侵入
その夜は月が明るかった。ラスティとレン、それからアーヴェントは、月から身を隠すように、城前の建物の陰に身を隠し、南に向けられた城の門の様子を密かに窺っていた。
「やっぱり見張りが居ますね……」
壁の端に身を寄せ、顔を僅かに出したレンは小声で呟く。彼のお気に入りの上着はすっかり綺麗になった。今は頭巾を被り、闇にも目立つ金髪を隠している。ラスティとアーヴェントも、彼に倣って暗めの服装を選んでいた。これから城内に忍び込むためだ。
ラスティの同僚たちの手を借りることは、話し合いの末に止めた。万が一ラスティたちが見つかったとき、彼らまで咎められてしまうのを避けるためだ。この先、アリシエウスはクレールとうまくやっていかなければならない。そうなったときの禍根を残したくはない。ラスティのことは、身勝手な他所者としてくれるほうが良いのだ。
だから、門番を懐柔して正面を通り抜けるという手段は選べない。
「どうする?」
片膝を付き、同じく様子を窺っていたアーヴェントは、顔を上げてレンを見、それからラスティを見た。
「あそこを越えるしかないな」
ラスティは、門の周りの塀を指差した。二人の同意を得て移動する。一度門に背を向けて、西側へ。建物の間を抜けて大きく迂回して、城を囲む塀の真下まで来ると、アーヴェントは壁を見上げて不満顔になった。
「どうするんだよ」
自分の背丈の二倍はあるだろう壁は、白く塗りつぶされて、平坦だった。指がかかけるところなどなく、道具なしで登るのはほぼ不可能。
そんなことは、長年この国で暮らしてきたラスティは承知の上だ。
「僕におまかせ」
レンは壁から離れて背中からハルベルトを抜くと、柄のほうを短く持った。鞘を着けたまま穂先を突き出して走る。先端を地面に突き刺すと、竿のように使って高跳びした。
「おおっ」
アーヴェントは目の上に手を翳して、レンの軽業芸を見上げていた。柄からも手を離して完全に宙に浮いたレンは、足先から城の敷地内に入り、そのまま放物線を描いて壁の向こうへ消えていく。
「え? ってあれ?」
「黙って待っていろ」
首を傾げるアーヴェントを窘めて、ラスティはレンが残していったハルベルトを地面から抜いた。それを逆手に構え、壁の向こうへと投げる。
しばらくすると、上からロープが落ちてきた。上から覗き込むようにしてレンが顔を出す。
「それに捕まって登ってください」
先にラスティから登ることになった。ロープを握り締め、壁に足をつけて登っていく。その様子を常緑樹の枝に座ったレンが見物していた。
ロープは、その木の幹に結びつけてあった。
レンのように上で待っていてもしょうがないので、そのまま塀から飛び降りる。身を隠すような生垣などなく、ただ背の高い木がいくつか植わっているだけの場所。一応木の陰に身を隠すが、窓の向こうにも光はなく静まっているため、見つかる危険性は低い。役人たちの多くは既に帰り、警備は昔ほど厳重ではないとラスティは聞いていた。王族が居なくなった今、城は体制を大きく変えているという。
レンとアーヴェントが下りて来ると、ラスティたちは速やかに移動した。城の壁に沿って歩いていく。目的の窓に近づくと、ラスティは中に人がいないことを確認してから厚さの薄い定規を取りだして、窓の間に差し込み鍵を外した。
蝶番がなるべく軋まないように慎重に窓を開けて部屋の中に入る。
「お前、絶対真面目な騎士じゃなかったろ」
暗闇の中、窓を越えながら呆れたとばかりにアーヴェントは笑った。
「この窓は随分前から鍵が壊れていた。だが、誰も直さなかった。それを知っていただけだ」
実のところ、ここはディレイスの脱出口の一つだった。不用心と分かっていて塞がなかったのは、結局のところラスティがディレイスに甘かったからなのだろう。王族を守る騎士としてあるまじきことだとは思うが。
――まあいいか、と思えるくらい、アリシエウスは平和だった。
いつかまた、そんな日々を取り返すことはできるだろうか。
少なくとも、合成獣が作られているようでは無理だろう。
ラスティたちが目指すのは、城内の北西の角に位置する階段だ。そこから地下に下りることができる。篝火もなく、月明かりも入ることない暗い廊下を慎重に進む。長らく勤めた城なので、迷うことはない。
だが、目的の階段に近づくと、廊下の両側の燭台に火が灯されるようになった。人の気配はない。見つかる危険を覚悟で、光に身を晒しながら進んだ。
件の階段にも灯りが灯されていた。一瞬躊躇したものの、覚悟を決めて下りる。
一歩ごと下っていく度に淀んでいく空気。灯りがあるというのに、不穏な場所に足を踏み入れているという予感が、ラスティを襲う。この場所はもうラスティが知っている場所ではないのだ、と肌で感じ取っていた。
地下に辿り着くと、そこはうって変わって暗くなっていた。荒く削られた暗色の石が敷き詰められた壁や床が、奥へと続き闇に呑まれている。その向こうで何かが蠢いているように見えるのは、先入観による錯覚だろうか。
三人で、目線だけで示し合わせたあと、闇の中へと一歩踏み出そうとして。
突如、レンがこちらに掌を向けた。制止の合図。階段のほうを指し示す。誰かが来るらしい。
急ぎ、静かに階段側の壁に貼り付く。階段に一番近いところで、レンが紫の小刀を抜いた。艶消しされた刃は、光を弾くことなく、階段を下りてきた人物に狙いを定めて――
白い人物が見えたところで、蹈鞴を踏んだ。
「……ユディ!?」
囁き声で驚愕を示すレンに、ラスティは壁から離れた。階段からの篝火に浮かび上がるのは、肩が剥き出しの白い服に、ショートパンツ。アーモンド型の目を見開いているのは、確かにユーディアだった。
「どうしてここに?」
彼女は慌てた様子で首を左右に振った。他に人がいないか確かめているようだ。その後、誰もいないのを知って、安堵の表情を見せる。
「危険ですよ。誰かに見つかる前に、帰ってください」
「ええ!? でもぉ……」
地下の奥にちらちらと目線を向けるレンに、ユーディアは眉を吊り上げる。
「何かあるんだったら、私が調べるから。何か分かったら教えますから、誰かに見つかる前に早く……!」
「この奥に何がある?」
詰問するアーヴェントに、ユーディアは力なく首を横に振った。
「……分かりません。クラウスは教えてくれなかった」
だから彼女もこうして密かに調べに来たという。
悔しそうに唇を噛み締める。
「私は、どうにかなります。でも、貴方たちはそうじゃないでしょう? お話は聴きますから、まずは安全なところに――」
「どうしたのユーディア、そんなところで」
ユーディアがはっと振り向いた。階段に現れたのは、鎧を着た女だ。白塗りの鎧は、アリシエウスの騎士のものではない。ユーディアを知っていることからして、クレールの神殿騎士。
「誰だ、お前たち!?」
その彼女は、こちらに気付くと目の端を吊り上げた。明らかに敵意を感じる。穏便に事を運ぶことはできなくなった。
「畜生。せっかくここまできたってのに、もたもたしすぎたな……」
背後でアーヴェントが唸る。同感だった。彼女をねじ伏せてでもさっさと通るべきだったかと後悔する。
「待って、マリア! この人たちは……っ」
こちらを庇おうと女騎士に詰め寄るユーディアを前に、ラスティは剣を抜いた。そのまま踏み出し二人の間に割って入ると、ユーディアに襲いかかる。
咄嗟に躱したユーディアは、信じられない様子で、ラスティを凝視する。そんな彼女に、ラスティは口だけを動かした。『抜け』と。
それから、声を張り上げた。
「こんなところで、捕まってたまるか!」
がむしゃらなふりをして剣を振り回し、ユーディアに迫る。さすがの彼女も剣を抜かざるを得ず、腰ので刺突剣を抜いた。細くしなやかな彼女の剣を折らぬよう、ラスティは慎重に剣を振るう。
視界の端で、意図を察してくれたレンが、ラスティと同じように切羽詰まった雰囲気を装って、ハルベルトで女騎士を襲った。マリアはロングソードでレンの重武器に対抗する。斧槍を受け止めても剣を取り落とさないところを見ると、それなりの手練のようだ。
「おっさん! 早く、奥に!」
アーヴェントを促すレンの言葉に、ラスティは剣を取り落としそうになった。見た目はラスティより数歳しか変わらない容姿の男を相手を、『おっさん』呼ばわり。アーヴェントがどう思ったかは見られなかったが、こちらは少々傷付いた。
「ふふっ」
ユーディアが堪らず噴き出している。ラスティが睨みつけると、慌てて取り繕う様子をみせた。いい加減彼女もラスティの意図が飲み込めたようだ。
奥へと向かおうとするアーヴェントを、ユーディアは止めようと足を向ける。ラスティはそんな彼女の前に回り込んで防ぐ。
背後をアーヴェントが抜けていった。
「……この先に、何が?」
剣の打ち合いの隙に、声を抑えながらユーディアが訊いてくる。
「そもそも何故、彼が」
「おおよそ察しがつくんじゃないか?」
東の果てから、わざわざここまで。アーヴェントが何を気にしているかは、しっかりと彼女も聴いていた。
ユーディアの視線が、アーヴェントの背後を追う。何も見出だせない闇の中に、不安を抱いたようだった。
「そんな……まさか……」
ラスティが剣をぶつけた拍子に、ユーディアは刺突剣を落とした。
言うべきではなかったか、とラスティは葛藤した。一方で、合成獣の実験をしているような場所に、何も知らない彼女を一人で置くのも心配だ。
彼女の首元に剣先を向けながら、ラスティはこの後のことを考える。ユーディアに事情を知ってもらったのだから、可能ならこのまま奥を調べたい。しかし、それにはあの女騎士が邪魔だ。
その女騎士は、追い詰められたユーディアに、焦りを覚えたようだ。
「ユーディア!」
彼女は振り下ろされたレンのハルベルトを片足で踏みつけると、胸元から何かを引っ張りだした。細い紐の先についていたのは、金属の円板を半分に折りたたんだようなもの。半円の中ほどに開けられた孔が、その一瞬の中で妙に目に付いた。
彼女はそれを唇に押し当て、息を吹き込む。
その笛に、音はなかった。




