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アリシアの剣  作者: 森陰 五十鈴
第五章 世界の姿
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掌の上

 幸い、カップは割れなかった。だが、茶は(こぼ)れ、服にかかった。ラスティの右膝の下のあたりから(くるぶし)にかけて(ぬる)い感触。

 拾わないと、と床に手を伸ばしかけたところで、絶望感に満たされた。膝に肘をついて項垂れ、片付けなければならないはずの水溜まりをぼんやりと見つめていた。

 思考が鈍い。身体が自分の物でないかのように重い。

「ちょっと待ってろ」

 向かい側でアーヴェントが立ち上がった。急ぎ足で部屋を出ていく。その間に身体の感覚だけは取り戻して、ラスティはゆるゆるとカップを拾い上げ、テーブルの上に置いた。

「大丈夫?」

 誰もが口を噤む中で、フラウだけこちらの様子を窺う。だが、気にかける言葉は、もはや無神経だった。――大丈夫なはずがない。

 膝の上で固く手を握りしめる。掌に爪が食い込む痛みが、正気を保とうとするラスティの拠り所となった。

 重い沈黙の中に、アーヴェントが戻ってくる。渡された手拭いで床を拭く。こちらに手を差し出したアーヴェントに返そうとしたところで、言葉が(あふ)れてきた。

「……アリシエウスがどうなったのか、知っているか」

 昨日、酒場にいたときから、ずっと気になっていたことをようやく尋ねた。話が立て込んでいた……などというのは言い訳で、恐ろしくて訊くことができなかったのだ。

 だが、今は聞かずにはいられなかった。

 ラスティを見下ろすアーヴェントは、少しだけ目を細めた。

「アリシエウスはクレールの手に落ちた。クレールは領地の支配を宣言し――王族の二人は処刑された」

 水を吸った手拭いが落ちる。視界の隅でユーディアが顔を覆ったのが見えた。ラスティの腕は、そんな彼女の前を通り抜け、アーヴェントを押し退けてフラウに掴みかかる。

「なんで……どうして!」

 彼女をソファーから落とし、襟首を掴んだまま床に押し付ける。

 創造神が神剣を求めているのを知っていたのなら、ハイアンとディレイスがどのような最期を迎えるのかも知っていたはずだ。知っていて、止めなかった。神剣をラスティに運ばせ、二人が死ぬのを容認した。

 他に手はあったのではないか、とラスティは思う。特に神ならば。アリシエウスへの侵攻を止めることができたのではないか。

 だが、アリシアはそうしなかった。自分の剣が奪われることだけを懸念し、行動した。敢えてだろうか。そういう筋書き(シナリオ)を、エリウスと作ったのだろうか。

「何がしたいんだ、貴女たちは!」

 ラスティの大事な主たちの命は、二人の神にお手玉のように弄ばれて散ったのだ。そうとしか思えず、ラスティの頭には血が昇る。

 対して、胸ぐらを掴まれた彼女は冷ややかだった。

「ここはあの子の箱庭。世の中はあの子の思うままよ。子どものお遊びにどんな意図があるかなんて、私は興味ないわ」

「お前っ!」

 襟首を掴む力を強める。グラムが立ち上がり、間に入ろうと試みていた。

 グラムの制止を聞いてもなお激昂するラスティを、これまでに見たことのないほど剣呑とした青玉の瞳が見据えた。

「興味はないけれど、腹は立つ。私が壊した世界で生き残って、それでもなお私を慕ってくれた大事な部下の子孫を、ここに来て喪ったのよ」

 貴方だけだと思わないで。

 怒気を押し殺した声。ラスティは、フラウの襟首を掴んだ手を緩めた。初めてフラウの感情を見たような気がした。何事にも興味を持たない彼女は、ハイアンたちのことなどどうでも良いのだと思っていた。

 少なくとも、彼女の本意ではなかったのだ。

「くだらない。何が世界の裏舞台ですか」

 ラスティが手を引っ込め、止めに入ったグラムが安堵で座り込んだ頃。皮肉げな声に振り向けば、ソファーの上で頬杖をついたレンが醒めた表情でこちらを見下ろしていた。

「蓋を開けてみれば、こんなお粗末な実状が眠っているだなんて」

「嘆かわしいだろ。俺たちは……禁術を使った魔術師も、魔族も、みんな、身勝手なガキの掌の上で、気まぐれに踊らされているだけなんだから」

 ラスティはリグを見た。禁術に関わりながらも闇神の裁きを逃れた彼らは、むしろ神の手から自由なのだと思っていた。

 リグは昏く笑う。

「生かされたからに決まってるだろ。面白そうだからって」

 役目に従い、禁忌を犯した者を裁こうとした闇神(あんしん)を、それだけの理由で止めた。自分で定めた理すら平然と塗り変える。それが、この世界の最高神。

「やっぱりもう一回、ぶっ壊しても良いんじゃないですか、この世界」

 吐き捨てて、レンは立ち上がった。ラスティたちの傍で膝立ちをしたままのグラムが顔を上げる。

「……どっか行くの?」

「外の空気を吸いに行くだけです。……何もしませんよ」

 皮肉げな笑みを浮かべ、わざとらしく両手を上げて、丸腰であることを主張する。誰も何も言えず、レンが部屋を出るのを見送った。

 扉を開閉する音が、やけに大きく響いた。

「ひとまず休憩にするか」

 考える時間が必要だろ、とアーヴェント。自分やリグたちのカップを覗き込み、おかわりを持ってくる、と言って、部屋から出ていった。

 衝動が過ぎ去ったラスティは、フラウから身を離し、床に座り込む。

「……すまない」

 立ち上がったフラウは、肩を竦めて部屋を出ていった。グラムもまた、退屈しのぎと称して部屋を出ていく。部屋には、床に座り込んだラスティと、ソファーの上で打ちひしがれるユーディア、その向かいで難しい顔で腕を組むリグだけが残された。

 沈黙が重い。暗い水底にいるようだった。息が苦しく、ラスティは天井を仰いで喘ぐ。

「……俺は、どうすればいい……?」

 神に従って神剣を持ち出し、別の神によって大事な友人を奪われ。神に翻弄されるばかりの自分は、いったいどうするべきなのか。

 王と王弟を喪った今、ラスティに運命に抗う気概はない。見えないこの先に、目の前がぐらぐらするばかりだ。

「自分で決めるしかない。エリウスに従うか、それとも抗うか」

 リグは組んだ腕を解き、右手を目の前に翳すように持ち上げた。彼は剣を握るが、その手は戦士というには少々細い。魔術師の手だ。その手で掴んだ禁忌は、彼らに何を齎したのだろうか。

「従えば楽だろうな。何も考えずに済む。責任も神様に押しつけられる」

「……そんな簡単なわけないだろう」

 責任の所在が何処にあったとしても、実行するのは自分自身だ。実感はきっとある。誰かの命を左右するものであるなら、なおさら呵責からは逃れられない。

「一つ言っとくと、奴は〝自分のこと〟を知っている者に付き纏うぞ」

 もう戻れない、とリズは言っていた。秘密を知る前には戻れないという意味だと思っていたが、そうではなかったようだ。

 エリウスは二人の前に幾度となく現れ、グラムも巻き込んであれこれと振り回したらしい。

 これから自分もそのような目に遭うのかと思うと、ますます気力が削がれていく。まるで玩具のようではないか。

「……アリシアは、エリウスに従順じゃないって、オルフェが言っていた」

 世界を破壊して以降の千年の間、彼女はエリウスに与えられた役目を放棄し続けた、と。

「他はともかく、彼女だけは信じても良いとは思う」

 神剣を使わせない、という彼女の言葉に嘘偽りはないだろう、とリグは言う。ハイアンとディレイスを救わなかったのも、苦渋の決断の末である、とラスティもまた、彼女の憤怒を前に理解していた。

 ラスティは立ち上がった。足に力が入らず、身体がふらつくのを自覚したまま、部屋を出る。

 よたよたと回廊を歩き、光差し込む小さな窓に目を向ける。穏やかな空気がそこにあった。子どもたちのはしゃぎ声も遠くに聴こえる。

 来た道をそのまま戻り、広場に出る。森の中の湿潤な空気が冷ややかで心地良い一方、差し込む日光は強く、熱を感じた。風が吹き、葉擦れの音。手入れされた色とりどりの花が眩しい。

 ただ足の向くままに歩く。十字路から外れ、芝生を踏んだ。子どもたちはまだ走り回っている。

 その中に、グラムも交じっていた。子どもたちを全力で追い回している。子どもたちは嬉しそうに悲鳴を上げて逃げている。

 邪魔にならぬように、と壁際に寄る。濃い影ができた場所に入り込むと、そこにレンが佇んでいるのに気が付いた。コートの頭巾(フード)を被り頭までも黒を纏う彼は、壁にもたれてぼんやりと子どもたちが遊んでいる光景を眺めている。

「見てくださいよ、あれ」

 レンはラスティに一瞥もくれないまま、顎でグラムを示した。

「すっかり溶け込んでますよ。あの人も子どもみたい」

「子どもの相手が上手なんだろう」

「どうだか」

 レンの声には張りがなかった。ぼそぼそと小さく、気を抜けば聞き逃してしまいそうだった。

 少年の顔には、表情は一切なかった。紙のように真っ白で、魔族に対する憎悪も、神に対する呆れも、何も描かれていない。

「……姉さんなんです」

 唐突な話題の転換に、ラスティは首を傾げた。レンは少しだけこちらに顔を向け、虚ろな笑いを溢す。

合成獣(キメラ)にされたの。故郷に男の人がやってきて、勉強を教えてくれるっていうから、二人で通ってました」

 今にして思えば、それはただの餌だったのだろう、とレンは語る。子どもたちの面倒を見るふりをして、実験の素体となる人間を選別していたのだ。

 そして、レンの姉が選ばれてしまった。

 背には白く大きな四枚の羽根。頭には牛の角が付けられ、足は猛禽類の如き鈎爪、尻には獅子の尾。絶望的におぞましく哀れな姿で、姉は泣きじゃくり、殺してくれと懇願した。

 レンはその願いを叶えた。

「生きていても、まともな人生を送れるはずがないと思ってました。姉さんは見るからに化け物で、とても人に混じって生きていける身体じゃなかった。だけど――」

 再び表情を失った赤い瞳が、無邪気に走り回る子どもたちを映して揺れる。

「こんな所があるなら、殺さなきゃ良かったなぁ……」

 遠慮なく人間の青年に群がる異形の子どもたち。ラスティの目にも、その光景はまさに理想郷のように映る。穏やかで微笑ましく、幸福な一場面。

「残酷だ、この世界は」

 レンがいくら手を伸ばしても、目の前のそれを掴むことはできない。

「エリウスは、世界を良くするために、世界を壊して創り直したんじゃなかったんですかね」

 これでも以前よりマシなのか、というレンの疑問に、ラスティは答えられなかった。

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