◇70迷宮への招待5
茜色に染まる温室に響く、軽やかな足音。
「何事です!姫様の御前ですよ」
とっさに私の前へ出ようとしたキャサリア。その肩に手を触れ制する私。いつも血色の良い頬をさらに色づかせてユシグ付きの少年、ランソ君が温室に飛び込んで来たのだ。
「申し訳ありません。侍女殿に先にお話を通すべきでしたが………」
「良いのですよ。ここに皆集まっていたのだから、仕方ないでしょう。それで、どうかしましたか?」
利発そうな瞳は不安げに揺らいだが、私が笑ってみせると唇の端をきゅっと結んだ。
気遣うような眼差しに、頷きを返し、言葉を促す。
思いのほか早かったと言うべきなのだろうか。
それとも、予想通りだと、言うべきか。
「………陛下のお召しでございます」
ランソ君が告げると、今度は揃ってキャサリアとクラウスの息を呑む気配がした。
*****
夕食を終えて、入浴と、衣装替えも済ませた。
髪と化粧をキャサリアにやってもらい、クラウスの先導でユシグの居室へと向かう。
すっかり夜の帳が下りてしまった廊下は聖紋の灯に照らされて、何度見てもやはり幻想的だった。
入浴後の今頃は、普段なら部屋で本を読んでいる時間だ。キャサリアに代わって、彼女を鉄面皮に無口にしたような侍女が、私の部屋の前の廊下で待機している姿が思い浮かんだ。
当然ながら、部屋からは出してもらえず、温室も図書室も行けない。こうして、こんな時間に廊下を歩くことなんて、いつもなら出来ない。以前歩いたのは、ユシグから呼び出しがあった時のことだ。
あの時は、結局すっぽかされたのだけれど。
夜ならば、逃げ出す隙がもしかしたらあるかもしれないと、一度仮病を使って確かめたこともある。
夜中に腹痛を訴えてみたところ、キャサリアは当然、クラウスの姿も無かった。しかし、代わりに確かに何者かが、その侍女以外にも一人いるようだった。
鉄面皮の侍女は、その姿を見せない誰かと連絡を取り、その者によって、深夜にも関わらず医師の資格を持つユシグ付きの侍従が寄越されてきた。キャサリアたちに比べてはるかに得体の知れない者たちの存在に、僅かな希望も潰えたのだった。
今の私の状況は、あの処刑塔に幽閉されていた頃よりも悪化している。これでは、自称、案内人だと自己紹介してきた男が入り込むのは難しい。
あの男の協力がなければ、ここから出られないのに。
接触する機会は、ここにいる限りはないのだ。
指定された時間までにはまだ少し余裕がある。
宵闇に沈む温室の扉を開けて入る私の後ろを、クラウスが付いてくる。
何を言っても聞かないと諦めているのか、温室で鋏を手に白や紫の花を数本選んで生花のコサージュをいくつか作る私にハンカチが差し出された。遠慮なく使わせてもらう。
「近いうちに会えそうですよ」
クラウスに言うと驚いたようだった。誰が、とは聞いてこなかった。
少し前に私からクラウスに渡した詩集。それが、ランソ君に渡り、私からのメッセージもランソ君に伝わっていることは、直接ランソ君に確認済みである。
先程受け取った詩集の中に『彼女』からの返答として、何かメッセージがあるとでもクラウスは考えただろうか。
キャサリアは気付いていないようだったが、あの本はここの図書室の蔵書ではない。
「貴方に御礼を言います。本を届けてくれてありがとう」
「ランソ三位官から預かったものです。アストリット様から御言葉を頂戴する程のことではございません」
素っ気無い口調だが、それだけだ。悪意も警戒心もことさら滲まなせないクラウスへ鷹揚に頷いて、また歩き始める。
温室を出て、今度こそユシグの居室へ向かう。
どこから持ち込んだかは知らないが、あれは彼女から託された本だろう。そしてクラウスはきっと、おそらくーーー本をくまなく調べたのだろう。
しかし痕跡を見つけることは出来なかった。
異世界から来た守護者に、私の教えたフラワーアレンジメントを、ランソ君は渡してくれた。確かな根拠はない。が、強いて言えば、見事に活けられた廊下の花瓶の花が確信を深めてくれたように思う。
その鮮やかなニナの花々を眺めて、息を整える。
クラウスによって開けられる扉へ視線を向けた。
通されたのはいつかの寝室ではなく、書籍の詰まった本棚が壁面を占める部屋だった。書斎とでも呼ぶべきような空間は、寝室よりも多少狭かった。
クラウスは閉じられたドアの向こう側に控えているのだろうが、ここにはユシグと私だけだ。
ハンカチで包んでいたそれを、ユシグに見えるように机へ置いた。
息を呑む様子は演技のようには見えない。
温室で作った生花のコサージュはユシグの母親が、精神を病んでからも作り続けていたもの。アストリットが母親から貰ったコサージュを、かつて少年だった頃の彼は見たはずだ。アストリットの作ったものとの違いは分かるのだろうか。
今、彼に渡したのは、アストリットの母親が作っていたものと、同じものだ。
これを見て、彼は私がアストリットの記憶を取り戻しつつあることを、確信するだろう。
ユシグは手の平に乗せた白いニナに視線を向けたまま暫く無言だった。
度重なる政務のせいか、少し顔色が悪い。それでも、相変わらずの際立った美貌は、数真と同じだ。
数真。私の、弟と同じ顔。
「姉上。なぜ、これを?」
応えの代わりに彼を見つめる。
コサージュをテーブルへ置くと、机を回り込んでこちらへ来たユシグは、両手で抱え込むように私を抱き締めた。
「昔、姉上から頂いたものと同じですね。やはり、姉上は………俺のことを、ご自分のことを、思い出されましたか」
自分の中で得体の知れない生き物が胎動するような感覚に私はごそりと身じろいだ。
「それは………違うわ」
アストリットの記憶は、断片的だが数多く私の中に蓄積している。
でも、それは他人の記憶。
彼の姉、アストリットは死んだ。
仮に私が、彼の主張する通りにアストリットの生まれ変わりだとしても、もう人格は別なのだ。
「姉上?」
「夢で、見ただけよ。だから、思い出したわけじゃない」
「そうですか。夢で、ね」
「思い出したとは、言えないのよ」
「じゅうぶんですよ」
満足げなユシグの声が染み渡ってゆく。
緊迫感が和らいだところで、私は話を持ち出した。
「それより、何かお話があったのでしょう?」
「姉上に会いたかった、のが一番ですよ」
「でも、多忙な貴方がこうして時間を作れたのは、それなりの理由があるのでしょう?」
私の首筋に掛かる髪を触っていたユシグは、そうですね、と呟くと、私を柔らかく抱き締め直した。
「今日、貴女にここへ来てもらったのは、確かめなければならないことがあったからです。もうお察しだと思いますが、異世界から来た女のことを、貴女はどれだけ知っているのですか?」
ユシグの花嫁候補。
日本から来た若い女性。
その話をするために、ユシグは私を呼んだのだ。
「彼女に接触したでしょう。貴女は、彼女の存在を知っていた。それは、誰から聞いたのです?」
初めてユシグに会った時に、彼自身が私に嫌味たっぷりに言っていた、その存在。
ユシグが質問を重ねる。
「俺が仄めかした以外で、誰が貴女に彼女がこの神殿にいると教えたのですか?」
誰も教えていないと私が言うと、さらに私を抱き締める力が強くなった。
「誰です?キャサリアですか?それともクラウス?………ランソ?答えて下さい、姉上」
私の顔が見えない位置で質問をするユシグは、既に答えを出しているのだと思う。表情で私の真意を図る必要がないのだから。
おそらく、私が花を使って自分の存在を花嫁候補に伝えたことも、ランソ君を利用したことも、ユシグはある程度は掴んでいる。
それなのに、質問を重ねてくるのは。たぶん、私の口から言わせたいのだろう。
ランソ君を王の反逆者にする訳にはいかない。利用しておいて、調子が良い言いぐさだ。しかし、直接言葉にするのとしないのとでは、その重みは違う。
「彼女に会いたいと思えば、そのために出来ることを私はするのだから、誰を処罰しても、同じでしょう。それが気に入らないのなら、私を独房にでも入れたらいい」
「ずいぶん、強気ですね。私がそうしないとでも、思っているからですか?」
「私の気持ちなんて、関係ないでしょう?」
私をアストリットだと思いたい彼は、あの処刑塔へ私を戻すなど、到底無理な話だろう。だからこその強気の発言。
「姉上は、相変わらずですね」
てっきり嫌味か皮肉で迎えられるかと思っていたが、彼のとった行動は私の予想から外れていた。
私の耳元に熱い息が触れた。
「あ、っ!?」
そのせいで、びくりと身体が震えてしまう。身じろぎをした私の体を包むように、ユシグが抱き直してくるが、まるで、逃さないと言わんばかりの態度に、上げかけた私の腕は途中で止まってしまった。
「彼女は、私の花嫁候補ですよ。異界人ではありますが、ただそれだけの存在です。きっと今回もユラドーマは花嫁とは認めないでしょう。婚姻契約は成されず、彼女は神殿からいなくなる。そんな相手と会ってどうするというのです?」
安心させるように髪を撫でてくる。
「不安なのですか?ユラドーマ神の定めた相手として、彼女と俺が婚姻するかもしれない、と?」
「っ」
からかいを含んだ言葉に、かっとなった。
「そんな心配をするはずがないでしょう」
ふざけないで。
言いかけた言葉の代わりに、ぐい、とユシグを押しのける。今度は問題なく腕は滑らかに上がり、彼と私との距離を作る。素直に身を引いた彼は、余裕のある表情でこちらを観察していた。
「姉上に、睨まれるのも、ひどく懐かしいですね」
睨む私と、どこか面白がっている淡い茶色の瞳と目線が絡む。
「それよりも、その異世界人に会わせてもらえるのかどうか、答えて」
花嫁候補は、この街の守護者になる予定の者。
いや、この街の新たな守護者となる者が、花嫁候補なのだ。
逆ではない。
だから、例えユシグが反対したとしても、彼女が願えば大抵のことならば叶う。それが、この街の利益、つまり貴族院と、ユラドーマ神殿の長老たちの権益を損なわない限りは。
私の置かれている立場を詳しくは知らないだろう彼女が、私との面会を望むならば、誰かに助力を願うだろう。
それは彼女に近づく貴族か神殿の関係者か。
ユシグが彼等から要請されれば、どうなるか。
王といえども、独断で拒否は出来なくなる。彼は強大な権威を持つが、神殿の実働部分は長老と呼ばれる大司教たちが末端部分まで握っているからだ。
神殿が神殿として機能するには、長老たちの意向を無碍には出来ない。
貴族に対してもそうだ。
遠くからユラドーマ神殿の権威を狙う大陸や、その同盟都市がこのユマに食指を伸ばさない保証はない。
これらの勢力に対抗する力を持つ貴族たちの意向を、一蹴することは王として許されない。
そして、何よりもユシグは私の存在が公になることを恐れている。アストリットの生存は今はまだ、一部の権力者にしか知られていない事実だが、表沙汰になれば、大陸や他の都市国家にまで知られてしまうだろう。
答えは、もう出ているのだ。
新たな守護者となる彼女に、私の存在さえ気付かせられれば………こうなることは誰でも予想はつく。
そして、それを逆手にとった私の言動は彼にとって面白いはずがない。
一国の王として、弟として、こういうやりとりは不快なはずだ。
それなのに、そんな態度は全く見せず、
「そこまでして会いたいのなら、許可してもいいでしょう。ただし、条件があります」
ユシグは底知れない微笑を浮かべた。
「姉上に、新たな護衛を増やします。他にもありますが、後ほど連絡します」
いかがですか?と小首を傾げる。
それだけ、なはずは無い。
出来るだけ無表情を装って頷いた時、彼がおもむろに声を上げた。
「それと、次の間に酒を用意してありますので、付き合って頂けますか?」
びくりと肩を揺らす私を面白そうに見つめ、私の手を優雅に取るとエスコートするユシグ。
完全に、彼のペースだ。
「そう怯える必要はありませんよ、まだ」
呟きが微かに聞こえた。
「さあ、行きましょう」
極上の笑みで優しげに振る舞う弟によく似た男が何を考えているのか、理解できなかった。




