アレクサンドロス・キッシンジャー- ウィキパディア
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ページ/ノート
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アレクサンドロス・キッシンジャー
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アレクサンドロス・キッシンジャー。フルネーム:アレクサンドロス・マーク・キッシンジャー(英:Alexandros Mark Kissinger 生誕:2000年9月3日 - )はイギリスの軍人。グレナディアーズ連隊大尉。ヌスタジスク帝国初代総督(在任:2042年4月1‐)。第57代植民地大臣(在任:2042年4月1日‐)。ヌスタジスク帝国軍中佐(在任:2042年4月1日‐)。
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目次
1.来歴
1.1日本周辺地理転移地球肥大化災害
1.2日シ戦争
1.3英連邦文化保存協会
1.3.1マーチングバンド・グレナディアーズ
1.3.2エスタクルス王国での商業活動
1.4ヌカリオス大陸植民地化の画策
1.4.1計画と武器の調達
1.4.2グレナディアーズ連隊の結成
1.5ヌスタジスク伯国への侵攻
1.6イギリス領ヌスタジスク帝国設立の宣言
1.7イギリス臨時政府分裂問題
1.8クーデター未遂事件
1.9エステルヴァス公国によるヌスタジスク帝国侵攻
1.9.1帝国軍の対応
1.9.2シルクジョニーの大反乱
2.政策
2.1大英帝国再興方針
2.2領土拡張政策
2.3シティ・オブ・ロンディニウムの建設
2.5テレネット政策
2.6工業化促進政策
2.7分割統治政策
2.8奴隷制度の廃止
2.9秩序の民政策
2.10重犯罪人の藩王国への追放
2.11英米露三国関係の重視
2.12総督府とシティ・オブ・ロンディニウムの関係法の制定
2.13妊娠中絶の禁止と子供を生んだ女性に対する功労金支給
2.14国家医療魔法士制度
2.15英連邦文化保存協会ブランド製品の海外展開体制の拡充
2.16安価で高品質な鉄製品の輸出体制拡充
2.17南ヌカリオス貿易会社の設立
3.評判
4.逸話
5.資料
6.注釈
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来歴
・日本周辺地理転移地球肥大化災害
キッシンジャーは来日前、イングランドの港町スカボローに住むイギリス人の父とギリシャ系イギリス人の母との間で生まれた。パブリックスクールに属する名門私立学校のシュルーズベリー校を卒業後、17歳で、サンドハースト王立陸軍士官学校に入学し、卒業後は18歳でイギリス陸軍に志願し訓練の後、キプロス島のアクロティリ基地に配属。19歳の時にグレナディアーズ連隊が募集した入隊者募集要綱に公募し入隊試験を合格し入隊。22歳で大尉に昇進し中隊長を務めた。
2022年4月3日、イースター休暇を利用しパブリックスクール時代に所属していた映画研究会の友人2人と7泊8日の日程で日本旅行に訪れ、東京、大阪、札幌を周る予定だった。しかし、旅行2日目の4月5日、日本周辺地理転移地球肥大化災害が発生。日本国の排他的経済水域以外の地域が4つの文明世界が転移してきた事で、それまでの地球国家は地球上から消滅してしまった。これによってキッシンジャーと友人2人は、母国への帰国が不可能となり、所謂、外国人観光客難民となった。この災害の際、キッシンジャーはまだ転移が発覚していない転移初期の頃に日本国外のインターネットへの接続や、友人の銀行での引き出し、電子通貨の支払いができなくなった事と、BBCJPがSNS上の第一報として報道した全航空便と船便の運転見合わせの内容で、何か異常事態が発生している事を察し、友人を連れて泊まっていた札幌のホテルでの宿泊をキャンセルし、その日の内に新幹線で東京の駐日英国大使館へと向かった。駐日英国大使館でキッシンジャーは自身の軍の身分を明かして、大使と駐在武官のクリス・サンダー中佐と面会し状況確認を申し出た。大使館はこの時、まだ状況把握ができていなかったが、貴重な軍属の人間として、キッシンジャーに協力を申し出た。キッシンジャーはこれを承諾し大使館の指揮下に入った。その代りとして友人2人は大使館がとった近くのビジネスホテルに宿泊が決まった。その後、4月7日に大使館に日本の排他的経済水域より外部の環境が大きく変わっている事の連絡が入り、4月10日に日本政府による公式声明で日本の周辺地理の異常が公式に認められた。
母国への帰還が不可能になった事で、キッシンジャーら、日本へと旅行に訪れた多くのイギリス人総勢27,932名は異国の日本で、母国からの一切の支援を受けられない状況のまま、他の国からの外国人観光客らと共に総勢236万人もの外国人観光客難民となった。日本政府はこれらの外国人難民について、難民収容施設として、日本周辺地理転移地球肥大化災害の影響で客足が殆ど無くなってしまったホテルや旅館を貸切り、各国ごとの収容を行ったが、4月24日、キッシンジャーは日本に滞在するイギリス人(※観光客等の短期滞在者や長期の在留者を含む)45,936名中、駐在武官のクリス・サンダー中佐を除けば軍属の人間で最高位の士官階級者であった事から、難民施設において、大使館職員4名と、同じく旅行で日本に訪れており母国に帰還できなくなっていたイギリス陸軍リッパー大隊所属のチャールズ・リッパー上級軍曹と、ロンドン警視庁所属のファン・ユーシュェン巡査を加えた大使館からの派遣要員の現場指揮官として河口湖のイギリス人難民収容施設で、自衛隊や地元自治体と共に、難民の支援業務に就いた。
この難民支援の業務は凡そ8年間も続いた。この間、キッシンジャーは難民の人々を励ますために、ホテル内の閉店したレストランに地元の酒造メーカーやボランティアと協力してイギリスのパブを再現した店を開店させたり、富士吉田市の織物会社に依頼して製作してもらったイギリス近衛兵の制服を着用して、通販で中古品で購入したL85アサルトライフルのエアーガンを持って、イギリス名物の近衛兵の警備を再現したりイギリスの行進曲の演奏会等を開いたりした。その他にもレクリエーション大会や季節ごとのイベントも実施し、難民らを元気付けた。
また、難民の食事について、主食に米ばかりが出てきた際に、一部の人々が鬱症状を発症した事から、食事の提供元である地元自治体、山梨県、自衛隊に抗議を入れ、それでも改善の様子が見られないと、パン食が中心の食文化の国々の他の難民収容施設の関係者と連絡をとり、食事の提供で同じ悩みを抱えている国々と協力して、主食メニューのパンへ切り替えなどを協力して訴え、米粉パンの導入に成功したり、難民の社会復帰を目的に、難民らが自ら製作したイギリスの民芸品を販売しその売り上げも元に収容施設環境の改善や、部屋が和室のホテルにおいては、地元ボランティアと難民が協力して部屋の内装をイギリス風にリフォームする等の難民の待遇改善に努めた。
・日シ戦争
2028年5月7日、日本とシンシンシーファ・シリア教国との間で勃発した日シ戦争において、日本の自衛隊は戦況においては圧倒的な有利を確立したが、大陸国家であるシンシンシーファ・シリア教国に対して、自衛隊の戦線と補給線が伸びきった。日本政府は、人員不足であるという事で、日本国内の地球国家の各国臨時政府に対して、国連に国連軍の結成を提案した。この提案により緊急国連総会が東京国際展示場で開催され賛成多数で、国連軍の結成が決定した。
イギリスはこの日本政府の要請による国連軍への参加を決め、イギリス連邦に加盟するイギリスを含む加盟9カ国と共に英連邦軍を結成した。英連邦軍は3個中隊を編成し、キッシンジャーは第1中隊の現場指揮官としてイギリスの他、カナダ、ニュージーランド、パプアニューギニア、マレーシア、南アフリカの出身者による志願兵を指揮し、シンシンシーファのバラード戦線に従軍した。従軍期間は2029年8月1日から、冬の黎明作戦による戦線の大規模な整理縮小がされた2030年8月3日までの凡そ1年間であったが、その期間中も、シンシンシーファ・シリア教国は日本や国連軍に対して終始、敗退を繰り返した。キッシンジャーはまともな軍事訓練を殆ど受けていない素人同然の部隊にも関わらず、自身の指揮する部隊を含めて国連軍が大きな損害を殆ど受けずに戦闘に勝利できる事に非常に大きな衝撃を受けたとされ、この頃から計画をしていたかは不明だが、このバラード戦線での経験が後のヌスタジスク伯国侵攻の判断の動機に繋がったとされる。従軍中、キッシンジャーは周囲の人々に、かつてのスペイン人の帝国や大英帝国が世界の4分の1を支配できた理由が分かった気がすると述べていた。
戦線の縮小により、国連軍は凡そ半数の部隊を日本に帰国させる事を決定。英連邦軍は3個中隊中、2個中隊が日本に帰国する事となり、キッシンジャーの部隊も8月3日、日本に帰国。8月10日から8月中旬にかけて行われた国連軍の東京都靖国通りでの記念軍事パレードと、英連邦軍の部隊所属兵士の国籍別の難民収容施設での記念軍事パレードの後に部隊は予備役扱いとなり事実上の解散となった。キッシンジャーは1ヶ月の休養の後に大使館と難民支援の業務に再復帰した。
・英連邦文化保存協会
キッシンジャーは難民の生活向上と社会復帰の為には抜本的な大きな事業が必要であると考え、英連邦加盟国の関係者と協議した。2030年11月5日、発案者のキッシンジャーを会長に、英連邦加盟国の国民が安定した生活を送れるようにする目的と、英連邦加盟国の文化保存を主な目的とした公益財団法人英連邦文化保存協会が成立した。英連邦文化保存協会は民芸品の製造販売や、飲食店の経営、難民の派遣労働者の斡旋、日本語教室、小中一環教育の英連邦市民インターナショナルスクールの設立、社会保障説明会、各国文化のアーカイブ作成等、難民の支援事業を展開した。
・マーチングバンド・ロイヤル・グレナディアーズ
グレナディアーズ連隊に所属していたキッシンジャーの肝いりで結成されたイギリス近衛兵式のマーチングバンドであり、文化保存の目的を持ち、また、日本各地で演奏会やイベントの実施や参加等で収益を上げた。このマーチングバンドは、キッシンジャーの知る本場、イギリス近衛兵式の厳しい軍隊教育によって結成されており、結成までには、発案が2031年1月であったのに対して誕生したのは2032年3月の事だった。イギリス人、カナダ人、マレーシア人、バングラデシュ人、シンガポール人、セントビンセント・グレナディーン人、オーストラリア人、ニュージーランド人、南アフリカ人、ガーナ人、ウガンダ人、ケニア人という多国籍の応募者により結成され、総勢200名規模のマーチングバンドとなり、第1から第4までの4つの小隊を編成した。キッシンジャーも総指揮者を勤めた。ロイヤル・グレナディアーズは2033年の日本マーチングバンド協会が主催するマーチングバンド全国大会の一般の部で初参加にも関わらず、最優秀賞の内閣総理大臣賞を獲得し大きな話題となった。この受賞がきっかけで、英連邦文化保存協会の取り組みが全国的に知られる大きなきっかけになった。なお、ロイヤル・グレナディアーズはその後もマーチングバンド全国大会に4度出場し、4度とも金賞を受賞、1度の編成別最優秀賞を受賞する実力を見せた。
なお、マーチングバンドの要員の多くが結成時、未経験者だったが、これが内閣総理大臣賞の受賞後に知られると、マーチングバンド界隈で非常に大きな話題となった。
・エスタクルス王国での商業活動
日本周辺地理転移地球肥大化災害後、日本と国交を結んだ国の中では、アトランティス帝国に次いで貿易量第2位のエスタクルス王国において、英連邦文化保存協会は事業を展開した。エスタクルス王国において、からくり時計を輸出した所、それまで、からくり時計といえば、そもそも時計といえば、時計塔位しかなかった、同国の現地において、家のインテリアとして置ける時計の存在は衝撃を与えた。さらに、小さな家具程度にも関わらず精巧な、からくり時計であった事から現地の富裕層の間で空前の大ヒット商品となった。この事から、英連邦文化保存協会は時計ブランド、ブリティッシュクロックズを本格展開し、2034年には余りの人気から日本からの企業としては同国で初めて現地に製造工場を設置するに至った。その後、英連邦文化保存協会は時計販売事業だけに留まらず、狩猟用品や日用雑貨の販売、バナナやカカオ豆のプランテーションの経営を展開し日本からエスタクルス王国への輸出に留まらず、エスタクルス王国から周辺諸国への輸出事業も展開。ブリティッシュクロックズは時計業界において日本と国交と交易の関係にある45の国の中で、主に腕時計を中心に販売していた売り上げシェア第1位のセイコーや第2位のシチズン時計に次いで第3位のシェアを獲得し主に富裕層をターゲットとした高級時計メーカーとしての地位を確立した。2038年までには、エスタクルス王国で事業を展開する地球国家企業の中では、それまでの日本企業を抜いて最大の売上高を誇るまでになった。
・ヌカリオス大陸植民地化の画策
日本において、日本周辺地理転移地球肥大化災害から10年の節目を迎えた2032年、各国臨時政府が日本政府に対して、国内にいる約529万人居る外国人について、日本国内に自治区の設置を求める運動が加熱した。しかし、日本政府は現在の国家経済体制の維持だけでも困難な状況であるとし、将来的な実現の可能性は否定しなかったが、現状での設置は明確に否定した。この自治区設置運動について、キッシンジャーもイギリス大使館や、英連邦加盟国と協力して自治区の獲得運動に参加した。
だが、日本国内での自治区設置が将来的にはともかく財政が悪い状況で即時には困難であると日本政府が頑なに拒否すると、キッシンジャーら、自治区設置派は、このまま継続して自治区の設置を求めていくという派閥と、運動自体は継続しながらも日本政府の言う通り将来的に自治区の設置を目指すという派閥に分かれた。イギリス大使館は将来的な自治区の設置を目指す派閥に属したが、これに対して2034年、キッシンジャーは山梨大学のフランス人経済学者シャール・ホメイニ准教授と面会し、自治区が将来的にできるとして、それがいつ頃になるのかを聞いた。シャール・ホメイニ准教授は自治区の見通しについて、早くとも10年から20年以上はかかると予測した。その結果、キッシンジャーはそれでは遅すぎると考えた。この時点で、確かに英連邦文化保存協会の営業利益は黒字化していたが、それでも、多くの難民は仕事が無い状態であり、さらに仕事はあっても生活環境が依然厳しい人々が大半であった。
シャール・ホメイニ准教授との面会の結果を受けて、キッシンジャーは大使館に自治区の設置を待つのは遅すぎるとして、日本国外に活路を見出すべきではないかとの意見を提出した。この際、キッシンジャーは日シ戦争序盤に日本が領有化したシンシンシーファ・シリア教国領サリウス諸島にベトナム臨時政府が16万人のベトナム人を開拓民として移住させ日本政府がサリウス諸島の一部地域をベトナムに将来的な領土割譲を約束した事を引き合いに、イギリスも現在の失業率を改善するには、移住政策を進めるべきだと主張した。しかし、イギリスも他国もそうであったが、日本国外への移住については、慎重な立場であり、地球が再び元の状態に戻る可能性が災害発生当初から指摘しされており、日本の外に居た場合、別世界への転移に巻き込まれてしまう危険性があり拒否された(地球戻再構築説)。日本政府は国外への移住政策を積極的に支援しているが、イギリスは国民投票を2032年に実施し、その結果、半数以上が地球戻再構築説を理由に日本国外への移住に反対した経緯があった。しかし、いつ起きるのか、そもそも起きる可能性の方が低いとさえ言われているこの説に元づいて、政策を決める事にキッシンジャーは反対だった。
その後、キッシンジャーと同じ考えを持つ人々がイギリスを問わず、英連邦各国の中から集まり協議を重ねた。移住賛成派は、当初は同じく移住賛成派の人々を集めて共同でサリウス諸島への移住する計画を構想した。しかし、この同時期に日朝新聞が報じたベトナム人開拓団が、現地で過酷な開拓によって仕事はあるが、日本に居た頃よりも過酷な食糧事情に直面しているとする報道が流れると、未開の地への開拓は命を危険に曝すとして棄却された。これで、移住の計画は暗礁に乗るかと思われたが、2035年にキッシンジャーはある案を示した。生活インフラが整った土地で移住を進めれば良いとする案である。会議の列席者はこのキッシンジャーの発言の意図が分からなかったようだが、キッシンジャーの発言の意図は明確で、それは侵略であった。自身の日シ戦争の経験から魔法が存在するとは言え、概ね技術水準が中世レベルか古代ローマレベルの国々相手ならば、小国なら、100人程度の人員でも制圧が、中小国でも千人以上の人員がいれば制圧が可能であるとの見方を示した。この案に会議の列席者は冗談かと思ったとされる。しかし、これは後にキッシンジャーが本気で考えていた事だという事が判明した。つまりキッシンジャーは未開の地に移住するのが危険ならば、最初から生活インフラが整った国を乗っ取ってしまおうと考えたのである。キッシンジャーに近しい人物は、キッシンジャーはこのまま日本に居れば、難民らの深刻な失業状態や社会的にも弱い立場は改善される事はなく、また、このままではいずれイギリスの伝統や文化、歴史も消えてしまうのではないかと、危機感を募らせていたと聞いていたとされる。
・計画と武器の調達
2035年6月、キッシンジャーは自身の意見に賛同する賛同者6人を集めて研究会を開いた。この研究会で、自身の考えた具体的なプランを公開した。
日本国外の数ある国の中から、侵略対象の国として、キッシンジャーは日本から約3万6千3百キロ離れた位置にあるヌカリオス大陸を選んだ。理由は日本政府が関与しにくい遠方の土地だった事と、ギリギリ日本との交易圏内に位置していた事、エスタクルス王国との交易がある国だった事、石炭や金属等の鉱物資源が採掘されていた事、ドラゴンや巨大鳥等の航空戦力が存在していない事、文明が欧州に似ている事、そして、エスタクルス王国の幾人かの交易商が、その文明度について、エスタクルス王国と同程度でしかないという事を証言していた為である。さらにキッシンジャーは具体的な侵略までのプランも用意してあり、当時、英連邦文化保存協会が進めていたエスタクルス王国での商業活動を利用して現地工場で武器を生産し、さらに英連邦文化保存協会の利益や、日本政府や銀行からの補助金や融資を使って必要な物資を購入、さらにキッシンジャーの知り合いの軍関係者から物資提供を依頼するというものだった。
キッシンジャーが一体、いつ頃から侵略の計画を練っていたのかは定かではないが、少なくとも、事前にヌカリオス大陸の調査を行っていた事からも、少なくとも2034年頃には計画を考えていたと推測される。
このキッシンジャーの案に計画の賛同者は全面的にキッシンジャーの案に同意した。そして、2036年以降にキッシンジャーをリーダーにヌカリオス大陸侵略の計画が進められていく事となる。
キッシンジャーの計画に賛同派は、水面下で自らの計画に参加する者達を英連邦加盟国国民の中から集めた。そして最終的にこの計画に賛同した人々は日本国外への移住賛成派を中心に凡そ1万人に達したとされる。
キッシンジャーが会長を務める英連邦文化保存協会は計画を進める上で推進役となり、エスタクルス王国現地の狩猟用品製造工場において、2040年までに、計画賛同派のエンジニアが設計したコモンウェルス半自動小銃3000艇、ヴィッカース重機関銃17基、弾薬、手榴弾5000発を密造した。密造にあたりその材料等は現地で狩猟用品として販売していた弓矢やボウガンの材料として現地で入手していた。
また、日本からは、現地でのプランテーション建設や輸送能力の強化の名目で、日シ戦争の戦線縮小後に中古で日本国内に売却され出回っていた、軍用モデルのトラック、三菱ふそう石炭ジャパンリカバリーカーゴG7、211両を2036年から、年平均50台近くを英連邦文化保存協会や現地の貴族名義で設立したダミー企業等を介して購入した。さらに、キッシンジャーは在日米軍関係者や、国連軍関係者等、難民支援事業や日シ戦争中に築いた人脈を通じて、日シ戦争で大量生産された日立UNF‐S1 UAV、30機。UNF‐ZU30mm連装機関砲、3基。M244 60mm迫撃砲、100門。120mm迫撃砲RT、15門。日本製鉄UNF‐105mm榴弾砲、6門、弾薬等の提供を受けたり購入したりした。また、侵攻作戦が実行される直前の2041年11月には、英連邦文化保存協会は海上輸送部門の設立と称して14000トン型石炭動力貨物船2隻と12000トン型石炭動力石炭船1隻の計3隻を長崎汽船から中古価格で購入した。
なお、この3隻の船は購入額の6割を日本政府の経済産業省から支援を受けて購入していた。経済産業省と長崎汽船側は、エスタクルス王国で大きな影響力を有する英連邦文化保存協会の事業に協力する事で英連邦文化保存協会や現地での日本企業の影響力の拡大意図があったとされる。しかし、経済産業省や長崎汽船はこの船の購入について、その真の意図が侵略の為の部隊の輸送船として利用する事だったとは気づいていなかった。この経済産業省による支援はヌスタジスク伯国侵攻が明らかになると、野党から日本政府は侵略を把握しながら支援したのではないかと追求される事態を招く結果となり、結果的には、それ以前から浮上していた国内の炭鉱開発計画の談合問題に政権幹部が関っていた疑惑の問題と合わさって、政権が衆議院の解散総選挙を行う事態にまで発展した。
・グレナディアーズ連隊の結成
武器の調達を進めるのと平行して侵略計画に必要な戦闘部隊の編成や訓練も行われた。キッシンジャーはこの計画を日本で行った。2038年、部隊の編成として計画の賛同者を集めて、名目上は英連邦の文化の象徴の一つとして、イギリスのバッキンガム宮殿等で見られた近衛兵の再現イベントの要員として連隊を組織し訓練した。意味合いとしては日本で言う、埼玉県の寄居北條まつりや、山梨県の川中島合戦戦国絵巻等の戦国時代の合戦を再現したイベント、その他、全国各地で見られる大名行列を再現したイベントと同じ様な立ち居地のイベントの目的としてである。訓練はキッシンジャーによって1年間のスケジュールで行われた。
2039年、志願者を中心に3000名の規模で編成され、キッシンジャーはこの部隊をグレナディアーズ連隊と命名した。イベントの訓練と称してイギリス女王を守護する近衛兵部隊が毎年開催していた軍旗敬礼式典の再現や、戦列歩兵陣の再現等を行い、これを戦闘訓練の一環として行った。これらの行為は一般から見ても軍事的に見てもこれが現代の軍事訓練の一環だとは当時はまだ一切思われておらず、このグレナディアーズ連隊の結成や実際に行われた各種イベントでは非常に多くの観衆を集め、テレビ報道も非常に好意的な内容であり初のイベント後にはテレビ特集がされる程の話題性を高めた。侵攻作戦が行われた2042年までに、グレナディアーズ連隊は日本国内各地で多くのイベント主催者からイベントの参加が依頼がされ、浜松まつり、諏訪湖祭り、信玄公祭りなど、計16のイベントに参加した。
グレナディアーズ連隊の制服や帽子はイギリス人難民収容施設のあった河口湖から程近く、なおかつ、キッシンジャーがかつて近衛兵の制服の製作依頼を出した事があった富士吉田市の織物会社に依頼されて製造された。なお、ここで製作されたイギリス近衛兵式の制服一式はその後のヌスタジスク伯国への侵攻における実戦においても戦闘用の制服としてそのまま使われた。
・ヌスタジスク伯国への侵攻
2042年1月3日、グレナディアーズ連隊はエスタクルス王国の王都エルベステルで英連邦文化保存協会主催のコモンウェルス祭にて、パレードをするとの名目で、貨物船3隻に乗り込み出港した。しかし、例に漏れずこのイベントは、実際に開催予定ではあったが、グレナディアーズ連隊によるパレードはプログラムに組み込まれていなかった。13日、輸送船団はエスタクルス王国のパトロクロス港に立ち寄ると、現地に集積してあった各種物資を詰め込み、翌14日に再び出港。ヌスタジスク伯国へと進路を取り、途中、食料や水の供給をクルシュ首長国で受け、さらに航路を進んだ。また、その航海中、各輸送船の艦首には対木造船舶兵装としてUNF‐ZU30mm連装機関砲が装備された。UNF‐ZU30mm連装機関砲は日シ戦争中に国連軍がシンシンシーファ・シリア教国海軍の魔道戦列艦対策として導入した対水上兵器であり、グレナディアーズ連隊が貨物船に設置したのも対木造船舶対策だった。
日本出港から47日後の2042年2月18日、船団はついにヌスタジスク伯国のあるヌカリオス大陸へと到達した。ヌスタジスク伯国側は、ヌスタジスク伯国には存在しない巨大船が突如現れた事に対して、魔道戦列艦のフリゲート3隻を向かわせた。これに対してグレナディアーズ連隊の記録によると、12時13分、イギリス王旗、イギリス国旗、近衛兵連隊旗、イギリス海軍旗を掲げ、機関砲を発砲。ここにヌスタジスク伯国侵攻が勃発した。
ヌスタジスク伯国は中小国であった為、海軍力はこの時投入した戦力が全てであった。しかし、戦闘開始後12分でフリゲートは全艦が撃沈された。これ以降、キッシンジャーが指揮する輸送船団は、キッシンジャーの号令によって女王陛下の軍隊(Her Majesty The Queen’S Army)、そして大英帝国の軍隊(British Empire Miltary)を名乗った。
1時3分、輸送船団はヌスタジスク伯国の港湾都市エクセデリカに到達。輸送船団は海上から機関砲による攻撃と120mm迫撃砲による砲撃を与えた。そして、凡そ5分間の砲撃の後、第一陣の上陸部隊がゴムボートで上陸。突然の攻撃に混乱するエクセデリカに駐屯するヌスタジスク伯国騎士団は大混乱に陥り上陸を許した。港を制圧し橋頭堡を確保したグレナディアーズ連隊は輸送船を接岸させ、更なる部隊の投入を実施。凡そ2時間で市街地全域を掌握し、エクセデリカ領主のディンティール(※ヌスタジスク伯国は騎士が貴族階級の役割を果たして各領地を治めていた国)の館を包囲し無条件降伏させた。
その後、港湾都市エクセデリカを確保したグレナディアーズ連隊は現地で輸送船の積荷を降ろし、エクセデリカをヌスタジスク伯国侵攻の橋頭堡とした。
これに対して、エクセデリカの陥落を知ったヌスタジスク伯国の国家元首レモンド伯は騎士団を召集し、総兵力の半分に当たる2万人の軍を結集してエクセデリカ奪還を狙った。
2月28日、ヌスタジスク伯国軍2万人は、エクセデリカ郊外にあるヘヌゼの平原に到達。これを待ち構えていたグレナディアーズ連隊はヌスタジスク伯国軍と一部の貨物船の警備兵や補給要員を残してほぼ全兵力を投入。キッシンジャーは直接最前列での作戦指揮を行い、2500名でヌスタジスク伯国軍と正面から対峙した。キッシンジャーは兵士達に戦列歩兵陣形をとらせ小銃や重機関銃を用意。戦列歩兵陣の後方には迫撃砲等の火砲、また行進曲が流れるスピーカー等が準備された。通常、戦列歩兵陣は現代軍事学的には時代遅れの戦術であったが、近接戦を主体とし技術力の劣る勢力に対して。集団による正面戦においては、現在においても非常に有効な戦法だった。これはキッシンジャーが日シ戦争での経験をもとに立てた戦術であるとされ、戦列歩兵陣でも近接戦主体の相手ならば現在でも充分に通用すると考えた。さらには、技術力の劣る集団に対してどれだけ効果的にダメージを与えられるかという考えにも基ずいていたとされる。また、戦術以外の面でも、殆どが戦場初心者である兵士達に煌びやか軍服や行進曲、戦列歩兵陣という歴史的にも知られた戦術を展開する事で、兵士達の高揚感や士気を高める狙いもあったとされる。実際に、このキッシンジャーの考えた手法と戦術は成功を収めた。当初は自分達よりも遥かに多い敵の兵士達に多くの兵士は怯えていたとされるが、機関銃や小銃が次々と敵を討ち倒していくと、次第に士気は高揚したとされる。
ヘヌゼの平原での戦闘はグレナディアーズ連隊側の圧勝で終わった。現代の兵器を経験していなかったヌスタジスク伯国軍2万人は現代兵器で固められた戦列歩兵に正面から突撃をかける事となり、その結果として現代兵器の洗礼を受け、2万人中、1万6千人が死亡。1322人が降伏し捕虜となり、残りは逃亡した。対する連隊側は人的損害を一切出さなかった。
その後、グレナディアーズ連隊は捕虜はエクセデリカで徴兵した地元住民を使い、エクセデリカ郊外に建設した簡易捕虜収容所で監視下に置き収容。貨物船は港から離れた若干の沖合い停泊させ、貨物船の警備の部隊だけを残し2日間の休息後、トラックに搭乗し首都カスシオスへと進軍した。
この事態に、ヘヌゼの平原で経験した事のない敗北をしたヌスタジスク伯国軍は民兵を徴兵した上で軍を再編、残された正規軍2万人と民兵3万人を合わせた5万人の兵力でエクセデリカと首都カスシオスのほぼ中間に位置するヘリオスの丘で待ち構えた。ヌスタジスク伯国軍は銃の存在を知らず何らかの魔法かと考えていたが、その対策として、木の盾や車輪を付けた煉瓦の壁を軍団正面に配置し、さらにグレナディアーズ連隊が砲撃を行ってきた事から、本来は魔道戦列艦や城塞に搭載する魔道砲を30基近く持ち出して配備した。なお、これはヌカリオス大陸の戦の常識からすれば、非常にあり得ない戦法であった。戦後、この時のヌスタジスク伯国軍の防衛戦術は、グレナディアーズ連隊がヌスタジスク伯国政府から入手した資料により、ヌカリオス大陸ではそれまで、卑怯とされていた戦法を取っている事が明らかになった。ヌカリオス大陸では剣と弓による戦いが重視されており、魔道砲を港や水上や城壁以外で使う事は卑怯な攻撃であると考えられていた。しかし、ヌスタジスク伯国軍がそれまでの慣例を捨て去らねばならないまでにヌスタジスク伯国軍にとって現代兵器との戦いは衝撃的であった。そう言った意味ではヌスタジスク伯国軍は柔軟な対応を見せたといえる。
3月5日、キッシンジャーが指揮するグレナディアーズ連隊はヘリオスの丘に到達した。すぐさま、戦列歩兵陣形がとられた。すると、ヌスタジスク伯国軍は騎兵を使って戦列歩兵陣の側面から奇襲攻撃を試みたが、ドローンによる偵察によってグレナディアーズ連隊はそれを把握しており、撃退された。さらに双眼鏡やドローンによる上空からの偵察によってヌスタジスク伯国軍が魔道砲を持ち出している事を確認すると、キッシンジャーは120mm迫撃砲による敵陣への砲撃を指揮し、ドローンによる弾着観測の下、魔道砲を無力化、さらに敵の防御陣地を破壊した。また、敵軍団の中央部への砲撃も行った。
魔道砲の破壊後、キッシンジャーは全軍にゆっくりと前進を命令。ブリティッシュグレナディアーズの行進曲を大音量で流し敵にも聞こえる様にと後方のスピーカー搭載車両部隊に命令した。この前進に対して、連隊の砲撃によって混乱していたヌスタジスク伯国軍は恐慌状態に陥った。民兵が戦場より脱走を開始し、半数以上の民兵が戦場より脱走したとされる。これに対して、ヌスタジスク伯国軍は頼みの綱だった防御陣地や魔道砲を失った事から、退けぬ状況となり、現場指揮官は突撃を命令。グレナディアーズ連隊に対して正面からの攻撃を行ってしまった。
その後の展開はヘヌゼの平原の再現であり、違いは民兵が居るか居ないかだけの違いであった。戦いは凡そ1時間半で終結。ヘリオスの丘の戦いもグレナディアーズ連隊の圧勝に終わった。なお、この戦い終盤において、ヌスタジスク伯国軍の中核を成す各騎士領主は散り散りに自らの部隊を連れて戦場を離脱し自らの領地へと戻った。これによってヘリオスの丘の戦いにおけるヌスタジスク伯国軍は組織的な抵抗力を失った。
この勝利を受けてキッシンジャーは全兵士達に向けて「偉大なる全兵士達よ!敵は逃げ出した!諸君の勇気と献身と英連邦魂、そして我らが背負う英連邦54カ国の偉大な歴史の前に逃げ出したのだ!だが、これで慢心はしてはならない!敵にも優れた者は居るだろう。その証拠にこの戦いで敵は我々の銃と砲の対策を施した。我々はこの勝利に慢心する事無く、敵に対して最大限の敬意と健闘をもってこれを粉砕しなければならない!」こう演説し士気を鼓舞した。
3月6日、グレナディアーズ連隊は首都カスシオスに到達した。ヌスタジスク伯国軍は城壁都市の城門を全て閉じ、篭城戦を行う準備を整えた。しかし、ヌスタジスク伯国軍はその殆どを構成していた各地の領主の騎士の殆どが自分の領地へ引き返した為、その兵力を大幅に減少させ、レモンド伯の配下の兵5千名だけが手元に残った。レモンド伯はカスシオスの住民を民兵として徴用し、4千名が加わった。これによってヌスタジスク伯国軍の規模は増加したが、その規模は1万人にも満たない9千名の規模であった。
篭城を進めるヌスタジスク伯国軍に対してグレナディアーズ連隊はスピーカーで無条件降伏を呼びかけた。降伏すれば、国家指導部、兵、民衆の命は保障するとした。ヌスタジスク伯国軍がこれを無視すると、グレナディアーズ連隊は12時1分、カスシオスの伯城に向けて120mm迫撃砲による断続的な砲撃を実施。さらにそれと並行して、城壁に向けて105mm榴弾砲を斉射し、城壁を破壊した。グレナディアーズ連隊は再度降伏を要求。だが、破壊された城壁を見たレモンド伯は城壁や城に篭城させていた全軍を市街地中央部のベツサルラビア広場に集結させ自らも城から出向いた。一方で十数名の精鋭騎士で構成される親衛軍を城に残し、まだ幼い長男や19歳の娘、妻を守護させた。レモンド伯は兵士達を前に、着ていたマントを破り捨て、街を決戦の場とする事を宣言し最後の一兵になろうとも戦い続ける事を宣言した。そして、自らも先頭に立って城壁を越えて市街地に侵入して来た敵軍と戦うとしヌスタジスク伯国に伝わる伯爵家の黄金の剣を掲げ「神よ!異教徒共に我らが土地を犯させた事を許し給うな。われ、都の陥落とともに、死なん。神よ!民を守る力を我によこしたまえ!」と叫んだ。
13時00分、グレナディアーズ連隊は市街地中心部にヌスタジスク伯国軍が広場に集結している事を確認すると、降伏するつもりが無い事を悟り、120mm迫撃砲による砲撃を開始。集結していた軍団を砲撃した。複数発の砲弾が直撃し集結していたヌスタジスク伯国軍は大損害を受けた。しかし、レモンド伯はまだ無事であり、額を怪我し出血していたが、混乱する兵士らを一喝すると破壊された城壁への突撃を命令した。
13時5分、グレナディアーズ連隊は迫撃砲による集結した軍団への砲撃を継続しながら、兵士2000名を市街地に突入させた。この市街地戦で初めて連隊は16名の死亡者と8名の負傷者を出した。しかし、戦いは連隊側の圧勝であり、市外地中心部にヌスタジスク伯国軍が集結していた所を迫撃砲による砲撃を受けた事はヌスタジスク伯国軍にとって最大の痛手でありこれによって多くの兵士を殺害され、また民兵の多くは大混乱に陥った。レモンド伯の号令によって突撃を行った兵士は精鋭騎士の約300名だけだったとされる。それ以外のヌスタジスク伯国正規軍や民兵はベツサルラビア広場で混乱しているばかりであったり、城や市街地に散り散りに逃げるのみであった。
レモンド伯率いる精鋭騎士はグレナディアーズ連隊の市街地突入部隊に対して切り込みをかけた。この突撃によって連隊はこの戦争が始まって初めての犠牲者15名を出す事になったが、レモンド伯を含む精鋭騎士はすぐさま応援の部隊によって銃殺された。なお、この時、レモンド伯を射殺したのは市街地戦の陣頭指揮を取っていたキッシンジャーであったとされる。その後、市街地を制圧していく上で、1名の死亡者と8名の負傷者を出す事となったが、突入開始から凡そ3時間54分で、市街地全域が掌握された。この過程で、グレナディアーズ連隊は伯城から脱出を試みる一団を偶然発見し、これを確保。その後の調査で、この一団がレモンド伯の家族である事が確認され、連隊に身柄を拘束された。
15時59分、キッシンジャーは市のメインストリートである黄金騎士通りとベツサルラビア広場について、路上の遺体を1時間以内に片付ける様に住民に命令。17時、遺体が全て片付けられると、グレナディアーズ連隊は市内に入場。行進曲ブリティッシュ・グレナディアーズ、進曲勇敢なるスコットランド行進曲、ボギー大佐、を流して行進し、ベツサルラビア広場で戦勝式典を実施し、伯城にはイギリス王旗と連隊旗が立てられ、城壁には英連邦54カ国の国旗が翻った。
この戦勝式典では英連邦加盟国全ての国家や代表する行進曲が軍楽隊によって演奏されたり、スピーカーによって流された。その後に、キッシンジャーは戦争の勝利を記念した演説を行った。この戦いは偉大なる英連邦54カ国の勇姿と大英帝国の復活の序章であるとし、また、「我々を侵略者と批難する者が居るであろうが、精々批難するが良い。我々は偉大なる祖国の文化と歴史を守る為に立ち上がった。我々が立ち上がらなければ、近い将来、我々の偉大なる先祖達が築き上げた文化も歴史も異国の地で潰えてしまっていただろう。確かに人道も大切である。しかし、我々の祖国が消滅してしまった今、それを理由に残された我々が座して消えるのを待ってはならない。それは偉大なる祖国を築き上げた先祖達への冒涜であるばかりか、文明への許されざれる冒涜と背徳である。人道とは人道がそれを守るのではなく、人道を信じる人々の集団が人道を守るのである。集団とはそれすなわち国家である。国家が無ければ如何なる崇高な思想であっても、それを守る事はできない。シンシンシーファ・シリア教国を見よ。反人道とはまさにあの国を指す言葉である。ガルサル人へのジェノサイド、蛮族と認定した国家の民への容赦ない殺戮。日シ戦争前、シンシンシーファ・シリア教国の反人道性を知り多くのNGOが、反対活動を行った。しかし、その結果はどうであったか。シンシンシーファ・シリア教国の残虐性を止める事はできなかったではないか。結局、シンシンシーファ・シリア教国の残虐性を止めたのは人道精神ではなく、人道を信じる国家の軍事力による鉄槌である。国家を持たなければ、我々がいかなる崇高な思想を持とうとも、それを守る事はできない。そしてその崇高な思想を持つ人々を邪悪な魔の手から守る手段もないのだ。将来、我々の子供たちは、我々が行った行為を評価するだろう。それがどの様な評価をされるかは今後の我々の行動にかかっている。祖国の偉大なる文化と歴史を守る為だとはいえ、我々がこの国を侵略した事実には変わりはないのだ。であるならば、我々はこの戦いで犠牲となった全ての者達に心から追悼の念と最大限の敬意を持ち、この国の偉大なる王から国を引継ぎ、今よりもより強大で、文明的な新国家へとさらに発展させなければならない。我々の子供達、そして、この地の子供達が、全ての者達が偉大なる新国家に誇りを抱けるように。我々は偉大なる英連邦加盟56カ国とこの国を加えた57カ国の力と魂によって、大英帝国を再興させなければならない」と侵略を正当化する演説を行った。
3月8日、1日間の休養の後にキッシンジャーはグレナディアーズ連隊を二つの部隊に分ける指示を出し、ヌスタジスク伯国に存在する19の大領主の領地と23の地方都市の内、制圧した港湾都市エクセデリカと首都カスシオスを除く、他の土地の平定を目指した。そして、連隊の指示に従う事と、英国女王に忠誠を誓う事を求め、この条件を了承した領主は存続が認められ、条件に従わない領主へは降伏するまで徹底した攻撃を加えた。この連隊の要求に従った領主は6つの大領主と14の地方都市の領主。残りの要求に従わなかった各領主は連隊や連隊の要求に従った各領主の討伐軍によって討伐される事となった。なお、この時点で要求を承諾した領主も承諾せずに討伐された領主も、ヘヌゼの平原の戦いや、ヘリオスの丘の戦いの参加によって大打撃を受けており、正規の訓練を受けた兵士層は半ば崩壊状態であったり、打撃を受けていなくとも地方領主であるため、大領主以外はその兵力は極めて弱小だった。
これらの結果、3月28日までに、連隊はヌスタジスク伯国全領地を掌握。討伐した領主の領地を連隊直轄地として編入し、ここにヌスタジスク伯国は完全に敗北した。
この戦争による全体の死者数は38,174名。内訳は連隊側が17名。ヌスタジスク伯国側が38,157名だった。なお、負傷者に関しても連隊側は18名。ヌスタジスク伯国側は多数(記録無し)だった。
・イギリス領ヌスタジスク帝国設立の宣言
4月1日、キッシンジャーはこの日、日本の新年度の風習に合わせて、首都カスシオス近郊の平原にて、連隊と、忠誠を誓った各領主とその騎士や従者を集めた式典を開催した。この式典では式典会場正面の中央に高く女王旗が掲げられ、その左右に英連邦加盟56カ国と忠誠を誓った各領主の旗が掲げられた。キッシンジャーはこの式典でヌスタジスク伯国の解体を宣言。そして、新たに国家を再編し国王をエリザベス女王としたイギリスとの同君連合、ヌスタジスク帝国の成立を正式に宣言した(キッシンジャー宣言)。なお、イギリス王室はエリザベス女王を含めて王室メンバー全員が消失したイギリス本土と共に地球上から消失している。
そして、キッシンジャーは事前に行われた連隊全隊員による投票で98%以上の圧倒的多数の得票率を得たとして、自身が初代ヌスタジスク帝国の総督に就任する事を宣言。さらに帝国の開発を迅速に進める為に総督府とイギリス植民地省を復活させ、第57代植民地大臣にも就任する事を明らかにした。また、連隊と女王への忠誠を示した各領主の内、大領主の領地は藩王国へと再編され、防衛と外交権を除いた自治権を引き続き領主の統治下に。一方で、各地方都市の領主は領主の地位は保証するものの、自治権は大幅に制限され領主の自治権よりも総督府の権限が優先されるとされ、それ以外の地域は全てが総督府の直轄地とされた。また、同君連合の正当性を示す為に、キッシンジャーは事前に周囲の人々の助言から提言があったレモンド伯の19歳の実娘アイモネ・ディ・カノンと自身との婚姻も発表した。
また、この式典では具体的な、英連邦加盟56カ国の文化及び歴史の保存を目的とした政策や中長期目標も発表。また、ヌスタジスク帝国の首都に関して、首都機能をカスシオスから、港湾都市エクセデリカに移転し、総督府はエクセデリカ現領主の館とする事も宣言された。エクセデリカの現領主には領地と自治権を返上してもらう変わりにエクセデリカの名誉終身市長の位と今後設置するエクセデリカ地方裁判所を構成する裁判官の一人としての権利が与えられた。
式典の最後にはヌスタジスク帝国の国歌として、ルール・ブリタニアの替え歌であるルール・コモンウェルスの採用が発表され式典の締めくくりとして、演奏、合唱がされた。
これらの一連のキッシンジャー宣言によってヌスタジスク伯国は正式に消滅した。そしてそれに変わってイギリス領ヌスタジスク帝国が成立。祖国を日本周辺地理転移地球肥大化災害によって失ったキッシンジャーらが目指した新たな国が建国された。
なお、余談として、このキッシンジャー宣言で発表されたアイモネ・ディ・カノンとの婚姻についてキッシンジャー本人は余り乗り気ではなかったとされる。キッシンジャー宣言後にも周囲の人々に対してこの婚姻の発表は、悪趣味ではないかと不満を漏らしていた話が伝えられている。
・イギリス臨時政府分裂問題
日本にキシンジャーらが行ったヌスタジスク帝国成立の第一報が入ったのは、帝国成立から50日がたった2042年5月20日だった。キッシンジャーはヌスタジスク帝国の成立を内外に知らせる為に、特使を日本、アメリカ(在日米軍)、ロシア(北方領土)を含め、英連邦文化保存協会と関係の深いエスタクルス王国や、ヌスタジスク伯国侵攻の途中で補給に立ち寄ったクルシュ首長国など、6カ国に派遣した。また、特使は、計画賛同派の人々に向けて1年以内に居住環境を整え、最大で3万人の移住が可能な様にするとのメッセージも携えた。
この第一報が知られると、イギリス大使館で構成されるイギリス臨時政府や英連邦の各国臨時政府は大混乱に陥った。殆どの国はキッシンジャーらの行動に対して正当性の無い侵略行為だと批難した。しかし、イギリス臨時政府は大使館が非難声明を出したが、それに反してイギリス領事館はキッシンジャーの行動に賛成を示した。これは領事館側はキッシンジャー派の派閥であった為である。また、この様な臨時政府の内紛はイギリスの他にもオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、ジャマイカ、ナイジェリアの臨時政府内でも侵略の反対派とキッシンジャーの行動を評価する賛成派の間で対立が起きた。政府以外でも難民と在留外国人の中でも賛成派と反対派が入り乱れた。
イギリス臨時政府は大使館側と領事館側で対立し、ついには6月11日には領事館の領事が大使館に対して大使館はイギリス政府の正統な臨時政府ではないと主張して、クルストファー・ルッソ臨時政府首相に対し大使館を臨時政府に返還せよと主張するまで発展。正統なイギリス臨時政府の権利は在日英国大使館ではなく、ヌスタジスク帝国にある総督府であると主張した。これに対して大使館側もキッシンジャーや領事館の行為は国際法違反であり、イギリスとひいては女王陛下への反乱行為だとし、キッシンジャーやその行いに賛同する領事館員はイギリスの国内法に則り大逆罪が適用されるとして、即刻、領事館の明け渡しを通告するまでに発展した。
当初、日本政府はこのキッシンジャーらが行った外国の侵略に対して、遺憾の意を表明し経済制裁や自衛隊の派遣までも選択に入っていたとされる。しかし、アメリカ合衆国のドナルド・ヴィータ・トランプ大統領(元在日米軍司令)や北方領土のロシア連邦のウラジミール・クルツカヤ大統領がヌスタジスク帝国の成立を承認し、国交関係の樹立を決定すると、日本政府は混乱し、在日米軍側との会談を重ね、結果的には日本政府の判断としては、抗議声明を出すのみの処置で留まった。当時、日本政府とアメリカ政府間ではアメリカが在日米軍基地の土地をアメリカに領土割譲を要求していた問題や、2024年に日米露の3カ国で締結された日米露相互共同安全保障条約の枠組みとは別に、アメリカとロシアが日本を抜いて全く別の新しい相互防衛条約を締結した問題で、互いに緊張関係にあった時期であり、日本政府としてはこれ以上、問題を増やしたく無かったとされる。
なお、それでも日本政府としてはヌスタジスク帝国を国家としては承認していない。また、現在のイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、ジャマイカ、ナイジェリアの臨時政府内の対立に関しては、日本政府としては相手国の国内問題であるとして干渉しない事を明言している。しかし、日本政府の立場としては、侵略行為は容認できない為、侵略行為を批判する臨時政府側を支援しているとされる。
また、日本政府はこの一件がきっかけで、国内の他国でも同様の動きが発生する可能性を危惧し、この問題の根幹が国内の外国人難民の待遇が最大の原因であると考え、自治区の将来的な成立を含めた外国人難民への支援策のさらなる拡充政策を進める大きなきっかけになった。その他としては、警察庁は英連邦文化保存協会が日本の法人であった事から、法人の強制捜査に踏み切り、詐欺罪、横領罪、凶器準備集合罪、凶器準備結集罪、私戦予備罪、私戦陰謀罪等の各種容疑で強制捜査で捜査を受けた。しかし、事件に関っていたと思われる協会の幹部はすでに国外に脱出しており、日本国内に残っていた関係者の多くは事件とは無関係でキッシンジャーらの計画を知らない者達ばかりだった。また、これがきっかけで、英連邦文化保存協会は法人としての資格を剥奪された。
一方で英連邦文化保存協会と関係の深いエスタクルス王国は、日本と同様にこの事件に衝撃を受けたが、ヌスタジスク帝国側から今後も変わらない友好関係を求められ、王国政府としては武器の密造を行っていた狩猟品製造工場の閉鎖を要求したのみで、それ以降も英連邦文化保存協会が国内に残された。また、日本で法人としての権利を失った事から、以降、現地の英連邦文化保存協会関係の施設や財産は全てヌスタジスク帝国が新たに設立した英連邦文化保存協会に引き継がれた。
なお、キッシンジャーの特使が発表した移住の受け入れに関しては都市建設( シティ・オブ・ロンディニウム )が完了した2043年中には、総勢1万6千人規模の英連邦市民が日本から移住した。その内訳は約半数がイギリス国籍者で、残りの約半数が他の英連邦加盟国の国籍者だった。
・クーデター未遂事件
2044年9月3日午前11時39分、総督府において、キッシンジャーの側近の一人だったチャールズ・リッパー上級軍曹を中心とした8名のグレナディアーズ連隊隊員と、17名の民間人が連隊の武器を不正に持ち出して、クーデター未遂事件を企てる事件が発生した。クーデター派の目的はキッシンジャーやその周辺が進めたシティ・オブ・ロンディニウム内における住民の民政選挙政実施への反発で、クーデター派はグレナディアーズ連隊がこれまで通りの軍政を続ける事を主張した。
この事件の際キッシンジャーは公務の為に総督府を訪れていた。クーデター派はトラックで総督府の裏手から内部に侵入すると、キッシンジャーの殺害と、総督府の占拠を画策した。
この事件が起きた時、キッシンジャーは執務室で公務を行っていた。11時40分、執務室にチャールズ・リッパー上級軍曹が訪れ、平然を装って部下3名とキッシンジャーに面会した。キッシンジャーは一旦、公務を止め、3名と席から立って話した。3名はキッシンジャーに対して自分たちの主張を主張したが、キッシンジャーは軍政を否定。民主政治の必要性を訴えた。
互いの主張が合わない事が分かるとキッシンジャーは執務室内の本棚の方を向いて、3名に背を向けて帰るように言った。その瞬間、自分たちの意見をキッシンジャーは受け入れないという事を悟ると3名は拳銃を取り出しキッシンジャーの殺害を試みた。しかし、キッシンジャーはこの時、チャールズ・リッパー上級軍曹や他2人の普段とは違う様子のおかしさを感じた。本棚に置いてあった銀の盾に3人が自分に拳銃を向けている姿が反射してキッシンジャーの目に映った。
キッシンジャーはそれに気づくと咄嗟に、執務机に身を屈めた。それとほぼ同時に、3人は発砲。キッシンジャーは凶弾を間一髪で避けた。そして執務机に一旦隠れたキッシンジャーは護身用に机の裏に備え付けていた拳銃を手に取ると、机から飛び出し反撃。3人を射殺した。
射殺後、総督府内で他にも銃声がしている事に気がついたキッシンジャーはこれがクーデターである事を悟った。キッシンジャーは拳銃を持ったまま、執務室を出るとすぐに向かったのが、妻のアイモネ・ディ・カノンの自室だった。アイモネの自室にキッシンジャーが途中2人のクーデター派に遭遇して銃殺して向かうと、丁度、アイモネの自室にクーデター派4名が警備の兵2人と執事を殺害して押し入り殺害しようとしている所だった。キッシンジャーは室内に突入するとクーデター派4名と銃撃戦となりこれに勝利。アイモネを殺害しようとしていたクーデター派を殺害した。キッシンジャーはアイモネ救い出したが、異変に気づいた他のクーデター派の応援5名がやってきた。このクーデター派とキッシンジャーは交戦。この途中、キッシンジャーは左肩を負傷するも応援5名が民間人からのクーデター参加者であった事もあり、殺害し撃退する事ができた。
キッシンジャーはアイモネから負傷した肩をベットシーツで応急手当を受けた。なお、この応急手当はアイモネが自発的に行ったものだとされる。キッシンジャーはアイモネに感謝を述べると、アイモネを連れて総督府からの脱出を試みた。
途中、キッシンジャーとアイモネに気づいたクーデター派から追撃を受けたが、2人は総督府からの脱出に無事成功。キッシンジャーは外にいた警備部隊に保護され、クーデター派の目論見は失敗した。その後、応援の要員が到着すると、クーデターは鎮圧された。
この一連の事件で総督府を警備していたグレナディアーズ連隊の隊員6名、職員18名が殺害された。この事件はヌスタジスク帝国に住む英連邦市民達にとって、非常に大きな衝撃を与えた。市民だけでなく、グレナディアーズ連隊の隊員達らも自分たちの仲間からクーデターに与する者が現れた事に大きく動揺した。シティ・オブ・ロンディニウムでは戒厳令が敷かれ、全市民の外出が禁止された。また、グレナディアーズ連隊の駐屯基地内でも全隊員に、必要の無い外出を全面禁止する処置がされた。事件の後、キッシンジャーは負傷した左肩の緊急手術の後に、その日の内に事態を終息させる為に緊急の記者会見を実施した。記者会見でキッシンジャーはクーデター派を軍事政権主義者と批判し、断固としてシティ・オブ・ロンディニウム行政の民主化を進めると訴えた。また、今回のクーデターの全容を糾明するとし、軍民共同の臨時特別捜査班の設立を指示した。軍民共同としたのは、この時点ではまだ、軍以外には成熟した捜査が行える政府機関が存在しなかった為である。市民の信用を担保し安心させる為に軍と民間との共同捜査という形がとられた。
このキッシンジャーの対応は概ね成功を収め、混乱は記者会見後、翌日には収まりを見せた。その後、1ヶ月間の捜査によって、クーデターに関与した人物は全員が総督府で事件を起こした人物であった事が判明し、この判明をもって捜査は終結。総督府はクーデター派の行動は小規模グループによる突発的な組織的犯行であると結論付け、事態の終結を宣言した。
・エステルヴァス公国によるヌスタジスク帝国侵攻
2045年11月10日、ヌスタジスク帝国の隣国、エステルヴァス公国の国家元首ビスター公爵が帝国の併合と領土拡大をもくろみ、ヌスタジスク帝国に対して自身の公爵軍3万5千、エステルヴァス公国の各諸侯連合軍4万6千、総勢8万1千を動員し、国境に隣接するメジニス藩王国、旧リンスブ・コマンドール領(現総督府直轄地リンスブ)に国境を越境して侵攻した。エステルヴァス公国軍は国境を突破すると、一切の防御処置がされていなかった総督府直轄地リンスブの奥深くにまで進軍。メジニス藩王国に関しては防御部隊自体は藩王国軍が存在した為、すぐに防衛行動を開始したが、帝国の成立後、国境地帯に位置している藩王国であった事から他の藩王国の軍事力よりも、優遇されていたが、かつての伯国時代に比べればその軍事力は大幅に弱体化されており、この侵攻時点では、藩王国軍の兵力は正規騎士が僅か1千3百人程度、民兵を含めて5千人未満だった。膨大なエステルヴァス公国軍を抑えられる筈がなく、すぐに、メジニス藩王国軍は藩王国首都べスタル近郊のグズラシアン要塞に防衛線を縮小した。メジニス藩王国の藩王ダリーム・クロイ・カイム3世は、会戦後すぐに、総督府にこの事態を通報し、援軍を要請した。
なお、ビスター公爵がヌスタジスク帝国への侵攻を決めた背景は、後に行われた調査で明らかになっており、当時、ビスター公爵はヌスタジスク伯国を倒したキッシンジャーらグレナディアーズ連隊を魔術師の集団。新手の海賊であると考えており、卑怯な魔術を使かわれた程度で敗北し、国を乗っ取られたヌスタジスク伯国を軽蔑していた。どれほどビスター公爵がヌスタジスク伯国を軽蔑したかと言えば、伯国敗戦の知らせ後すぐに公国内のヌスタジスク伯国人に対して公国人との結婚をすべて禁止し伯国人の全資産を没収し、例外なく奴隷にした程である。さらに伯国人と公国人の子供はすべて殺せという指示まで出し公国内で殺害された伯国人と公国人のハーフの子供や、疑われて殺害された子供の数は1万人にまで達したとされる。ビスター公爵の主張は、伯国人と公国人の血が混ざる事によって、弱虫が偉大なる公国人に移ると本気で考えていた。だが、それと同時に、大陸の外からやってきた余所者に神聖な大陸を穢されたとして怒り、真の栄光ある騎士の国である自分達ならば必ずや卑怯な魔術を使われようとも勝てると考えていたとされる。そして、勝利した暁には大陸中に自身こそが正統な大陸の守護者であると宣言を出すつもりであった。
・帝国軍の対応
メジニス藩王国からの通報を受けて、キッシンジャーは総督として非常事態宣言を宣言。全帝国軍、藩王国軍に出動を命じた。キシンジャーも連隊指揮官として出撃。12日までにグレナディアーズ連隊3500名、藩王国軍騎士2万の兵力がエステルヴァス公国との国境地帯に集結した。
13日、エステルヴァス公国軍とヌスタジスク帝国軍( グレナディアーズ連隊 )はグズラシアン要塞にて初めて会敵した。グズラシアン要塞に篭城するメジニス藩王国軍を救援する形で到着したヌスタジスク帝国軍は、キッシンジャーの指揮によりすぐに敵の掃討の為の行動を実施した。11時13分、ヌスタジスク伯国侵攻の際にその威力を示した現代兵器と戦列歩兵陣による陣形をとり、要塞を包囲するエステルヴァス公国軍の各諸侯連合軍2万6千の兵力に攻撃を開始し、これを帝国軍側に一切の損害を出さすに撃退する事に成功した。
しかし、16日までに、戦線は広く、広範囲に渡って侵攻を受けていた事から、一つの戦場で圧倒的な勝利を示しても、他の戦線では敵に戦線が突破されるという事が相次いだ。この事態を打開する為に、キッシンジャーは連隊から80名の中隊規模の戦力を割き、また、総督府直轄の警察組織であるエクセデリカ警視庁から200名規模の警官隊を補給部隊として、メジニス藩王国軍も約半数の兵力に当たる550名の騎士を組み込み臨時大隊を編成した。なお、エクセデリカ警視庁にとって治安維持業務以外この作戦投入の決定は組織発足後、初めての経験であった。
キシンジャーはこの臨時大隊に編入される連隊の部隊に対して、エスタクルス王国から英連邦文化保存協会所有の設備の移転としてヌスタジスク帝国に持ち込んだホウルトラック、CAT785C石炭動力バージョンY‐2を改造しヴィッカース重機関銃7基と簡易装甲を装備したガントラック5台を配備させ、総督府直轄地リンスブでの機動防衛任務に当たらせた。
総督府直轄地リンスブにおいて、エステルヴァス公国軍は、16日までにほぼ無抵抗で旧リンスブ・コマンドール領の首都スバールを支配し、総督府直轄地リンスブの過半の地域を占領した。各藩王国軍が撃退の為に駆けつけたが、圧倒的な兵力と武芸に長けたエステルヴァス公国軍に対しては防戦が一方であり、じわりじわりと、防衛線は後退している状況だった。
しかし、キッシンジャーによって部隊が編成されると状況は大きく変わった。臨時大隊が作戦に投入されたのは17日、スベリオン平原の戦いにおいてである。この時、スベリオン平原の戦い前の戦いで藩王国軍は前線が崩壊し、スベリオン平原に退避している状況だった。臨時大隊は平原において、ガントラックを150m間隔で配置。その車列の後方を警官隊とメジニス藩王国軍、他の藩王国軍が守護した。昼過ぎ、スベリオン平原にエステルヴァス公国の公爵軍3万2千の兵力が到達。これまでの優勢な姿勢を維持し高い士気のまま突撃をしかけた。このに合わせる様に臨時大隊、各藩王国軍の全軍がゆっくりと前進した。
エステルヴァス公国の公爵軍は開戦前、当初、このガントラックを単なる攻城兵器だと考えていた。兵力が不足した帝国軍が、攻城兵器に人を乗せそれを移動式の簡易砦として運用し、損害を最小限に抑えようとした奇策または愚作だと考えた。その為、圧倒的な兵力を誇る公爵軍はこれを圧倒的な兵力を持って粉砕する動きに出た。
しかし、その後、公約軍は予想外の事態に見舞われた。ガントラックに近づいた兵士は次々とヴィッカース機関銃の弾幕によって薙ぎ払われ、それでも何とか、ガントラックを包囲しようとしても、ガントラック側面や後方に設置された機関銃によって薙ぎ払われた。ガントラックを無視して後方の部隊を攻撃しようという試みもされたが、ガントラックの攻撃を抜けて後方部隊に接触しても、その頃にはガントラックの間を抜ける間に藩王国軍に対して公爵軍部隊の兵力は多勢に無勢となっており、そこでも打ち払われた。先に現代兵器の先例を受けた諸侯軍とは違って、公爵軍にとっては、この戦いが初めての現代兵器との戦いであり、公爵軍は戦闘開始後1時間足らずで恐慌状態に陥った。だが、公爵軍を指揮していたビスター公爵は、事態を打開する為に投石器による攻撃を実施した。しかし、この試みもガントラックに搭載されていた60mm迫撃砲によって阻止され、これが決定的となり、公爵軍は敗走。これに合わせる様にガントラックと藩王国軍の騎兵隊による追撃が行われ、公爵軍は、この戦争が始まって以来、初めてにして、その後も公爵軍の戦歴では例を見ない最大規模の大損害を受け敗退した。この時の両者の被害はヌスタジスク帝国側(※藩王国を含む)が、死者24名、負傷者76名(連隊からの死者は0。負傷者はガントラックの搭乗員1名で、機関銃の装填作業中に誤って、腰に携行していた拳銃で自分の右足の甲を撃ち抜いてしまったジェフリー・ジェファーソン上等兵のみ)であったのに対し、エステルヴァス公国側は死者1万8千人負傷者多数という大損害だった。この損害を受けて、公爵軍は旧リンスブ・コマンドール領首都スバールに退避する事となった。
しかしエステルヴァス公国軍はその後も侵攻を諦める事はなく公爵軍、諸侯連合軍共に28日までに断続的に総攻撃をしかけた。これに対してキッシンジャーは万全の状態で防戦に徹する事で、敵軍に対して出血消耗を図る出血戦術を実施し、28日にはエステルヴァス公国軍の戦力は開戦時の戦力が総勢8万1千であったのに対して、僅か4万2千にまで減少していた。
12月3日、キッシンジャーは1週間にも渡ってエステルヴァス公国軍が一切の総攻撃を停止すると、敵の占領下にある地域の奪還作戦を指示した。奪還部隊は、メジニス藩王国方面を帝国軍と、メジニス藩王国が務め、総督府直轄地リンスブ方面は臨時大隊と各藩王国軍に任された。
奪還作戦は4日の朝7時に全戦線で同時で開始。帝国としてはエステルヴァス公国軍に対して初めて攻勢にうって出た。その後の戦況の推移としてはエステルヴァス公国軍が帝国に対してできた行動は殆ど少なく、帝国の反撃開始からちょうど1週間の時点で、エステルヴァス公国軍は全軍の撤退を決定。13日には全軍が帝国領内から自国領内に撤退した。エステルヴァス公国軍はこの攻勢期間中も甚大な被害を受け、残存兵力は僅か1万9千程度となっていた。内訳としては公爵軍が1万1千人、諸侯連合軍が8千である。公爵軍は12月3日より前の断続的な総攻撃の際や、帝国側の攻勢時期でも比較的、自軍の被害を抑える事に成功し善戦したが、それでも被害は甚大であった。
なお、エステルヴァス公国軍の内、公爵軍はガントラックを配備した臨時大隊の事を奇奏軍団と呼び恐れた。臨時大隊のガントラックは搭載されたスピーカーで、戦意高揚や敵への威圧を目的に通常の連隊での戦列歩兵陣での戦闘でも行われた音楽を流す行為を行っていた。臨時大隊は行進曲ブリティッシュ・グレナディアーズ、行進曲勇敢なるスコットランド等、ヌスタジスク伯国侵攻以来、連隊の定番のソングとなっていた行進曲の他にも、臨時大隊長の命令によって臨時大隊の隊員の士気向上の為の計らいで、戦闘中に流して欲しい曲を臨時大隊に編入された連隊員の中で募集し、戦闘中リクエストのあった曲を行進曲、一般歌問わず流し兵士の士気向上に貢献した。臨時大隊にとって初戦であったスベリオン平原の戦いにおいて、臨時大隊の中では実質主力の戦力がたった5台のガントラックのみで敵に勝てるのかという不安や、臨時大隊に組み込まれている友軍の警官隊や藩王国軍についても信頼できるのかといった不安が部隊に蔓延していたとされる。この戦闘でリクエスト曲による士気向上が図られた事から、その後の戦いでも臨時大隊は隊員がリクエストした曲を多く流した。流された曲の中には有名なロックバンドの曲や、有名歌手の曲もあれば、ドラマのテーマソングや、日本のアニメソング、部隊交流の為に同じ臨時大隊の警官隊やメジニス藩王国軍の騎士と共に作曲合唱した曲も流されたという。原則、臨時大隊ではリクエストされた曲はすべて流した。この様が公爵軍側の兵士から見れば、聞いた事もない音楽を鳴らしながら、未知の攻撃を仕掛けてくるガントラックは恐怖の象徴であった。
一方でかつて連隊側と戦った経験があり、今回は味方である帝国側の藩王国軍の兵士らの心境は大変複雑であったとされる。メジニス藩王国の藩王ダリーム・クロイ・カイム3世は戦後、この様に書き残している。「かつてあの曲に恐怖した。あの曲が聞こえれば、どんなに鍛えられた屈強な騎士であっても、誰もが恐怖し身が震えた。逃げ出す者もいた。それが今では戦場であの曲が聞こえれば兵士らは皆、歓喜する。あの曲が聞こえれば、どんなに不利な状況でも負ける気はしなくなる。まさに不敗を知らぬ神の軍隊。不敗を知らぬ神の音楽だ。だが、戦が終われば皆、思う。我らの味方は一体、我らにとって如何なる存在なのかと」。
12月14日、13日にエステルヴァス公国軍が引き揚げた事を受けて、キシンジャーは軍関係者や総督府高官を集めて緊急の会議を開き、この場で、全帝国市民の安全を守るには侵攻をしかけようと考える勢力には力を見せつけ、以後、その様に考える勢力が二度と現れない様にしなければならないと自身の意見を述べた。この意見に会議の列席者は賛同し全会一致を得た。18日、臨時大隊を解散しグレナディアーズ連隊に再び合流させたヌスタジスク帝国軍は、総督府からの信用の高かったメジニス藩王国軍、サジタリウス藩王国軍の一部、デリム藩王国軍の一部を補給部隊として起用し、エステルヴァス公国の首都アクアマリンに向けて国境を越え進軍した。
エステルヴァス公国領内への侵攻は、順調に進んだ。エステルヴァス公国軍は民兵を徴兵し急造の兵力を作り4万程度にまで兵力を増やした。しかし、クラブルンプールの戦い(又は城郭都市の戦いとも言う)、デカール山脈の戦いと、キッシンジャーの指揮する帝国軍は順調に戦勝を重ねた。2046年1月6日までに、帝国軍はエステルヴァス公国軍を首都アクアマリンの手前に当たるアクアヌリア要塞にまで追い詰めた。そして、8日から12日までの攻略作戦によってこれを完全に無力化。要塞攻略戦の最後には砦に連隊旗が翻った。アクアヌリア要塞攻略後の17日には、帝国軍は首都アクアマリン攻略の為の侵攻を開始した。
しかし、この時、キッシンジャーら帝国軍の元に後方部隊より緊急の急報がもたらされた。シルクジョニーの大反乱の発生である。
この反乱によって、キッシンジャーは大きな選択を迫られた。それは反乱鎮圧の為に軍を帝国領内に転進させるか、このまま攻略を継続するかである。この時、帝国本土には、キッシンジャーらが信頼を完全における軍事訓練を受けた部隊、つまりは英連邦市民で構成され、適切な軍事訓練を受けた部隊が存在しておらず、最悪の場合、シティ・オブ・ロンディニウムに住む1万6千人の英連邦市民の生命と財産が脅かされる状況だった。
キッシンジャーはこの時の決断で、アクアマリンの攻略を実施する事に決めた。
この決断の背景には、救援対象地域と、キッシンジャーら帝国軍が居る地域の距離の問題がった。この時、キッシンジャーら帝国軍がいる地点から、救援対象のシティ・オブ・ロンディニウムまでの陸路は最速でも半月はかかる距離であった。これでは陸路で戻っても手遅れになる可能性があった。
そこで、キッシンジャーは、眼前のアクアマリンを先に攻略しエステルヴァス公国に降伏文書に調印させ、そのままの足で、アクアマリンから最短距離にあるエステルヴァス公国の港に向かい、そこから、エクセデリカより回遊させた輸送船2隻に乗り込み海路でエクセデリカに直接向かう事で、半月のスケジュールを半分程度に縮める方針をとったのである。しかし、これにはアクアマリンの早期攻略が必須条件であり、万が一、攻略にかける時間が長くなれば、それだけ英連邦市民が犠牲になる可能性が高くなるものだった。アクアマリンを攻略をしないという選択肢もあったが、この場合、これまでの戦いでのエステルヴァス公国軍の帝国軍に対する周到な攻撃から、港に向かっている途中や、反乱の対処を行っている時に軍を再編し再び帝国領内にエステルヴァス公国軍が侵攻してくる事態が考えられた。
この決断を受けてキッシンジャーが指揮する帝国軍は、アクアマリンの攻略を引き続き継続。18日、アクアマリンに対して総攻撃を開始した。朝8時、120mm迫撃砲による城への砲撃と105mm榴弾砲による街を覆う城壁への砲撃が開始。砲撃は10時まで断続的に続き、城壁の破壊後は、105mm榴弾砲による城への砲撃も行われた。これらの一連の砲撃によって城の東南区画が完全に崩壊。城に篭城する公国軍は甚大な被害を受けた。さらに、崩れた城から慌てて脱出した公国軍の兵士に対しても迫撃砲や榴弾砲による砲撃が加えられた。
城へのダメージと城壁の破壊が完了した事を受けて、10時9分、帝国軍はアクアマリン市内への進軍を開始。一方で、城が崩壊した事に混乱するエステルヴァス公国軍は殆ど抵抗できぬままに進軍を許した。
そして、帝国軍は城から200m圏内の距離にまで迫るとエステルヴァス公国軍に対して10分以内に降伏する様に要請した。これに公国側が答えずにいると、120mm迫撃砲、105mm榴弾砲に加えて、60mm迫撃砲による城への砲撃も加えられた。
11時8分、ビスター公爵は降伏を決断。降伏特使の派遣と、公爵の位を弟のビウマニル4世に引継ぎ、敗北の責任をとって自決する事を決めた。11時23分、特使がキッシンジャーの下へと訪れ降伏を宣言。これによってすべての攻撃行動は停止された。同日中には降伏文書が作成され、13時には降伏文書の調印式が簡易で行われた(アクアマリン条約)。なお、この降伏文書案は事前にキッシンジャーが作成していたとされ、全ての案が降伏文書の内容に反映されたとされる。この降伏文書にはエステルヴァス公国に対して以下のような条文が採用された。
一つ、エステルヴァス公国はヌスタジスク帝国の国家としての全面的な正当性を認める。
二つ、エステルヴァス公国はヌスタジスク帝国に対して、3億ベール(日本円にして約30兆円。エステルヴァス公国の国家予算の約300倍に当たる)の賠償金を支払う。ただし、両国政府の合意があれば、賠償金の支払いを一時停止できる。
三つ、エステルヴァス公国は直ちに、ヌスタジスク帝国市民や旧ヌスタジスク伯国系住民への虐殺・虐待行為を中止し、奴隷として強制労働に酷使させている当該市民と住民を速やかに解放し正当な権利を回復させる。
四つ、エステルヴァス公国はヌスタジスク帝国市民に対し各市場・開港場において自由な通商に従事できる事を認める。また、ヌスタジスク帝国に最恵国待遇を認める。
五つ、エステルヴァス公国は戦争によって破壊されたヌスタジスク帝国の市民インフラの復興の為に労働人員をヌスタジスク帝国の戦火に見舞われた地域に派遣する。
六つ、ヌスタジスク帝国は2ヶ月以内に帝国軍と藩王国軍をエステルヴァス公国領より引き揚げる。
七つ、エステルヴァス公国は現公爵の妻及び子供、また公爵家との血縁がある3親等分までの全家の家督継承者以外の全家族をヌスタジスク帝国の首都エクセデリカにおいて、ヌスタジスク帝国総督府が定める指定の住居にて条約批准日から5年間は居住しなければならない。
八つ、労働人員の派遣と賠償金の支払いのどちらか、いずれかでも不備があれば、宣戦布告とみなす。
九つ、条約批准の日から戦闘を停止する。
十つ、条約はヌスタジスク帝国総督およびエステルヴァス公国公爵が批准し、西暦2046年1月18日、ガリウス暦太陽の月(※ヌカリオス大陸で使用されるガリウス暦には年や日という概念が無く12( 1年分 )×100( 100年分 )の月しかない)に発効される。
また、降伏文書の調印と共にエステルヴァス公国はヌスタジスク帝国が提示した軍事保護条約にも調印。この条約によって決められた内容は、エステルヴァス公国は、軍事権と外交権を年間、0.02億ベールの金額でヌスタジスク帝国に委託するというものであり、さらに条文にはこの0.02億べナールの費用は賠償金と連携し相殺を可能とするとされた。これによってエステルヴァス公国は事実上、ヌスタジスク帝国の属国となった。
この条約の調印後、キッシンジャーはすぐに、1番近い港への移動の準備を帝国軍と藩王国軍の全軍に伝えた。そして翌日の9日、キッシンジャーはサジタリウス藩王国軍とデリム藩王国軍からの派遣部隊に対して公爵家の家族を連れて陸路での帰国を命令。一方で、帝国軍とメジニス藩王国軍は港への移動を開始。通信で、海軍に対して自身達の港への到着予定日を伝え、到着予定日に船が到着する様にと指示をだした。
・シルクジョニーの大反乱
2046年1月17日、ヌスタジスク帝国領ジャン=クライミル藩王国において、藩王シルクジョニーは、キッシンジャー率いる帝国軍がエステルヴァス公国への反撃の為に、公国領の奥深くにまで進軍した所を見計らった。英連邦市民による支配に不満を募らせていたシルクジョニーは帝国の打倒とヌスタジスク伯国の解放を主張して自身の藩王国軍を武装蜂起させ、さらに同じく帝国の統治に不満を持つ多くの人々を民兵として起用。民衆は農具等、身近にある物を手にとって立ち上がった。そしてここにシルクジョニーの大反乱が勃発した。
シルクジョニーに率いられた反乱軍はジャン=クライミル藩王国領を出て総督府直轄地域への進軍を開始した。この動きに、周辺のリルダーマ藩王国、ジェスター藩王国、さらには総督府直轄地の帝国に対して不満を持つ住民や元騎士も蜂起。反乱軍の規模は19日までに凡そ推計で15万人以上に達したと推測される。反乱軍は一同、エクセデリカを目指した。
この事態に総督と帝国軍不在の総督府は大混乱に陥った。シティ・オブ・ロンディムニウムでは、反乱鎮圧の目処はあるのか。万が一ここまで反乱軍が来た時はどうすのか等多くの市民が抗議の声を上げた。副総督のオットー・ビルバードはすぐに、通信で遠征中のキッシンジャーと協議。協議の結果、総督府はエクセデリカ警視庁の全警察官を動員し反乱軍の鎮圧に集中する事。協力的は藩王国軍に鎮圧の要請をする事。また、シティ・オブ・ロンディムニウムの住民から有志の民兵を募集し防衛隊を編成する事。グレナディアーズ連隊倉庫にある装備で防衛隊に武装させる事。万が一の時には輸送船で全住民を沖合いに脱出させる事を決定。総督府はこれらの方針に沿って事態に対処した。
方針の決定後、すぐにエクセデリカ警視庁は3万人の全警察官に対してマスケット銃の携行を許可。また230名規模の警官隊を複数設立し、大砲の配備も許可された。エクセデリカ警視庁は警官隊の大半を、エクセデリカと反乱発生地の手前にあるカステーラの街に集結。やってくる反乱軍を迎え撃つ方針をとった。
20日、反乱軍がカステーラに到達。これに対して総勢3万の警官隊は応戦し、ここにカステーラの戦いが始まった。
しかし、22日、数で勝る反乱軍は凡そ半数の規模をカステーラを迂回させ、エクセデリカに対して直接の攻撃を行った。これは事実上の奇襲攻撃であり、突如、現れた反乱軍に総督府は混乱。シティ・オブ・ロンディムニウムの住民とエクセデリカの住民は恐慌状態に陥った。志願者で構成された防衛隊がすぐに緊急配備され、エクセデリカ市内への出入り口を封鎖した。
反乱軍はエクセデリカを完全に包囲(エクセデリカ大包囲)。包囲完了後の9時には大規模な一斉攻撃を開始した。防衛隊は半自動小銃、機関銃、迫撃砲、手榴弾等を用いて戦ったが、防衛隊の規模は僅か3千名程であり、さらにまともな訓練も完了していない者が多かった事から統制が取れず、その結果、18時までに戦いは、シティ・オブ・ロンディムニウムは死守できていたものの、反乱軍のエクセデリカ市内への侵入を許し市街地戦へと突入。防衛隊、シティ・オブ・ロンディムニウムの住民、エクセデリカの住民は道路に築いたバリケードや、建物からの銃撃等を使った激しい戦闘に至った。
23日、防衛隊はなんとか、シティ・オブ・ロンディムニウム全域とエクセデリカ市街地の半分を死守した。しかし、一連の激しい戦いにより、防衛隊は203人の戦死者を出し、負傷者も100人を越えていた。また、エクセデリカの一般住民の死傷者も避難が遅れた等で100人を超える被害を出した。反乱軍の損害も大きかったが、反乱軍は行動を止める事なく、激しい市街地戦を展開し続けた。
この激しい戦いにより総督府は、このままでは2日以内に反乱軍が防衛線を突破しシティ・オブ・ロンディムニウムに反乱軍が雪崩れ込むと強い危機感を示した。また、激しい戦闘によってあくまで、民間人からの志願者で構成される防衛隊は、疲労が蔓延し士気も大幅に下がった。戦況の悪化の可能性が高い事から、総督府は最悪の事態が近いとして、港の軍の輸送船や貿易船に対し、いつでも出港できる用意をする様に命じた。
一方で反乱軍側は市街地戦で大きな犠牲者を出してはいたが、徐々に帝国側の防衛線が後退していく状況に、士気は高揚し、反乱軍の参加者たちは口々に帝国打倒とヌスタジスク伯国の解放を高らかに声を上げた。それらの声は防衛軍の士気を大きく下げる要因にもなったとされる。戦いは夜通し続いた。
24日未明には総督府は反乱軍の勝利がほぼ確定的となったと結論づけた。朝になり次第、随時避難を進めて行く事を決定する。
しかし、朝5時32分、突如、エクセデリカを包囲する反乱軍の後方部隊に複数の砲弾が撃ち込まれた。突然の事態に反乱軍は混乱。すぐに後方を確認すると、そこにはエクセデリカ警視庁の2万6千人の警官隊とサジタリウス藩王国軍、デリム藩王国軍を合わせた総勢3万2千の兵力がやってきていた。警官隊を中心とした部隊はエクセデリカを包囲する反乱軍に対して包囲を崩す為に攻撃をしかけた。
この予想外の援軍の光景にシティ・オブ・ロンディムニウムとエクセデリカの住民は喜びの歓声を上げたという。一方で総督府はこの援軍に衝撃を受けていたとされ、エクセデリカ警視庁は治安機関ではあるものの、その構成人員の殆どは現地人である事から、それまで、総督府は警察官に信頼をもっていなかった。むしろ反乱に加わる可能性すら高いとされた。その為、その警官隊が救援に訪れた事は総督府にとって衝撃的な事だった。
その後、反乱軍の包囲は崩壊。反乱軍の部隊はエクセデリカ近郊からの一時退却を試みたが、警官隊は非常に高い士気で戦いに臨んでおり、追撃を受け、その後、事実上壊滅し、この反乱の首謀者であったシルクジョニーも警察官によって逮捕拘束された。
エクセデリカでの戦闘の終息後、総督府は警官隊全体の指揮官ジョン・ホキンスを呼び出し状況の説明を求めた。ジョン・ホキンスによれば、最初のカステーラの戦いで勝利を収めてから、その後、協力的な藩王国であるサジタリウス藩王国軍とデリム藩王国軍の援軍と合流してエクセデリカへの援軍に来たと経緯を述べた。また、ジョン・ホキンスは警察官について、我々に対し非常に高い忠誠心と士気があると称した。
これは後にキッシンジャーが命じた調査によって明らかとなるが、この警察官らの総督府に対する高い忠誠心と士気は、彼らのこれまでの境遇によるものが大きかった。エクセデリカ警視庁の警察官は、皆、その出身者はヌスタジスク伯国時代に農奴、奴隷、幼少奴隷として強制労働や暴力、虐待、差別を受けていた人々であり、聞き取り調査によってほぼ全ての警察官が、帝国の統治を歓迎し、さらに、伯国時代に自分たちが奴隷として酷使され差別を受けていた事から、反乱軍がもしも反乱に成功すれば、再び自分や家族も奴隷にされてしまうという強い危機感があったという。その為、警察官らは彼ら彼女らにとっての解放者であるキッシンジャーやグレナディアーズ連隊、英連邦市民に対して非常に高い忠誠心と士気を持って戦いに望んでいた。
その後、26日にはキッシンジャーら帝国軍が輸送船でエクセデリカに到着するが、その頃には警察官と協力的な藩王国軍によって地方を含めて大反乱は殆ど終息に向かっていた。
到着したキッシンジャーは、首都を守った防衛隊やシティ・オブ・ロンディニウム、エクセデリカ双方の市民を激励すると、その足でエクセデリカの周辺を警備していた警官隊の元に向かい現場の警察官らに対して感謝を述べた。その後、反乱が完全に終息した2月20日、キッシンジャーは全警察官に対して感謝と激励をする式典を開いた。
キッシンジャーは後に、この時の警察官の活躍について、もしも彼ら彼女らが居なければ、この街は無かっただろうと、英連邦帝国放送協会(CEBC)の取材で振り返っており、今回、一番の活躍を示した警察官らのには必ず恩を返すと語っている。
また、キッシンジャーはエステルヴァス公国との戦争、シルクジョニーの大反乱と、二つの事態の終息に全面協力した3つの藩王国、メジニス藩王国、サジタリウス藩王国、デリム藩王国について高い評価を示し、3つの藩王国に対して、反乱に関与して廃止されたジャン=クライミル藩王国、リルダーマ藩王国、ジェスター藩王国の領地を分割して分け与えた。
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政策
・大英帝国再興方針
キッシンジャーはヌスタジスク帝国の成立後、大英帝国再興方針という方針を発表した。大英帝国再興方針とは、エリザベス女王の名の下に、かつての大英帝国の様な偉大な新国家を建設するという目標の方針であり、1つに、文化と歴史の継続と保存。2つに、英連邦全市民の完全雇用の実現。3つに、社会保障体制充実の実現。4つに、国家滅亡を避ける為に、英連邦国民の人口の増加政策の促進。5つに、自主自立した安定社会の実現。6つに、自己防衛可能な強軍の所持。という6つの国家方針から成り立つ。
・領土拡張政策
エステルヴァス公国によるヌスタジスク帝国侵攻以降、キッシンジャーは総督の立場としてヌカリオス大陸の統一目標を安全保障上の脅威として掲げており、ヌスタジスク帝国以外に存在している3つの国の内、侵攻事件後に事実上の属国とされたエステルヴァス公国以外のミステミス伯国、ジュノヴァン王国と対立している。
・シティ・オブ・ロンディニウムの建設
キッシンジャーがヌスタジスク帝国の成立後すぐに、建設の指揮をしたのがシティ・オブ・ロンディニウムの建設である。シティ・オブ・ロンディニウムの建設の為に、獲得した捕虜の他、地元住民、各藩王国が建設に大規模動員され、約1年という短い期間で急ピッチに建設され2043年7月に完成した。
シティ・オブ・ロンディニウムとは、港湾都市エクセデリカに隣接する様に建設された英連邦市民向けの外界とは隔絶された居住地であるのと同時にグレナディアーズ連隊の駐屯基地である。934,000平方キロメートル、日本の東京ディズニーランドの約2倍の総面積を有する。施設と外部との境には有刺鉄線と高さ2.5mの煉瓦造りの壁が設置され、壁の前後には10mの空き地と130m間隔で監視塔が設置された。施設内部にはグレナディアーズ連隊の駐屯基地の他、イギリスの伝統的な煉瓦造りのマンション、現代工業地帯、ショッピングモール、学校、保育所、病院、公園、放送局が設置され、さらに、施設内には映画館、プラネタリウム、図書館、ゲームセンター、プール、ゴルフ場、サッカー場、クリケット場、フッドサル場、テニスコート、ラグビー場等の無料の娯楽施設も整備された。これらの施設はグレナディアーズ連隊の隊員への福利厚生や、これから移住してくるであろう人々に向けて建設された。最大収容人数は将来の人口増加を見越して3万人となっている。
また、施設内で使用される電力は施設内に存在する石炭火力発電所と、侵攻の際に兵器類と共に持ち込んだ太陽光発電パネルによって賄われている。照明器具や娯楽用品、工業機械類も、侵攻の前に日本国内で事前に収集された物ばかりである。
建設後、2043年中には、日本から大規模な移住が行われ英連邦市民の内、約1万6千人近くの人々がエスタクルス王国を経由して移住。2049年に行われた人口統計調査では出生率は3.39を記録し人口が年々増加している事が判明している。
シティ・オブ・ロンディニウムの名称は、かつてのイギリス・ロンドンの原型となった古代ローマ帝国の都市ロンディニウムからきている。将来、栄光ある国の首都として発展する事を願って古い都市名から名前を付けられた。
・テレネット政策
キッシンジャーがシティ・オブ・ロンディニウムの建設後にすぐに進めたのがシティ・オブ・ロンディニウム内の放送ネットワークの建設事業である。これをテレネット政策という。キッシンジャーは侵攻前、シティ・オブ・ロンディニウムの計画時に市民の娯楽の重要性を指摘した。日本から遠く離れれば当然の事ながらインターネット回線への接続は絶望的であり、自分を含めてインターネット文化に慣れしたんだ多くの世代で、インターネットロスによるストレスが蓄積するのではないかと指摘した。さらにシティ・オブ・ロンディニウムという閉鎖空間である以上、そうしたストレスの蓄積はコミュニティの崩壊を招く危険性があるのではないかと危惧した。キッシンジャーは整備の重要性を訴え、IT技術者のマイケル・ペンス・ジュニアに放送ネットワークの構築案を依頼。後にこれが会議で全会一致で承認され、実際のシティ・オブ・ロンディニウムの建設の際に実施された。
マイケル・ペンス・ジュニアによって考案、構築されたシティ・オブ・ロンディニウムの放送ネットワークはテレネットと言われ、従来のテレビ放送のシステムとは違い、日本から遠く離れた遠隔地である事を考慮して整備性の高いアナログ出力のコンポーネント映像信号とコンポーネント端子を用いた有線の放送ネットワークが構築された。また、テレネット政策には電話回線も含まれており、PSTN網が構築され、電話サービスを提供する他、低速ではあるもののダイヤルアップ接続による限定的なインターネットサービスも実現させた。
テレビ放送については、テレネットではコンポーネント映像信号とコンポーネント端子を用いた有線の放送ネットワークである為、シティ・オブ・ロンディニウムでテレビを視聴する場合、全ての家庭のテレビはチャンネル変更をする場合、テレビとテレネットを繋ぐコンポーネント端子間に設置されたダイヤル式チャンネルによってチャンネルを変更する必要がある。
このテレネットを運用している組織がキッシンジャーの指示により組織された英連邦帝国放送協会(CEBC)である。キッシンジャーはテレネットの考案者であるマイケル・ペンス・ジュニアをCEOに任命した。CEBCは帝国唯一の放送機関であるのと同時に通信会社にもなっており、CEBCの提供するサービスは主にシティ・オブ・ロンディニウム内のテレビ放送、電話、インターネットの3つの他、シティ・オブ・ロンディニウム外向けの全国民を対象としたラジオ放送を提供している。CEBCの放送番組は主に住民のストレス緩和を目的にジャンルごとに多彩な専門番組を有しており、以下はそのチャンネル一覧である。
・チャンネル1 :ニュース
・チャンネル2 :スポーツ
・チャンネル3 :Eスポーツ
・チャンネル4 :映画
・チャンネル5 :映画
・チャンネル6 :ドキュメンタリー
・チャンネル7 :ドキュメンタリー
・チャンネル8 :ドラマ
・チャンネル9 :音楽
・チャンネル10:コメディ
・チャンネル11:バラエティ
・チャンネル12:カートゥーン
・チャンネル13:ジャパニーズアニメーション
・チャンネル14:リアルタレント
・チャンネル15:バーチャルタレント
・チャンネルAM:市外全国向けラジオ放送
CEBCの放送番組の他国にはない特徴としてチャンネル14とチャンネル15の存在が挙げられる。両チャンネルは外界から隔絶されたシティ・オブ・ロンディニウムにおいて日本における動画サービスに近い役割をしている。両チャンネルではCEBCに所属するタレントによって日本で言うYtuberやVtuberの動画内容に近い放送が行われており、視聴者によるコメントが流れる仕組みや投げ銭の仕組みなどが導入されている。
また、チャンネル1、2、3、14、15で放送された過去の番組はCEBC本社内にある電子アーカイブ図書館で視聴が可能な様に整備されている。
しかし、これら一連の多彩な放送番組について、日本国内の様々な出版社や放送各社などのメディアからは非常に多くの著作権侵害が指摘されている。CEBCで放送されている番組の内、チャンネル2から13までの番組内容は権利者に許可を得ず放送している番組が大多数だからである。こうした度重なる著作権侵害に対して、日本の権利者団体等は日本の裁判所に訴える事態にも発展しており、実際に有罪判決も出ているが、日本国外の事である為、判決の効果が無いのが問題となっている。2048年に、バンダイの関係者がヌスタジスク帝国に渡航し現地の裁判所に著作権侵害でCEBCを訴える裁判をエクセデリカ地方裁判所に起こしたが、著作権に関する法律が制定されていない事を理由に棄却された。
・工業化促進政策
キッシンジャーは侵攻後、英連邦文化保存協会がエスタクルス王国に設置していた幾つかの工作機械や発電機、また、侵攻作戦の際に武器弾薬と共に、事前に戦後の為に準備してあった工作機械をヌスタジスク帝国内に持ち込ませ、英連邦国籍者の就労支援と帝国の工業力促進の為にシティ・オブ・ロンディニウムに小規模ながら現代工業地帯を建設させた。この工業地帯は主にグレナディアーズ連隊が使用する武器、弾薬の製造やエクセデリカ警視庁向けの武器関連部品の製造を行っていると考えられる。
また、ヌスタジスク伯国時代から続いている工業に通じる職人の産業保護、増強の政策として一定数の職人達を王立造兵工廠所属のスミスとして召集し南部の港湾都市エステリカを一大工業都市として一元管理。さらに大規模な製鉄所や加工施設の建設など、工業製品の生産力の向上を目指した。王立造兵工廠ではエクセデリカ警察庁向けの装備の製造から、民政品まで様々な物品が生産されているとされる。
総督府は春の目覚めという呼び名の現地の工業化促進プロジェクトを行っており、2053年までに、王立造兵工廠の技術のみでヌスタジスク帝国領内で国産の蒸気機関車と線路を生産し、開業を2055年目標としたヌカリオス大陸史上初の鉄道建設事業に着手する計画を発表している。
また、もともとヌスタジスク伯国時代から盛んに行われていた鉱物資源の採掘事業を拡大。工業製品の原料の他、銀や金の採掘事業のさらなる強化。また、伯国時代にはアンチ魔法政策で殆ど行われてこなかった魔法鉱石の採掘事業を本格的に開始させた。
・分割統治政策
ヌスタジスク帝国の統治政策において、キッシンジャーはかつてのイギリスがインドで行った植民地政策やドイツやベルギーが行ったルワンダ及びブルンジにける住民をフツとツチに分ける植民地政策を参考にしているとされる。
キッシンジャーはヌスタジスク帝国国内において、侵攻の際に最も最初に協力的な姿勢を示した港湾都市エクセデリカの人々と、その周辺地域に住む住民、そして、全国からランダムで選定した一部の農奴、奴隷、幼小奴隷(成人未満の奴隷で性奴隷の事)を優遇する処置をとり、エクセデリカや周辺に住む人々をイブセム=ルゥ(現地の古い言語で海の民を意味する)。農奴や奴隷や幼小奴隷の出身者はロア=ルゥ(現地の古い言葉で豊富の民を意味する)と呼び、それまで、ヌスタジスク伯国の時代から単一民族国家であったヌスタジスクにおいて意図的に新たに2つの民族集団を作り上げた。総督府は比較的、裕福で識字率の高いイブセム=ルゥ族を優先的に総督府や直轄の行政機関等の職員に起用し、識字率の低いロア=ルゥ族は国内の治安維持を目的としたエクセデリカ警視庁の警察官に、英連邦国籍の出向士官による署在巡査部長・主任巡査部長の指揮下という条件の下、起用された。
なお、このエクセデリカ警視庁の警察官はヌスタジスク帝国において、グレナディアーズ連隊が全軍の割合を占めるイギリス領ヌスタジスク帝国軍(又は、コモンウェルス・ヌスタジスク帝国軍とも呼ぶ)以外では国内で唯一近代武力の所持が認められた役職である。19世紀のスコットランドヤードスタイルに近い、制服やケープやコート、ボビーヘルメット等が採用され、さらに警棒の他、マスケット銃や、3発装填式の拳銃、大砲も配備された(※ただし、平時においてはマスケット銃は5人中1人にしか配備されず、残りは全て厳重に保管庫に保管されている。大砲も有事の時以外では適切な理由が無い限り使用ができない様に厳重な保管がされている)。エクセデリカ警視庁全体の警察官の数は約3万人に達している。
これらの優遇処置によってイブセム=ルゥ族とロア=ルゥ族はヌスタジスク帝国における中間的な支配層へと昇格した。これらの優遇処置は所謂、分割統治論のシステムに沿った統治方法であり、また、総督府は植民地政策に積極的に協力する藩王国、都市、地方に対しても優遇処置を行う事で、国内の分割統治化を年々さらに進めているとされる。これはシルクジョニーの大反乱以降、積極的に推進されている。
・奴隷制度の廃止
ヌスタジスク伯国時代、ヌスタジスクではシルーブと呼ばれる身分制度が存在した。これは大きく分けて、実質の国の王族的立場である貴族(伯爵、子爵)、実質の国の貴族の立場である騎士(コマンドール、ディンティール、シャンベラン、オフィシエ、シュバァリエ、上級騎士、下級騎士)、平民(商人、市民、農民)、奴隷(農奴、奴隷、幼小奴隷(※幼少奴隷とは性的搾取を目的とした0歳から14歳までの奴隷の事。奴隷及び幼少奴隷の身分から生まれた子供は生まれた瞬間から幼少奴隷の身分に落とされ、15歳でようやく奴隷に上がる事ができたが、15歳に無事になれるのは全体の4割程度であり死亡率は約6割に達する)である。ジルーブでは、これら4つの大きな身分のカテゴリーが存在し、ヌスタジスクの住民は生まれた人間は生涯、自分が所属する身分の大きなカテゴリーからは出られなかった。つまり、これは例えば農民として生まれた人間はその生涯において、市民と商人に身分を上げる事はできるが、それよりも上のカテゴリーである騎士にはなれないという事である。ただし、大きなカテゴリーから出て上のカテゴリーに上がる事は無いが、下がる事は幾らでもあった。
イギリス領ヌスタジスク帝国が成立すると、このシルーブについて、総督府は存続の方針を決めた。廃止も議論されたが、現地における社会的混乱や反発が予想された為、行われなかった。しかし、シルクジョニーの大反乱後、これらの方針は大きく変わった。キッシンジャーは事態の終息後、総督府内に特別チームの編成を命じジルーブの大幅な改正を目指し実施した。
この改正が、総督府直轄地における奴隷制度の廃止である。総督府は奴隷カテゴリーである、農奴、奴隷、幼少奴隷について非人道的であるとして、総督府直轄地において全面的な廃止を決定した。解放対象の奴隷の人口は約500万人と言われるヌスタジスクの総人口の内、総督府直轄地の総人口約300万人からこれを構成する約30%の人口に当たる約90万人の奴隷が対象となった。
解放された奴隷は身分を新たにシルーブとは別に設置された解放市民とされ民族的カテゴリーもロア=ルゥ族に編入された。また、これまで、非人道的な扱いを受けたとして、社会保障政策の一環として、解放された奴隷が都市部で就労する際に、総督府直轄地の全ての事業者は解放された奴隷を優先的に雇用しなければならないとする法案も採択された。また、全ての事業者に対して解放市民の週労働時間の上限は時間外労働を含めて平均週48時間としなければならないとする法案も可決された。さらに事業者に対して解放された奴隷に対する賃金は、総督府が定める解放市民の最低賃金を下回ってはならないとする法案や解放市民に対する学校教育の普及も可決された。
しかし、この奴隷制度の廃止について、廃止が行われた総督府直轄地では解放された奴隷からは歓喜の声が上がったものの、シルーブの下でこれまで暮らしていた多くの奴隷よりも上の身分階級の住民からは反発の声が相次いだ。また、これらの反発の中には解放市民について、実質、新たな身分制度であり、解放市民の待遇がこれまでの平民よりも良い事から批判の声が大きかった(労働時間と最低賃金の設定は解放市民以外には適応されていない)。これらの人々はこれまで自分たちよりも低い地位だった奴隷が自分たちよりも優遇されていると感じた。
これらの批判によって一部の地域や都市で奴隷解放に反対する暴動が発生したが、これらの動きはエクセデリカ警視庁や藩王国軍によって全て鎮圧された。
・秩序の民政策
シルクジョニーの大反乱後、キッシンジャーが掲げた政策で、持続可能な国家運営を目指す為に、将来的には現在の帝国軍や英連邦市民に依存した帝国の統治体制から、さらに安定的な統治を図る為に現地住民と強固な協力体制の構築を目指した政策。短期目標、中期目標、長期目標の三段階からなる。
具体的には短期目標は、協力的な現地住民や藩王国等の勢力との関係強化や協力関係の強固化促進。主にイブセム=ルゥ族、ロア=ルゥ族、藩王国との関係を強化し、イブセム=ルゥ族とロア=ルゥ族に関しては、可能な限り英連邦市民と同等な社会的地位に近づける様に優遇する政策を行う。また、学校機関の設置を急ぎ、総督府が作成した民族教育・国家教育・歴史教育を行う。これによってこの二つの民族に伯国人ではなく、帝国市民としての自覚や英国女王への忠誠心を与える。そして、イブセム=ルゥ族には帝国の行政に携わる事への使命感を。ロア=ルゥ族には帝国の治安を守る事への使命感を与え、この二つの民族の働きを持って秩序の民、つまりは帝国の統治を守護する強固な地盤とする。
中期目標は、帝国経済の成長に合わせて、イブセム=ルゥ族、ロア=ルゥ族に対して、英連邦市民との同化政策と生活水準のさらなる向上を段階的に実施し、最終的には英連邦市民と同等の物とする。さらにその他の現地住民に対しても義務教育を段階的に開始する。イブセム=ルゥ族、ロア=ルゥ族の同化政策と生活水準の向上が完了しだい、二つの民族には参政権を与える。
長期目標は帝国全体で、同化政策を実施。全土での各種生活環境の改善を目指す。そして、最終的には参政権を与え、英連邦市民と完全に同化させる。
これらの一連の政策目標のスケジュールは2046年から数えて150年後までの達成を目標に実施されている。この長い長期にも及ぶタイムスケジュールは同化政策には世代交代が必要であるとの考えからである。
これら一連がキッシンジャーが掲げた秩序の民政策である。キッシンジャーはかつての欧米列強による植民地統治の失敗を、本格的な同化政策を行わなかった事と本土の人間が植民地の人々への参政権を与えなかった事が最大の原因だとして、英連邦市民とヌスタジスクの現地住民は将来的には完全に融和し、参政権は現地人に対しても必ず与えなけらばならないとした。
これらキッシンジャーの掲げた政策は多くのシティ・オブ・ロンディニウムの住民に共感を与え政策は住民投票によって決定。帝国の憲法の条文にも記された。
・重犯罪人の藩王国への追放
ヌスタジスク帝国では基本的に英国法に近い法体系の法律が適応されている為、死刑制度は刑法上存在しない。しかし、藩王国では独自の自治が認められており、これを利用した事実上の死刑制度が存在する。主に国内で反乱を働いた首謀者等への刑罰で、現地住民に対して適応される。総督府直轄地の裁判所において、これらの罪人には藩王国への追放が言い渡される。判決後、これらの罪人は藩王国に追放されるが、その後、追放先の藩王国の裁判所で死刑が言い渡され藩王国によって死刑が執行される。
・英米露三国関係の重視
キッシンジャーはアメリカとロシアとの三国関係を非常に重視している。両国との安全保障に関する協力や、貿易関係、ビジネス関係を持っており、アメリカを中継貿易拠点として日本で生産された重機、自動車、工作機械部品の輸入も行っている。この重機、自動車、工作機械部品の取引について日本政府はヌスタジスク帝国を国家として承認していない為にアメリカ(在日米軍基地)を中継した貿易にはアメリカ政府に遺憾を示しているが、規制は行っていない。
2048年6月14日にはクイーンズ・バースデーの記念日に合わせてアメリカ太平洋艦隊の所属艦船とロシア太平洋艦隊の所属艦船がエクセデリカ港に初寄港。在日米軍が保有する2隻のオハイオ級原子力潜水艦の内、ロードアイランドと、ロシア太平洋艦隊が保有する2隻の原子力潜水艦の内、オスカーⅡ型原子力潜水艦ヴィリュチュンスクが寄港した。米露両国は潜水艦に国務長官を乗せて派遣しており、米国のポンペイオ国務長官、露のゲンナジー国務長官の2者と、キッシンジャーは会談。米露両国は帝国の建国を評価し歓迎する双方の大統領からの祝賀メッセージを伝えた。これに対しキッシンジャーは謝意を示した上で今後も引き続き英米露三国の関係強化を要請。両国の国務長官もこれを承諾した。その後、共同会見が行われ両国の友好と発展を進める事が発表された。これによってヌスタジスク帝国は日本と関係のある国々に対して国家としての正当性を主張するメッセージを改めて示した。
この米露両国による帝国への原子力潜水艦と国務長官級の政府高官の派遣はヌスタジスク帝国を認めない日本政府や各国臨時政府に対する圧力であると考えられており、この時、派遣された原子力潜水艦はいずれも核弾頭を搭載している事が知られている原子力潜水艦だった。
・総督府とシティ・オブ・ロンディニウムの関係法の制定
キッシンジャーは総督府とシティ・オブ・ロンディニウムとの行政上の関係法の制定を指示した。2044年に制定されたこの関係法は、それまで、完全に総督府による政治の独占状況だった政治状況を大幅に変えた。この関係法の制定によって総督府の立場は、帝国全土の治安、統治、軍事を管理し、シティ・オブ・ロンディニウムの行政を支援する立場とされ、一方でシティ・オブ・ロンディニウムは、シティ・オブ・ロンディニウム領域内の独立した統治と行政を司る機関とされた。また、両者の立場も同等の政治的立場に定義された。
シティ・オブ・ロンディニウムは関係法によって総督府とは独立した民政議会を持ち、領域内において、高度な独立統治機関を有した。また、総督府に対し、市政に関連する予算等を常識の範囲内で要求する権利を所持した。
また、総督の進退に関してもシティ・オブ・ロンディニウムはシティ・オブ・ロンディニウムの住民による投票で7割の罷免票を獲得できた場合は、速やかに総督府に対し、イブセム=ルゥ族、ロア=ルゥ族への住民投票を実施させる事ができるとし、この2つの民族住民の投票でも罷免票が過半数に達した場合は総督を解任し、新たに、シティ・オブ・ロンディニウムの住民による選挙を経て新しい総督を擁立できる仕組みとなった。
・妊娠中絶の禁止と子供を生んだ女性に対する功労金支給
2044年にキッシンジャーは総督府としてシティ・オブ・ロンディニウム議会に対して、英連邦市民の人口増加を促進する為に女性の妊娠中絶の禁止と3人以上の子供を生んだ女性への功労金支給の法案を提出した。この法案はシティ・オブ・ロンディニウム議会で議論され全会一致で可決。施行された。
・国家医療魔法士制度
英連邦市民、イブセム=ルゥ族、ロア=ルゥ族に対する医療制度改革として、総督府はヌスタジスク伯国時代には徹底的な反魔法使い政策によりヌカリオス大陸への入境を全面禁止されていた魔法使いの入国を治癒魔法使いに限り全面解禁した。また、治癒魔法使いを国家医療魔法士として総督府が公務員として雇う事が制度化された。これにより、英連邦市民、イブセム=ルゥ族、ロア=ルゥ族は医療魔法士による治療を受けられる様になった。また、国家医療魔法士による治療費はすべて総督府が負担し、英連邦市民、イブセム=ルゥ族、ロア=ルゥ族の人々は実質無料での治療が可能となった。これによる影響は非常に大きく、それまで現代医療を受けられた英連邦市民以外のイブセム=ルゥ族、ロア=ルゥ族では高かった新生児の死亡率が大幅に改善し、魔法国家(※魔法使いを有する国家の事)及び医療技術の進んだ日本と同程度の推移まで生存率が上昇した。また、魔法使いを雇用した事で、軽い風邪や外傷に対する治療費の大幅な削減にも成功し医療費の大幅な削減にも成功した。
・英連邦文化保存協会ブランド製品の海外展開体制の拡充
キッシンジャーは帝国の財政の強化の為に英連邦文化保存協会のブランド製品について、海外展開体制の強化や拡充を実施をしている。エスタクルス王国を中心とした販路に加えて、新たにヌスタジスク帝国を中止とした周辺諸国への新販路の開拓を実施した。新たに構築されたヌスタジスク帝国を中心とした販路では、ヌカリオス大陸外の周辺諸国16カ国が対象とされ、ブリティッシュクロックズの他、狩猟用品や日用雑貨品の輸出体制が強化された。
・安価で高品質な鉄製品の輸出体制拡充
王立造兵工廠において、総督府は工業製品の統一規格化を推し進め、大量生産体制の構築を行った。安価な鉄製品の量産体制が構築され、さらに技術革新を促す事で周辺諸国に比べて高品質な製品の製造を可能とした。これにより、拡充され量産鉄製品は、国内の他、海外に対する輸出が実施され、非常に高い利益を上げているとされる。
・南ヌカリオス貿易会社の設立
2047年に総督府は、3つの港湾都市、エクセデリカ、エステリカ、カリステリカの多くの貿易商が所属する貿易ギルドに対して、貿易を一元化する貿易会社の設立を命じた。この命令により設立されたのがヌスタジスク帝国の凡そ6割に当たる貿易商が参加した南ヌカリオス貿易会社である。この貿易会社は、ヌカリオス大陸初の株式会社と言われ、企業規模としては大陸最大の企業となった。
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評判
キッシンジャーへの評判についてはキッシンジャーが行った行為を肯定するか否定するかで大きく評価が分かれる。否定派はキッシンジャーを侵略者、帝国主義者、植民地主義者、国粋主義者であると批判し、一方で、肯定派は、侵略者の汚名を背負って外国人難民の為に立ち上がった英雄とまで評価している場合がある。割合としては明確な世論調査が全体でされていない為、断定はできないが、日本国外への移住に賛成か反対かはともかく、キッシンジャーの行動を理解する意見と否定する意見に関しては互いに拮抗状態であるとされる。
外国人難民や在留外国人の間での評価は大きく二分されているが、日本国民の間での評価は帝国世論バンクが行った世論調査では、キッシンジャーの行動に賛成か反対かで問われた質問で、84%の人々が、キッシンジャーの行動に反対した。また同じ世論調査でキッシンジャーを罰するべきかと問われた質問では76%の人々が罰するべきと回答。ただし、自衛隊を派遣し事態を終息させるべきかという質問には、賛成は9%、反対が59%、どちらとも言えないが32%で、反対が賛成を大きく上回った。反対意見の多くは戦争よりも経済の方が重要であると答えた人が最も多く、反対意見の回答者の実に87%が経済の方が重要であると回答した。
公的な評価としては、日本政府はキッシンジャーの行動を侵略であると認定し、大多数の各国臨時政府も日本政府と同じ様に批判する姿勢を示している。しかし、アメリカ合衆国とロシア連邦(北方領土)はキシンジャーの行動に関して明確な肯定や否定はしていないものの、イギリス領ヌスタジスク帝国の成立を承認し国交関係や外交関係、貿易関係を樹立し友好関係を構築いている。なお、このアメリカとロシアによるイギリス領ヌスタジスク帝国との国交樹立は事実上、駐日イギリス大使館内に設置されているイギリス臨時政府の存在を否定するものであり、アメリカとロシアは事実上、イギリスの後継政府としてイギリス領ヌスタジスク帝国を扱っている。
また、キッシンジャーに近しく直属の上司だった大使館のクリス・サンダー在日イギリス軍臨時司令官は、2043年のテレビジョン東京のインタビューで、キッシンジャーの行動を「彼は有能で難民たちにも慕われていただけに非常に残念だ。彼は愚かで野蛮な侵略者に成り下がった」と称した。キッシンジャーが進め日本からも総勢1万6千人以上の英連邦市民が移住を決めたシティ・オブ・ロンディニウムについては「確かに今、この国に住む全ての外国人にとってシティ・オブ・ロンディニウムの話は非常に魅力的だろう。私だってそうだ。しかし、私は行こうとは思わない」なぜ?という記者の問いかけに対し「シティ・オブ・ロンディニウムは搾取の上に成り立つディストピアだからだ。確かにそこに暮らせば、苦労せずに暮らせるかもしれない。でも、その暮らしは誰の上によって成り立っているのか?ヌスタジスクに元から住む数百万人の人々によってだ。たかだか数万人の住民が充分な生活をする為に、それよりも遥かに多くの人々の富を搾取して苦しみを与えている。例え今よりも楽な生活ができるとしても私は死んでもそんな街では暮らしたくありませんね」と語った。
キッシンジャーの批判の急先鋒であるマスメディアの代表格がBBCJPであるが、BBCJPは、侵略の批判はもちろん、キッシンジャーの帝国統治方法に関しても批判している。BBCJPはキッシンジャーの統治方法を神格統治だとし、イギリス王室がすでに存在しないなか、イギリス領ヌスタジスク帝国を名乗り、国家元首としてエリザベス女王の名を使用しているのは、総督の権威を上げる為の神格統治に他ならず、まるで、古代エジプトのファラオの様であり、現在の総督を名乗るキシンジャーはイギリス王室を神として崇めるイギリス教の教祖だと批判した。
外国人観光客難民支援事業で英連邦文化保存協会のチャリティーイベントに積極的に参加しキッシンジャーとも面識があったニコニコ動画でチャンネル登録者数80万人を持つVtuberアイドルグループ・アテネ屋のメンバー、桜琴乃葉( さくらことのは )氏は、この件に関して、自身の動画配信中で、自身が在日アメリカ人である事を明かして、キッシンジャーの起こしたヌスタジスク伯国侵攻について、キッシンジャーを人としては非常に良い人とその人柄は擁護した上で、それでも侵略は許されないとキッシンジャーの行動を批判した。桜琴乃葉氏はキッシンジャーの起こした事件の報道を見てそんな事をする様な人には全く見えなかったと称し、また、彼がそんな事をしたと聞くけど全然、実感が湧かないと話した。
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逸話
・イギリス領ヌスタジスク帝国の名が示す通り、ヌスタジスク帝国はイギリスの植民地として扱われる。キッシンジャーが行った侵略や計画の賛同者にはイギリス以外にも多くの国々からの参加者や賛同者がおり、計画賛同者の半数もイギリス以外の国々からだった。一般の日本人からすれば、かつて植民地統治を行ったイギリスを中心にその他の国々が再び大英帝国という共通の目標を掲げるのはおかしく見えるかもしれないが、これは、キッシンジャーら侵略への賛同派が、そもそもの活動のスローガンとして「女王陛下万歳!偉大な女王陛下の名の下に!」を掲げていた事から分かる様に王党派の様な側面を持った組織であった為である。
これが日本周辺地理転移地球肥大化災害の直後であれば、この運動による侵略賛同派は、殆ど集まらなかったと考えられるが、日本周辺地理転移地球肥大化災害後10年以上に渡る外国人難民の困難な生活状況は国粋主義等の様々な思想の支持者を多く生み出す結果となった。この所謂、イギリスを中心とした新国家の建設の主張もその一つであり、しかも、キッシンジャーは、その人柄や人望に厚くイギリス以外の英連邦加盟国の難民支援でも、積極的に大きな役割を示した為に、多くの人々に支持される地盤が存在し、幾つもある他の思想の中でも英連邦加盟国の中では最も巨大なコミュニティとして成長し力を持った集団となった。ゆえに、支持者はイギリスを中心とした新国家建設の主張を賛同している者が多い傾向となっている。キッシンジャーの人望について、ヌスタジスク帝国成立後に英連邦加盟国の国民に行われたアンケート調査では、キッシンジャーという人物については、侵略を反対する人々の間でも、それまでの功績が非常に高く評価されており、実に全体のアンケート調査では9割近い人々が人望や難民支援の取り組みを好意的に高く評価していた結果が残されている。
・シティ・オブ・ロンディニウムの名称決定は、グレナディアーズ連隊の隊員らによって、街の建設時に自ら案を考え提出し人気投票で決められる方式だった。建設当初は、シティ・オブ・エリザベス、シティ・オブ・ポート・ヴィクトリア、シティ・オブ・グレナディアーズ、シティ・オブ・アレクサンドロス等その他18案の候補もあり、これらの案はグレナディアーズ連隊の隊員らが自ら案を考え提出し人気投票で決められた。最初の投票ではシティ・オブ・アレクサンドロスが得票率で1位を獲得したが、名前の由来として挙げられた当の本人であるキッシンジャーが恥ずかしがり、連隊の隊員らを説得した事から、候補から外され、改めて投票をやり直し、ロンディムニウムが選定された経緯があった。
・キッシンジャーの総督業務における服装は、非公式な場では、No.8 dressや、No.1 dressの制服を好んで着用しているとされる。一方で公式の場では、グレナディアーズ連隊と同様のイギリス近衛兵の制服を着用している。
・ヌスタジスク伯国侵攻前に行われたグレナディアーズ連隊のイギリス近衛兵スタイルの制服やベアスキン帽の導入に関して、キッシンジャーは隊員の制服や帽子の装着の不快感を最小限にする為に、制作会社に対して軽量化を依頼しており、キッシンジャーは特にベアスキン帽の改良に熱意を注いだ。キッシンジャーが制作会社に依頼して製作されたベアスキン帽はキッシンジャー自らも監修した。キッシンジャー監修の下で製作されたベアスキン帽は、イギリス近衛兵のベアスキン帽に比べ、重量を665gに対して361gにまで軽量化。さらにイギリス近衛兵のベアスキン帽とは違い落下を防止する為の軍用ヘルメットの顎紐と似た固定器具も導入や、固定器具の導入に伴い首への負担軽減の為の重心調整等の改良が行われた。
・グレナディアーズ連隊が行った全ての戦争に自身も銃を持って最前線で参加している。
・妻のアイモネ・ディ・カノンとはその結婚の経緯もあり、普段はあまり関わり合いは無いとされる。アイモネは総督府において居住しているが、キッシンジャーは総督府には居住しておらず、普段はシティ・オブ・ロンディニウムのマンションで居住し、シティ・オブ・ロンディニウム敷地内のグレナディアーズ連隊本部で総督業務を済ましており、総督府に訪れるのは1週間に1度か2度程であるとされる。2人が一緒になる機会は殆どが公的な行事や必要最低限の公務の場の時である。キッシンジャーは罪悪感からか、結婚当初から周囲の人々に対してアイモネに関して、充分に配慮してほしいと述べている事が分かっている。
アイモネに関しては真偽は不明だが、2045年に総督府にエクセデリカ市内では滅多に走らない救急車が入りその後、シティ・オブ・ロンディムニウム内の病院に何者かが緊急搬送されるという出来事があった。この時の患者に関して、アイモネが自殺未遂を図ったのではないかという噂がエクセデリカの市民の間で広まった。総督府の報道官はこの噂に対し、総督府の職員が重度の食中毒を起こした為に緊急搬送したと噂の内容を全面的に否定している。しかし、その後、アイモネは約1年近くに渡って公務に姿を見せなかった。
だが、シルクジョニーの大反乱、エクセデリカ大包囲の際にアイモネの姿はシティ・オブ・ロンディニウムの中で多数の一般市民に目撃されており、避難所で反乱軍の攻撃に怯える住民たちに対して、励ましや勇気付ける声をかけていた。また、これよりも以前、シルクジョニーの大反乱の半年前からその真偽は不明なれどアイモネらしい姿は度々、シティ・オブ・ロンディニウム内で複数回目撃されている。目撃場所は、図書館、ショッピングモール、学校、公園だったとされる。なお、シルクジョニーの大反乱後、アイモネは公務に復帰しキッシンジャーとの公務にも参加する様になった。
・パブリックスクール時代に所属していた映画研究会では、20世紀後半の母国イギリスやアメリカの映画を中心に研究。主にコメディ、サイレント、パニック、特撮、歴史、SF、ファンタジー、ホラー等のジャンルの映画について研究していた。
・好きな作家はH・G・ウェルズ。宇宙戦争やタイムマシン、月世界最初の人間など、ウェルズの作品は全て読破済みだとされる。しかし、本人は勉強以外の読書は余り好きではないと語っており、ウェルズ以外の作家の作品は呼んでも精々絵本のミームンがやっとだとされる。なお、キッシンジャーは生粋のミームン好きである事が知られており、日本に居た頃は年に1回は埼玉県飯能市にあるミームンバレーパークに旅行に行っていたとされ、自身の自宅にもミームングッズが大量にある事が知られる。侵攻後に日本国の警視庁によって行われた河口湖のキッシンジャーの自宅の家宅捜索の際には、船に大きすぎて持っていけなかったのか、自宅からは等身大のミームン人形が捜査員3人がかりで押収される様子や複数のぬいぐるみが押収される様子が報道陣のカメラに映し出され話題になった。しかし、この時に多くが押収されているが、シティ・オブ・ロンディニウム内の自宅にはそれでも、かなりの数のミームングッズが飾られている。
・サンドハースト王立陸軍士官学校への進学は親が決めた事だった。キッシンジャーは当時は友人たちと同じ学校に進学するつもりだったと後に話している。しかし、職業軍人であった父親が人生で一度は軍を経験するべきだと、半ば強制的に士官学校に入学させられたとされる。
・2048年にBBCJPがキッシンジャー本人に行ったインタビューで、記者がこの様な侵略国家が将来成功すると本気で思っているのか?と質問したのに対し、キッシンジャーは成功すると断言した。記者が何を根拠にと聞くとキッシンジャーは、これが現代地球文明国家であったのならば、成功しないだろうと前置きした上で、精神文明が今だに地球の水準に達していない様な中世的、古代的な精神文明相手ならば充分に成功しうるとした。その根拠としてキッシンジャーはイギリスや欧州各国、日本等のその成立過程の歴史に触れ、多くの国々の成立過程には異民族による侵入や侵略があったと指摘。現代に住む人々の中で、これらの大昔の出来事を間違いだと考える人はいったいどれだけ存在するのかと疑問を呈し、200年後には自分たちの国家もそうなっているだろうと述べた。
・英連邦文化保存協会の難民支援チャリティーイベントでは、イベントによく参加していたVtuberの桜琴乃葉氏と彼女のチャンネル内の外国人難民支援を呼びかけたチャリティー動画の配信中でゲストとして合計51回共演し、配信中は桜琴乃葉氏やリスナーの間では「きっしん」のあだ名で呼ばれ定着し様々な企画に参加していた。最初の共演は2031年6月3日で、最後の共演はヌスタジスク伯国侵攻直前の2041年11月30日だった。
・キッシンジャーは2024年から2029年まで1度の休学を経て神田外語大学のオンライン授業に参加し文化人類学と社会行動学を専攻し卒業した。キッシンジャーは日本の初めての外界とのファーストコンタクトをニュース番組で見て、外界の世界の文化や民族、歴史に興味を示し当時、日本政府が進めていた外国人観光客難民への教育支援プログラムを利用して参加した。卒業論文は「他世界文明と地球文明の類似点に関する研究」と「文化人類学的観点と社会行動学的観点からみる地球文明の他世界文明に対する優位性に関する研究」。
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資料
・イギリス領ヌスタジスク帝国国旗
・総督旗
・シティ・オブ・ロンディニウム議会旗
・英連邦文化保存協会旗(2042年~現在)
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注釈
・日本周辺地理転移地球肥大化災害‐日本の以外の全地球上の国家が行方不明となり、変わりに複数の惑星もしくは世界から、知的文明を有する土地(現在確認されている惑星もしくは世界の数は4つ)が転移、地球の直径が1,391,680kmにまで肥大化し、地球上の時間が大きく歪んだ災害。日本にとってこの災害が起きたのは2022年だが、約半数近くの国々の認識ではこの災害が発生したのは2022年ではなく、少なくとも100年以上は経過している(アトランティス帝国、シンシンシーファ=シリア教国など)。
・外国人観光客難民問題‐日本周辺地理転移地球肥大化災害によって日本に観光やビジネスで来ていた総勢236万人の外国人が帰る国を失い難民化した問題。居住地確保問題、地域社会との摩擦問題、言語問題、就職問題、治安問題、教育問題、社会保障問題、日本人との経済格差問題、移住問題、外国人差別拡大問題等、深刻な社会問題と化している。
・アトランティス帝国‐かつて地球上に存在しその後、惑星テリエスに転移、日本周辺地理転移地球肥大化災害で再び地球上に再出現したアフリカ大陸の特徴に類似した地形を持つ巨大群島国家であり非魔法文明国家。電気文明と産業革命を起こしておらず、銃や大砲等の近代兵器も発明されず、古代ローマ、古代ギリシャ、古代エジプト、中南米の文明に類似する文明を有している文明。科学技術全般では地球文明よりも低い水準だが、流体技術、素材化学の分野では現代地球文明よりも非常に高度な文明を築いており、国民の生活水準は社会に奴隷の存在等がみられるも概ね先進国水準に達している。
・シンシンシーファ=シリア教国‐惑星テリエスより転移してきた大陸魔法国家。日本周辺地理転移地球肥大化災害より前から、アトランティス帝国と宗教上の対立をしていた。文明の水準は魔法を有している事以外では概ね中世前期のヨーロッパ文明の水準。
・ヌカリオス大陸‐インド亜大陸とほぼ同程度の面積を有する大陸。ヌスタジスク帝国(旧ヌスタジスク伯国)、エステルヴァス公国、ミステミス伯国、ジュノヴァン王国の4カ国が位置する。600年程前までは4カ国は1つの国であり魔法文明国家であったが、分裂し対立。また、分裂後、大陸全体で徹底的なアンチ魔法文明化が行われ魔法文明圏国家としては珍しい歴史を持つ。
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