三話 買い物戦争①
倍返しだ……!
朝の支度は熾烈を極めた。
後片付けを含めるとゆっくりと出来る時間は皆無だった。
朝食をかきこみ、すぐに片付ける。
洋平が出立した10分後、由奈も慌てて家を出た。
信号一つの待ち時間が、果てしなく長く感じられた。
定刻ギリギリで出社した由奈を見て、同期の麻里が声をかけてきた。
「随分と慌てて来たわね。ついに始まった、そんな感じ?」
手にした紅茶入りのマイボトルを揺らしながら、けらけらと麻里が笑う。
「マジ地獄。建設会社に慰謝料請求したいわ」
デスクに突っ伏すように、由奈は項垂れた。
オフィスの窓から差す光がやけに眩しく見えた。
「なら、ウチにくる?」
「止めとくわ。夫が狂っちゃう」
由奈は麻里を品定めするように、上から下へと眺めてこたえた。
ジム通いの洗練されたプロポーション。
優雅な一人暮らしから来る多趣味と社交性。
そしてその優れた顔立ち。
全てにおいて由奈は勝てる気がしなかった。
帰り道、国道沿いのスーパーへと寄り道した由奈は、初めて訪れた店の品揃えを逐一見て回った。
品質は悪くない。問題は値段だ。
「あ、いつもの店より安い」
由奈は大喜びで豚こま肉を買った。それも一キロ。
グラム94円。
いつもより数円ではあるが、これから財布の紐を否応なしに固くする必要のある由奈にとって、この数円が数万円のように感じられた。
「ただいま戻りました」
由奈が居間へ入ると、既に憲三の両親、貞夫とトメが夕食を食べていた。
憲三は風呂上がりのビールをあおっている。
「おかえりなさい」
絵里子と洋平がキッチンから顔を出した。
「これ貰ったから食べよう」
洋平が餃子を皿に盛っている。フライパンで焼くだけの簡単なものだが、味は意外と悪くない。
「すみませんお義母さん」
由奈は一礼し、買ってきた食材を少しガタつく荷台に置いた。
「あら、焼け野原によったの?」
「ええ、初めて行きましたがお肉が安かったんです」
焼け野原とはスーパーの名前だ。
セールの後には何も残らない。そんなつもりで店長が名付けたらしい。
「どれ?」
「これです」
由奈は一キロの豚こま肉のパックを見せた。
すると絵里子は眉をひそめてパックを由奈へと返した。
「これなら別な店の方が安いわ」
「え、何処ですか?」
安さに喜んで買った由奈にとって、その情報は驚きというよりもショックだった。
「チラシを見て勉強しなさい。好きに見ていいから。勉強も主婦にとっては必要事項よ」
絵里子は夕食が広げられたテーブルの上に置かれたチラシを指差した。
朝の忙しい時間にそれを見ると思うと、由奈は少し嫌気が差したが、背に腹はかえられない。やるしかないと腹をくくるのに、そう時間はかからなかった。
次の日から由奈はチラシのチェックを始めた。
帰り道に立ちよれそうなスーパーは全部で三つ。
昨日行った焼け野原と、石英商店、そして大手スーパー店のマルベニーだ。
幸い三店舗ともチラシが入っていた為、由奈はそれをスマホで撮影し、すぐに朝食の支度へと取り掛かったのだった。
「何見てるの?」
見慣れないサラダと謎の肉を挟んだサンドイッチを片手に由奈のスマホを覗き込んだ麻里は、画面に映るチラシの数字を見て眉をひそめた。
「安いとこ探してる」
「その労力と時間が勿体なくないかな?」
その都度適当な店で欲しい分を買っている麻里にとって、一般的な主婦が普段行っている価格比較は、徒労に等しいと感じていた。
「正直私もどんぐりの背比べだと思ってるけど」
「けど?」麻里が首をかしげた。
「流石に塵も積もればって思うとね」
「ふ~ん」
麻里は近くのカフェでテイクアウトしたサンドイッチを一口かじり、そしてよく分からないといった顔をした。
退社後、由奈は今日も焼け野原へと向かった。
今日は三店舗の中でココが一番お得だからだ。
「はぁ!?」
お目当ての玉ねぎをカゴに入れ、何気なく通ったお肉コーナーに由奈の素っ頓狂な声があがった。
「豚こま肉グラム90円!?」
由奈は見間違いかと思い何度もその数字を確認した。そしてスマホのチラシをのすみに【肉の日大特価!】の文字を見つけたのだった。
昨日買った豚こま肉はグラム94円。その差額は4円。一キロで40円である。
どんぐりの背比べではあるが、主婦にとって昨日今日の差額は十分に痛手となる。豚こま肉の不良債権の出来上がりだ。
意気消沈して帰宅した由奈。
買い物袋を荷台に置くと、ちらりと絵里子の視線を感じた。
何か言いたげな顔を向け、由奈が手にした玉ねぎを見て笑った。
「どこで買ったの?」
「焼け野原です」
その応えに絵里子は口元を押さえたが、笑いは目元にまで現れており、あからさまであった。
「明後日の方が安いのに……」
由奈は耳を疑った。
「バレーはデータ戦。石英で教わらなかった? あ、ゴメンねスタメンじゃなかったんだっけ?」
由奈の表情が凍り付く。笑顔のまま。
「いつまでも高いモノ買ってちゃ主婦は務まらないわよ?」
こっちへ来て間もないのですが。
そんな言葉を呑み込んだ由奈は「すみません」と一言だけ謝った。笑顔のまま。
「でもこれは自分で覚えないといけないから。そうね、もし私より安い買い物が出来たなら、その時は石英雑巾をしてもいいわよ?」
由奈は久しく聞いていなかった単語に、一瞬後れを取った。
「えっ? あれを……ですか?」
「そうよ?」
自信満々に由奈を見下ろす絵里子。元バレー選手な事もあり、その身長は由奈よりも大きい。
現役時代に噂だけで聞いたことがある石英雑巾。
それは雑巾に頭を付け、地面をぐるぐると回る行為を差す。
体罰ではないかと指摘され、由奈の時代には既に消えていた三半規管が鍛えられるといわれ行われていた、悪しき指導方法であった。
「出来るかしら、ね」
鼻で笑い、絵里子は風呂へと向かった。
由奈は玉ねぎを握りしめ、絵里子の後頭部へとジャンプサーブを打ちたくなる。
しかしバレーから離れて幾何年。
しかもサーブが下手という理由でスタメンに選ばれなかった今の由奈に、それを決める自身は無かった。




