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ピチャーイ・マレンコフ ‐ ウィキパディア

ウィキパディア-フリー百科事典

ページ/ノート

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ピチャーイ・マレンコフ

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【※この記事には著者の推測によるものと考えられる記述が含まれています。執筆に際しては情報源を示した上で明らかな事実のみを記述するようお願いします】


ピチャーイ・マレンコフはスノーティア公国の海軍軍人。(世界歴1056-1101)生前の最終階級は海軍少将。アド・バロータ事件を引き起こしたことから死後階級を剥奪、海軍を永久除名された。

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目次


1.経歴

2.アド・バロータ事件

3.事件後


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経歴


ピチャーイ・マレンコフは1056年、スノーティア公国の首都・ツェントルのマレンコフ伯爵家の長男として生まれた。ピチャーイは幼いころから気の優しい人物であった。しかし、伯爵家の生まれであったピチャーイであったが、ピチャーイの成績は学業・体育共に振るわず、いつものんびり、気ままに過ごしていたとされる。


この態度に父親のグローズヌイ・マレンコフ伯爵はピチャーイではなく次男に家督を相続させるつもりであった。しかし、そんな状態が一変したのがピチャーイ10歳の時である。伯爵家の使用人が記した手記によると、10歳になって1ヶ月経ったある日、ピチャーイは涙を流しながら朝食の席に現れた。母親が訳を訊いてもピチャーイはただ恐ろしいものを見た、これからは一生懸命勉強しないといけない、と言うばかりであった。その日からピチャーイは人が変わったように、勉学に勤しみ、身体を鍛える様になった。社交性を身につけ、多くの友人を作ることに奔走した他、父親の出席する夜会などにも積極的に同伴し国内の軍・政府・貴族の有力者と接触したとされる。


1074年、中等学校3年生の秋に海軍士官学校を受験。猛勉強の甲斐あってか、ピチャーイは首席で入学を果たした。在学中、成績は常に優秀であり、1078年に首席で卒業。海軍少尉に任官した。練習航海を経たのち1079年に戦艦トライアンフの通信士として着任。以降、艦艇勤務と陸上勤務を繰り返し経験し順調に昇進を重ね、1089年には海軍士官学校の教員に。1093年には練習艦の艦長となり多くの士官を養成した。1094年、指揮幕僚大学に入校。1096年に卒業。海軍大佐となった。後に事件を引き起こすことになる巡洋戦艦アドミラル・ヴィクラドフは彼が初めて指揮した戦艦となった。


1098年には家督を相続し伯爵の位を得る。海軍の高級士官と上級貴族を兼ねることになったピチャーイは昼間は海軍軍人として基地や艦船で。夜は貴族として夜会への出席を精力的に行った。マレンコフはその温厚かつ素朴な人柄ゆえに軍内外に彼を慕う人物は多く、特に海軍内部には将官、佐官といった高級士官さえも彼を慕う者は多かったとされる。当時、ピチャーイを慕っていた海軍の青年将校が残した日記によると、彼らはピチャーイを中心とした独自の勉強会を開き各々の職域に関することや国内外の事情に関して研鑽を深め、他民俗学に関する研究もしていたとされる。


1105年、ピチャーイは海軍少将に昇進。第二艦隊司令長官に就任する。この頃からピチャーイは休日の外出が増えていた事が周囲の人々によって証言されている。それまでピチャーイは、休日でも精力的に仕事をこなしていたが、休日には図書館や大学に出かける様になり、蔵書を読みふけったり学者たちと議論を交わすことが増えた。しかし、仕事を疎かにするという事はなくむしろ休日に時間を確保するために勤務日に人一倍に仕事をしていたとされる。食事もサンドイッチなどの片手でつまめるものを用意させ食べながら仕事をしていた。ある日、幕僚の一人が「提督はいつお休みになっておられるのでしょうか。このままでは有事の際に正確な指揮が取れないのではないでしょうか」とピチャーイに進言したりもした。ピチャーイはこういった進言に対して「確かにそうだな」と言いその日は休息を取ったとされる。しかし、ピチャーイの寝食を惜しんだ仕事ぶりは最後まで変わらなかった。1101年に入るとマレンコフには、奇妙な動きがみられる事が増えた。飲酒量が増え、休日には泥酔状態で艦に戻ってくるようになった他、頻繁に深夜にうなされて飛び起きるなど、以前の彼からは考えられない様な異常な行動が増えた。


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アド・バロータ事件


事件の詳しい詳細は「アド・バロータ事件」の記事を参照。


1101年10月31日の深夜に起こった事件。被災したアド・バロータ市の地名がそのまま事件名として記録されることになった。事件前のアド・バロータ市は漁業が盛んな都市で、国内の食糧自給において重要な役割を担っていた都市であった。また年に一度収穫祭の時期に合わせてアド・バロータ市では豊漁を神に感謝し、また来る一年の豊漁を祈る豊漁祭が行われていた。この豊漁祭で披露される踊りは極めて芸術的価値が高く、また魚料理が多量に振る舞われる事から市内には多くの観光客が訪れていた。(豊漁祭の意義についてはただ漁業の成功を祈るだけでなく他にも土地の平安を祈るなどの意義があったとされる。真の祭りの意義は一部の関係者しか知らなかったが、関係者が事件で死亡し、また資料も事件で焼失したために詳細は不明。)その為、事件当日に犠牲者が増える大きな要因の一つとなった。


1101年10月31日の夕方にピチャーイは麾下の巡洋戦艦アドミラル・ヴィグラドフと2隻の駆逐艦を率いてポルテ海軍基地を出航した。ピチャーイはこの時、司令部に対して、駆逐艦の夜間襲撃訓練の為と説明していた。3隻の艦船は19時頃アド・バロータ市の沖合に到着したと考えられている。以下の時間記述は関係者死亡のため正確な記録が残っておらず、艦船の性能などから算出されたものである。


到着した3隻の艦船は突如として全砲門をアド・バロータ市に向け砲撃を開始。砲撃は3隻が砲弾を完全に撃ち尽くすまで続けられた。この艦砲射撃によってアド・バロータ市の市街地は徹底的に破壊され、死者39,321人、行方不明者43,211人を記録する大惨事となった。砲弾を撃ち尽くした3隻はその後自沈。その後の潜水調査によってピチャーイ以下、乗員全員が死亡していることが確認された。


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事件の後


正規軍による自国民の虐殺という未曾有の出来事に国内外は戦慄した。海軍は事件に関わった3隻の艦船の乗組員を永久除名すると共に軍籍を剥奪した。事件の調査は海軍憲兵隊によって行われた。関係者が容疑者、被害者を含めてほとんど全員死亡していることから調査は難航を極めるとされたがピチャーイの私邸から遺書とされるものが発見されたことにより事件の調査は急速に終息した。その内容は殆どは公表されていないが、その後、乗員遺族への追及など無く希代の犯罪に加担させられたとして、多額の見舞金が支払われた事から、私邸から発見された遺書と思われるものは事件の詳細、もしくは部下の恩赦を嘆願する内容であったと考えられている。


アド・バロータ市は事件後から現在に至るまで軍により封鎖され復興の手は付けられていない。立ち入りは完全に禁止されており、航空機による上空の飛行や地下の掘削さえ許可されていない。また犠牲者に関しても疑問点が残る。3隻の軍艦の艦砲射撃を受けたといっても生存者が一人もいないというのは余りにも不自然であると事件後から国内外から指摘されたが、生存者の捜索活動にあたった陸軍の部隊の指揮官は「砲撃は凄惨を極め、誠に遺憾ながら一人の生存者も発見できなかった」とコメントするだけであった。この政府の対応には今なお疑問の声が残り、ジャーナリストからは「むしろこの事件を政府は隠してしまいたいかのようにも考えられる」というコメントも出ている。


なお、この事件に前後して被災地の近くで火炎放射器を持った陸軍の兵士を見た、ピチャーイと関係があった民族学者が自殺する、図書館の蔵書が失われるなどといった事が立て続けに起こっており、本事件との関連性を疑う意見も出ているが、本事件との関連性は現状では不明となっている。


このピチャーイ・マレンコフの記事の執筆は桜紅葉とボイジャーによる共同執筆によって行われました。


【原案:桜紅葉 編集:ボイジャー】


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― 新着の感想 ―
[一言] ピチャーイ・マレンコフの記事で最初に推測で書いてますとなっている点が他と違うようで奇妙な感じです。これも意味があるのだろうか。 マレンコフは意識のみ他人になったようですし、その後の行動も意…
[良い点] マレンコフの幼少時代の性格の代わり様や増えた飲酒量が丸で未来を予知したための絶望を表した味のある演出でよかった。 [一言] 彼は事件を起こしたというが、実際は何か起こりうる大惨事を幼少の頃…
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