対峙
白と黒の格子模様の床が目を引く執務室に入った瞬間から、ユーディアの身体は拒絶反応を起こした。怒涛に押し寄せる感情に、頭痛や吐き気、めまいを感じた。案内をしてくれたクロードから、この部屋がアリシエウス王の執務室であることを聞いている。そこに、クレールからの侵略者が当たり前のように居座っているのは、あまりに受け入れ難かった。
解っている。これは、憤りではない。気持ちはラスティたちの側に寄っているとはいえ、ユーディアはこの国のことなど何も知らない。だから、彼らに同情はしても、気持ちを理解してはあげられない。胸に押し寄せるのは、申し訳なさと罪悪感。――そして、ラスティたちに憎悪を向けられることへの恐怖。
ユーディアは、喉元まで迫り上がってきた感情を飲み下した。何食わぬ顔を装い、アリシエウスを支配する男に前に立つ。
「報告が遅くなり申し訳ございません。ディベル殿」
背筋を伸ばして敬礼をした。ユーディアはまだ神殿騎士だ。
「ユーディア・エンゲルス。ただいま帰還しました」
目の前の男は笑った。冗談を聞いたときのように、愉快そうに。
「お帰り、遅かったね……なんてね」
ここはクレールの神殿ではなく、アリシエウス。ユーディアの〝帰還〟は正確な表現ではない。彼はユーディアの意図を承知したうえで、からかっている。
クラウス・ディベルは、ユーディアよりも三つ上。幼馴染ではあるのだが、立場は友人のように対等という訳ではなく、〝兄と妹〟くらいの差があった。綺麗に整えられた茶金の前髪の下で、吊りがちの目が柔らかく琥珀色に光るのは、その兄心によるものだろう。
高潔さを示す白の騎士服の厳格さを感じさせないのは、彼の為人によるものだ。ユーディアから見てクラウスは、能力も人柄も含めて、神に仕えることに秀でた人だった。
正直なところユーディアは、彼がアリシエウスを奪い乗っ取った張本人であることが信じられなかった。
だが一方で、彼がエリウスの尖兵となることに、納得してしまうものも抱えていた。彼はエリウスの世界を善しといていたので。
「申し訳ありません」
幼馴染らしい言葉の応酬をする気になれなくて、少し逡巡した挙句、部下らしく頭を下げる。
「堅いよ、ユーディア。ちょっとからかっただけじゃないか」
少し焦りを見せているのに、申し訳なさを覚えつつ。呑気なやりとりに胸中は曇る。
「幼馴染同士なんだし、気楽に話そう」
「……でも、報告が」
「それはお願いしたい。でも、話し方まで厳格にする必要はないよ。今ここには誰もいないのだし」
ちょうど仕事に飽きたところだから気を抜きたい、とクラウスは言う。
頑なに反発する意味を、ユーディアは見出せなかった。しぶしぶながら承諾する。
クラウスは嬉しそうに琥珀色の眼を細めて笑う。
「それで、遅かったのには理由があるのかな?」
「〈木の塔〉の人たちに、〈手記〉を貸してくれるよう、頼んでいました」
しかし何度も交渉したにも拘らず〈木の塔〉の魔術師たちに断られてしまった、と予め用意していた筋書きを話す。
旅路は、行きも帰りも順調と言って良いものだった。帰りが遅くなったのは、シャナイゼでの滞在が長かったことが理由だ。その間にしていたことはあまり誤魔化すようなこともないと思うが、ラスティのこと抜きでは話せない。
だから、少しだけ嘘を吐くことにした。
「君に同行していた者たちは、君が〈木の塔〉の魔術師たちと沙漠を越えたと言っていたけれど?」
「彼らは良くしてくれました。でも、〈手記〉が関わると話は別で」
これは、あながち嘘ではない。
「……まあ、そのことについては、もう済んだ」
「……え?」
「別口で手に入れたんだ。だから、君には無駄にご苦労をかけてしまったが……もう良いんだよ」
その事実をクラウスが知っているかは知らないが、盗まれた本を手に入れたということは、ろくでもない相手と取引したということで。
彼は真っ白ではないのだということに直面して、ユーディアの肩が落ちる。
「失望したって顔だね」
クラウスの声かけに、ユーディアは伏せかけていた目を瞠った。
「……そんなことはっ」
「気楽にって言ったのに、君はそれでも敬語のままだ」
気付いてる? と目を細められ。ユーディアは焦った。平静を装っていたつもりだったのに、柔軟性に欠けていた。部下の仮面を被ってさえいれば嘘を突き通せると思っていたのだが、かえって裏目に出た。
目を泳がせる。こちらをじっと見つめるクラウスを直視できない。
「そんな固くならなくても。お茶でも飲むかい?」
あからさまに怪しいユーディアの様子に触れず、クラウスは飽くまで気楽に、幼馴染としての態度を取る。それがまた信じられなくて、どうして良いか分からず、ユーディアは問いに対して首を横に振った。お茶など、出されたところできっと飲めない。
そう、とクラウスは頷いた。一度ユーディアから視線を外し、俯き考え込んだあと、どんな結論を出したのか、椅子の背にもたれた。
大きな溜め息が一つ。
「ここもまだまだ慌ただしくてね、気の休まる時間がないったら。……意外にもここの人たちは、私の首を狩りには来ないのだけど」
不謹慎な冗談に、ユーディアは顔を歪める。一度ラスティの母からアリシエウスの現状を聴いた身としては、取り繕うものであっても笑えるものではなかった。みな、亡くなった王に従って、民を守るために我慢をして私怨を呑み込んでいるに違いないのに。
しかし一方で、肩を竦めるクラウスの顔からは、確かに疲労の色が見て取れた。慌ただしいのは本当のようだ。自業自得と思えないのは、幼馴染への情ゆえだろうか。
「アリシエウスは知っての通り小さな国だし、兵の規模もそんなに大きくないことは知っていたから、取り込むにはさほど苦労はしなかったんだけどね。でも、捜し物は見つからなかったから、がっかりしたのは否めない」
「……捜し物」
「持ち逃げされてしまったんだ。そのための戦だったというのに、残念なことだね」
アリシアの剣だ、とすぐに気づいた。エリウスと繋がっているのはクラウスだという、ユーディアの仮説は正しかったのだ。
「でも、もう一つのほうは手に入った」
ようやく話が戻ったのだと知る。
「私も君にお願いしたときは知らなかったんだ。でもね、ある魔術師を紹介されてね」
その男が〈手記〉を持っていたという。
〈手記〉を盗んだというレンの知り合いは、魔術師ではないという話だ。盗人からその魔術師に、そしてクラウスの手に禁書が渡った経緯が気になるところだ。
何処までが、エリウスの掌の上のことなのだろうか。
そこで、ふとユーディアは疑問に思った。
「クラウスは……どうしてその本が必要なの?」
クラウスが神に従っていたとして、彼の真意――望みはなんだろう。エリウスに協力するだけの理由を持っているはずだ。彼は敬虔であっても、心酔してはいなかった……と思う。
「何を企んでるの」
ユーディアが睨み付けるのを、椅子にもたれたままのクラウスは笑って受け流した。
「それはまたおいおい教えるとするよ」
煙に巻かれて、ユーディアは歯噛みする。手の内を明かす気はないということ。当然といえば当然。ユーディアも、幼馴染のよしみで教えてもらえるとは思っていなかった。
だが、早々に決着を付けられないのはもどかしい。もどかしいが、ユーディアはおとなしく引き下がった。物事は冷静に見極めなければならない。事態を悪化させないためにも。
「ああ、そうだ。君はここに配属になるから」
そろそろ立ち去ろうか、と思い始めたところで、身を起こした思い出したように付け加える。今後神殿騎士としての自分がどうなるのかは気になっていたところなので、有り難い。
「部屋を用意させよう。僕の右腕として働いてもらうことになるから、承知しておいてね」
監視したいのか、都合良く扱いたいのか。その真意は測りかねるけれども。自分にとっては都合が良い、と思うことにした。
「今日はゆっくり休むといい。明日から忙しくなる」
ユーディアは返事をせず、黙って執務室をあとにした。
部屋を出ると、扉の直ぐ側に貼り付くようにクロードが立っていた。アリシエウスの騎士は、ユーディアたちの話に聞き耳を立てていたのだろう。興味か、ユーディアへの不審か。それは分からないけれど。
ユーディアは何食わぬ顔で扉を閉め、黙って廊下を歩き出した。クロードが続く。外壁と同じ、白い壁。石のタイルに敷かれた紺の絨毯が、二人の足音を消す。城内は静かだった。生き残ったアリシエウスの臣たちは、息を潜めているのかもしれない。クラウスの反感を恐れてか、それとも機を窺っているのか。
この辺りにクレールの人間も見当たらないのが、かえって不気味だった。アリシエウスの民に気を遣っているのか。それとも、別の企みごとがあるのか。
ユーディアは、どう振る舞うべきか。
執務室の前の廊下を曲がったところで、ユーディアはようやくクロードを振り返った。
「そういうわけで。しばらくお世話になることになりました」
「…………おう」
クロードは、まだユーディアを疑っているようだった。探るような眼差し。信じてくれ、などとはとても口にできない。だから、
「ご面倒をおかけします」
それだけを言った。ユーディア自身は疑われているとはいえ、彼は何かあったときにラスティとの伝令役を引き受けてくれるだろうから。
クロードは、ユーディアへの疑いの目を向けつつ離れていく。彼には本来の仕事があるのだろう。
一人になったところで深呼吸をし、気合いを入れる。これからしばらくは、独りで戦い、決めなければならない。おいそれと気を抜くことはできない。
……気を抜く、といえば。
「部屋が用意されたこと、誰に聞けばいいんだろう……」
腹立つあまりクラウスから逃げるように部屋を出てしまい、すっかりそのことを忘れていた。やはり自分は冷静でなかったのだと知り、ユーディアは肩を落とした。




