役目
図書館の読書用の区画で金髪の女を見つけて、ウィルドは溜め息を吐いた。アリシア――今はフラウと名乗る彼女とは、神になる前から相性の良い相手ではなかった。互いにそれを自覚しているはずなのに、何故彼女はわざわざウィルドの職場としている区画にやってくるのだろうか。
ウィルドが身を置いている、〈木の塔〉で魔術史を専門とする部署は、図書室の管理もしていた。ウィルドが図書室に頻繁にいるのも、その一環。彼女にはそれを伝えていたというのに。
ウィルドはもう一度溜め息を吐き、フラウの傍へと近づいた。彼女が座る机の向かいの席に腰を下ろす。大判の本を眺めていた彼女は、顔を上げることさえしなかった。気付いていないのではなく、単に必要性を感じていないのだ。
と知ると、ウィルドの顔に苦笑が浮かぶ。傍目には、唇の端を少しだけ持ち上げた程度のものだが。
「昔から愛想がないと言われ続けましたが……貴女も相当だ」
フラウはようやく青い目をこちらに向けた。訝しげな顔を上げ、机に広げていた本に添えていた手の片方を、頬杖に変える。
「いつからそんなことを気にするようになったの?」
「さあ。……いつからでしょう」
はぐらかしたものの、ウィルドの中で答えは明確だった。――二年前。リズたちと出逢ってから。
ウィルドの顔に何を見たのか。フラウは奇妙なものを見るような目で、こちらを眺めてきた。
「信じられないわ。貴方はずっと、エリウスの忠実な懐刀だった。……いえ、その前も」
「〝言われるがままに人を殺す暗殺者〟……ですか」
ウィルドは笑う。
「なんとまあ、我が事ながら、酷いものです」
裁きの神などというが、単にエリウスが気に入らないと判断したものを、言われるがままに排除していただけだ。世界のためであれ何であれ、闇神オルフェが何も考えていなかったことには変わりがない。
千年も生きていて、この様だ。本当に酷いとしか言いようがない。
「……本当に変わったわね」
気怠げな反応をしつつも、興味関心は持たない。一貫してその態度だったフラウの顔に、驚愕が浮かんだ。
「あれで結構、強かで図々しいんですよ」
ウィルドが神の一人であると知ったあと、リズたちは都合良くウィルドを使った。古い知識に頼ったり、それこそ神が介入するほどの重大な事件に巻き込んだり。
一度は闇神の裁きを受けるところだったのに。殺されかけたことを忘れたのかと思うほどに、ウィルドの前に現れて、彼を引っ張り出した。そして、いつの間にかそれが当たり前になった。
これほど満ち足りた日々を、ウィルドは千年の中で味わったことがない。
「それで? どんな用事なのかしら」
面倒臭そうに口を開くフラウの言葉に、ウィルドは我に返る。相性の良くない相手を見掛けてわざわざ近付いたのは、決して腐れ縁だからという理由だけではない。
「ラスティくんのことです」
世界を破壊したアリシアの剣を持つ彼は、今旅立ちの準備をしているという。一度逃げたアリシエウスへ戻るための準備だ。グラムたちが、自分たちのことも放って、あれこれと世話を焼いているのを、ウィルドは知っていた。
「ついていくつもりなのでしょう?」
剣を使われることを防ぐ――それが、フラウの目的だった。
フラウは頬杖を止め、椅子の背にもたれた。開かれた本に視線を落とし、憂鬱そうに溜め息を吐く。
「私もね、それなりに責任を感じているの」
彼女の顔に滲む後悔が、珍しくウィルドの同情を誘った。
「剣ばかり優先してしまったけれどもね。助けてあげれば良かった、と思うこともある」
アリシエウスのことだ、とウィルドはすぐに思い至った。ウィルドもまた彼の国の建国理由を知っている。新世界にほとんど関心を持たなかったアリシアの、数少ない思い入れであることも。
決して神剣を預けたからではない。むしろ王族の命に比べれば、神剣などどうでも良かったはずだ。
だが、フラウは神剣を隠すことを優先させた。そこで彼女の本当の気持ちに気付けたのなら、と最近のウィルドは思うことがある。
何が変わったかなど、今さら知れないが。
「あの子だけは、なんて言うつもりもないけれど。せめて見守るのが、私の責任ね」
ウィルドは瞼を伏せた。
世界を破壊したあとの千年間、アリシアは神としての役割を果たさなかった。本当であれば、創造神に従って、この世界を維持するなにがしかの役目を果たすことになっていたというのに。アリシアはエリウスを避け、糸の切れた凧の如くふらふらと、神としての死ねない生を過ごしていただけのように、ウィルドには見えていた。
そんな彼女の口から出てきた〝責任〟の言葉には、重みがあった。アリシエウスの王族たちを死なせてしまった後悔によるものだけではない。彼女なりの信念を、そこに感じた。
「貴方こそ、この戦をどう〝裁く〟つもり?」
フラウからの問いかけに、ウィルドは潜り込んでいた意識を引き揚げる。
「今回私は、リヴィアデールに提供される戦力の頭数には入っていないので」
そもそもウィルドは、グラムを隊長とする小隊の一員ではない。〈手記〉探しも、名目上は助っ人としての参加だった。
だから、グラムたちが徴兵されても、ウィルドは自由だった。
「ですので、本業を優先して〈手記〉のほうを――」
「本業を優先するのであれば、それは不要だぞ」
割り込んだ声に、ウィルドはフラウと共に腰を浮かせた。寛いでいたとはいえ、その辺の有象無象が近づいてくるのに気が付かない二人ではなかった。そんなウィルドたちを出し抜ける相手など、限られている。
「……レティア」
光神。オルフェと並んで世界を維持する、四神が一人。
彼女の存在は、まさに太陽の如く鮮烈な光だった。黄色に近い金の短髪。翠の瞳。強い意志を宿した自信に満ちた笑みに垣間見える気丈さと豪胆さ、そして凛々しさ。誰もが心惹かれ心酔する、誰よりも女神らしい女神だった。
袖を肘までまくり上げた白のシャツと長くすらりとした脚の輪郭に沿った黒のズボンという、簡素な衣装であっても、彼女の神々しさは損なわれない。
彼女はどんな敵にも臆さない、自信に満ちた顔に笑みを浮かべて近づいた。こちらの敵意など、意にも介さない。
「どうやら都合悪く現れたらしいな。我らが最高神は、実に機を図るのに長けている。それとも、世界のほうが、彼に合わせているのかな?」
こちらの反応を面白がっているようで、ウィルドは苛立った。フラウとの相性は良くないが、レティア相手にはそれ以上だった。
「何の用です?」
「私は光神。希望と導きを司る。私が降り立つ場所に約束されるのは、英雄の誕生と神託だ」
勿体ぶった喋りに苛立ちながらも、ウィルドはその意味するところを苦労して汲み取った。
「エリウスの遣いだと?」
「遣いというのは、少し違うな。今回は先触れと言ったほうが正しいだろう」
「先触れ……?」
嫌な予感というものを、フラウは感じ取ったようだ。 珍しく話に身を乗り出して、不安そうな様子を見せている。
「役目を放棄した破壊神の目に適った男に、エリウスは興味があるようだ」
その途端、フラウは顔色を変えて駆け出した。本も片付けぬまま。おそらくそのまま外へ向かうのだろう。ラスティを捜しに。
レティアはそれを興味深そうに見送る。
「驚くな。千年も沈黙していた女神が、こうも血相を変えるとは。これまでのあれは、怠慢ではなかったのかな?」
「知りません」
違ったのだとつい最近悟ったウィルドだったが、それを彼女に教える義理はなかった。
そっぽを向いたウィルドに、レティアは拗ねたような表情を作ってみせる。
「まったく、可愛げのない。我らは世界の調和を図る二柱だろうに」
有事の際、光神は英雄を導き事態を収拾させ、闇神は罪人を裁くことで、世界の安寧を保つ。それがウィルドたちに任された、神としての役目。レティアの言うことは間違いない。
だからといって、馴れ合うつもりはない。
ウィルドはレティアの言を無視し、フラウが広げたまま放置していた本へと近寄った。何処かの絵描きの旅行記だ。その人が見て回っただろう景色が、創り直された世界の美しさを讃える文章とともに大きく写されている。彼女はこれを見て、何を思っただろう。
が、今のウィルドに、フラウの想いを辿る暇はない。この面倒な女神からさっさと離れるため、ウィルドは本を閉じ、拾い上げた。
「まあ、待て。我が役目は果たされていないぞ」
あまりに煩わしかったが、無視するわけにもいかなかった。ウィルドは本を抱えたまま、レティアを睨めつける。
彼女はゆうゆうと近くの椅子を引っ張り出して座った。それが本当にまた原立つ。
「まだ何かあると?」
「言っただろう。神の役目を果たす気であれば、禁術書を探す必要はない、と」
同時にまた焦りがあった。
思えば、本当にエリウスがラスティを見に来たのであれば、それをわざわざウィルドたちに伝える必要などない。エリウスも、ウィルドはともかくフラウの妨害があることくらい考えるだろう。フラウは、誰よりも先に神剣について邪魔してきたのだし。
であれば、レティアはエリウスの伝言役だ。ウィルドに何かしらの指示を持ってきたのだ。
聞きたくない。だが、何も知らないのも怖い。
ウィルドの脳裏に、三人の顔がちらつく。
「早く話せ」
殺意をも込めて睨みつけると、レティアはその高潔な顔を意地悪く歪ませた。
「エリウスは、闇神をご所望だ」




