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アリシアの剣  作者: 森陰 五十鈴
第六章 絡まる糸
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揺れる天秤

 知らない部屋で、二人きり。それが現在ユーディアの置かれた状況。砦の一部屋は、ソファーとローテーブルが置かれ、植物や絵画が飾られ、客間としての居心地の良さが出るように工夫されている。

 だが、ユーディアは今、とても居心地が悪かった。

 一緒にいるのは、リグだ。〈木の塔(トゥール・ダルブル)〉の魔術師で、ユーディアを詰問した男性。ラスティが出ていってからというもの、腕を組み、向かいのソファーにもたれてだんまりを決め込んでいる。それがユーディアには、たまらなく気まずい。

 別段敵視されたわけではないが、味方でもなく。彼らが自分の様子を窺っていることに、ユーディアは気付いていた。

 いや、そもそも。ここにユーディアの味方は一人もいない。むしろ国情を考えると、敵なのはユーディアのほう。彼らが優しいから、自分はまだ敵としての扱いを受けていないだけなのだ。

 それがひどく息苦しく、恐怖を掻き立てる。いつか彼らに掌を返されるかと思うと。そして、いつそうなってもおかしくない状況であることが、ユーディアの張り詰めた心の糸を震わせる。

「……甘い物は?」

 ソファーの上で固くなり俯いていると、向かいから声をかけられた。ぶっきらぼうでありながら、声の大きさは抑えめ。いつの間にかリグが身を起こし、焼菓子の載った皿に手を伸ばしていた。視線も皿に落として。だが、意識はこちらに向けられている。

「これ、エルザが作ったんだよ。ここの連中甘い物が好きだから、ちょっと砂糖多め。だけど、香草(ハーブ)が練り込まれていてさ、これがちょっとクセになる」

 鳥の形に抜かれたクッキーを摘み上げ、前歯で割る。クセになる、の言葉の通り、少し嬉しそうに食べている。そんなに美味しいのか、とユーディアも少し興味が出て、一枚取ってみた。花の形の黄金色の表面に、ところどころ浮いている黒っぽい線のようなもの。これが香草だろうか。

 齧ってみると、確かに甘味が強い。お茶なしでたくさん食べるのはつらいかもしれない、と思いつつ、次を拾い上げてしまうのは、ほのかに口の中に広がる爽やかな風味の所為だろうか。

 しかし、「美味しいです」の一言が出てこない。味覚に合わないわけではなく、その程度の言葉さえ喉の奥につかえてしまっていた。気が重く、口を開く気になれない。

 リグは、ユーディアの返事を期待していたわけではないのか、お茶が欲しい、などと呟いて扉のほうに視線を向けたりしている。気を遣われているのが、ユーディアには分かった。

 咀嚼することさえつらくなるほど、気が塞ぐ。目頭が熱くなるが、涙は流れなかった。いっそ泣ければ楽だったろうに。

「あんたは、ある意味ラスティよりも大変だな」

 ユーディアを気にして無視してくれていたリグが、いつの間にか神妙な顔でこちらを見ていた。

「従うか、抗うか。だが、あんたはラスティと違って、味方になってくれる人がいない」

 それは、リグたちもまた味方になる保障がないという宣言でもあった。ユーディアの選択が、リグたちの意志と合致するとは限らない。だから、リグたちは必ずしも味方になるとも限らない。

「逃げることは、できるかもしれないけど……」

 だが、やはり絶対的に頼れる味方がいるわけではない。ユーディアの選択には、孤独への覚悟か、信念を曲げること、どちらかが伴うのだ。

「……どうしたい?」

 できる限り助ける、と。リグは寄り添おうとしてくれる。何か応えようとして思考を巡らすが、様々な思いが泡のように次々と浮いて、弾けて。様々な感情が胸の中でかき混ぜられて、どれから言葉にすれば良いのかも判断がつかなかった。

 目を閉じ、頭を抱える。どうすればいいのか、本当に分からない。

 真っ暗な視界の中で、扉の開く音がした。

「なーんだ。二人しかいないじゃん」

 アーヴェントだった。お茶のおかわりを、と言って出ていった彼は、宣言通り淹れ直したお茶を持ってきたらしい。柔らかく爽やかで暖かな芳香が漂ってくる。

「おかわり、要るかぁ?」

 お道化たアーヴェントの声に、リグが自分のカップを差し出した。新しい茶を注ぐのは、緑色の女性――エルザだ。

 彼女はリグに茶を注いだ後、ユーディアのカップを覗き込んだ。空であることを知ると、ポットの口を軽く突き出すように示す。喋れない彼女なりの、質問であるようだ。

 ユーディアは一度彼女に視線を合わせ、それから何度か頷いた。失礼だと知りつつも、声はまだ出ない。

 手元から湯気が漂う。一緒に乗ってきた柑橘の香りが、ユーディアの心を(ほぐ)した。

「……ありがとうございます」

 ようやく出た声に、エルザは柔らかく頷く。アーヴェントによれば、彼女は植物が混ざった魔族。だが、ユーディアの目には、彼女は聖女のように映った。

 羨ましくなった。そして、悔しかった。

 忌まれる姿を持って生まれても、気高く在れる彼女が。神職の身でありながら、そのように強く居られない自分が。

 ただ、暴風に煽られる葉の一枚の如き自分の弱さが、とても辛かった。


 風に梢が揺れる。街全体を覆う陰が揺れる。緑と茶色の街のあちこちで木漏れ陽が踊る様を見下ろすのは、なかなか楽しかった。絶えず形を変える影の下、人々の暮らしは穏やかだった。西の果てで行われている争いとは縁遠い。同じ大地の上にあるのが信じられない。そうユーディアは感じる。

 魔族の集落(アズィル・フォーレ)から戻って、三日。ユーディアたちはぼんやりとシャナイゼでの日々を過ごしていた。街に出て彷徨い歩いたり、宿のベッドで微睡(まどろ)んでいたり。

 無為な時間に耐えかねて〈木の塔〉の図書室で読書を試みたりしたが、視線は文字を上滑りして、内容がまったく入ってこず、断念してしまった。グラムたちも気にかけてくれるのだが、会話に集中できず、毎度気まずい雰囲気の中で別れることになっていた。

 気晴らしさえできないほどの鬱々とした気分の中で、ずっと自分がどうするべきかを考えている。ユーディアだけでなく、ラスティも、レンも。

 特に彼らとは気まずくて、宿から飛び出して行き着いたのが、この〈木の塔〉の木の上にある展望広場だった。

 神殿騎士になるくらいだ、ユーディアはそれなりに神への信仰心を持っていた。崇め奉っていたのは、他ならぬ創造神エリウス。混沌の世界を創り直したという少年神を信じていた。いくつかの問題を抱えてはいるが、今の世界はかつてよりもずっと素晴らしく平和なのだ、と。その世界を創りあげた彼に感謝していた。ユーディア自身は、まるで不幸も不自由もない人生を送っていたが故に。

 しかし、現実は。

 如何なる理由か、国と国が争うきっかけを作り、一つの国を滅ぼした。一人の青年が何の責もないというのに全てを喪った。そこにはもしかしたら、人に図れぬ大義があるのかもしれない。しかし、ならば〈手記〉については? クレールが合成獣を造ったのならば。あの、とても生きづらそうな()たちが生まれてしまうようなことを促しているのが、エリウスなのだとしたら。

 それは、ユーディアが望んでいた姿と、まるで異なる。

「……望んでいた、か」

 自らの思考の呆れたところに気付き、ユーディアは溜め息を溢した。欄干に腕を置き、顎を埋める。ユーディアの信仰は、自分に都合の良い姿を少年神に当て嵌めていただけのものだったのだ。

 だから、悩む。裏切られた気分になる。そして、打ちのめされる。

 ユーディアは、きっと、もう――

「なんだ。お前もここに来ていたのか」

 聞き知った声に、心臓が飛び跳ねる。反射的に振り向いたそこに、黒眼黒髪の男性がいる。何処か気怠そうにしたその人は、白いシャツだけを着ていて、いつもよりも気楽な雰囲気となっていた。ズボンのポケットに手を突っ込んでユーディアを見る目は、物憂げな印象。だが、これが彼のいつもである。

 ユーディアは視線を落とした。その〝いつも〟が不思議だった。グラムたちとは違い、ラスティにとってはユーディアは紛れもなく〝敵〟だ。なのに彼は、何事もないかのように接してくる。沙漠でのあの態度のほうが、むしろ彼にとっては正しいはずなのに。

 しかし怖くて、それを指摘する気にはなれない。ユーディアは、誰かに嫌われることに慣れていなかった。

「邪魔をしたか」

 いつの間にかラスティは隣に来ていて、申し訳なさそうにする。ユーディアは慌てて頭を振った。

「いえ、そんなことは」

 だが、否定するユーディアを、なんだか難しそうな表情でラスティは見下ろしている。

「……なにか?」

 ラスティは肩を竦めた。

「よそよそしいな、と思って」

 ユーディアは目を剥いた。

「敬語、外していいぞ」

 これには狼狽えずにはいられなかった。何度でも言うが、ユーディアとラスティは決して馴れ合う仲ではない。

「まあ、無理にとは言わないが」

 物憂げな黒い眼差しが逸れる。街を見下ろす彼が何を考えているのか分からず、ユーディアは浮き足立った。

「恨まないんですか?」

 ――私は、クレールの人間なのに。

 アーヴェントの話によれば、クレールはアリシエウスを攻め落とし、吸収した。被害規模がどれほどかは、分からない。だが、騎士である彼が仕える主は、クレールに処刑された。

 ユーディアは、敵であり、仇だった。彼はその気になれば、クレール人(ユーディア)を手にかけることで、ささやかだが復讐を果たすことができるのだ。

 死にたいわけではないが。

 拒むことはできない、と思った。

 彼にはその権利がある。

「あんたがやったわけじゃない」

 さっきまでとは一転、ラスティは苦い表情で言った。眼下の街の何処かを睨みつけている。

 ユーディアの胸が冷たくなる。――やはり、憎悪がないわけではないのだ。

「でも、ご友人だったのでしょう?」

 嫌われていることを悲しく思いながらも追及してしまうのは、慣れていないからこそだった。不意討ちのように憎悪を向けられたくない。面と向かって拒絶されても耐えられるよう、覚悟を持ちたかった。臆病者の卑怯な予防線。

 だが彼は、決してユーディアに刃を振るわない。

「クレールは俺の親友を殺したかもしれない。だが、あんたは何もしていない。……それで良いんだ」

 そして、ラスティは欄干の手摺の上で、力強く両の拳を握った。

「……頼むから、恨ませないでくれ」

 ラスティはずっと、ユーディアへの憎悪と戦ってくれていたのだ。そして、ないものにしようとした。このシャナイゼで旅の仲間として過ごしたからだろうか。

 その義理堅さが有り難く、申し訳なく。

 右に左にと大きく揺れていたユーディアの天秤は、その傾きを一方に定めようとしていた。

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