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アリシアの剣  作者: 森陰 五十鈴
第七章 すれ違い、遠ざかる
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躊躇なく

 絶望などしている暇もなかった。

 井戸の底へ叩きつけられないようどうするべきか。ひたすら頭を回転させた。天井にぶら下がった魔術灯。頑張って登ってきた階層。徐々に遠のいていくそれらを目の端で、リズは必死で左手を落下方向に伸ばした。掌の先に魔法陣。薄い氷の板を作り出す。すぐに落下する自分の身体で壊してしまうが、また氷の板を作り出し――割って、作って、を繰り返すことで落下の加速を抑えていった。

 とはいえ、完全に速度制御をできるはずもなく。床が近づいたところで、魔術を切り替え水を噴射させた。跳ね返った水を浴びながら、床に転がる。

 落下の間に心臓が飛び出しそうなほどの緊張を味わったが、安堵している間もなく、リズは立ち上がった。すぐさま離れる。いったい何をどうやったのか、リズの後を追って飛び下りたウィルドが着地して、剣を片手に迫った。

「ちっ」

 舌打ち。右手の杖を身体の正面で立てて、横薙ぎにされた剣を受け止める。ぶつかり合った点を軸に杖を回転させて寝かせ、剣を跳ね上げた。そのまま袈裟懸けに振り下ろし、高い位置にあるウィルドの頭を狙うも、彼は背中を反らせて躱してしまった。

 リズは、全長の中ほどを握った両手を軸に、ときに自らの身体を軸に、杖を回しながら前へと踏み込んでいく。舞うようなその攻撃を、ウィルドは冷静に剣でいなしていく。だが、リズが杖の先端を魔術で凍らせて、棘のあるメイスを作り出すと、さすがに大きく後退した。

「躊躇いのない……」

「あるわけないだろ、そんなの」

 称賛とも呆れとも取れないウィルドの言葉に、リズの頭はより冷めていく。

「あんたの手加減を期待してるとでも思った? ナメんなよ。私はそんなに甘ちゃんじゃない」

 突き落とされた瞬間から、リズはウィルドの意思を理解していた。気まぐれでも気の迷いでもない。本当に殺意を持ってリズを殺しにかかっているのだ、ときちんと解っていた。

 だから、こちらも本気で相手をする。気を抜いて勝てる相手ではないと知っているから。

 二年間一緒に行動していた。なんならグラムよりも一緒にいることのほうが多く、相棒(パートナー)とさえ呼んでも良い仲だった。ウィルドのことは、誰よりも分かっている。それこそ、時間だけは千年もの付き合いのある四神の他の神様よりも、ずっと。

 リズは、杖を両剣に変形させた。二本の剣に分離し、それぞれを逆手に構える。

「覚悟しろよ。徹底的にぶちのめして、後悔させてやるからな」

 ウィルドの口元がわずかに笑んだのは、見なかったことにした。

 剣を握ったまま、右手を前に突き出す。青い魔法陣を出現させて、氷の礫を飛ばした。ウィルドが剣で弾いている間に、広いほうへと駆ける。剣こそ握っているが、リズは接近戦は得意ではない。だから、魔術が使えるよう距離が必要だ。

 青い魔法陣を自らの足元に出現させる。自分に掛かったのを確かめた後、紫の魔法陣を前方に出し、風の刃を飛ばす。接近してくるウィルドはサイドステップで躱した。

 変化した軌道の先にリズは氷の壁を置き、逆手のまま剣を掲げる。

「〝我と契約せしめし者、異世界の門を叩き、この地へと来たれ。我が呼ぶは、人の創りし幻、月追う狼〟」

 早口の呪文に応じて、白い魔法陣から黒い狼が現れた。ハティはリズを守るように立つと、一瞬だけ背後を振り返った。良いのか、と質問を投げかけている。

「……仕方ないよ」

 目を逸らしていた胸の痛みが、一瞬だけ強くなる。リズはそれを必死に振り払って、顔を上げた。

()るからには、全力で」

 障害を躱して接近したウィルドの剣を、左手の剣で受け止める。衝撃に腕痺れるのを堪えながら、右の剣を横に振る。一歩後退したウィルドに飛びかかる狼を見送り、リズは後ろへと走った。風や水、氷を飛ばすものの、ウィルドはハティに対処しながら、リズ攻撃を捌いていく。全力で相手しても、このザマ。

「あーあ、ホント嫌になる」

 口元に浮かぶ苦笑い。かすり傷を負わせることさえも難しい相手に、天を仰ぎたい気分。頼もしい味方は、敵に回ると厄介だ。

 分割していた両剣を一つにし、右手に持つ。左腕を振り、灰色のローブの袖の中から棒手裏剣を掌の中に滑らせた。親指と人差し指の間に挟み、投げる。首を傾けるだけで躱され、ウィルドの背後の壁に刺さった。リズは気にせず魔法陣を展開し、ハティと距離を取ったところで水を噴射させて、ウィルドを壁際まで押し流した。

 腕を交差させて顔を庇っていたウィルドが、前髪の下からこちらを睨む。頭も含めた上半身がびしょ濡れで不快そうだ。

「水も滴るイイ男……ってね」

 ウィルドを警戒しながらリズを守ってくれているハティの身体の向こうで嘲笑う。彼はこれまた剣呑な顔つきになった。不貞腐れているのが、また可笑しい。

 そんな彼の身体の少し左側に向けて、リズは掌を翳した。先ほど躱された棒手裏剣へと魔力を飛ばす。緑色魔法陣から蔦が伸び、前に出ようとしていたウィルドの腕に巻き付いた。

 さらにもう一本棒手裏剣を飛ばし、反対側も拘束する。

 鬱陶しそうに腕に絡む蔦を睨むウィルドの様子に、喉の奥から笑い声が漏れる。油断しているのは、あち

らのほうだ。徹底的にぶちのめすと宣言したというのに、まだ躊躇しているとでも思っているのか。

 神様のくせに、こんな小娘にやり込まれているなんて。

「いい加減、観念しなさいよ。あんたはもう、神様に向いてない――」

 ドスン、と。背後で重い物が落とされたような振動が届いたのは、そのときだ。

 強張った背筋をなんとか動かして振り向くと、石の巨人が赤い眼を光らせてこちらを見ていた。

「わ……ヤバ」

 グラムたちは、守衛(ガーディアン)をどうにかしてくれていたわけではないらしい。

 ウィルドの拘束を解き、守衛に背を向けてハティとともに逃げ出す。逃げる最中に厚い氷の壁をいくつか立てて追跡を妨害しておいたが、果たして何処まで通じるか。

 作動して白く光った中心の柱を大きく回りながら、どうするか考える。途中、壊れたもう一機の守衛を見かけた。グラムたちの苦労を察した。彼らの姿が見えないことから察するに、昇降機で上から逃げたのだろう。

 リズも彼らに倣い昇降機に飛び込む。白い箱に手を載せて、ハティとふたりで乗ったまま昇降機を作動させた。

 ――逃げられた。

 守衛のことなど、すでに頭になかった。一時でもウィルドの刃を掻い潜ったことばかりが、リズの頭を占めていた。

 安堵と同時に怒涛のように押し寄せる感情を、瞼を閉じて耐える。少し気を抜けば流されてしまいそうだった。上にグラムとリグが居ることだけを意識するようにする。心配など掛けてたまるか。

 ハティは還した。縋れるものがいることが、かえって辛かった。

 最上階に着いたときにはなるべく平静を装うようにしたつもりだが、双子の片割れがいる時点で、リズの敗北は決まっていた。すぐに心配され、あったことすべてを話すことになる。

 感情的にならなかったのは、リズにとっては幸いだった。

「ウィルドの奴も、何を考えてるんだかなぁ……」

 グラムは呆れた様子で肩を落とす。背中も丸めて、脱力してしまった。

「さぁな。おおかた意地でも張ってるんじゃないか? 無駄に生真面目で頑固者だから」

 リグは不機嫌そうに鼻を鳴らす。グラムが気まずそうに頬を掻いた。リズとしては、二人から共感を得ることができて少し満足している。やはりウィルドのほうが馬鹿なことをしているのだ。

「で、どうするんだよ」

 追い掛けて連れ戻すか、放っておくか。

 普通なら、連れ戻すのだろうが。

「放っとけば。どうせ西に行かなきゃいけないんだから」

 リズたちは戦場に行く。仲間を追いかけて説得している場合ではない。そう言うと、グラムはがっくりと頭を垂れた。

「あのさ……もうちょっとさぁ……」

 物言いたげにこちらを見上げるグラムに、リズは鼻を鳴らした。

「どうせまた、嫌でも会うことになるんだ」

 リズたちもウィルドも、エリウスの思惑の上だ。なら、いずれ引き合うことになるだろう。そういうものが、あの子どもは好きだから。

 そのときは、たっぷり嫌がらせをしてやろう、とリズは決意する。少なくとも、おとなしく死んではやらない。

「……怒ってんなぁ」

「当たり前だ」

 そう応えて、リズは口を固く引き結ぶ。大きく深呼吸。できるだけ感情を逃がそうとする。

「こっちも素直じゃないな」

 ぽつりとリグの声が耳に入った。触れられた肩が温かくて、リズはとうとう観念した。


 深更。

 リズに逃げられ、一足先にシャナイゼに戻ったウィルドは、借り住まいの部屋をあとにした。手には僅かな荷物。残りはこのまま置いていく。管理人は困るだろうが、一つ一つ処分している時間が惜しかった。

 一刻も早く、この街を出たかった。知った顔の人間に出会わぬうちに。

 寝静まった街は、星明かりも月明かりも届かず、深い闇に沈んでいた。魔術式の街灯が作り出す白く淡い光だけが、石畳の道を照らし出す。葉擦れの音が微かに降り注ぐ。そこでようやく、ウィルドは寂しさを感じた。

 ウィルドとしてこの街で過ごした時間は、およそ三年となる。うち二年間をリズたちとともに過ごした。千年以上の時を過ごしてきた中で、一番幸福を感じられた時間だった。『後ろ髪を引かれる』という言葉が表す気分を、ウィルドは初めて味わっている。

「……まったく、人の気も知らないで」

 自分の命を盾にしたリズの愚行に、ウィルドは溜め息を吐いた。死にたがりではないくせに。するとなったら、ウィルドが本気でそうすることを知っていて。

 自分がどれだけそれを避けたいと思っているのか、知らないで。

 もしも、を願ったことが、ウィルドにはあった。だが、いくら願っても時の流れはウィルドを置いていく。それをウィルドは強く痛感した。――エリウスの束縛からは、逃れられない。

『神様に向いていない』。リズはそう言った。そうだとしても、ウィルドはこの暗がりを進むしかない。

「行くのか」

 寮を出て最初の交差点。街灯の下で、レティアがオルフェを待ち構えていた。暗がりの中で、彼女の姿だけが光り輝いているように見えた。光神の名、そのままに。

「ええ。役目は果たさねば」

 対し、ウィルドは闇の中にいた。星明かりさえ遮られた、暗い暗い闇の中。

「望んだ道か?」

「選んだ道です」

 はっきりとウィルドが応えると、レティアはやれやれと頭を振って溜め息を吐いた。

「ここまで、頭が固いとはな。お前のような奴を馬鹿と言うんだ」

「どういう意味です?」

 ウィルドは眉根を寄せた。不愉快であるのはもちろんだが、そう言われる理由が分からなかった。だが、レティアは再度溜め息を吐くばかり。

「解らないならいい。行くぞ」

 金色の短髪を翻して、女神は行く。街灯の下から離れても、その髪は闇の中でなお目立った。その後ろをウィルドは闇に溶けるようについていった。道中会話はなく、黙々と二人は歩く。

 街を遠く離れるまで、ウィルドは一度も振り返らなかった。

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