第224話 答え―多次元宇宙の解明―前編
黄昏が遡り、それは昼の陽射しとなっていた。
フレークシルバー王国の緑豊かな大森林が覗ける廊下。
降臨したのは、昼の女神。
バアルゼブブが抱えていた秘密を、これからの約束へと昇華し。
大魔帝ケトス達が動いていた本当の理由を理解し。
けれど、私の成長が間に合わなかったことで計画は破綻しかけていた。
だからだろう。
師たる女神アシュトレトは黄昏を逆行しながら顕現し、ふわりと大地へと着地していたのだ。
彼女はまずバアルゼブブに微笑みかけ。
『そなたのわだかまりは解けたようじゃな』
『うん……け、けどね。あ、あたしが内緒にしてたのは、こ、これだけじゃなくて』
あわあわとするバアルゼブブの唇に立てた指を当て、女神アシュトレトは顔を横に振り。
『よい、妾から話そう。妾はしばしレイドと大魔帝に話がある――』
『……。そ、それじゃあ。あ、あたしは一旦、戻るからね』
『他の者たちの事は頼む』
『ほ、本当に大丈夫? あ、あたしが一緒に居ても、いいよ?』
気遣うバアルゼブブの提案に、アシュトレトは小さく頭を振っていた。
空気を読み陽射しの影へと溶けて消えていくバアルゼブブ。
その影に感謝するように瞳を閉じ。
女神アシュトレトが美の女神たる姿を輝かせ微笑み始めた。
『さて――だいたいの事情は把握しておる。大魔帝らの目的も、そして制限時間までに間に合わなかったことも。もっとも、こうして妾が顕現しているという事も計算の内だと言うのなら話は別であろうがな』
大魔帝と女神アシュトレトと、奇妙なトライアングルを作りながら……。
ふぅ……と息を吐いた私が言う。
「さてそれはどうでしょうか。未来を眺める、そして未来が見えてしまう未来視は扱いの難しい能力ですからね。何度も見えてしまっている、ほぼ確定している未来を変える事は難しい。今回の場合もそうだったのでしょう。大魔王の世界の命、そして魔王軍を蘇生するためには多くの禁術が必要だと思われます。あなたの行動制御まで手が回ったとは思えませんよ、アシュトレト」
『ふふふ、レイドよ。あくまでもこれは妾の意思、動かされているわけではない。そういうことにしたいのであるか?』
「実際そうなのではありませんか?」
問われたアシュトレトは、困った顔をしてみせ。
ふわりと優雅な髪を揺らす。
『さて、どうなのであろうな――妾がそうであると思い込んでいるだけやもしれぬ』
その髪には人類との交流の名残……。
エルフの貴族たちと共に購入した、異国の髪飾りが輝いていた。
アシュトレトは本当に、成長したのだろう。
告げた後、女神アシュトレトは大魔帝ケトスに目をやり。
そのモフモフなるドヤ顔に、つぅっと瞳を細め。
『異界の魔猫王よ。憎悪の魔性よ。流れてくる逸話魔導書により実在やその功罪は知っておったが――よもや、妾まで駒にしようとは。随分と厚顔な魔のケモノよな』
大魔帝は慇懃に頭を下げてみせ。
やはり落ち着く低い神父の美声で、静かに応じていた。
『それは失礼いたしました。けれど、これでもあなたには多くの敬意を払ったのですよ。黙示録の同胞よ』
『妾たちは終末黙示録に刻まれし者。反救世主である大魔帝ケトスに、バビロンの大淫婦たる妾。そして、救世主たるそなた』
アシュトレトは私を眺め。
口元を緩めて告げていた。
『我が夫よ、今までの旅路はどうであった』
「良い思い出も、悪い思い出も――全てが私の中で輝いておりますよ」
『そうか、ならばよい』
言って、女神アシュトレトは赤き衣を纏いだし――その身を変え始めていた。
姿を神話に刻まれし、妖艶なる美妃へと変貌させたのだ。
その手には不浄を集めた金の杯。
周囲には美妃の名にふさわしき、神に従う蛇を侍らせていた。
妃という言葉の成り立ちにもある、女性に絡みつく蛇。
かつて楽園に在った蛇たちだろう。
金の杯。
その聖なる盃が、彼女の手の上で姿を変え始める。
彼女がみせたかったのはこれだろう。
神話に刻まれし異形なる女神の姿となったアシュトレトの手に乗る、その書。
魔導書は――。
『そなたを教育するにあたり、妾が参考にしたのがこの書であった』
「……魔王聖典、ですか」
そう。
私の三分の一の書でもある。
「確かに、あなたに魔術を教えたのはかつて楽園に在った頃の私。ならばあなたも私の弟子と言える存在。そうなると……」
『そうじゃ、妾もまた賢者の弟子。世界を壊さぬようにと、世界を調整するために育てられた魔術師と言えよう』
そうだった場合。
この混沌世界に転生してからの歩みも、彼女が望む望まぬは別としてある程度のベクトルが与えられていたと考えられる。
アシュトレトが言う。
『この意志ある書は弟子を作り、先の未来を変える。主に大魔帝ケトスが世界を滅ぼしてしまうルートを変更するべく配置されていたようであるが……妾の場合はどうであったのであろうな。答えはわからぬが……この書が妾を弟子とし、そして更にその妾がそなたを弟子とする』
何も知らずに転生した私はアシュトレトに魔術を習った。
ならば――。
「私もまた、魔王聖典の弟子というわけですか」
『はて、なんと言ったらよいか……孫弟子とでもいうのであろうか。しかし、どうであろうな。この書を入手した時にはもう既にそなたの修業もだいぶ済んでおった。妾がこの書に導かれたのは、そなたの姉ポーラを看取った後のこと……あれは不意に現れおった』
姉ポーラを看取った事で、何かアシュトレトに変化が起こったのだろう。
だから、魔王聖典は顕現した。
そしてアシュトレトは魔王聖典を入手し……。
……。
しかしアシュトレトほどの魔術師ならば、その書の正体を把握していた筈。
その中にある、三分の一に切り裂かれた魔導書としての私の存在も察知できていたはずなのだ。
多少、面白くない感情が芽生えた私は吐息に声を乗せていた。
「……結局、あなたも魔王聖典の中に私の三分の一の魂が含まれていると知っていたのですね」
『ふふ、そう拗ねるな。予想はしておった。なれど答えを知らなかったのは本当であるぞ』
確信していたが確かめはしなかったのだろう。
ともあれ、とアシュトレトは続きを語りだす。
『気付かぬうちに妾も魔王聖典の弟子として動いておったというわけじゃな――行動を制御されていた、或いは向かう先を調整されていたのだとしたら……あまり良い気分ではないがな。まあ、三千世界の平和を掴むように動いていたと考えれば、悪い事ばかりではあるまい。妾は――今の世界が好きじゃ』
それは。
紛れもない本音なのだろう。
世界の終わり――終末に現れる大淫婦の姿をしながらも、アシュトレトは清らかな笑みを浮かべていた。
それがこの世界で彼女が掴んだ成長。
女神アシュトレトは姉ポーラを看取った時、一番に、まつろわぬ存在として歪められていた心を取り戻していた。
私もダゴンもバアルゼブブも、まだ心という概念をよく理解していなかったが……彼女は違った。
一人だけ、老婆となった姉の死に涙を流していた。
あの光景は、今でも忘れない。
ダゴンもバアルゼブブも当時は泣き方を忘れていたが、今は違う。
ダゴンも泣いた。
バアルゼブブも泣いた。
アシュトレトはとっくに泣いていた。
けれど、私はどうだろう。
……。
混沌世界での暮らしで感情を知った彼女達に比べて、私は――いまだに成長できていない。
満足に泣くことができていない。
それが。
私が至れていない、何よりの証拠なのだろう。
ああ……と私は悟っていた。
「満足に泣くこともできない。私はまだ、あなたがたとは違い……歪められた性質が直ってはいないということなのでしょうね」
私の成長が間に合わなかったのだ。
そんな私を見たからだろう――アシュトレトは僅かに息を吐いていた。
複数の考えの中から言葉を選ぶように、ゆったりと口を開き始めていたのだ。




