、当の本人は考古学者に憧れ将来はカイロにある名門校のカイロ大学に進学を考えていた。シッシーは少年時代、キャラバンが本拠地のデンデラに戻ると毎日の様に町から離れたデンデラ神殿複合体に赴き遺跡をスケッチする毎日を過ごした。
しかし、当時のエジプトは2024年に発生した世界終焉後の2049年から続く激しい内乱の時代の真最中であった。世界終焉後、地球世界で唯一生存し残存したアフリカのナイル世界(エジプト、スーダン、南スーダン、ブルンジ、コンゴ民主共和国、エチオピア、ケニア、ルワンダ、タンザニア、ウガンダ)は2049年までに、それまでの既存国家群が事実上崩壊し様々な勢力が群雄割拠する激しい内乱の時代に突入していた。エジプトも国内勢力が分かれ、世界終焉前より続くエジプト・アラブ共和国支配下の下エジプト。上エジプトの内、ナイル川西側地域の大半を支配するワーディー・ゲディードのアル=カイーダ。シッシーの故郷であるデンデラを含む上エジプトのナイル川沿岸の複数の自治体からなる正統自由エジプト。上エジプトのナイル川東側地域全域を支配する自由エジプト。シナイ半島を支配するイスラム国シナイ州などの5大勢力がエジプトの覇権を巡って合い争っていた。
シッシーが10歳の頃、キャラバンがデンデラへと戻り、いつもの様にデンデラ神殿複合体に向かうと、デンデラ神殿複合体は数日前の戦闘により破壊されていた。この出来事はシッシーの少年心に大きな衝撃を与えた出来事であったとされ、シッシーは後にこの出来事が軍人になる決心をした出来事であったと後年語っている。
シッシーは両親が進めるキャラバンの家業や、自身の夢であった考古学者の道には進まなかった。シッシーは両親に対して、エジプト・アラブ共和国のエジプト軍への入隊を希望した。これに対して両親は猛反対であったものの、シッシーは諦めず、キャラバンがカイロへと入りエジプト・アラブ共和国の勢力圏内に入るとシッシーは両親に黙って幾らかの金品と食料を持ち置手紙を残して、エジプト軍の士官学校に入学した。なお、入学時、シッシーは13歳であったが、年齢を15歳と偽って入学している。
士官学校において、シッシーの成績は非常に優秀であったとされており、入学時こそ、成績は普通であったとされるが、士官学校卒業時には学年首席となった。2171年に2年間の士官教育を終えて士官学校を卒業すると、エジプト陸軍に従軍。シナイ半島方面の守備隊に配属された。
士官学校を卒業し少尉となったシッシーが配備された部隊はエジプト陸軍第2野戦軍・第16歩兵師団・第16機械化歩兵旅団所属の第87歩兵大隊だった。シッシーは大隊司令部付きの要員として配属された。
シッシーの軍事的才能が初めて発揮されたのは2172年の時である。シッシーの所属する第87歩兵大隊の兵士700名は、エジプト・アラブ共和国の支配地域とシナイ半島を支配するイスラム国シナイ州の支配地域との丁度、中間に位置する最前線地域の守備任務を受け持ち、アリーシュ市西部に位置するビール・アルアベドに駐屯していた。
このビール・アルアベド周辺地域は長らく戦闘が発生していない地域に分類される地域であったが、この年、突如として、それまでこの地域では目立った軍事行動を取っていなかったイスラム国シナイ州が軍事行動を行った。イスラム国シナイ州は同盟関係のランバルディア帝国(当時、聖大陸のアラデール地方に存在した国家)の傭兵団と共にビール・アルアベドに対して総攻撃を開始。ビール・アルアベド市街地にロケット弾や砲弾が最初に撃ち込まれた。しかし、これらの襲撃が始まっているにも関わらず、司令部からの命令が一切出されなかった。シッシーら司令部の要員はこの事に不信を抱き司令室を確認すると、司令室はもぬけの殻だった。大隊指揮官やその側近らが攻撃が始まった時にビール・アルアベドから逃走した為である。
この突然の事態に第87歩兵大隊は大混乱に陥った。街への攻撃が始まっているにも関わらず、司令部が逃走した事で、指揮系統は完全に崩壊し、司令部と同じく脱走を試みる部隊まで現れる程であった。この緊急事態時に臨時に指揮を執ったのがシッシーである。シッシーの階級は少尉であり、本来であれば、大隊を率いる階級者では無かったが、司令部付きの少尉であった事と、上位階級者が司令部において不在であった事からエジプト軍の定める緊急時の軍規に従ってシッシーが指揮権を臨時に継承した。
シッシーはまず、大隊の指揮系統の混乱を解消させた。それでも部隊の半数近くが既に逃走していたが、残存部隊を再編した。そしてシッシーは残存部隊に対して市街地戦への移行を指示。防衛戦闘を展開した。戦闘は本軍からの援軍が到着するまでの2日間に渡って継続したが、第87歩兵大隊はビール・アルアベドの防衛に成功した。なお、この時の兵力差はシッシー指揮下の第87歩兵大隊が395名に対しイスラム国シナイ州側は傭兵も含めて3000名に達していたとされる。
この様な圧倒的な兵力差にも拘らず、2日間にも渡ってビール・アルアベドを防衛した事はエジプト軍だけでなく、エジプト政府にも高く評価された。シッシーの活躍は部隊を壊滅の窮地から救った若き指揮官として報道され、民衆の間では、ビール・アルアベドの英雄とも呼ばれた。エジプト軍はシッシーに対して軍の威信を守ったとして、階級を異例の3階級昇進させ少佐に昇進させた。なお、この時点でエジプト軍史上最年少の少佐である。少佐となったシッシーは第87歩兵大隊の指揮官に任命された。
・上下エジプトの統一と共和制エジプトの大統領への就任
ビール・アルアベドでの戦い後、シッシーは各地の戦線にて従軍し戦果を上げる事となり異例の速さで階級を上げていった。2174年には第16機械化歩兵旅団の指揮官に就任しシナイ半島における重要な幾つかの戦闘に参加。2176年にはエジプト軍がシナイ半島全域を制圧するが、この制圧過程における最大の功労者はシッシーであるとされエジプト・アラブ共和国域内で賞賛された。
2181年に僅か24歳の歳で、少将へと昇格し第16歩兵師団の指揮官となると、シッシーの部隊は各地の戦場に配属された。2183年にワーディー・ゲディードのアル=カイーダを制圧すると、当時のエジプト・アラブ共和国の実質の支配者であったエジプト陸軍元帥モハメッド・フセイン・ムスタファによって政権支持率のアップの為に中将に昇進され、さらにエジプト軍軍事情報庁長官、国防大臣、第一副首相に任命された。
これらの政府の役職にも就任したシッシーであったが、就任後、シッシーが政治の中枢であるカイロに滞在する事は殆ど無かったとされ、シッシーは殆どの時間をエジプト各地の戦場で過ごした。
2185年、シッシーは自身の故郷でもあったデンデラを含む正統自由エジプトを降伏させると、エジプト最後の分裂勢力である自由エジプトと決戦に挑んだ。自由エジプトはスーダンの武装勢力と同盟を結びシッシー率いるエジプト軍と対峙した。
なお、この時、エジプト軍の戦力はシッシーの第2野戦軍のみであった。これはシッシーの軍事的才能や異例の速度とも言える昇進スピードを脅威に思ったエジプト軍上層部によって、少ない戦力しか提供されなかった為である。
シッシー率いる第2野戦軍と自由エジプトの戦力差は自由エジプトの方が多い勢力であったとされる。兵力差は約2倍であったとされ、また、自由エジプトの装備の品質はエジプト軍と殆ど変わらなかった。この様な軍事的に不利な状況下であったが、シッシーはこの戦闘において、その軍事的才覚を発揮した。2187年、凡そ2年間の攻防を経て自由エジプトの首都があったバフル・アル=アフマル県の県庁所在地フルガダを制圧。この間、シッシーは自軍の消耗を最小限に抑えたとされ、損害は2倍の相手と戦ったにしては非常に少なかったという。
この勝利によってシッシーは2049年から1世紀以上に渡り続いたエジプトの内乱を終結に導いた。このシッシーの勝利の報が伝わるとエジプト各地で歓声が三日三晩に渡って続いたとされる。その一方でエジプト軍関係者の間では落胆が起き、また、シッシー派の軍内部の派閥が、シッシーに対して非協力的だった軍上層部を告発すると、シッシーの功績を妨げようとした者達は民衆からの批難を受ける事となった。また、エジプト軍内部においても、一般将兵の間ではシッシーの人気は絶大であり、シッシーに対する懐疑的な派閥もシッシーの人気や人望を無視する事はできなくなった。
こうした民衆や軍内部の派閥からの絶大な支持を背景にシッシーに与えられた役職や階級はエジプト軍軍事情報庁長官、国防大臣、エジプト陸軍元帥、第一副首相にまでなった。いずれも28歳での就任であり、エジプト史上最年少での就任である。
内戦の終結後、シッシーはエジプトの復興プロジェクトの多くを担当した。工業力の回復と内戦前に比べ大幅に技術的にも戦力的にも衰退した軍の再建である。特に軍備の再建プロジェクトは肝いりで行われ、2190年までに、エジプト軍はナイル世界において最大の軍事力と兵力を有するまでに軍備を増強させた。
また、シッシーはエジプト軍内における自身の立場を固める為に政治工作や派閥工作にも奔走した。
2191年、エジプト政府は内戦終結を理由に軍による非常事態権を終了させた。それまで軍のトップが大統領を非常事態を理由に兼任し事実上の軍事独裁政権を築いていたが、これが終了した格好となった。これを受けて、凡そ1世紀ぶりとなるエジプト大統領選挙が実施される事となった。シッシーはこの大統領選挙に出馬。それまで軍事政権を率いていたモハメッド・フセイン・ムスタファと選挙戦を繰り広げた。
この結果、シッシーは9割以上という圧倒的多数の票を獲得という得票率を得た。しかし、モハメッド・フセイン・ムスタファは一時、選挙の不正を訴え大統領宮殿であるヘリオポリス宮殿からの退去を拒否した。これを受けてカイロ市内では、モハメッド・フセイン・ムスタファ支持の軍部隊とシッシー支持の軍部隊が睨み合いとなる事態も発生した。
しかし、後日にシッシーがモハメッド・フセイン・ムスタファの元を訪れ会談を行うと、モハメッド・フセイン・ムスタファは会談後にこの主張の撤回を表明し、権力のスムーズな移行を約束した。これによって権力のスムーズな移行が行われ、シッシーは選挙の結果通りに第61代エジプト・アラブ共和国大統領に就任。またそれと同時にエジプト軍最高評議会議長、エジプト国軍総司令官に就任した。時に34歳の時の事であり、シッシーはエジプト史上最年少の大統領となった。
・ナイル世界の統一
大統領に就任してすぐに行ったのは、隣国スーダンの勢力への軍事侵攻だった。シッシーはエジプト国民に対して、エジプトが真に安寧を得るには不安要素の供給源を遮断しなければならないと、テレビとラジオで演説し軍を動員した。シッシーはエジプト国軍総司令官として前線にて総指揮をとった。
2192年に最初の侵攻を行い、エジプト軍は次々とナイル世界各国内の勢力と交戦しこれに勝利した。2193年にはスーダンを制圧し併合を宣言。同年中には南スーダンへと侵攻している。スーダンの制圧がその後のエジプト軍の遠征やその他のナイル世界各国の勢力に与えた影響は非常に大きく、スーダンには各勢力のエネルギー供給源の一つとなっていた油田が存在しており、ここを制圧した事で、エジプト経済は元来よりエジプトに存在した海底油田と合わさり圧倒的な石油生産量を獲得した事でエネルギー問題が大幅に解消された事で盛り上がり、その一方でスーダンの石油を利用していた幾つかの勢力はエネルギー供給路を遮断される事となった。
エジプトによるナイル世界各国への遠征はシッシーが大統領に就任した翌年の2192年から2204年までの、凡そ12年間続き、この間、シッシーは殆どを戦場で過ごしエジプト本国には戻らなかった。ただし、例外として勝利の凱旋等は度々行い、スーダンの油田地帯制圧時にはカイロ市内において軍事パレードと共に獲得した石油を満載したトレーラーの集団がカイロ市内を巡っている。また、熱帯の食物生産地域を制圧した際には大量の食料を満載したトラックの集団がカイロ市内を巡りさらにその食料をカイロ市民に無償で配った記録が残っている。
シッシーによるナイル世界各国への侵攻は主にエジプト軍による武力制圧が主だったが、シッシーは2049年以降で初めて国家統一を成し遂げた圧倒的な国力と力を持つエジプトの軍事力をナイル世界にいる全勢力に見せつける事で同盟も募り、少なくない数の勢力がエジプト側に付いた。エジプトと同盟を結んだ勢力はナイル世界勢力の3分の1にも及んだとされる。
途中、大統領選挙を挟みながらも反戦派の候補者を抑え圧倒的な得票率で大統領職を継続した。
こうして同盟勢力と共にシッシーに率いられたエジプト軍はナイル世界の各地の勢力を倒して行き、2204年にケニアの勢力がエジプト軍に対して全面降伏した事で、史上初めてナイル世界を統一した。なお、この統一に際してシッシーは全ての獲得地域をエジプト領として併合しており、エジプトがナイル世界統一により得た領土範囲は古代を含めたエジプト史上最大の領土範囲となった。
エジプトによるナイル世界の統治方法は主に各地の自治に基づいて成立した。シッシーは各地にセパト(ノモス)と呼ばれる地方行政区分を設けた。これは各地の勢力にその地の自治を認めるというものであり、ナイル世界への遠征時に同盟を組んでいた同盟勢力はもちろん、エジプトによって制圧された地域においても、エジプト政府の影響力は強かったが、一定の自治は許された。このセパトの最大の特徴として世界終焉前の国境線や地方行政区分の概念を全て無視している事が挙げられる。例えば、ルワンダ人のセパトは世界終焉前のルワンダ共和国の面積よりも大きい。こうしたセパトの範囲策定には各勢力の主張が取り入れられた。多くは話し合いによって決定されたが、一部の係争地ではエジプト政府による監督の下、決闘形式による小規模な戦闘でその地の自治権者を決めた。
また、シッシーは銃火器所持製造禁止法を法整備し、エジプト本国(2192年までのエジプト領の範囲)外の銃火器の製造拠点を次々と閉鎖。違法に銃火器を製造している事が発覚した場合には関係者を死刑とする法案を承認させた。この法律は所持や製造だけを禁止にしたのではなく、製造の事実を知りながら当局に通報しなかった場合も同罪の罪に問われた事から、各地で多くの密告が行われ、さらにエジプト政府が多額の報奨金をかけた為に、非常に多くの違法化された製造拠点が通報され廃止された。
なお、この法律は同盟勢力にも適応されている。ただし、同盟勢力は警察として雇用される場合もあった事から、一概に全ての同盟勢力が武力を喪失した訳ではない。
シッシーは銃火器について、各勢力の主張する自治は認めているのだから、武装をする必要は無いとした。なお、幾つかの勢力は反乱をその後に引き起こしたが、これらの反乱行為は全て討伐されている。
シッシーが構築したセパトによる統治方法は基本的には、高度な自治、エジプト本国及びセパト間の自由通商、武力放棄の3本の柱で成立した。まず、高度な自治は、各地のセパトに対して非常に高いレベルの自治権を与えるというもので、エジプト政府の影響もあったが、基本的には現地民による統治が行われた。エジプト本国及びセパト間の自由通商は、ナイル世界内における自由な通商や人物の移動をほぼ規制なく認めるというものである。武力放棄は、エジプトの行政機関以外の武力の所持を禁止したものである。この3本の柱の下、ナイル世界は新たな時代を迎えた。
統一後、シッシーはエジプト本国へと戻り、内政業務に専念した。カイロへと戻った当日中に、突如として陸軍元帥の位の返上を表明。後任として、かつての政敵であったモハメッド・フセイン・ムスタファの息子、ザイード・フセイン・ムスタファを指名した。この突然の返上と後任人事はエジプト中を困惑させた。シッシーは陸軍元帥の位の返上の理由を内政業務に専念する為だとしたが、これまでのエジプトの長い慣例上、陸軍元帥の位を持ったままでも問題は無い筈だった。さらに言えば、シッシーは内政業務の専念を理由に陸軍元帥の位は返上したが、その後はエジプト軍の将軍(大将)の位となり、それを維持し、さらにはこれまで通りエジプト軍最高評議会議長、国防大臣、エジプト国軍総司令官を兼任した。このれらの役職や階級が示す事はこれまで通りシッシーが軍事においても最高権力を握っている事の証明であった。この為、内政業務に専念する為に返上したという理由は多くの国民の間では信じられなかった。また、後任人事にかつての政敵のモハメッド・フセイン・ムスタファの息子が選ばれた事も多くの憶測を呼んだ。しかし、結局、これら一連の陸軍元帥の位の返上とかつての政敵の息子の陸軍元帥への指名は謎に包まれたまま、ついにその真相が明らかになる事はなかった。
なお、ザイード・フセイン・ムスタファはその後、4年後に新たな交代人事によって予備役に編入させられ、新たな陸軍元帥にはナイル世界への遠征中にシッシーの腹心の部下を勤めたイマール・アムル・ハレードが任命されている。
一部で困惑を引き起こしたものの、しかし、その後の行動でシッシーが内政業務に専念したのは事実である。シッシーはエジプト本国の経済発展もさる事ながら、併合された各地の復興事業及び経済活動の促進を実施した。経済に関してはエジプトがナイル世界全域を支配した事により、様々な勢力に害されない安全な交易路が確立した事と、石油や天然ガス等のエネルギー資源が各地に安定供給される様になった事で経済活動が活発化した。この経済活動の盛り上がりによるナイル世界全体の経済成長率は世界終焉後では最大の上げ幅となったとされる。
エジプト本国では工業化の促進が急激に推進され、次々と工業地帯の建設や増設が進んだ。エジプト本国の工業能力はナイル世界において、他地域を圧倒的に圧倒する巨大工業地帯を形成した。これによるエジプト工業界の増進は凄まじく、上下エジプト統一前の時点でも下エジプトの工業力は、ナイル世界でも1位2位を争う規模であったが、それがさらに巨大化し、事実上、ナイル世界の工業界の中心的存在になるまでとなり、エジプト本国の工業力は世界の工場とまで呼ばれるまでに成長した。
その一方で、エジプトの農産業は衰退したとされる。これはナイル世界の統一によって自由な通商が行われる様になった事が原因で、統一前は様々な勢力がナイル世界を群雄割拠していた事から物流には多くの制約があった。これが必然的にエジプト本国の農業を他地域の農産物から守っていた。しかし、統一により自由な通商が可能となった事で大量の安価な農産物が、エジプト本国に流入した事から価格競争において、エジプト本国の農産業にダメージを与えた。
世界終焉前においてはエジプトの農業生産能力はアフリカ大陸最大であったとされるが、世界終焉の影響やその後の社会変動によって長い時間をかけて、エジプトの農業生産能力は次第に縮小していき、代わりにコンゴやタンザニア等の農産業が成長していった。ナイル世界における農業生産の最大拠点はエジプトによるナイル世界の統一時にはすでに、エジプトからコンゴやタンザニア等のナイル世界南部の地域へと完全に移ってしまっていた。
シッシーはエジプト本国の農業の建て直し政策や支援策を指示したが、それと同時に失業した農家に対しては、工場の労働者とする事で失業対策とした。しかし、こうした工業重視のシッシーの政策に対して、農家の一部は不満を持ったとされる。
だが、いずれにせよシッシーによるナイル世界の統一によってエジプト本国の経済は急激に成長した。これら一連のナイル世界の統一による業績によってシッシーにはエジプト議会から「ナイル世界の修復者」「エジプト人民の父」「人類文明の修復者」の称号が与えられた。
・アラデールへの侵攻と領土拡張
2211年、シッシーはエジプト軍に対して聖大陸のアラデール地方への軍事侵攻を正式決定した。シッシーはこの軍事侵攻の必要性についてエジプト議会で演説し、アラデール地方の各国を筆頭にカワーケブル・カーリムンファダリオン世界の国々はナイル世界の戦乱中、ナイル世界の各勢力に深入りし戦乱をより混乱させた事実があるとし、これらの勢力を今後も放置すれば、再び混乱が引き起こされる可能性があるとした。シッシーはかつての敵、イスラム国シナイ州の例を挙げ、イスラム国シナイ州は聖大陸のランバルディア帝国と同盟関係を結びその勢力以上に軍事力を拡大させ、その見返りにランバルディア帝国に対して軍事技術の技術供与を行った事を挙げた。また、それ以外にも似た様な事例は沢山あったとし、カワーケブル・カーリムンファダリオン世界の勢力からナイル世界の勢力に対する介入事例が数多く存在しているとした。シッシーはこれらの勢力は今も虎視眈々とナイルを見て介入の隙を窺っているとし、ナイルの真の平和はまだ訪れておらず、ナイル世界に住む全ての人々と地球文明に真の平和をもたらすには、カワーケブル・カーリムンファダリオン世界への軍事侵攻が必至であるとした。
シッシーのこの主張に対して、エジプト議会は賛成多数で軍事侵攻を承認した。こうして、2211年にエジプト軍は聖大陸のアラデール地方への軍事侵攻を開始。地球文明勢力によるカワーケブル・カーリムンファダリオン世界への国家規模的軍事行動としては2034年から2038年までの期間続いた地球戦争での地球連合軍による魔大陸への軍事侵攻以来の事となった。
シッシーはこの侵攻部隊の総司令官にイマール・アムル・ハレード陸軍元帥を任命した。侵攻部隊には北部軍管区軍、第3野戦軍、エジプト海軍が主力として宛がわれ、第2野戦軍からも抽出兵力が宛がわれた。
アラデールへの最初の侵攻はナイル世界と最も近い国であるポントム王国に対して実施された。ポントム王国はエジプトと海峡を挟んだ隣国でもある。エジプトは侵攻直前にポントム王国に対してエジプトへの協力か戦争かを選択せよという内容の宣戦布告文書を送っており、ポントム王国はエジプトへの協力を拒否した。
エジプト軍はポントム王国軍と交戦したが戦闘は2週間で終結し、ポントム王国はエジプトに対して敗北し併合された。なお、このポントム王国の早期での敗北はエジプトから名指しで攻撃を予告されたアラデール地方諸国を驚愕させた。
何故ならば、アラデール地方の国々はナイル世界との積極的な交流によって、カワーケブル・カーリムンファダリオン世界において軍事における完全な近代化を達成した唯一の地域であったからである。エジプト軍とも装備性能の差は殆ど無かったと言われており、それはポントム王国も変わらなかった。さらにエジプトがこの時、上陸させた戦力の規模は、まだ、侵攻軍の一部でしかなく、その為、ポントム王国軍とエジプト軍との兵力差は殆ど無かった。それにも関わらず、電撃的にポントム王国を制圧した事で、アラデール地方の諸国はエジプト軍への警戒感をそれまでよりも強め、アラデール地方の諸国同士で同盟関係を構築した。
しかし、イマール・アムル・ハレード指揮下のエジプト軍は次々とアラデール地方の国々を制圧していった。そして、最初の侵攻から2年がたった2213年、エジプト軍はアラデール地方の国々全ての制圧を完了し、ここに、地球戦争以来のカワーケブル・カーリムンファダリオン世界への初めての国家規模的軍事侵攻作戦は成功を収めた。
現在の歴史学者は、シッシーのアラデール侵攻はその後に続くエジプトの領土拡大の為の布石であったとする見方が主流である。前述した通り、アラデール地方は軍事的にナイル世界とほぼ同程度の軍事技術を持っていた。つまり、カワーケブル・カーリムンファダリオン世界において最も軍事力を有していた地域と言っても過言ではない。ここを最初に攻略しない場合、エジプトが他の地域を攻めると、アラデール地方諸国の介入やこれら諸国のさらなる軍事力強化に繋がる可能性があった。それを未然に防ぐ為に最初のターゲットとしてアラデール地方は選ばれたと考えられている。
シッシーは、アラデール地方のエジプトへの併合を承認。正式にエジプトの海外領土とした。そしてこれを皮切りにエジプトのカワーケブル・カーリムンファダリオン世界への積極的な進出は進められた。
シッシーが主にとった侵攻のプロセスはナイル世界の統一と殆ど同じであった。シッシーはエジプトによる支配を受け入れる協力的な勢力とは協力しそれ以外は攻撃した。このプロセスにより、侵攻対象のカワーケブル・カーリムンファダリオン世界諸国の凡そ4分の1相当の国々がエジプトに協力したとされ、また、国家ではない民族等の勢力集団の協力も受け入れた事でエジプト側につくカワーケブル・カーリムンファダリオン世界勢力の規模はより大きくなった。これらの非国家勢力は各々で異なる目的があったとされるが、概ねはエジプトが行っていたセパトに注目したものだった。エジプトは協力した勢力に対しては将来的にセパトが導入された際には土地が無い勢力にも土地を与えセパトとする事を約束していた。
アラデール地方の制圧後、エジプトはさらに派遣兵力を増員し隣接する地域への侵攻と制圧を繰り返した。エジプト軍にとってアラデール地方以外の地域の制圧は非常に容易だったとされる。アラデール地方の諸国はナイル世界との積極的な交流によってその軍事力においてナイル世界の軍事技術と変わらない近代化を達成していたが、それ以外の地域では銃こそは広く使われていたが、依然、剣槍弓も主流な武器のままであり、軍事において近代化は達成できておらず、軍事面においても文明面においても依然、前近代的であった。その為、エジプト軍にとってこれらの地域の制圧はアラデール地方に比べれば、遥かに容易な事であった。
2227年までにエジプト軍は聖大陸をほぼ完全に制圧。なお、この間、シッシーは部下に聖大陸の侵攻を任せ、自身は内政に専念していたが、年に数度のペースで、前線の兵士達を激励する為に聖大陸へと向かっている。
・共和制エジプトの終焉とエジプト帝国の誕生
※ラムセス12世統治下のエジプト帝国の最大版図(2347年)。
ナイル世界において、シッシーの人気は絶頂に達した。ナイル世界統一による平和な時代の到来とそれに伴う経済政策による好景気や経済成長、そして、聖大陸への侵攻でも短期間に広大な面積の領土がエジプトにもたらされた。
2218年、エジプト議会はシッシーに対して、「エジプト文明の復興者」「地球人類市民の第一人者」の称号を新たに送った。エジプト文明の復興者の称号は、シッシーが古代エジプト文明の遺跡の修復や修繕を国家プロジェクトとして推進し、長い混乱によって破壊された遺跡の多くを修復させた事から与えられた。
なお、シッシーのこれらの古代エジプト文明の遺跡修復事業で最も有名なのはギザのピラミッドの修復である。シッシーはピラミッドについて、偉大なエジプトの祖先達が作った世界に誇るピラミッドがそれよりも後の時代の人間の蛮行によって破壊されたままの姿なのには怒りを覚えるとして、ギザのピラミッドを破壊される前の状態に戻せと指示を出した。
シッシーの言う蛮行とは、中世の時代に様々な国家によってピラミッドの壁面が建築資材として略奪された事を恐らくは指す。
シッシーは考古学者や歴史学者のチームを編成し、自身も修復事業の陣頭指揮を取った。この修復事業は凡そ3年間に渡って続いたが、このプロジェクトはシッシーの肝いりで進められ、元々ピラミッドの表面を覆っていたという白い石灰岩をナイル世界中の採石場から集め、そして復元したキャップストーンを頂点におき、ギザのピラミッド群は数千年ぶりに略奪前の美しい姿を取り戻した。
このピラミッドの修復事業は周囲からは見えない様に作業中は大量の天幕で覆われ、シッシーも立ち会った除幕式によって取り払われた。除幕式には10万人以上のカイロ市民が詰め掛けたとされ、一気に天幕が取り払われ、修復されたピラミッド群が姿を表すと、カイロ中でその美しさから驚きの声が上がったとされる。
地球人類市民の第一人者の称号は、ナイル世界統一による平和な時代の実現とそれに伴う経済政策による好景気や経済成長、そして、聖大陸への侵攻で獲得した広大な領土から、与えられた。
さらにこれらの称号の付与と共にエジプト議会はシッシーに対して、終身大統領の位を与える法案を提案し、これを国民投票にかける事とした。結果は、圧倒的な賛成多数による承認であり、これを受けてシッシーはエジプト・アラブ共和国の終身大統領となった。
そうした人気絶頂の中の2219年、シッシー派の議員連盟がエジプト議会と全国民に対して、エジプトの新たな憲法草案を提出した。この憲法草案ではエジプトの国号をエジプト・アラブ共和国からエジプト帝国へと変更し、シッシーをその新たな帝国の初代ファラオとするとした。
シッシーはこの憲法草案について、自身はこの憲法の草案には関わっていないと否定しながらも、国民が望むのであれば、自身がファラオになると国民向けのテレビインタビューで答えた。しかし、現在ではシッシーがこの憲法草案に全く関わっていなかったという主張は信じられていない。憲法草案の内容的にシッシーが不関与で提出できる範囲を大幅に超えている為である。
2221年、この新憲法草案の提出を受けて、エジプト議会と国民は国民投票を行った。結果は、議会においても国民投票においても結果は僅差ではあったが、賛成票が過半数を上回った事から、エジプト国民はシッシーのこの提案を承認した。
この議会と国民投票による賛成多数によって新憲法は翌年に施行された。これによってエジプト帝国が成立しエジプト・アラブ共和国は終焉を向かえ、今日で言う共和制エジプトが終焉を迎えた。
エジプト帝国は多くの面でそれまでのエジプト・アラブ共和国とは異なった性質の国家となった。まず、エジプト・アラブ共和国はその名が示す通り、アラブ色の強い国家であった。しかし、エジプト帝国はその憲法の根幹にエジプト本国以外のナイル世界の地域の人々の支持を得る為に地球主義を採用した。地球主義とは世界終焉後にナイル世界で登場した地球人類文明を維持するには共同体が必要であるとする政治社会思想である。憲法によって帝国は地球人類文明の守護者であると定義され、帝国に住む全ての民族、文化、宗教が保護の対象となるとした。次に君主のファラオについては、地球人類統合の象徴であるとし、非常に強い政治的権限が与えられた。議会は引き続き存在し、これにより、エジプト帝国の政体は絶対君主制寄りの立憲君主制となった。国防においては、エジプト軍の定義は帝国とセパトの守護者であるとされた。
ただし、法制度の方であるが、こちらは余り変わらなかったとされる。この憲法はその根幹に地球主義を採用したが、法制度では引き続き従来のナポレオン法典とイスラーム法の独自発展モデルであるエジプトの法体系の殆どが維持された。その為、現在では新憲法によって変わった事は実質的には君主制の導入のみであるとする歴史学者の見方も少なくない。一般的にはこのエジプト帝国の誕生によってエジプトが大きく変わったと認識されているが、実際にはこの時点ではまだ、エジプト帝国はエジプト・アラブ共和国から多くの面で変化は無かったとされる。エジプト帝国が変化したのはこれ以降の出来事である。
2222年、シッシーはエジプト帝国の初代ファラオに就任。テレビとラジオで全土に演説を行った。そしてこの場にて自身の名前の改名を宣言し、偉大な古代エジプトのファラオ、ラムセスの名を冠したラムセス12世とした。以後、シッシーはラムセス12世と呼ばれる様になる。
なお、ちなみにだが、シッシーは改名以前から市民の間では人気が非常に高くあだ名としてラムセスやファラオと呼ばれていた。これに本人が影響されたかどうかは定かではないが、シッシーもその事は知っていた様である。
エジプト本国の民は国民投票によって新憲法とラムセス12世の誕生を許した。しかし、これに反対する反対者達側はラムセス12世の誕生を独裁者の名称がファラオとなっただけで軍事独裁政権が復活しただけだと批判した。最大政党の与党の祖国未来党は上下エジプト統一前から軍の影響力が強い政党であり、エジプトの現代史をみても、軍が議会に自身の影響力が強い政党を置き、そのトップに軍の関係者がつく事で強力な独裁体制を形成するという構図はよくあった事で、エジプト帝国の誕生もその構造と全く同じだと批判した。
最も批判的な政権批判者であるエジプト人民党のアフマド・シャーテルは、世界終焉前の古典SF映画の台詞を引用し、自由と民主主義は議会と国民の拍手喝采の中死んだと表現した。
2228年、聖大陸を制圧させたラムセス12世は、凡そ17年ぶりに自ら軍を率いて出兵した。目的はナイル世界と隣接する魔大陸の制圧である。
ラムセス12世は聖大陸への侵攻と平行して魔大陸の多くの魔族の部族や勢力と会談を行う等し交流を重ねていた。まだ改名前のシッシーはこれらの勢力に対して、無政府状態でなおかつ様々な勢力が群雄闊歩する魔大陸の混乱の影響は魔大陸だけに留まらず、エジプトの国益をも損なうとし、この状態を解決するにはエジプトの介入が必要であると訴え、地球文明は過去の禍根を乗り越え、統合と平和と繁栄の時代に移行する事に成功したとし、魔大陸においてもそれが可能でありそれが必要であると主張した。また、エジプトこそがその体現者であるとも主張していた。
2216年にカイロで相次いで行われたエジプト本土や旧スーダン地域と隣接する地域の魔族の有力種族、パリカー族、ファフニール族、ウトゥック族の族長との会談では、相手の協力を得る為に、自身の血筋にも触れ、自身が地球人類と魔族のハーフである事を説明し、ハーフである自身がエジプトのトップについている事こそが、地球人類と魔族の間の種族を超えた融和が可能である事の証明だとも述べたとされる。
しかし当時、会談や交渉や交流が行われている事は報道を通じてナイル世界の民衆に知られていたが、この様なラムセス12世の血筋に関する情報が大々的に報道される事は殆ど無かった。ナイル世界では確かに、魔族が地球人類社会と同化し共存していた。しかし、それは姿が人類に近い僅かな数の種族のみであり、全ての魔族が共存していた訳ではない。さらに言えば、地球戦争の経緯から魔族に対して依然差別的感情も根強かった。だが、ラムセス12世は自身の血筋をも利用して味方化工作に奔走した。
こうして、エジプト帝国成立後の2228年に共和制エジプトの時代からの入念な準備の下、魔大陸への軍事侵攻は行われた。最終的にエジプト軍に協力した魔族は魔大陸の3分の1にまで達したとされる。
魔大陸への軍事侵攻はラムセス12世が凡そ17年ぶりに直接指揮をとった。そして、その人生において最後に直接指揮をとった軍事行動である。ラムセス12世はこの侵攻の為に新たに新設したアメン野戦軍、ラー野戦軍、プタハ野戦軍、セト野戦軍の4つの野戦軍を動員した。この4つの野戦軍は紀元前のラムセス2世の軍団の名称にあやかって名前がつけられ、兵力は既存のエジプト軍兵力の配置転換や新たに動員した兵力によって結成された。この内、ラムセス12世はラー野戦軍に身を置き、侵攻軍全体の指揮をとった。
侵攻は2228年から2233年までの期間続き最終的には魔大陸全域をエジプト軍が支配下に収めた。期間は凡そ5年と、聖大陸への侵攻にかかった期間に比べれば、半分以下にまで短かったものの、魔大陸での戦いは聖大陸における戦いとは違い、人類よりも身体能力や身体機能が非常に高い知的生命体との戦いであった為に、聖大陸侵攻時における戦闘の経験則が殆ど通用しなかったとされる。
しかし、それにも拘らず、聖大陸の制圧よりも遥かに短い期間で制圧が完了したのは、ラムセス12世の軍事的才覚によるものと評価されている。現存する当時の軍事資料から、魔族との交戦について、ラムセス12世が多くの指示を全部隊に出していた事が分かっているが、こうした現存する記録から、多くの大学や研究機関が、ラムセス12世の指揮命令を軍事学的に検証し、その結果、そのほぼ全てにおいて、ラムセス12世の指揮は適切でかつ効果的あったと評価されている。また、4つの野戦軍の最終的な死者負傷者等の損害は非常に軽微で収まり聖大陸に派兵された部隊の損害よりも小さく収まった。
ラムセス12世は制圧した魔大陸の地域を聖大陸と同じくエジプトの海外領土として全域を併合した。こうしてラムセス12世はナイル世界、聖大陸、魔大陸を支配する広大な帝国を築き上げた。
なお、ラムセス12世が何故、自分で陣頭指揮までとって魔大陸を侵攻したのかは、現在でもはっきりとした理由は分かっていないが、現在の歴史学においては、有力だとされる3つの説が唱えられており、自身の権威をより強固なものにする為に行ったとする説と、初めから領土拡大欲があった為とする説、軍の損害を抑え短期で決着をつけたかった説が有力視されている。
当時、エジプトの軍事面において、ラムセス12世はナイル世界を統一した指導者であったが、聖大陸への侵攻によって、獲得した面積面においては既にエジプトの最大版図を築いた人物ではなくなっていた。軍の中では聖大陸を制圧した勢力が台頭し始めた為、ラムセス12世はそれらの勢力を抑えるべく魔大陸の侵攻を決断し自身がその指揮をとる事で、自身の権威をより強固な物とする狙いがあった。これが1つ目の説である。2つ目の説は、そもそもラムセス12世には最初から領土拡大欲があり、それはナイル世界の統一からもう既に始まっており、聖大陸への軍事侵攻と平行して魔大陸の魔族にエジプトへの協力を募っていた事からもその行動には一貫性があり、魔大陸への軍事侵攻もその一貫にしかすぎないという説である。もしくはこの2つの説両方が正しいとする説も存在する。3つ目の説は、聖大陸の攻略がラムセス12世が想定したよりも時間がかかり、さらに軍に与えた損害もラムセス12世の想定よりも大きかった事から、魔大陸の制圧は自分が指揮をとり、短期で損害を抑えつつ決着をつけたかったとする説である。しかしこの3つ目の説については反論も多く、もしも本当にこの説が正しかった場合、その後の聖大陸の制圧よりも長い期間続いたノルデン大陸への侵攻についてラムセス12世が直接指揮を取らなかった理由がつかないとの反論もある。
帝政への移行後、ラムセス12世は戦争以外にも多くの政策を実行した。その多くは魔大陸の制圧後に行われた。
最も最初期に行われ最も有名な政策は、ナイル世界の本土化政策である。これはナイル世界においてエジプト本国(ナイル世界統一前のエジプトの範囲)とそれ以外の地域を政治的に完全に統合しようとされた政策である。
エジプトはナイル世界全域を支配していたが、国政に参加できる人間はエジプト本国の人間のみであった。それ以外の地域に住む国民にはそれぞれの自治が認められたセパト内での政治的参加の権利はそれぞれのセパトの制度の違いもあったが概ね認められていたが、国政への関与はできなかった。これによる不満声は多く年々、セパトからの国政参加を求める声が増えていたとされる。
2235年、こうした声を受けてラムセス12世とエジプト帝国議会は市民権法を議会と国民投票をもって施行した。市民権法はエジプト本土外のナイル世界の住民の国政への政治参加を取りまとめた法律であり、この法律によってエジプトの議会制度は大幅に改革された。
これまで一院制であったエジプトの議会制度を二院制とし、従来のエジプト帝国議会に加えて新たに諮問評議会を設置した。この諮問評議会はナイル世界の各セパトの代表者によって構成された。諮問評議会は立法権等の政治的権限は一切与えられていない組織であったが、エジプト帝国議会に対して60名の代議員を選出し任命する事ができた。この議会改革によってエジプト帝国議会は定数508議席中、498議席は公選、10議席はファラオによる任命(※共和制エジプト時代からエジプトでは大統領による任命議席が存在)、60議席は諮問評議会による任命となった。
また、国政との直接的な関わりは無いが、ナイル世界の全セパトの代表団によるサミットであるセパト会議も発足され、法律によりセパト会議にはファラオかもしくは、エジプト帝国議会議長も参加せねばならないと規定された。
エジプト本土外のナイル世界の住民の国政選挙への参加については、エジプト本土地域に当たるアレクサンドリア県、アスワン県、アシュート県、ブハイラ県、ベニスエフ県、カイロ県、ダカリーヤ県、ディムヤート県、ファイユーム県、ガルビーヤ県、ギーザ県、イスマイリア県、カフル・アッシャイフ県、マトルーフ県、ミニヤー県、ミヌーフィーヤ県、ワーディー・ゲディード県、北シナイ県、ブールサイード県、カリュービーヤ県、ケナ県、バフル・アル=アフマル県、シャルキーヤ県、ソハーグ県、南シナイ県、スエズ県、ルクソール県の計27県の地域内で、5年間居住し労働実態がありアラビア語エジプト方言を理解する者、10年間居住しアラビア語エジプト方言を理解する者、軍に志願し3年間の兵役を終えた者が国政選挙への参加を認められた。また、国政選挙以外にもこれらの条件を満たした者はエジプト本土地域の地方行政への参加も認められた。
これら一連の改革によってナイル世界のセパトに住む住民に対して国政への参加の道が開かれた。しかし、ラムセス12世はこの一連の政策をナイル世界の完全な本土化政策と銘打って実施したが、実際に行われたものは、完全な本土化とは程遠い内容であり、この政策後も国政選挙への参加が認められた地域はかつてのナイル世界統一前のエジプトの範囲内のみであり、それ以外の地域( セパト )の住民がエジプトの国政選挙に参加するには27県へと移住するか、兵役につくしかなかった。
また、ナイル世界のセパトの住人に対してはまだ狭き門ではあったが諮問評議会や27県への移住、兵役を通じて国政への参加手段があったが、ナイル世界外の聖大陸や魔大陸のセパトの住民には国政への参加手段は27県への移住しか手段が与えられなかった。
ケニア最高峰の歴史学の権威と言われるウマイ・ケニケッタは後年、ナイロビ国際大学の一般講演でラムセス12世によるナイル世界の本土化政策について、ナイル世界に国境線は無くなったが見えない国境線は27県とそれ以外の地域との間に存在したと評価した。また、世界終焉前の地球文明社会におけるビザ制度、永住権制度、国籍取得制度にも注目し27県外の住民の国政選挙の参加要件はまるで、これらの古代の時代の入国管理や国籍管理の制度のようだと評価した。ウマイ・ケニケッタはラムセス12世がこれらの世界終焉前の管理制度を参考にした可能性を指摘している。
だが、いずれにせよ、これら一連のナイル世界の本土化政策にて行われた改革がその後の歴史に与えた影響は非常に大きく、その後のラムセス12世亡き後のエジプト帝国においてもこれらの制度は維持され、長く受け継がれ、帝国の基礎となり続けた。
また、本土化とは名ばかりとの評価の政策ではあったが、歴史学者による評価は、否定派と肯定派に分かれており、否定派は真の本土化が行われずエジプト帝国が全土の多様性と融和を図る機会を失ったと評価している一方、肯定派は、この制度がエジプト帝国を世界帝国としての維持に貢献したと評価している。
・ネオケメティズム統治政策
ネオケメティズム統治政策とは、後世においてその様に呼ばれる様になったラムセス12世による多くの政策を指し示す造語である。実際にネオケメティズム統治政策という言葉がラムセス12世の時代に使われていた訳ではない。主に、ネオケメティズム統治政策に含まれるのは、ナイル世界の本土化政策後から、エジプトによる平和、パクス・エジープト及びイスラム帝国が成立するまでの過程で行われたラムセス12世亡き後のその後のエジプトにも多大な影響を与えたとされる政策の事を指し示す。
ケメティズム(英:Kemetism)とは、元々はネオペイガニズム運動である古代エジプト宗教の復古運動を示す言葉であるが、この場合におけるネオケメティズムとは関係はない。ネオケメティズムは一種のルネッサンスである。
今日にネオケメティズム統治政策の始まりであるとされる政策はラムセス12世の軍制改革に端を発するとされる。
ナイル世界、聖大陸、魔大陸を支配したエジプトは地球上において最大の領土面積を誇る巨大国家となった。だが、その国家の構造には多くの問題も存在した。特に深刻であったのが、国土安全保障に関する分野である。エジプトによる統治の実態は基本的には旧エジプトの領土範囲である27の県外には全ての地域にセパトが設置され、セパトによる地方分権制によって成り立っていた。それぞれのセパトには自治権が与えられ、各地を統治した。帝国内では殆ど全ての地域間での移動の自由や自由な通商が認められ、これが活発な経済活動の原動力にもなった。
しかし、こうした広大な領土の維持は急激に領土拡大を行ったエジプトにとっては非常に厳しいものであった。当初、エジプトは自国に協力的な勢力と協力はしながらも、基本的には問題が発生した場合には主体となって行動しこの広大な領土の維持に努めた。しかし、当時の帝国各地に展開されたエジプト軍の疲労は相当なものであり、軍内部からは多くの不満の声が上がっていた。また、この広域への展開に伴う国防費の増大も問題となっており、エジプト帝国は人員、装備、予算においてすでに展開能力の限界を迎えていた。2239年6月には、聖大陸の旧エトス王国領内の地域に駐屯していたエジプト陸軍の治安部隊が労働環境の改善を求めて師団全体がハンガーストライキを行う事態も発生した。
これらの一連の問題や不満の声を受けてラムセス12世は領土の維持や国防の態勢を一から見直さねばならなくなった。そして、この見直しによって成立したのが2241年のラムセス12世の軍制改革である。
ラムセス12世はこの軍制改革によってエジプトの国防体制を2の地域と3つの区分に区分けした。
まず、地域的概念としてナイル世界とカワーケブル・カーリムンファダリオン世界に分けた。ナイル世界においては、統一後の経済発展と平和によってエジプトに対する不満の声は小さくなっていた。その為、これらの地域ではこれまで通りエジプトに協力的な勢力を警察として雇用し治安を維持し、その一方でナイル世界に展開する軍の規模は縮小させる方向となった。
問題は新たに獲得したカワーケブル・カーリムンファダリオン世界の領土であった。これらの地域ではエジプトによる制圧後も各地に反抗勢力や反社会勢力等が存在しこれらの対処をエジプト軍が行っていた。その為、エジプト軍は広域で展開しなくてはならず、その展開能力が限界に達してしまった。そこで、カワーケブル・カーリムンファダリオン世界においては国防体制を3つに区分けした。それが、機動的防衛戦略(英:Wanneuvre Defence stategy アラビア語:مناورة استراتيجية الدفاع)である。
このラムセス12世が構築した機動的防衛戦略は国防体制の役割を3つに分けた。内務省内に新たに設立された治安維持を担う国土防衛隊。同じく内務省内に新たに設立された国土防衛隊で対処できない問題を扱う中央防衛隊。そして国防省傘下のエジプト軍である。
ラムセス12世はカワーケブル・カーリムンファダリオン世界の武装勢力が使っている武器に注目した。基本的にカワーケブル・カーリムンファダリオン世界では文明度の違いから、銃も一般的に使われていたものの、剣槍弓も多く使われていた。そしてこれはエジプトによる制圧後は各地の生産拠点が違法化され閉鎖させられた事で銃火器の流通量は聖大陸、魔大陸共に大幅に縮小しその実態は剣槍弓が使われる頻度の方が大幅に多くなっていた。魔道士個人が作った銃火器等の取り締まりは全てを取り締まる事は不可能であったが、工業的生産拠点がほぼ無くなった事は、カワーケブル・カーリムンファダリオン世界の武器事情に大きな影響を与えていた。
こうした使用武器の変化は、必ずしもエジプト軍の所有する兵器で対処しなくても対処できる事を示していた。
こうしてラムセス12世は内務省に対して新たな軍事組織である国土防衛隊と中央防衛隊の設立を命じた。この二つの組織はその構成人員の大半を現地人から集めた。国土防衛隊には、現地の事情に合わせて、与えられた現地基準の剣槍弓が標準的な武装として与えられ、中央防衛隊には、国土防衛隊と同じ剣槍弓等の装備に加えて警察装備が与えられた。
これら新たに設立された2つの組織とエジプト軍の役割はこうであった。まず、各地に駐屯している国土防衛隊が治安維持業務を担い、中央防衛隊はその国土防衛隊が対処できない問題が発生した時に出動する。そしてその中央防衛隊すらも対処ができなかった場合にエジプト軍が機動的に出動してその問題を解決する。これが機動的防衛戦略である。
ラムセス12世は国土防衛隊と中央防衛隊を前衛と位置づけ、エジプト軍を後衛と機動部隊に位置づけた。
このラムセス12世の軍制改革は非常に大きな成功を収めた。まず、これまで、広域に展開し治安維持までもを担っていたエジプト軍全般の任務を大幅に削減した。これまでエジプト軍が行ってきた多くの業務を国土防衛隊と中央防衛隊が担う様になった為、エジプト軍は多くの業務から解放された。これによって、聖大陸と魔大陸に配備されていたエジプト軍は駐屯兵力の大幅な縮小と削減に着手できる様になり、凡そ半数以上の兵力がナイル世界へと帰還の途につく事ができた。
当初、この案に対してエジプト軍内では国土防衛隊と中央防衛隊の人員が現地人であるという理由から、反乱が起きるのではないかと危惧の声があったとされるが、実際に設立された組織にはエジプト軍に脅威を与えられる装備は全く与えられなかった事から、例え反乱が起きたとしても、この軍制改革による機動防衛により充分に余裕を持って対処が可能であるとの結論に達した。そして実際に、軍制改革後、この機動防衛戦略は有効に機能し成功を収めた。
また、増大していた国防費に関しても、エジプト軍の半数以上が最終的には帰国できた事でこれだけでも大幅な費用削減効果があり、新設された国土防衛隊と中央防衛隊も、与えられている装備の多くが前近代的な装備である事で装備にかかる費用は非常に低く抑えられ、さらには国土防衛隊と中央防衛隊は現地人を雇用している事からナイル世界の居住者を雇用するよりも安い賃金で雇用する可能であり、非常に経済的であった。
ここまでは、一見すると単なる軍制改革の解説であり、ネオケメティズム統治政策とは関係が無い様にも見えるが、この軍制改革によって国土防衛隊と中央防衛隊が設立されたのが、後世にネオケメティズム統治政策の始まりであると評価される最大の由縁である。
ラムセス12世は国土防衛隊と中央防衛隊の設立に非常に強く関与した。それは組織の形態から装備に至るまで、ほぼ全てのおいて内務省との会議に出席し指示を出したとされる。その中の指示の中において、ラムセス12世が肝いりで行った事があった。それが隊員の装備に関する事である。
当初、国土防衛隊と中央防衛隊の隊員の装備は制服にエジプト軍の作業服を改良した物を与え、武装は装飾気の無い無骨な装備が配備される計画だった。しかし、これを見たラムセス12世は計画を差し止め、後日に自身で作成した計画書を内務省に渡した。この時渡された計画書の内容に内務省は一時、計画の余りの内容に騒ぎとなったとされる。
ラムセス12世が作成した計画書には、隊員らの制服や装備に関する事細かな内容が書かれていた。その内容は、なんと、古代エジプト文明における古代エジプト軍の軍装をモデルにこれを現代技術で再現した様相の部隊を作る様にと指示されていたのである。ラムセス12世は、この計画について、内務省の職員に対して地球文明と文化的に繋がりのないカワーケブル・カーリムンファダリオン世界に対してこれらのエジプト文化の象徴である様相の部隊を全土に配置する事で、帝国全土に軍事的側面以外でも文化的側面においても、現地の住民達にエジプト人としての自覚を広げられると説明した。
これに関して、現代人もそうであるが、当時の内務省の職員達もこのラムセス12世の説明をそのまま鵜呑みにした者はおらず、多くの職員達はこの計画をラムセス12世の趣味だと考えていた様である。なお、当時の記録にはある内務省職員がラムセス12世の出した計画書の内容に対して、準備費用が当初の計画よりも嵩む事を指摘するとラムセス12世は即座に追加の予算を計上したという。この治安部隊の様相に古代エジプトの様相を取り入れた試みは、ラムセス12世が本当に自身の説明通りの事を考えていたか、もしくはそうではなく、内務省職員の考えていた通りに、ただの趣味であったかはともかくとして、結果的にはそれ以降の政策と合わさってその後の大エジプト文化圏を形成する一つの大きな要因とはなった。
また、ラムセス12世は国土防衛隊と中央防衛隊が利用する施設に関しても言及。この2つの部隊の駐屯施設は退去したエジプト軍の施設を利用する計画だったが、これに関して、駐屯施設の建物を順じ取り壊し新たな施設を建設する様にと指示をだした。そして、その建築デザインは古代エジプトの建築をモデルにさらに、建物には古代エジプトの美術を取り入れる様にとも指示を出した。ラムセス12世はこれらの装備や建物の為にナイル世界の各大学から考古学者を招集し委員会を組織して自身を議長にデザインの選定を実施したとされる。
これらのラムセス12世による指示は概ね実行された。新設された国土防衛隊と中央防衛隊の様相は古代エジプト軍の様相が非常に参考に再現された様相となり、各地の駐屯施設も順じ取り壊され古代エジプト建築と美術を取り入れた新たな庁舎が建設された。
ラムセス12世は国土防衛隊と中央防衛隊の創設記念の閲兵式に2番目の妻のアーティカと共に出席しているが、この閲兵式が終わった直後に、アーティカに対して感動からか、自分が初めてファラオとなった気がすると述べたという。
そして、ラムセス12世はこの軍制改革を皮切りに、その後、古代エジプト建築や美術の復古事業に本格的に乗り出していく事となった。
ラムセス12世は聖大陸と魔大陸において、政府の機関やその関連機関が入る庁舎施設に関して、そのデザインを古代エジプトに求め、これを積極的に推進した。聖大陸と魔大陸の各地では古代エジプトの建築様式や美術を多く取り入れた施設が次々と建設された。2243年にはエジプト化推進法が成立。聖大陸と魔大陸のエジプト化を推進するという名目の下、政府の施設だけでなく、新たに建設される民間施設に関しても古代エジプトの建築様式や美術を建物の50%以上に取り入れた場合には所有者の各種税金を所得に応じてではあるが、免除したり、税率を低くする法案が成立した。
2245年に魔大陸の地方政治的中枢の地方都市として一から建設され完成した魔大陸最大の都市エル・フート・カア・プタハでは、その都市の建物のほぼ全てが古代エジプトの建築様式と美術が取り入れられた巨大都市となった。エル・フート・カア・プタハ市内の建物には古代エジプトの彫像や彫刻をモデルにした彫像や彫刻が至る所に設置され、壁画や、さらには実際に発見されている古代エジプト文明のヒエログリフ文をそのままデザインとしても使用した。エル・フート・カア・プタハは後世の評価において、鉄筋コンクリートと現代塗料を使用した事以外ではほぼ完全に古代エジプトの都市を現代に再現したと評価される。
この様にラムセス12世の指示の下、エジプト帝国政府の後押しを受けて魔大陸と聖大陸には各地に次々と古代エジプトの建築や美術が復活していった。
しかし、この政策について、国内の一部のイスラム教徒の団体から批判の声が次々と上がった。異教徒の神殿を模した建物を作るべきではないと批難されたのである。各地に建設された建物で古代エジプトで発見された宗教的なヒエログリフ文までもが再現された事も批判の声をよんだ。また、人物を模した彫像や彫刻についても、偶像崇拝を禁止するイスラム教の教えに反すると指摘された。
こうした批判の声に対してラムセス12世はこれを一蹴した。ラムセス12世はこれらの古代エジプトの建築や美術、ヒエログリフの再現事業は一切イスラム教には抵触しないと主張。その理由として、これらの建物は全て、エジプト化の目的と共にエジプトの文化復興として行っているものであり、一切の宗教性がない事を挙げた。また、これらの建築、美術、ヒエログリフはあくまでも全て美術や芸術の分野として取り入れているものであり、美術や芸術を否定する事に反対した。ラムセス12世は世界終焉前の中世ヨーロッパにおけるルネッサンスを指摘。ルネッサンスでは古代ギリシャや古代ローマの美術が再評価され復古されるようになったが、これを古代宗教の復活だと批判する者はいないとし、現在進行形で行っている古代エジプトの建築、美術、ヒエログリフの再使用も一種のルネッサンスであると説明した。
この自身の政策を正当化した説明はラムセス12世の説得と現在では呼ばれる。宗教的なこれらの批判意見を全てかわし、以降もラムセス12世は積極的に古代エジプトの建築や美術の復古政策を進めた。
2246年には、エジプト文明復古法が成立。この法律ではエジプト帝国議会及び帝室、聖大陸及び魔大陸の地方公務員が、一部の特殊な公務で使用する服装に関しての規定と、帝室行事に関する内容が定められた。この法では、エジプト帝国議会及び帝室、聖大陸及び魔大陸の地方公務員の一部の儀礼的公務で使用する服装に古代エジプトの神官服等の服飾が採用された。
これ以降、ラムセス12世が公な場で古代エジプトの装飾であるネメス(頭巾)を着用している様子が見られる様になる。なお、エジプト文明復古法では古代エジプトの服飾について、一部の儀礼的公務の場でのみ義務化がされていたが、それ以外ではその限りではなかった。だが、ラムセス12世はネメスを大変気に入っており、エジプト帝国議会への参加時や国防省以外の各省庁との会議への参加でも好んでネメスは着用した。また、ラムセス12世は日常生活においても好んでネメスを着用した。スタイルとしてはスーツにネメスであったり、軍服にネメスであったり、洋服にネメスであったり、エジプトの民族衣装であるガラビアにネメスであったり、私服にネメスであった。しかし、この様にネメスを気に入って着用していたラムセス12世であったが、場によって使い分けはしていたとされており、国防省やエジプト軍の関係者と会う際は、ネメスは一度も着用しなかったとされる。
この様に一連のラムセス12世によって推進された古代エジプト文明の建築、美術の復古運動は、帝国全土において急激に拡大して行われていった。魔大陸や聖大陸の各地には古代エジプトの影響を受けた建築物が数多く建てられ、最初は公的機関の庁舎が建てられ、次にエジプト化推進法の税優遇処置の後押しの影響もあり、民間の建物が建てられた。
民間の建物に関しては、税優遇処置を求めた金銭的な理由の面ももちろんあったが、聖大陸や魔大陸において、古代エジプトの建築や美術は非常に大きな影響を与えた。古代エジプトの建築や美術に類似する様な物が無かったカワーケブル・カーリムンファダリオン世界において、同世界の住民が見た事のない建築や美術は現地の人々に対して多くのインスピレーションを与えた。こうした影響を受けた人々が各地で現れた為、古代エジプトの建築や美術を模する建築物は各地で増えていった。
そして、エジプト文明復古法によって、公務における服飾や帝室行事にも古代エジプトの要素が含められた内容が定められ、魔大陸や聖大陸だけでなく、ナイル世界に住む人々にも目に見える形で古代エジプト文明の建築、美術の復古運動は広がっていった。
なお、当初はナイル世界においては古代エジプトの建築や美術を民間で取り入れる試みは余り広がらなかった。しかし、時代が進み魔大陸や聖大陸での古代エジプトの建築や美術が広まっていくと、これらの魔大陸や聖大陸を訪れたナイル世界の人々が逆に古代エジプトの建築や美術に関心を覚える人々が現れる様になった。これらの人々は言わば逆輸入の様な形で古代エジプトの建築や美術をナイル世界に持ち込んだ。なお、その中には古代エジプトの要素と共に、魔大陸や聖大陸の文化美術の要素も取りいれられた新たな建築や美術もあった。
こうして、後世の時代に大エジプト文化圏と呼ばれる事になるエジプトを中心としたエジプトの建築、美術の影響を受けた巨大文化圏が誕生した。
この様にラムセス12世は大エジプト文化圏の創設者的な役割を示した。しかし、前述した様にこうした古代エジプトの建築や美術を復活させる事に対しては、イスラム教団体の中から反対の声をもった。だが、これらの反対意見は多数派ではなかった。大多数のイスラム教団体はラムセス12世のこうした行動に対して批判をする事も無ければ、肯定をする事もなかったとされる。中には反対の意見を表明した団体の様に不満を持っていた団体もあったとされるが、それが表面化する事はなかった。
その主たる理由は、ラムセス12世が聖大陸や魔大陸においてイスラム教の布教を政府主導で推進していた為で、ラムセス12世及び帝国政府とイスラム教との関係は繋がっていた。
現代における評価において、ラムセス12世は古代エジプト文明と世俗主義を崇拝するのと同時に敬虔なイスラム教徒でもあったと評価されている。ラムセス12世は政府主導の下、政府が公認し許可したイスラム教団体に対して、積極的にイスラム教を聖大陸や魔大陸に布教するのを支援した。各地には政府によって公営のモスクが次々と建設され、信者を獲得していった。
基本的に地球主義を憲法に採用したエジプト帝国領内では宗教の自由が認められていた。その為、国内には様々な宗教が存在していたが、ラムセス12世の宗教政策は、イスラム教を優遇する側面が強かった。
上下エジプトの統一前のナイル世界の戦乱時代の教訓から、秘密結社禁止法を作り、国内のイスラム教とキリスト教の過激派思想や当時のエジプト・アラブ共和国と対立してた団体勢力の思想や社会を揺るがすような思想等を社会に広げない様にする為に、国内のモスクや教会での礼拝での宗教指導者が行う講話の内容を画一化したり、魔大陸や聖大陸での布教活動には政府の許可が必要とされる等の政府による規制や弾圧とも言えなくない行為も行われたが、エジプト国内のイスラム教団体は基本的には政府と協力し布教活動を進めた。
こうしてラムセス12世はイスラム教団体と協力してイスラム教の布教支援に努め、その結果、ラムセス12世が死去した2347年までには、イスラム教はエジプト帝国が支配する地域の全域にまで広がり、その結果、エジプト帝国は史上2番目となるイスラム帝国を形成した。
エジプト帝国は聖大陸、魔大陸に加えて2267年までにノルデン大陸の6割以上の地域を領有化しているが、これによってエジプト帝国はエジプトによる平和、パクス・エジープトを実現させた。そしてパクス・エジープトの成立は同時に、大エジプト文化圏の成立と、ウマイヤ朝イスラム帝国を超える史上最大のイスラム帝国の誕生も意味していた。
・禁忌の復古
2338年、世界終焉から実に3世紀以上の年月がたったこの年、ラムセス12世は国防省と軍需産業省に対して核兵器の研究を行う様にとの指示を出した。現在では禁忌の復古と呼ばれている政策である。
当時、核兵器の存在は世界終焉前の時代の兵器であった事から、その技術や兵器そのものが地球上から失われて久しく、その威力や技術や理論のみが過去の文献上にのみ存在が語られる半ば伝説上の兵器として考えられていた。
しかし、2337年にアレクサンドリア図書館の獣人族の図書館司書サキーナ・パパエリアが“核兵器は伝説ではない”とする論文をエジプト考古学会に提出。これによって核兵器が伝説や空想上のものではない事が学会に示された。
この学会に出席していたラムセス12世はこの論文の内容に大変な興味を持った。そして、ラムセス12世は核兵器の研究開発を国防省と軍需産業省に指示。指示を受けた国防省と軍需産業省は研究開発を行う為にアレクサンドリア図書館とカイロ大学の協力を受けて研究を行った。
アレクサンドリア図書館とカイロ大学は所蔵されていた膨大な科学的文献の中から核兵器に関する資料を見つけ出し、これを基にエジプト中から集められた科学者によって核開発は行われた。核開発は順調に進み、そして、2342年、アレクサンドリアから100km離れた新地中海の海上にて、ラムセス12世や軍関係者、科学者、考古学者を乗せたエジプト海軍の強襲揚陸艦アブドルファッターフ・サイード・フセイン・アムル・ハリール・アッ=シーシーが見守る中、エジプト史上初の核実験が行われ、そしてそれはエジプト史上初の核実験であるのと同時に凡そ3世紀ぶりに地球上で核の産声が挙がった瞬間であった。
実験で使用された核兵器はTNT換算で核出力25kt相当の威力の核爆弾EZSS‐2と、TNT換算で核出力50kt相当の威力の核爆弾EZSS‐3の計2発の実験核弾頭が使用された。この時、使用された核実験の記録は現存している資料が少ない為、実験で使用された核爆弾の種類は不明だが、核出力から、前者がウラン型核爆弾か、もしくはプルトニウム型核爆弾であると推定され、後者がプルトニウム型核爆弾か水素型核爆弾であると推定されている。
こうして、ラムセス12世によるエジプト初の核開発政策は成功を収めた。そして、その後、2344年には2342年の核実験の成功を受けて、核兵器の開発と平行して、ラムセス12世は新たにエジプト帝国の将来を担う新エネルギーの開発として原子力発電技術の研究を指示した。
こうした一連のラムセス12世による核開発の政策はその後のエジプト帝国の軍事やエネルギー政策に大きな影響を与えた。ラムセス12世が存命の間には核兵器の実戦配備は進まなかったが、その後の、ラムセス13世の治世の時代に入ると、核兵器は量産化の目途が立つ様になり核兵器の量産化が進んだ。そして、原子力発電の技術も実用化され、エジプト帝国領内の各地にて原子力発電所が作られる様になった。
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死去
2347年、ラムセス12世は自宅のヘリオポリス宮殿で長男のスコルピオンが隠し持っていたジャマダハルで腹を一突されて殺害された。死因は出血多量だった。
この日、ラムセス12世はヘリオポリス宮殿で自身の妻と子、そして子供の中で唯一結婚していたハトシェプストの家族を集めて晩餐会を開いていた。晩餐会ではエジプトの伝統的な家庭料理からフレンチ、イタリアン、アメリカンまで様々な料理が贅沢に並んでいたという。ラムセス12世は一族が勢ぞろいするこの場を非常に楽しみにしていた。
この晩餐会の途中、ラムセス12世は長男のスコルピオンと共にテラスへと移動した。テラスではカクテルグラスにノンアルコールのカクテルを注いで飲み談笑していたという。なお、この時、2人が飲んでいたカクテルはラムセス12世がバナナ・チョコ、スコルピオンがプラチナブロンドであったとされる。
スコルピオンはラムセス12世に対して、魔大陸にある自身の事実上の直轄セパトであるフィルアウン周辺のセパトを自身のセパトとして欲しいと無心していた。これに対してラムセス12世は苦言を示し、中々了承しなかったとされる。
ラムセス12世は非常に身内には極端に物腰が低く子供達を甘やかしていたという。特に長男のスコルピオンに対しては家族内でも一番気にかけていた。
スコルピオンは本来、次期ファラオの継承順位で第1であった。しかし、帝国成立時にラムセス12世によって定められたファラオの継承に関する憲法の条文にて、ファラオとなれる者はラムセス12世の血筋である事以外に、考古学博士号か、もしくは社会経済学博士号がなければ、ファラオにはなれないと定められていた。これは、歴史と社会に理解の無い者がトップに付いてもその国には未来は無いとする当時のラムセス12世の考えで定められていた(※ちなみに、ラムセス12世はどちらの博士号も有していない)。
しかし、スコルピオンはカイロ大学に通い8年間も留年したものの、考古学博士号も社会経済学博士号もどちらも取れなかった。これによってファラオの継承順位から外れる事になり、両方の博士号を取得できた次男のカーが継承順位1位となった。さらに、家族内において、博士号を一つも取れなかったのはスコルピオンのみであった。
継承順位から外されたスコルピオンはこれ以降、自堕落的な生活に埋没した。カイロ市内のダンスパーティー会場やクラブハウスに友人達と共に毎日の様に姿を見せ、夜の街で酒に酔い大騒ぎをしている姿等が目撃されていた。この様なスコルピオンに対してラムセス12世は非常に気にしており、カイロ大学に赴き、博士号を与えられないかと直談判までした記録も残っている。しかし、この時は再度博士号への再度の挑戦が得られる様になったにも関わらず、スコルピオンは試験前日に酒を飲み、ガールフレンドと一夜を過ごした。そして試験当日は二日酔いと寝坊によって試験には現れなかった。
それでも、ラムセス12世はスコルピオンを気にかけ続けた。スコルピオンが欲しいとねだった物は殆ど買い与えたという。スコルピオンがスポーツカーが欲しいと言えば、スポーツカーを買い与え、別荘が欲しいと言えば別荘を買い与え、純金製の服が欲しいと言えばエジプト一の金細工職人に依頼して作らせ、自身のブランドメーカーを作りたいと言えばそのメーカーに出資し、そしてついには自分の好きにできる領地が欲しいと言われた際には、特例処置として魔大陸の新地中海沿岸のセパト(フィルアウン(旧名リステス。スコルピオンによって改名))まで与えた。
ラムセス12世は殺害された3日前に他の一族より一足先にヘリオポリス宮殿に到着していたスコルピオンとネフェルタリと共に会食をしているが、この際にもスコルピオンは、純金で車体を覆った送迎車が欲しいとラムセス12世に強請っており、これをラムセス12世は承諾している。
だが、事件当日にスコルピオンから求められた領地の拡大には難色を示した。この時、ラムセス12世がなぜ難色をしめしたのかは定かではないが、ラムセス12世の周辺人物は後にスコルピオンによるフィルアウンの統治の実態があった為であると証言している。
スコルピオンはラムセス12世から貰ったセパト・リステスの名前をファラオのアラビア語転写であるフィルアウンへの改名し統治を行ったが、その実態は統治と呼べるものではなく、スコルピオンはファラオの格好をして、自身をスコルピオン3世と名乗り、そして現地の国土防衛隊と中央防衛隊を私兵の様に扱い、民の税を考えなしに上げたり、現地人をただ働きに近い低賃金で労働に従事させたり、召使の様に扱ったり、自身の領地から逃げようとする者は捕まえて拷問したり、友人達を呼んで豪遊や美女狩りと称する現地住民の女子供を拉致し強姦や虐待をするなど悲惨な実態であった。スコルピオンによるフィルアウンでの最も最悪の暴政と呼ばれたのはピラミッドの建設であり、クフ王のピラミッドの大きさを遥かに超える高さ200mの大ピラミッドの建設を地元住民に従事させた。結局このピラミッドは完成せず基礎のみの完成となったが、スコルピオンによる暴政を物語る最も有名な話となっている。
こうしたスコルピオンのセパトの統治の実態は当然、ラムセス12世の耳にも入っていたと考えられており、こうした事からラムセス12世はスコルピオンに領地を与える事にかなり慎重になっていたと考えられている。
結局、ラムセス12世はスコルピオンの領地が欲しいというねだりを拒否したと伝えられている。そしてスコルピオンに対して、代わりに冬になったら家族と一緒に久しぶりに旅行にでも行って皆で美味しいものでも食べようと述べたと伝えられている。
しかし、この直後、スコルピオンは自身の無心が断られた事に激昂し隠し持っていたジャマダハルを懐から取り出し、ラムセス12世の腹を刺突した。現代までに伝えられている事によるとラムセス12世は刺された直後、何が起きたのか分からない様子であったという。
事件に最初に気がついたのは3女のネフェルタリだった。ネフェルタリは妹としてスコルピオンの事をラムセス12世と同様に気にかけていたとされる。最も年の若いネフェルタリはこの時まだ27歳であり、27歳ながら、父親のラムセス12世を始め、兄や姉達と非常に仲が良くそれはスコルピオンに対しても同じであった。それは他のラムセス12世の家族が皆、スコルピオンの事をその粗暴から嫌っていたのに対して、対照的であったとされる。
ネフェルタリは、この時、胸騒ぎを感じてテラスを訪れたとされ、テラスを訪れた丁度その時にラムセス12世がスコルピオンによって刺されていたまさにその現場に居合わせた。事件現場を目撃したネフェルタリは悲鳴を上げ、そしてしばし呆然としたものの、すぐに倒れたラムセス12世のもとに駆け寄った。一方でラムセス12世を刺したスコルピオンはその場でジャマダハルを床に落とし、壁にもたれかかって座り込んで頭を抱えた。ラムセス12世は激痛からしばらく声を上げてのた打ち回っていたという。
そして、騒ぎを聞きつけた家族の一同や使用人や護衛の兵士がテラスへと到着すると、家族全員がラムセス12世に駆け寄った。そしてカーが医者と救急をすぐに手配する様にと混乱していた使用人や護衛の兵士に指示を出した。ラムセス12世はネフェルタリの腕の中で抱えられ、そして周りを家族に囲まれた。カーとハトシェプストは必至にラムセス12世の傷口を布で抑え、止血を試みたという。
カーは何があったのかとネフェルタリに聞き、ネフェルタリは何も言わず、震える手で床に落ちているジャマダハルとスコルピオンを指差した。それを見たカーは全てを理解し激怒しスコルピオンのもとへと寄ると胸倉を掴んで立たせ何故刺したのかと問い詰めた。するとスコルピオンは突然笑いだしラムセス12世を侮辱する言葉を言い放ったという。
これにカーはさらに激怒しスコルピオンを殴り飛ばした。だが丁度その時にラムセス12世が口を開いた為、カーはラムセス12世のもとへと駆け寄った。ラムセス12世は喧嘩は良くないと言いそして、スコルピオンを許してやってほしいと言った。そして、ラムセス12世は寒いと訴え、自身の愛犬のバーニーズ・マウンテン・ドッグのクレオパトラ(名前)で温まりたいと言い連れてきてほしいと言った。これを聞いた使用人がすぐにクレオパトラを連れてきたが、その時にはすでにラムセス12世は息を引取っていたという。
その後、到着した救急隊によってラムセス12世はすぐにカイロ市内の軍病院に緊急搬送されたが、死亡が確認された。享年190歳であった。
ラムセス12世の突然の死はエジプト帝国、特にナイル世界の統一前のエジプトの範囲である27の県内の住民に多くの悲しみを齎した。各地では多くの住民が外に繰り出し皆が涙を流したとされる。
ラムセス12世の死後、継承順位第1位のカーがファラオを引き継ぎラムセス13世となった。ラムセス13世はラムセス12世を殺害した自身の兄の処遇について、ラムセス12世はスコルピオンを許して欲しいと死の間際に言ったが、その父の頼みは受け入れなかった。ラムセス13世はスコルピオンを王族から完全に除名しその上で警察に逮捕拘束させ、そして、裁判にかけた。スコルピオンは最終的に死刑判決が言い渡され即日死刑に処された。死刑の様子はエジプトでは異例な事ではあったが、全国に中継された。
また、ラムセス13世は即位後すぐに自ら軍を率いてスコルピオンの事実上の領地であったフィルアウンへと出兵し領民を解放するとして、現地を武力制圧した。なお、このラムセス13世によるフィルアウンの解放はラムセス13世に率いられたエジプト軍が現地入りすると、ラムセス13世とエジプト軍は現地住民によって大歓迎を受けたという。そしてラムセス13世は現地当局者やスコルピオンの友人達を次々と逮捕拘束すると、こちらは完全非公開ではあったが、スコルピオンと共に裁判にかけられ、その罪によって判決が出る前のスコルピオンの罪状をより重くさせた。
なお、フィルアウンのその後についてはラムセス13世による特例処置としてのファラオによる直轄セパトに指定され、名前をフィルアウンからリステスへと変更し、ラムセス13世による直接的な復興事業が行われる事となった。
この様に、ラムセス12世の人生と治世は唐突に終わりを迎えた。しかし、ラムセス12世によって作られたエジプト帝国はその後、3千年以上にも渡って続き、ラムセス12世の血統による王朝であるエジプト第32王朝はラムセス12世から数えて血筋が完全に途絶えてしまったラムセス28世までの間、計16人のファラオを輩出し、エジプト帝国の歴史の大半である約3006年間を統治した。その後はサウィーリス朝へと続きエジプト帝国は最終的には3218年もの間続いた地球史上でも最も長く続いた国家となった。そしてこの国家の継続性は古代エジプト(前5千年紀から前4千年紀~前31年)の歴史にも匹敵するものとなった。
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逸話
・ラムセス12世はその人生において、自身が指揮した軍事作戦では一度も敗北した事がなかった。それゆえに、後世においてこれは一種の不敗神話として語られる様になったが、これに関連して現代にまで伝わる有名な諺が生まれた。「ラムセス12世はその人生において一度も負けた事はなかったが、一つだけ大きな失敗を犯した。それはスコルピオンを甘やかした事だ」子を甘やかしてはいけないという意味の諺である。
・ラムセス12世最大の敵は、外敵ではなく、共和制エジプトから帝政エジプトの初期にかけて活躍したエジプトの政治家、エジプト人民党のアフマド・シャーテルであったとラムセス12世は晩年に語っている。二人は犬猿の仲で、議会ではよく意見を対立させ、時には議会で掴み合いの大喧嘩になったり、卵の投げ合いといった様な大喧嘩となった事もある。2232年にアフマド・シャーテルが急性胃腸炎で死亡すると、ラムセス12世はその死を悲しみ、彼の故郷にスーツ姿の石像を設置させ、また議会での卵の投げ合いを記念して、エジプト帝国議会議事堂内に卵と傘を持った(議会で発生した複数の議員による卵の投げ合い時にラムセス12世派の政党とラムセス12世に反対する反対政党の双方議員の一部が卵から身を守る為に傘を盾として使った)アフマド・シャーテルの銅像を設置した。両方の像の台座には石文としてラムセス12世の言葉が彫られ、アラビア語で「我が最大の敵であり、最大の友へ」と書かれた。なお、ラムセス12世は晩年になっても数年に一度のペースでアフマド・シャーテルの墓参りに行っていた。
・ラムセス12世最大の危機は軍事行動中に起こった事ではなく、アラデールへの侵攻時に侵攻の是非を問う議論が行われていたエジプト議会での自身の失言であるとされる。アフマド・シャーテルとの論戦の最中に頭に血の上ったラムセス12世が「私こそがエジプトだ!」と発言しエジプト国内で大きな問題となった。ラムセス12世はこの議会の会期中終始、この発言の火消しに躍起になったとされる。なお、現代においては、このラムセス12世の発言はラムセス12世が自身の事をどう思っていたのかを明確に示す発言であると捉えられている。
・ラムセス12世は自身の年齢が100歳を超えた時に友人の考古学者サリーマ・マシュマイアとの会食中に自身の悩みをぼやいたとされる。ラムセス12世は自身のこれまでの人生で出会った腹心の部下や、友人、政治家の名前を挙げて「自分はこれから先、何百年も生きるかもしれないのに、真に親しい者達は皆、私をおいて去ってしまう」と孤独感を嘆いた。また、それと同時に、地球人類とケルピー族のハーフである自身について、「私は自分の事を地球人であると一切の曇りなく思ってこれまでの人生を生きてきたが、今では自分が果たして人間なのか、それともカーリムンファダリオンなのか分からない」と自身の血筋と種族についての悩みも打ち明けている。
・ラムセス12世は晩年までに数多くのペットを飼った。その数は随時100近くも居たとされ、大半はヘリオポリス宮殿にて飼われていたという。ヘリオポリス宮殿のプールにはペットのナイルワニのセベクとアナクスナムーン(※2つともペットの名前)が自由に泳ぎ、応接間ではオウムや九官鳥が自由に飛び回っていたとされる。ラムセス12世は数多くいたペットの中でもバーニーズ・マウンテン・ドッグのクレオパトラを一番に溺愛しており、クレオパトラとクレオパトラが産んだその子犬(カエサリオン、クレオパトラ・セレネ、アレクサンドロス・ヘリオス、プトレマイオス・フィラデルフォス、プトレマイオス・トロメウス、ドルシッラ、マルクス・アントニウス)だけは公務で遠出した際にも必ず連れていたという。なお、このクレオパトラとその子犬であるがラムセス12世没後も帝室で伝統的に飼われ、ラムセス14世の時代までその子孫が続いたとされる。
・ラムセス12世は魔大陸を攻めた際、アノス地方で敵として戦った妖鳥族の一部種族の姿に大きな衝撃を受けた。彼らの中には頭がハヤブサで身体が人間に非常に近いという古代エジプトにおける天空神ホルスの姿に瓜二つの部族がいたのである。これに感動を覚えたラムセス12世はこの部族を丸ごとエジプトへと呼んだ。そして、エジプト軍の儀仗兵にならないかと直々にスカウトしたという。この一族はラムセス12世の要求を受け入れる代わりに全ての妖鳥族の安全を求め、ラムセス12世はこれを承諾した。ちなみにであるが、妖鳥族はラムセス12世に対して妖鳥族の安全を求めたがラムセス12世は他種族を差別する様な政策はした事はない。また、ラムセス12世はホルスに似た種族がいた事を受けて、アヌビス神に似た種族も探せばいるのではないかと考え、軍や学者に捜索させたが、犬に似た種族は多く居たものの、アヌビス神の外見に似た種族は結局見つからなかった。その一方で一族ごと移住した外見がハヤブサに似た妖鳥族の一派はラムセス12世によって新たに部族名としてホルスの名が与えられ、一族は以後はカイロ市近郊にて生活をする様になった。そしてエジプト軍の儀仗兵として古代エジプトの服飾を身に纏い儀礼的なイベントなどに数多く参加し、エジプト軍の軍事パレードでは古代のチャリオットを再現したチャリオット部隊等も編成した。
・ラムセス12世はタバコ嫌いで有名だった。この影響もあってか、共和制エジプトの時代から禁煙政策を進め、公共の場での喫煙や喫煙者以外の第三者が居る場での喫煙を禁止している。
・ラムセス12世は生粋の物理主義者だった。スピリチュアルな力や存在は唯一神アッラー以外には信じなかったとされる。それはカーリムンファダリオンの一部が持つ固有超能力の魔道や魔術の業を自身の目の前で見せられてもその考えは変わらなかった。それゆえか、ラムセス12世の治世の間、魔道や魔術はエジプト帝国においては然程重視されなかった。こうしたラムセス12世の考え方を改めさせようと、ラムセス12世はその人生において数度、息子のカーや、周囲の人々の薦めで、高位魔術士の手ほどきを受け、当時はまだ未開の地だった夢の世界である幻夢境( ドリームランド )にも何度も訪れているが、それでも生粋の物理主義を貫き、魔道や魔術に焦点を当てる事はその生涯において一度も無かったという。それどころか、現代社会では幻夢境が電気や水道にも匹敵する重要インフラとして整えられているのを見ても分かる様に、現代では精神文明が重視されている為に俄には想像しにくい事ではあるが、ラムセス12世は魔道や魔術による幻夢境の開発よりも、現在では必要性が全く見いだされていない宇宙開発の方を将来的には進めたいと考えていた様である。エジプト帝国の歴史において、幻夢境の開発が本格的に開始され精神文明化が本格的に進められたのは息子のカーがラムセス13世として即位して以降の時代の話である。
・ラムセス12世は古代エジプトの事は好きであったが、古代ギリシャや古代ローマの事は好きではなかったとされる。これが原因かは不明だが、ラムセス12世は帝政成立後にアレキサンドリア図書館に対して、古代ローマに関する記録の保管を突如としてやめて破棄をするようにと指示を出した。これに対してアレキサンドリア図書館の職員や司書達、そしてエジプト国内の幾つかの大学の職員や教授達が連名でラムセス12世に対して、保管継続を求める抗議の書簡を提出した。この抗議の声の中にはラムセス12世の知り合いや友人の考古学者や大学教授も多くが名を連ねていたという。この抗議を受けてラムセス12世は古代ローマに関する記録の保管とりやめと破棄の指示を全面撤回した。
・ラムセス12世の好きな映画は、世界終焉前にアメリカ合衆国と呼ばれる国で製作されたGreat Mummyと呼ばれるエジプトを舞台にしたアクション・ファンタジー映画のシリーズであったとされる。
・ラムセス12世は魔大陸への遠征中に現地の寄生虫に左足を寄生され、寄生虫が皮膚を食い破って外に出てくる経験をしている。この時、ラムセス12世は寄生虫を摘出する為の緊急手術を受ける為にカイロの軍病院へ緊急搬送され手術を受けた。この経験があった為かラムセス12世は魔大陸の寄生虫根絶を掲げた政策を行った。
・ラムセス12世は寄生虫に寄生された経験後、ペットとして飼っていた昆虫を全て処分した。
・ラムセス12世は文化や歴史の保護政策に非常に熱心であった。アレキサンドリア図書館をはじめ、エジプト国内の各地の図書館にて古今東西の様々な文献や資料を収集させ、保管管理させた。
・ラムセス12世は古今東西の様々な食文化を経験したとされるが、昆虫食と日本料理と中華料理だけはその人生の最後まで口に合わなかったとされる。
・ラムセス12世は手で持って気楽に食べられるハンバーガーやドーナツ等のファストフード類が好物で、移動中等に好んで良く食べた。しかし、主治医によって高カロリーの食事を取りすぎだと注意されドクターストップがかけられた事が何度もあった。
・ラムセス12世は筋肉トレーニングやインド式ヨガを健康法として導入していた。特にインド式ヨガに関しては晩年には達人クラスであったとされ、ラムセス12世はインド式ヨガの本を執筆し出版している。ラムセス12世はインド式ヨガに関する著書を11冊に渡って出版した。なお、この11冊はラムセス12世が人生の内で出版した自身の書籍16作品中、自身の古代エジプト文明やエジプト史観に関する事を述べた出版書籍が5冊であったのと比較しても圧倒的に多かった。
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家族
・父親 :ハサン・シッシー・サイード
・母親 :デュクラン・ユーセフ
・本人 :ラムセス12世
・配偶者:イフラース
:アーティカ
:サルワー
・子息 :スコルピオン
:カー
・子女 :ネフェルティティ
:ハトシェプスト
:ネフェルタリ
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評価
ラムセス12世の評価は肯定的に見る立場と否定的に見る立場で大きく分かれる。肯定的な見方から言えば、ラムセス12世はエジプトによる平和、パクス・エジープトを実現させ、ナイル・オブ・カタストロフから1世紀以上にも長きに渡って続いたナイル世界及びカワーケブル・カーリムンファダリオン世界の混乱を終結させた。そして、大エジプト文化圏やイスラム帝国を形成させた。
平和な時代が到来した事で多くの文化や技術が花開き、ナイル世界、魔大陸、聖大陸、ノルデン大陸の交流も生まれ、経済発展と共に文化や技術の融合も起きた。魔大陸、聖大陸、ノルデン大陸では、地球文明発祥の科学技術文明が広がり、それまで原始的、古代的、中世的な生活を営んでいた人々の生活水準を大幅に向上させた。
地球文明に限って言えば、ナイル・オブ・カタストロフの影響によって衰退していた科学技術を復興させ、ラムセス12世もこれを積極的に支援し、ラムセス12世が死去した2347年時点では、ナイル世界の科学技術水準は技術ごとにバラつきはあったものの、IT技術に関して言えば1990年代から2000年代初期までの平均水準を回復させ、航空技術に関して言えば、ナイル・オブ・カタストロフ以降長きに渡って失われていたジェット機技術を復活させ、大型ジェット旅客機による航空路線も復活させた。ラムセス12世の政策によって復活や回復にその後向かった技術や文化は非常に多い。
その筆頭格として知られるのが古代エジプトの建築や美術を復活させたネオケメティリズム統治政策であるが、この政策の成果は大きく、大エジプト文化圏の形成もそうであるが、世界終焉前からエジプト国内の一部でくすぶっていた古代エジプトの建築や美術を現代においても異教徒の宗教的なものであるとして、その存在を否定する様な主張や、異教徒の遺跡は破壊すべきだとする様な過激な主張に対して、建築や美術は宗教とはまったく別のものであるとし、古代エジプトの建築や美術を宗教的な主張から分離する事に成功した。
しかし、その一方でラムセス12世は生前、私腹を肥やしていたとも指摘されている。共和制エジプトにおいての大統領官邸でもあり、帝政への移行後はファラオの宮殿ともなったヘリオポリス宮殿は、ラムセス12世の指示によって増改築が何度も行われ、豪華絢爛な宮殿となっていた。その様相は世界一の宮殿とも称される程であった。宮殿は古代エジプト建築や、インドや東南アジア風、西洋風の建築が贅沢に取り入れられ、宮殿内には世界各地から集めた調度品や古代エジプト風の調度品が並び、そして、宮殿内にはカルナック神殿やルクソール神殿の柱を模した純金製の黄金で覆われた巨大な柱や、自身を古代エジプトの彫刻風に象った巨大な彫刻も多数が置かれていた。宮殿にはプールや植物園も完備されていた。宮殿内には世界各地から集められた多くの動物がペットとして飼われていたという。
各地には別荘として離宮を持ち、その数は16にも及んだとされる。さらには、晩年には高級自動車を100台近く、バイクを300台近くコレクションし、完全なオーダーメイド製の高級腕時計も1000近くを所有していた。それ以外でも国内の軍関連企業の株等を非常に多くの財産と資産があったとされる。
こうしたラムセス12世の莫大な蓄財に関してはラムセス12世の死後に問題となり、ラムセス12世の後を継いだラムセス13世はこれらの財産の内、離宮を3つを残して全て売却し、高級自動車、バイク、腕時計等や宮殿内の調度品に関しても必要でないと判断したものは全て売却しその売却資金をエジプト国内の孤児院に寄付する事態にもなっている。
さらに、ラムセス12世はスコルピオンへの甘やかしの例にもある様に家族を過度に甘やかした。フィルアウンでのスコルピオンによる暴政の事実を知りながらフィルアウンの領民を救おうとしなかった。
経済政策的な負の側面として軍の経済活動が挙げられる。これはラムセス12世が登場する遥か以前からエジプト経済の構造上の問題となっていた事であったが、エジプトでは世界終焉前の時代から、軍が経済活動を行う事が常態化していた。軍が民生品の工場やスーパーやホテルやショッピングモール等を経営し経済活動を行っていた。エジプトにおいて軍による経済活動が始まったのは1970年代頃からであるとされるが、これは常態化していき、世界終焉が発生した直前では軍の関連企業が国のGDPに占める割合は4割近くにまで及んでいた。この異常な状態は世界終焉後やナイル・オブ・カタストロフ後も続いたが、それでも、ナイル・オブ・カタストロフの影響によってその割合は1割にまで縮小していた。しかし、ラムセス12世の大統領時代とファラオ時代に軍による経済活動は一切の規制を受ける事なく拡大し、その結果、ラムセス12世が死去した時点においてエジプトのGDPの内、軍が占める割合は実に5割にまで達するという異常な事態となっていた。
ラムセス12世はこれらの軍による経済活動について一切の規制をしなかったが、そもそもラムセス12世は軍と強い癒着関係にあったとする指摘もある。この指摘では、そもそもラムセス12世が創設した第32王朝の実態とは国のトップをファラオとしてはいるものの、その体制は共和制エジプト時代における軍事独裁政権時代の軍による支配構造と殆ど同じであると指摘されている。これは、エジプト帝国の成立時にも当時の政権批判者らによって指摘されていた。
ラムセス12世の軍事的才能への評価に関しては、僅か数十年で世界帝国を築いた事から世界史上でも最も軍事的才能があった指導者であるとする評価がある。
その一方で、世界史上というワードには否定的な見方もある。確かにラムセス12世は1世代でエジプトを広大な世界帝国へと昇格させたが、ナイル世界はともかく、カワーケブル・カーリムンファダリオン世界は文明水準がナイル世界と同じではなかった。大半の地域はナイル世界よりも下の文明度であり、銃も広い地域で使われていたとはいえ、大半の地域においては剣槍弓も主流な武器だった。また、ナイル・オブ・カタストロフの影響で多くの国々や地域が疲弊状態にあり様々な勢力に分散している状態でもあった。ここに軍事において最も進んだ技術と圧倒的な工業力と国力を持つエジプトが介入した形であり、ラムセス12世でなくても、エジプト程の国力を持った国ならば、誰が指揮しても短期間での領土拡大は可能であったとしている。ただし、世界史上最も軍事的才能があったかどうかはともかく、ラムセス12世に並外れた軍事的才能があった事は同じ文明度の勢力同士の争いである上下エジプトの統一や、ナイル世界の統一の事実を考えても事実であり、肯定派、否定派を問わず、その点は認められている。
ラムセス12世による核兵器の復活についての評価は、現代においては禁忌の復古と呼ばれるのを見ても分かる様に否定的な見方の評価が圧倒的に多い。現代において、ラムセス12世は僅か1世代で、ナイル世界を統一し周辺諸国も併合しエジプト帝国を成立させ、パクス・エジープトや大エジプト文化圏、史上最大のイスラム帝国を実現したと肯定的に評価される一方で、皮肉な事にラムセス12世が行った核兵器の復活は、自らが築き上げた帝国の、ラムセス12世亡き後の将来的な滅亡の遠因となってしまった。
※ベレン地方の戦いの写真(エジプト帝国内戦(世俗主義戦争)中の写真)。
エジプト帝国は最終的に地球史上最も核兵器を量産し核兵器を最も使用した国家となった。エジプト帝国では世界終焉前の時代の様に大陸間弾道ミサイル(ICBM)や巡航ミサイル(CM)に核兵器を搭載する様な事はミサイル技術や宇宙開発技術が未復活で存在しなかった為に行われなかったが(※ミサイル技術が復活したのは帝国の滅亡後)、その代わりに爆弾、ロケット弾、砲弾、地雷、機雷、魚雷等に核兵器は搭載され、サウィーリス朝の時代にはエジプト帝国が所有する戦術核弾頭の数は80万発にも及んだ。
サウィーリス朝のファラオ同士による建国史上初の本格的な内戦であるエジプト帝国内戦(ファラオの戦い)では魔大陸及びナイル世界においてファラオ同士による核の応酬となり、3ヶ月の戦闘の末、カイロやアレクサンドリアも核攻撃を受けた。この内戦では推計で1000発以上の核兵器が使用され、地球は一時、核の冬を迎えるまでになったが、エジプト帝国は内戦に勝利したサウィーリス4世の下、殆どのダメージが回復され復興した。帝国はその後も存続したが、サウィーリス朝末期にエジプト軍が世俗主義と地球主義を支持するサウィーリス7世を支持するエジプト軍と、前ファラオのサウィーリス6世の影響によりイスラム原理主義に傾いていたエジプト軍とに分裂しその間で再びエジプト帝国内戦(世俗主義戦争)が勃発すると、聖大陸及びノルデン大陸が内戦の主戦場となり8年間の戦いと、使用推計発量不明の核弾頭の使用の末に、内戦はサウィーリス7世の勝利で終結したが、エジプト帝国は甚大なダメージを受け、聖大陸とノルデン大陸の領土を永久に喪失する事となり、聖大陸及びノルデン大陸は文明を文字通り中世の時代、もしくはそれ以下の水準にまでに後退させた。魔大陸やナイル世界は戦場にはならなかったが、核戦争を行ったファラオに対しての批判的な声が高まり、サウィーリス7世が議会に全権を委譲する事態となった。サウィーリス7世はその後、廃位。ファラオの役職は廃止され、帝国憲法も廃止された。これによってエジプト帝国は滅亡し、現在の魔族首長国連邦(連邦共和制エジプトとも呼ばれる)(※国名の魔族には地球人類も含まれる)が成立。エジプト帝国は凡そ3200年の歴史に幕を下ろした。結果的にラムセス12世が復古させた核兵器は前述した様にエジプト帝国の滅亡の遠因となり、さらには、核戦争によって魔大陸(※ナイル世界を含む)と聖大陸の両住民との間で、大陸間の現在でも解決できない深刻な民族対立及び種族対立を生み出した。
※ラムセス2世核戦車。ラムセス13世の時代にエジプト軍に標準配備された戦車。エジプト帝国内戦でも改良型が広く使用された。
※ラムセス13世の時代に開発された父親のラムセス12世の名が付けられた地対地空核弾頭運搬ロケット弾。エジプト帝国内戦でも改良型が広く使用された。2度の内戦後、これらの核兵器は全て核廃絶の名の下に廃棄された。
※ラムセス13世の時代にエジプト帝国史上初めて実戦配備された主力軍用ジェット機、ジブリール戦闘爆撃機。エジプト帝国内戦でも改良型が主力機として広く使用された。機銃、ロケット弾、ガンポット、自由落下爆弾、自由落下核爆弾を運用した。この写真は2度目の内戦前の5431年に撮影。
ただし、核兵器の復活がエジプト帝国終焉の遠因になったのは確かであるが、ラムセス12世にその責任があるかと言えば、それは歴史学的には認められていない。ラムセス12世は核兵器を復活させたが、帝国の終焉を直接引き起こしたのはラムセス12世の死後、さらに言えば第32王朝の断絶後の王朝で起こった事である。ゆえにラムセス12世に直接的な責任があったかという議論ではラムセス12世には責任は無かったと評価される。
禁忌の復古は批判的な評価が多いが、ラムセス12世の功績はそれを引いても偉大であり、エジプトによる平和、パクス・エジープトの実現や大エジプト文化圏の構築、イスラム帝国の成立等、その業績の多くは現代においても非常に高く評価され、肯定的に見られている。特に魔大陸における文化、宗教、社会、種族間融和の基礎はラムセス12世によって築かれたと言っても過言ではない。現代においても魔大陸ではエジプト・ポンド紙幣の50ピアストル紙幣にはラムセス2とラムセス12世、そしてラムセス12世によって復元されたピラミッドがデザインされている事からも分かる様にラムセス12世は現代においても魔大陸の多くの民衆の間で広く親しまれ愛されている。
ただし、魔大陸外においては、ラムセス12世の評価は低く、ラムセス12世は魔大陸の魔族(地球人類を含む)を率いて世界に暗黒の時代を齎した原初魔の王などと広い地域で呼ばれている。魔大陸外におけるラムセス12世への低い評価は数多存在するが、例えば、その筆頭格として、大エジプト文化圏が挙げられる。魔大陸においてはラムセス12世による大エジプト文化圏は現代の魔大陸文明の建築や美術等その多くにおいてその基礎となったとして高く評価されているが、魔大陸外では大エジプト文化圏は魔族による文化的侵略であったと考えられており、エジプト帝国の崩壊後は徹底的にエジプトの建築や美術等の文化の排除が行われ、エジプト帝国が崩壊して9世紀以上の年月が経過した現代においてもエジプト文化は魔大陸の文化と共に嫌厭されている。さらに、これらの魔大陸外の地域ではラムセス12世が魔族と地球人類のハーフであった事から、他種族同士の婚姻や子を作る事が宗教的戒律で禁止される傾向にもある。
なお、この魔族と地球人類とのハーフであった事はラムセス12世が高く評価されている魔大陸においても影響を与えている。ラムセス12世をはじめ、第32王朝において、王族は全てラムセス12世の血縁者であった事からケルピー族の血によって極めて長寿であった。地球人類の寿命が60年から長くても110年未満程度であったのに対して、ケルピー族の平均寿命は1000年近くにも達し、地球人類とのハーフでも500年近い平均寿命であった。こうした事もあって、第32王朝のファラオ達の治世は100年を越える事は普通であった。ラムセス12世はファラオとして125年間に渡ってエジプトに君臨したが、これは第32王朝のファラオの治世の期間で見るとあくまで標準的な長さであった。こうした長寿の影響もあってか、第32王朝の治世は比較的安定していた。しかし、その一方で、第32王朝の断絶後に誕生した地球人類によるサウィーリス朝は2世紀しか続かず、2世紀の間に8人ものファラオが誕生した。そしてその治世は終始混乱したものだった。このサウィーリス朝の混乱の影響によって、以後の魔大陸では長寿の種族が優遇される社会的風土が生まれる様になり短命の種族を政治的な役職の座から遠ざける様になった(短命種族政治的差別問題)。
ラムセス12世の存在は肯定的にも否定的にも様々な視点や観点から見ても現在の世界に非常に多くの影響を与えた。




