◇69迷宮への招待4
一部訂正しました。
「当面、私がお願いするまで、花籠作りは取り止めにして下さい。それと、今日は貴方が花を活けて下さい。私は部屋へ戻ります」
私の宣言に驚いて息を呑む様子を確認すると、私は立ち上がり、ロングドレスの裾を捌いた。
「ここは、本を読むには日差しが強すぎるわね。活けた花籠は、いつもの部屋に持って来てもらえるかしら。お茶も用意してね。お菓子も頼めるかしら」
「畏まりました」
「図書室に寄ってから戻るので、慌てなくていいわ」
「はい。アストリット様」
甘い茶色の皮に染色された図柄は、モチーフは一目瞭然だが、具体的に何を表現しているのか分からない。装丁が美しかったので図書室から持ってきていた詩集だ。それを手に取って、私は歩き出した。
花と詩と、騎士に侍女。
それに、王女。
ーーー王女、ね………
物言いたげな二人の視線を振り切るように、考えを振り払う。温室を出てしばらく歩くと立ち止まった。
私の寝室の前だ。
「いくら近衛でも、ここから先は貴方が入ることは許されないのではないかしら?クラウス」
「恐れながらアストリット様に申し上げます。図書室へはお出向きになられないのですか?」
「貴方が一人で取りに行きなさい。この詩集の作者のものならなんでも良いから、一冊持ってきて頂戴」
現王ユシグの姉であり、かつ前王の娘であるアストリットの寝室に入る権利など、いち近衛騎士にあるはずも無い。そもそも、アストリットの失踪騒ぎの発端を思えば、絶対に許されるはずがない。
クラウスは、私の視線にも怯まずこちらをじっと見つめてくる。
さっきは図書室に行くと言ったのに、なぜ急に寝室に戻るのか理解出来ないとその目は語っている。真意を探るような静かな眼差しが向けられた。
「お茶は、いかがなさいますか」
「後にするわ。少し一人にして」
クラウスは動かない。自分で扉を開け、私はクラウスの側を通り抜けた。
「それは、出来兼ねます。アストリット様」
そう答えると、しなやかな黒豹のような足取りで、私に続いて室内へと踏み入ってくる。午前中、私に付き従うことは余りない彼は、基本的に夕方から夜間の警護を任されている。その例外は温室の花当番くらいだった。
「クラウス?私は下がりなさいと言っているのですよ」
さらにきっぱりと言いながら振り返り、仰ぎ見ると思ったより近くに彼は立っていた。細身だと思っていたがそれでもやはり騎士だ。鍛えられた体躯から醸し出される重量感。筋肉のせいなのか分からないが、その威圧感に息を飲みそうになる。忘れていた訳ではないがクラウスはやはり、私の護衛兼監視役なのだと実感させられる。
「………キャサリアと交代なのでしょう?下がって休んでかまわないわ」
「お心遣い感謝いたします。ですが、侍女が戻るまでの間でございますので」
平然としたまま、恭しい態度は崩さず申し渡しを退けてくるクラウスに、悪びれた様子はない。
「では、この部屋から出てキャサリアを待ちなさい」
私を見下ろすアイスブルーの瞳には柔らかさの欠片もないのがよくわかるが、じっと見つめて言ってみた。
「あの扉以外に出口はないのでしょう。私を放って置いても構わないのではないかしら」
「恐れながら。それを決めるのは、私ではありません。どうかご容赦下さいませ」
私の意見は聞かない、ということか。
クラウスは退かない。
私を決して、本物の王女だとは信じていないのだ。キャサリアに従う彼は、彼女の意見に合わせてはいるが、内心では私のことを疑っているに違いない。
私が、本当にアストリットなのかどうか。
姿勢を低く保ち顔を下げた騎士を、どうしたものかと見つめる。予想はしていたけれど、こうも信用されていないとは………
唯一の、外部との出入口である扉は騎士によって守られている。聖紋が自在に使えるユシグは別だが、他の者はあの扉を通らなければこの居住区からは出られない。王の許可のない私は外には出られないのだ。
言い換えれば、王の許可のない者は誰であっても扉を越えることは出来ない。安全なことこの上ないように思える。
そんなに身辺警護しなくても、良いように思えるが。
しかし、案内人………処刑塔に入れられていた私に接触して来た謎の男は、例外だった。
ユシグは直接には知らないみたいだったが、その存在を薄々嗅ぎつけて警戒していたように思える。
それに、神殿の長老たち。なかでも、原理主義者たちがアストリットの生存を知ればまた何か仕掛けてくるかもしれない可能性は、否定出来ない。過去を振り返れば、杞憂とは言えなかった。
結構、私の周りはきな臭いのだ。
あらためて考えてみると、クラウスが私から離れないのは仕方が無いことなのかもしれない。
彼にしてみれば、私は守るべき存在であると同時に、王であるユシグをある意味においては脅かす存在でもあるのだから。だからと言って、素直にクラウスに従うかと言えばそれはないのだけれど。
「男性と二人きりになるのは淑女として褒められたことではない、そうではなかったかしら?貴方も例外ではないと思うのだけれど」
いいかげん、退いて。
そう言外にたっぷりと匂わせながら、険しい表情でクラウスの名前を呼び返答を求めると、ようやく張り付いていた微笑をそっと剥がして彼は口許を開いた。
「アストリット様、発言してもよろしいですか?」
「ええ」
伏したままなので、睫毛の長さが目に付く。この角度からだと、キャサリアとよく顔立ちが似ている。
「では恐れながら申し上げます。子どもとはいえ男性と、二人きりで何度も過ごされる行為は如何でしょうか。陛下はお許しを下さられていますが、実際にその場の光景を御覧になられたら、また違う感慨をお持ちになられるやもしれません」
まるでミカエルのような言い回しに、私は眉をひそめた。
「つまり、貴方は私を脅迫、しているのかしら?貴方の言い分を通さなければ、ランソのことを陛下に申し上げる、と?」
「アストリット様が私の言葉をそのようにお聞きになられたのでしたら、私は否定できませぬ。お許しを」
呆れたような私の声色にも、表情一つ動かさず答える騎士。
部屋の外に出てキャサリアを待てと言っているのに、なぜ聞けないのだろう。
直前まで迷いはあった。でも、彼が頑迷なせいだと自分に言い訳をする。さんざん、忠告はしたのだ。
やるしか、ない。
「そう。わかりました。では、質問の仕方を変えましょうか」
すっ、と息を吐いた。
覗き込むように、クラウスにグイと近づく。反射的に後退りしたクラウスの服の裾を掴み、その腕を取った。手に持っていた詩集を彼の手に握らせる。今までの私ならこんな動きは不可能だっただろう。アストリットの武術は護身術程度だが、なかなかの手際だ。有無を言わさずあっという間に距離が縮まった。
怪訝そうに動揺をみせた瞳に満足を覚える。詩集を持たせたその腕をゆっくりと引き彼の顔を近づけさせ、耳に囁いた。
「貴方は、私が本当にアストリットだと信じている?」
「………何を仰られているのかわかりません」
「恨むなら、ご自分を恨みなさい」
「は?」
クラウスの驚愕に見開かれた瞳。
「何を?!」
ことり、と詩集が床に落ちる音。
それを他人事のように耳で確認する自分がいた。
思ったよりも、柔らかいな、と場違いな感想を抱いて、素早く彼から身を離した。
「服でも乱してベッドに倒れ込みましょうか?」
信じられないものを見るようにこちらを見つめ茫然とするクラウスに、微笑してみせる。彼でもこんな顔をするのかと妙に感心した。機嫌よく肩を竦めて、何でもない風に彼に言ってみる。
「そのうち、キャサリアがここを探し当てて戻って来るでしょう。その時、貴方はなんて弁明するのかしら。楽しみね」
「………」
クラウスの真剣な面持ちから滲み出る剣呑な気配に押されないよう、しっかりと背筋を張り、相手を見上げる。
流石に抜刀まではしないだろう。そう思いたい。
次第に落ち着きを取り戻したクラウスは渋面を向けながらも、私から何歩か距離をとったままだ。帯刀した腰に手を伸ばしかねない気配。さすがは騎士。一度は許しても、二度はない、と。そういうことか。
「………脅迫、なさるおつもりか」
「物騒なことを言わないで下さい」
困ったように笑ってみせる。
「いいえ。でも、そうね………次に陛下にお会いする時、うっかりお話してしまうかもしれないけれど」
「貴女様は何を考えておられる?陛下のお怒りに触れれば、私だけではない、貴女様も咎を受けられるのですよ」
説き伏せるように話しかけてはくるが、こちらを射る瞳は険しい。まるで敵に降伏勧告でもしているかのようなクラウス。それはそうだろう。この居住区はユシグの領域だ。
私がユシグに疑いを持たれれば、ユシグはきっとクラウスに問い質す。そうなれば、近衛騎士として居住区内を護衛する以上、ユシグの聖紋の縛りを持つに違いない彼が、言い逃れることは難しい。近衛騎士という彼の身分を賭けて嘘を付いて、それでもそのうちに明るみになるだろう。結果、役職を解かれることになる。
そんな経緯で近衛騎士を解かれた人間が、この国で生きてゆくのは易しいことではないだろう。王に忠誠を誓っているミカエルの一族であるなら、なおさらだ。
そんな近い未来が見える。彼にとって、私との不祥事は非常に危険な事態なのだ。
たかがキス、されどキス。
だから、クラウスは必死になる。
「咎、ね。陛下は私を絞首刑にでもする?たかが口付けで、さすがにそれはないでしょうね。陛下はお怒りにはなられるでしょうけど、私の言い方一つで貴方の処遇は変わる。貴方が拒まなかったと、私が言い添えれば、どうかしら?」
「私から陛下に事実を申し上げます」
「別に構いません」
「貴女の言葉を陛下は疑いになられる」
「そうね。疑り深い方ですものね。だから、私の言葉なんて信じない。でも、貴方のことも信じないわね。
人の心なんて移ろいやすいもの、だもの。
そして、人を好きになるのは止められない。急に私の心が貴方を求めたとしても、おかしくない。そうでしょう?」
「おふざけになられるな!」
「近衛騎士の任を解かれそうな貴方に比べれば、私の受ける罰はまだ軽いものになるでしょう。私にとっては大したことではないわね。でも、貴方にとっては、どうかしら?」
クラウスの呻き。私は目を細めて苦笑した。
これでは、まるで私のほうが悪役みたいだ。
ユシグは、仮に私が自分自身をアストリットであると認めた場合、私を愛するかもしれないが、それはあくまでアストリットを愛しているだけのこと。
そのうち、やはり本物ではないと分かって、私を殺し、更にアストリットを転生させようとする可能性は高い。
つまり、結局のところ私は彼に殺されるのだ。早いか遅いかの違いだけだ。ここから、脱出するしか生きる道はない。
「二人きりで、こうして過ごしているうちに気持ちが傾いた。自然なことでしょう?」
「ありもしない、ことを………」
吐き捨てるように言い放つクラウスを見上げて、私はまた首を竦めた。怒りを露わに出来ない苛立ちをびしびしと彼から感じる。怖くないかと言えば、はっきり言ってそうではない。私の言葉と態度にクラウスが怒り心頭にきているのだ。私の心臓はばくばくと鳴っている。
「そうかしら。相手がランソだというよりは、まだ信憑性はあるかと思うけれど?」
ーーー言った。
「は…」
ぐっと詰まると、次にぎりぎりと口元を噛み締めて、クラウスは今にも私に掴みかかりそうな勢いだ。冷たい印象を与えるはずの秀麗な容貌が怒りを孕んで熱くなる様は、迫力がある。
殴られてもおかしくない。
しかし心中はともかく、実際には出来ないだろう。それこそ、私の望むところだからだ。
「貴方がどう言い逃れをしても、陛下がどう思われるかが問題でしょう。二人きりで寝室にいて、口づけをしたのは事実なのだから」
ともかく、余計な茶々を入れている場合ではなかった。
折角作った時間を無駄に浪費してしまう。
「………目的は、なんです」
今更過ぎるが、こんなふうに扉の前で言い合うのはマナーとしてよろしくない。クラウスも私も互いに気にしていないとはいえ、そろそろキャサリアが私たちを探してこちらに足を向ける危険性が出て来たことに、クラウスも思い至ったらしい。
「話が早くて助かるわ。貴方にお願いがあるの」
今度はのんびりと笑ってみせたが、クラウスは険しいままの表情を、いっそう硬くしただけだった。
陛下に肩入れをするあまりに、アストリットの記憶を得た私に甘いキャサリア。まるで本物のアストリット王女であるかのごとく、彼女は私を丁重に扱うがしかし。
もちろん、私はアストリットではない。
クラウスの瞳が、なんとも正視し難い昏い光を含んで私を射る。ちょっとやり過ぎたかと、背筋に後悔の冷や汗が滲んだが今さらだろう。
油断した彼が悪いのだ。
花籠作りという意図の不明な行為に耽る私を訝しむ気持ちはあったのだろうが、自分がターゲットにされるなど、彼は考えもしなかったのかもしれない。
ただ、私の行動が徐々にランソだけでなく温室の庭師や、神殿付きの侍女にまで、花籠を通して影響を与えるようになったことに、彼は危機感を覚える余り、警戒心が強くなり過ぎてしまった。
急に花籠作りを止めると私が言い出して、それは最高潮に高まったのだろう。
隙を突いて、キャサリアとクラウスを切り離すことに成功したが、その後の流れについては、余りに上手く行き過ぎて、自分でも信じられなかった。
クラウスはキャサリアと同じくミカエルに通じる一族の人間。
彼らはユシグに忠誠を誓ってはいるが、その内容と濃度には差がある。
私が付け込む隙は、そこにしかない。
*****
「アストリット様、大変お持たせしてしまい誠に申し訳ございません」
「いいのよ。私も、本を選ぶのに手間取りましたから。貴女のお花、よく出来ているわ」
「お褒めにあずかり光栄でございます」
私はキャサリアの入れてくれたお茶を味わいながら、彼女の活けた花を眺める。
クラウスは、はたして私の要求通りにやってくれるだろうか。
つい先程までのやり取りを思い返し、深く息を吐く。
ーーー
「これを、ランソ君に渡して」
落ちていた本を拾って、軽くページをめくると閉じ、改めてクラウスに差し出す。
「私のお気に入りの詩集です。好きな言葉のところに、栞を挟んであります。ランソ君に渡す際、伝えるように。
………遥か遠き処より来りし魂の癒しになりますように。必ずお渡しするように、と」
これで、クラウスはキャサリアと一枚岩ではなくなった。元からそうではなかったかもしれないが、少なくとも、以前のようには私の意向を無視には出来ないだろう………
ーーー
*****
朗読を止め、弟に声を掛ける。応えはなかった。
規則正しい呼吸音。あどけなく僅かに開いた唇。
端正な顔立ちに、歳に似合わぬ疲労の濃い影を見つけて、私の胸は重苦しくなる。
それを除けば、寝顔は普通の子どもだ。線のまだ細い身体にとうてい似合わない重責を担う彼を、私はただこうして側で見ているだけしか出来ない。
私は手を伸ばし、寄せられた眉根にそっと指を当てる。うっすらと声が漏れたが、起きる気配はない。
どうやら彼は深い眠りの中に入り込んでしまったようだった。
「………こんなに、皺をよせて」
本を脇へ置くと、起こさないように膝掛けを肩まで掛け直してやる。ソファでうたた寝するなど、よほど疲れが溜まっているのだろう。
「あね、うえ………俺を、あい………下さ………」
まるで子どものように、泣き出しそうな表情は、見ているこちらまで苦しい。
どんな夢をみているのだろうか。
母親から疎まれて育ったユシグは、時々、まるで幼い子どものように私の膝をねだる時があった。
膝枕で彼の頭を撫でる。
ユシグのために、私が出来ることなど小さいが、それでも何かしてあげたかった。
彼が欲するものは、なんでも叶えてあげたい。それが、彼の心に開いた風穴を塞ぐことにはならなくても、ユシグの悲しい顔は見たくない。だから。
「ユシグ。貴方は私の一番大切な人。たった一人の弟なのだから………だから」
だから。離れられるはずがない。
それに。
思い出したように、私はくすりと微笑を浮かべる。
「与えられた運命を、忘れるはずがないでしょう?」
夢を見てしまったとしても。
それは所詮、夢なのだ。
愚かな夢など、叶うことはない。
私に差し出された温かい手を取ってはいけなかった。
暖かな日差しに煌めく金の髪と、梢で騒めく緑の瞳に、救いを求めるのは、浅はかな愚かな行為。
髪を撫でる。
弟の柔らかな茶色の髪。
顔立ちは似ていないけれど、髪の質や色合い、肌の色や感触は明らかに周囲の者とは異なる。
血の繋がりは、甘く、重苦しい。
けれど、安心出来る。
この、息の詰まりそうな甘美な閉塞こそが、安寧なのだから。
「貴方は、私の全て………」
そう伝えたかった。
ーーーアストリットは、儚く微笑する。
*****
彼女の記憶が私の感情を不自然に揺さぶる。
白い光に包まれた明くる朝。また、私は泣きながら目覚めた自分に気づく。




