9.「いつも通り」が難しい
ショートが終わった夜は中々眠れなかった。寝ようと瞼を閉じると、暗闇の中でヴォドレゾフの演技が浮かんでは消えていく。
ショートとフリーの中日は、練習用のリンクでフリーの最終確認をした。午前中を練習に当て、午後はペアのフリーを観戦する。ペアの日本代表は出場していないが、他競技を観戦するのもいい刺激になった。カップル競技を生で見る機会なんて、なかなか巡り会えない。
ロシアのペアの演技は繊細で美しい。かと思ったら、ダイナミックなスロージャンプを見せる。流れるようにステップを踏み、ラフマニノフのピアノ協奏曲を滑り上げる。アメリカのペアはパワフルだ。スポーティで、振り付けに余計な装飾がない。シャープな動きでアランフェス協奏曲を滑る。
「なんか楽しそうだな、お前」
夕食の席で、長澤先輩がオニオンスープを飲みながら言った。
「今日は競技がなかったから、練習を切り上げてペアの観戦をしたんですよ。楽しかったですよ。先輩も見に行けばよかったのに」
ペアを見に行った理由は他にもある。ヴォドレゾフを探すためだ。
彼と話してみたい。あの時何か言いかけたんじゃないか。俺がどんな変なことを言ったのか。君は何を言おうとしたのか。
小さい頭は埋もれてしまったのか、会場に来てはいなかったのか。見つけられずに今日の日程が終了した。自国の選手を応援に来ていると思ったのに。
その代わりに、ショート3位のアメリカの選手は見かけた。アンドレア・モリスという均整の取れた体つきの少年だ。オリーブの瞳と、黒髪は少しくせが入っていて、不良っぽい雰囲気を持っていた。昨日はお疲れ様、君のルッツすごかったねと言うと、お前も若い割にすごいじゃねえかと褒めてくれた。
「お前、それで十四か? おっそろしいな。まぁ、フリーで負けるつもりはないけどな」
結果は結果として。認められたのは嬉しいものだ。素直に称賛しあえるなら、覚えたての英語も役に立つ。
アンドレア・モリスは十七歳。長澤先輩の一つ年上だ。世界ジュニアは二回目で、去年は二位だったという。
去年はロシアのニキータ・ワガノフが優勝した。ワガノフは今年のロシア選手権も制し、ヨーロッパ選手権も二位と健闘している。名実ともにロシアのエースだ。そしてアンドレアと同い年である。
同い年のロシア人が既に自国のエースとして活躍し、シニアの世界でも渡り合っている。早く自分もシニアの舞台に上がりたい、そのためにはまずは、去年銀メダルで終わった世界ジュニアを制す。
その彼に待ったをかけたのが、俺とヴォドレゾフだったわけだ。
「しかしショート一位のやつ、何モンなんだろ」
「アンディも知らないの?」
話すうちに、アンドレアのことをアンディと呼ぶほど打ち解けていた。
「知るわけがない。十三歳なら、君よりも年下だろう? 去年まではこの大会には出られないからな。まじ舐めんなって思ってる」
いつも通りってなんだよ、と空を睨んで呟く。
いつも通り。ユーリ・ヴォドレゾフが記者会見で放った言葉である。
アンディは、ヴォドレゾフのこの発言が気に入らなかったのだ。敵視しているのが窺える。しかし、言葉の裏には恐れも混じっていた。いつも通りに滑っただけという生意気な発言に苛立ちを感じたのは本当だが、最年少の少年が規格外な演技をしたことへの恐怖もあるのだろう。
「だから明日のフリーが勝負だ。お前らを全力で倒してやる。覚悟しろよ」
不良じみた笑顔で、アンディが言い放った。俺はそれを好意的に受け取った。去年大会で二位だった実力者に、全力を出さなければ勝てない相手だと認識されたのが嬉しかった。だけど俺だって負けるつもりはない。
アンディとは和やかに別れた。そんな話を、長澤先輩は長く息を吐きながら聞いた。
「やっぱりマサはタフだな。他の選手と話すとか、俺は流石にそんな気分になれねえよ」
「先輩は何してたんですか」
「んー? ちょっと練習した後は散歩。ミネアポリスも滅多に来れないから。留佳にお土産買いたいし」
「なんだ、先輩も結構満喫してるんじゃないですか」
お土産考える余裕があるってすごいですよ、いや、俺はお前ほどタフじゃない、別のこと考えないと胃がキリキリしそうなんだよ、何言ってんですか、ここぞというときに力を発揮するのが先輩じゃないですか、などと二人で言い合う。
そんな俺たちを、神月先生が黙って見つめていた。
*
男子シングルのフリーは最終日だ。アイスダンスのフリーダンスの後、男子シングルが始まる。
長澤先輩は第三グループ最終滑走だった。ウォームアップを中断してリンクサイドに観にいく。
トリプルアクセルはまだ習得していない先輩だが、五種類のジャンプを難なく飛べる。そして滑りの質がいい。膝がよく曲がり、ひと蹴りでよく伸びる。加えて背が高い。神月先生が振り付けた「雨に唄えば」を、主演俳優のように滑り上げている。
先輩は最終組六人を残してトップに立つ。その結果を眺めながら、俺は六分練習のために氷の上に降りた。アンディの滑りは乗っている。もう一人のアメリカ代表選手、カナダの選手、フランスの選手の様子を眺め見て、最後にユーリ・ヴォドレゾフに目が留まった。
襟元や袖に上品なフリルがついている。ボトムスは黒。ひときわ細く、昨日と変わらず無機質な瞳をしている。人形みたいに綺麗だ。
自分の練習をしつつヴォドレゾフの動きを追った。小柄な体が前向きにジャンプを跳ぶ。三回半回って降りてくる。無駄がなくそれでいて優雅だ。俺やアンディとは違う。自分のスケートは、彼のものと比べると明らかに伸びていない。あと五センチ、いや、十センチ足りない。
これではいけない、と小さく頭を振るう。このまま練習中のヴォドレゾフの動きを見続けると、自分が劣っている箇所と、優っているかもしれない部分を探してしまいそうだ。
今までの自分ではあり得ないことをしている。その事実に静かに動揺しながら、ルッツジャンプの軌道に乗った。
「昌親、珍しく緊張してない?」
六分練習が終わり、ストレッチをして体を温め続けていると、神月先生が口を挟んできた。会場からはアンディの曲が聞こえてくる。公式練習で何度か聞いたそれは、「オペラ座の怪人」だ。
「緊張、しているように見えますか?」
「顔がいつもより硬い。ビビってる?」
「……わかりません」
いつも通りを心掛けられていない。気がつけば俺は、自分の演技よりもヴォドレゾフについて考えてしまっている。この間の全日本ジュニアの時、こんな感じに留佳の顔も固かったのかと今更ながら思い至る。
規格外の演技をいつも通りと言い表した年下の少年。
細い体と、トリプルアクセル。演技中の無機質な顔と、昨日のバックヤードで見せた揺れるビー玉の瞳。見た目はまるで子供なのに、滑っている時の姿はシニアにも引けを取らない。現状の俺が劣っている部分も見受けられるのに、声をかけた時に動揺した彼の姿がちらついている。
実力は大人そのもの。多分それだけの、綺麗すぎる小さな子供。そのアンバランスさが気になって仕方がない。そして気になる自分に、少しだけ苛立つ。……俺、こんなに苛立ったことあったっけ? いや違う。こんなに誰かを気にしたこと、あっただろうか。他の選手の演技は応援する。だけど、自分は自分のやるべきことをやるだけだと、一線を引いてきたはずなのに。
煮え切らないでいる俺の横で、神月先生が薄く笑った。
「……どうしたんですか?」
「今の状態が私は嬉しいのよ。あんた、いつもは飄々としてるのに、妙に真剣な顔になっちゃって。これもロシアのあの子のおかげかしらね」
「どういう意味ですか?」
意図を測り損ねる。疑問を残して滑りたくないので、
「大会が終わる頃にはわかる。だから今焦って答えを探らなくてもいいのよ」
拍手と歓声が会場から伝わってくる。アンディはいい演技をしたようで、励ましよりも称賛の意味合いが強い拍手だとわかる。現在の順位が発表されると、さらに会場が湧き上がった。
第四滑走の選手が終わった頃、俺はストレッチを取りやめて会場に入った。モニターで順位を確認すると、アンディがトップに立っている。長澤先輩は五位だ。入賞は確定している。
キス&クライで笑顔のカナダの選手とは裏腹に、表情に何も宿していないのは、リンクサイドに佇む指導者と、向き合うユーリ・ヴォドレゾフの瞳だ。
これからユーリの演技が始まる。もう体は十分温めた。彼の演技を、最初から最後まで誠意を持って見つめなければ。
……何故だかそういう心地になっていた。




