ワイラの海底遺跡群 ‐ ウィキパディア
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ワイラの海底遺跡群
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概要
ワイラの海底遺跡群とはアンティクオラム帝国があるムィム諸島の首都ワイラの近海の海底に沈んでいる海底遺跡群である。2003年にニュージーランド海軍のアンザック級フリゲート艦テ・マナによって発見された。現在、世界各地で確認されている海底にある遺跡の中では世界最大規模の面積を誇り、都市遺跡であると考えられている。
ワイラの海底遺跡群はアンティクオラム帝国政府がその調査を認めていない為に2003年のテ・マナによる調査記録がその情報の大半を占めている。テ・マナによる海底探査の記録によると遺跡群はその全体が激しく損壊している事が判明しており、過去に地震等の何らかの自然災害によって都市全体が崩壊したと考えられている。現在、遺跡全体は水中カメラの探査によって海草類の群生地となっているのが確認されている。
遺跡は多数の巨石建造物で成り立っており、遺跡の各区画には大小の水路とみられる溝や道路が張り巡らされている。高度に発展した大都市であったと考えられ、その規模はワイラの都市の規模を超える。
この都市遺跡が、一体いつ頃建設され、いつ頃海底に没したのかは一切不明である。テ・マナの収集したデータの解析を担当したニュージーランドのオタゴ大学はこの海底遺跡群について、アンティクオラム帝国が建設したワイラの都市区画が地殻変動により水没したものではないかという見解を示しているが、これについて、オーストラリアのシドニー国際大学は、海底遺跡の建築様式やデザイン性がムィム諸島の建築様式とは大幅に乖離している事を指摘しており、アンティクオラム帝国が形成されるよりも以前に建設された都市遺跡の可能性を指摘している。
しかし、ムィム諸島において、建築技術が発展したのはアンティクオラム帝国下の時代においてであり、それ以前は原始的な生活をしていたと考えられている事から、シドニー国際大学の見解については否定的な見方が強い。
ムィム諸島の住民はこの海底都市遺跡の存在を古くから知っている。この海底遺跡がある範囲の海底は現地の人々にとって宗教的な意味合いをもつ海底となっており、現地語でイバイバ・ググウマ、日本語訳では穢れた都と呼ばれている。現地人はこの海域を宗教的に忌み嫌っており、この海底遺跡のある海域では船が海域を通過する程度以外の一切の漁業等の経済活動が行われない他、遺跡の遺物についても引き上げる等といった行為は一切されていない。それどころか、この海域の海底から採れた物は石一つたりとも販売したり所持したりする行為は帝国内においては刑罰の対象となり、最悪の場合は死刑にされる程の宗教的タブーの扱いを受けている。
遺跡の調査が進まない最大の理由はこの宗教的問題にあり、これが理由でアンティクオラム帝国は考古学的調査を一切認めていない。




