◇68迷宮への招待3
ほんの些細な変化。
古来から変わらぬ風習に針の穴ほど穿った程度の、そのほころびを変化と呼べるのならば。
浮き立つ心を唇に浮かべる。
それだけでは満足出来ず、闇の中で洩れる…嗤いを含んだ声。しめやかに流れるその響きが絶える。
「報告は以上ですが、いかがなさいますか?」
こちらの思惑など全く気にもしていないくせに惰性で問うてくる男にふと意識を向けた。
「お前ならどうしたいか?」
「さようでございますね…愉しみは後にとっておく方でございますので、迷います」
「では、放置する、か?」
気付かぬ訳では無かったが、日毎大胆になる現象にどのような反応が返るかと監視はさせていた。そしてとうとう動きがあったと報告があったのだ。しかもこの男、直々からだ。
報告だけしてみせて、後は我関せずというほど、謙虚な存在ではないことは十分に分かっている。
だから、質問をしてみせたのだ。
「時は選んで、愉しみはじっくりと味わうのが、わたくしの流儀。慌てては勿体ないでしょう」
「あえては聞かぬが、分かって申しているのだろう?まあ、よい」
「お任せ下さい…御心配なさいますな」
やはり、まともに応えは帰らぬか。
相変わらずの含みのある物言いに、しかし不快な態度は示さなかった。なぜなら不遜な言動は今に始まったことではなく、いちいち取り上げるだけ徒労に終わるだけだと身に染みているからだ。
「くれぐれも、無茶はせぬように」
「御意」
飄々と腰を折る仕草を横目で払うと、また闇の中へと消えて行くのだった。
***
ユシグ付きの侍従であるアマルとハルシオ、エミーレは、同じユシグ付き侍従のランソとは違い、もっぱら外回りの仕事が多いのだが、それでもほとんど神殿から出ることはない。
ランソがユシグの居住区からほとんど出ることのない、お側付きの役回りであるのに対し、アマルたちは神殿内部と居住区の間に係る用向きを担当している。政治的な関わりは親衛隊と呼ばれる王専属の近衛騎士が用向きを束ねているので、いわゆる身の回りに関する伝達や、物品の采配が多い。少数ではあるが王専属の料理人や室内管理担当者などの部下もいる。これらの者たちを束ねる役目も仰せつかっているのだ。
それだけではなく、ランソの睡眠や自己研鑽の時間を作るためにその仕事も受け持つこともある。
王付きの侍従は交代制で、日中はおおむねランソがいる時はランソを含めて二人体制、夜間は一人。基本的に休みはない。が、もちろん、不満などない。
気働きが高度に求められる重要なお役目であるため、誰でも代わりが直ちに務まる仕事ではなく、それゆえ王の信頼も篤いと心得ている。
近衛騎士にも侮られることはない同等以上の地位を頂いているのが、彼らの矜恃である。
久しぶりに回ってきた当番だったが、その日、アマルが温室に花を受け取りに行くと、そこはちょっとした活況を呈しているところだった。侍女たちが何かについて、声高に話している。
「可愛らしいですわ!なんと素晴らしい」
「このような贈り物を頂けたら、女性はみな、お相手を好ましく思うに違いありませんわね」
前回アマルが花を受け取りに温室へ来た時には、このようではなかった。無骨なテーブルの上に置かれてある切花を持参の容器に入れ替え王の居住区内へと運んだだけだったというのに、今日の騒ぎはどういうことだろう。
侍女たちは、 アマルたちと同じ素材で作られてはいるが、王付きの者が纏う黒ではなく、神殿内の役職者付きである証の、薄水色の膝丈の上衣を身に付けている。あくまで優美に腰の辺りで絞られ、緩やかに広がった裾からは同色の下衣が覗いていた。髪をきっちりと纏めながらも、どことなく華やかな女性たちの群れになんとなく近寄り難さを感じて遠巻きに眺めていたのだが、そんな彼を見付けた顔見知りの侍女が、声をあげた。
「ああ、アマル様。アマル様もどうぞご覧になって」
「クラウス様がお持ちになった花籠を、みなで素晴らしいと申していたのです」
「花籠、ですか?」
仕方なく近づくと、作業用のテーブルの前には僅かに困惑顔のクラウス、容器に入れられた花の束とそれに…籠に立体的に盛られた花がちょこんとテーブルに置かれているのが目に入る。
「確かに、これは…珍しいですね。クラウス殿が作られたのですか?」
見たこともない花の飾り付けだ。
「ああ、アマル様。いえ、私ではありませんよ」
クラウスの即答に、そうですか、とにこやかに応えつつアマルは思案する。
このような華やかな細工を考えつく人間がいるのかと、感心はする。
が…それを持ち込んだ当のクラウスはといえば、その話題を避けるようにそそくさと帰り支度を始めているのだ。なぜ親衛隊騎士の彼がこんなところで花の運搬をやっているのかも、おそらく聞かれたくないのだろう。
そう察したので、とくに追及は止めておく。
いつの間にか、一度は散ったはずの侍女たちにまた、クラウスと一緒にアマルは取り囲まれてしまっていた。
「今日は、ランソ様はいらっしゃらないのですね」
アマルに、先ほどの侍女が話しかけてくる。
「ええ。彼に何か用事でも?」
「いえ、それほどのことでもありませんわ。ランソ様は、お花がお好きでいらっしゃるので、いつも相談させて頂いているのです」
「そうなのですか」
「花瓶に、あのように花を納めるなんて、私などではとうてい思いも付きませんわ」
確かに、最近のランソは妙に張り切って、花を飾っているようだが、このところ王の身辺が儀式の準備もあり慌ただしかったこともあり、アマルはそれほど気に留めていなかった。
二人が話している横で、別の侍女が花籠の作り主について蒸し返している。
「あの、クラウス様。クラウス様でないのなら、では、どなたがお作りになられたのでしょうか?」
躊躇して聞けないアマルを代弁したかのような質問だが、しかし、相手が誰であれ、やはり聞かれたくなかったようだ。
クラウスは表情の読めない美しい貌を、顰めた…と、アマルには思えた。
愛想よく振舞ってはいても、若い侍女たちに色々と聞かれるのは面倒ではあるのだろう。
騎士たちは女性に人気があり、時折、今のように囲まれているところを見かけるが、クラウスも含め、大抵は上手くかわしてやっている。その例に漏れず、クラウスが侍女に微笑すると彼の内心に気付かないのか、相手は頬を赤らめている。
「…ランソ殿が、色々と凝っておられる。王のおわす神聖な場所も彩られてもおかしくはないでしょう」
噛んで含めるように、甘やかな声色が流れ、皆がしんと静まった。
「失礼する」
アマルの視線を避けるように、クラウスは人垣を通り抜けて行ってしまった。
「…やはり、そうでしたのね」
颯爽としたクラウスの身のこなしに魅入ってしまっていた侍女たちも、我に返ったようだ。誰かがぽつりと言うと、あちこちから声が湧き出した。
「ランソ様に聞きましても、何も教えて下さらないのですよ。でも、やはり…」
「アマル様はご承知でしたの?この花飾りを」
花の入った容器を持ち上げて帰ろうとしたアマルを目ざとく見つけた侍女が、また声をかけてきた。
「は…?」
もう、自分には用はないだろうと帰りかけていたアマルは間抜けな声を出してしまった。
口々に言い合う侍女に気圧されている場合ではない。期待に満ちた眼差しがこちらに集中してきている。
「いえ、私はこちらの用向きはあまり詳しくはありません。申し訳ありませんが」
いつも落ち着いた風情のアマルがこんなに慌てているのは、侍女たちからすれば見ものなのかもしれない。しかし、もう少し苛めてもよいかと実行する者はさすがにいなかったようだ。
「まあ、…そうですの…」
ランソよりは年上らしいが、まだ若い侍女はアマルの言葉に納得した様子で、にっこりした。
「陛下の御元に置かれる飾りでしたのね。そう聞かせられれば、納得いたします。本当に素敵でしたもの。思わず職務を忘れて不躾なことを伺おうとしてしまいました。申し訳ございません」
ランソにそんな特技があるなどと聞いたこともなかったアマルにしてみれば、なぜそんなことをわざわざクラウスが言ったのかと首を捻るしかなかったが、親衛隊騎士の発言を自分が気にしても仕方ないだろう。
しかも、花の事だ。たいしたことにはならないだろう、と思いたい。
「…あまりこのことは他では話さないで下さると助かりますが」
一応、一言たしなめて置くと、もちろんですわと気持ちの良い答えが帰ってきた。
アマルが侍女たちとの会話もそこそこに、陛下の住まう居住区へと戻ると、待ちくたびれた表情でランソが駆け寄って来た。
「ありがとうございました!お手間を取らせてしまってすみませんでした」
「いや、このくらい別に構わないが、ランソ三位官があの温室に行きたがらない理由が分かったよ。皆にランソ様は来ないのかと聞かれて困った」
「すみません…」
アマルの言葉に今朝の騒ぎを察したのか、ランソは首を竦めてまた謝罪した。森の小動物のような仕草にアマルの頬が僅かに弛む。ランソはアストリット様のお気に入りでもあるが、アマルたちにとっても可愛い後輩である。共に陛下にお仕えする大事な仲間だ。
女神の末裔で在られる陛下を盛り立ててゆくことが、仕える者の役割りであるのだから、年少のランソを萎縮させないようにと、アマルたちは気を遣っていた。
「ああ、咎めているのではない。いつも無駄口もなくお勤め第一の神殿侍女たちが、あれほど騒ぎ立てるとは、私も意外だったから少し吃驚しただけなんだ。あの、花…何という飾りだったかが、とにかく気になるようだったな。ランソ三位官もあのような飾りを作って温室に持って行ったことがあるのか?」
「は、はい。見本に…庭師に見せるためですが」
「そうか」
「あ、あれは、フラワーアレンジメント、と言うそうですよ。すごく美しいですよね。花が生き生きとして見えます」
「確かに。私も素晴らしいと思うよ」
「あ、ありがとうございます」
なぜかホッとした風情で心持ち胸を張るランソのツヤツヤとした頬。ぴくぴくと動く小動物特有のヒゲでも生えていそうだ。
ーーーフラワーアレンジメント。
おそらく異界の言葉なのだろうな、とアマルは陛下とアストリット様の御生母が異界の人間であったことを想う。
異界にしかない独自の用語に詳しい人物は、限られてくる。異界の用語の中には一般にも定着した言葉もあるようだ。言語の歴史などアマルにはさっぱりだが、早世した御生母との大切な思い出に関わるものなのかもしれない。
「アストリット様が、昔、陛下のために作られて贈られたそうですが、ええと、アマル二位官は、ご存じでしょうか?」
「うーん、私は六年前はまだ神学校にいたからね。陛下が即位される前のことはほとんど知らないんだ。ハルシオ二位官もエミーレ二位官も、似たようなものじゃないかなあ」
アマルと話しながら、器用に花瓶に花を差してゆくランソは、茎を切ったり、花と花との間に隙間を作ったりと忙しい。先ほど見たアレンジメントというらしい、あの花飾りに似た形が次第に出来てくる。アマルは、感心して眺めていた。
陛下からの許しを得て、アストリット様のお話し相手を務めることもあるランソだが、花飾りの作り方でも教授されているのだろうか。やけに上手い。
あながち、クラウスの言っていたこともその場しのぎではないと言える手つきだ。
クラウスが持ち寄る物に、ランソが関わることがないのは王付きの者なら知ってはいる。それでもそう信じてしまいそうになる。
おそらくランソが庭師に見せたという見本は、クラウスが持ち込んだ見本とよく似た出来なのだろうと想像出来た。
ふと、思った。
ーーークラウスの持参した花籠。あの花籠を作られたのが、あの御方なのだとしたら…
「ですよね。アストリット様のことは口外してはならないので花のことも言えないのは、良いのです。仮に言えと言われても聖紋の禁を破れないので質問されても支障はないのですが…」
あどけない顔を曇らせるランソにアマルは同意した。
「あのように言いたてられては、三位官が躊躇するのもわかる。今度から、別の日に花が用意出来ないか庭師に聞いておくよ」
アマルが提案すると、申し訳なさそうに、しかしホッとしたように後輩は感謝の言葉を述べてきた。それをさらりと受け取りながら、アマルはどことなく内心落ち着かない自分を感じていた。
花を飾るために部屋を出て行ったランソを見送り、昼食の仕度の最終確認をするため、自身も炊事場へと足を運ぶ。
そもそも自分たち侍従は、この居住区で起こったことを他者に話せないという聖紋による制約を受ける身である。同じ居住区のアストリット様付きであるクラウスやキャサリアも、居住区付きになった以上それは同じで、居住区の担当同士で可能な会話も、他者とは出来ない。
制約は、絶対である。
破れば、どうなるか。
女神信仰を持つ敬虔な信徒であるからこそ、聖紋の恩恵を受けられる代償に制約もあるのは当然の理ー…
アマルたち信徒は、その制約を受ける代わりに、能力者ではないにもかかわらず、様々な聖紋を操作する恩恵を受けている。本来ならば、ごく稀にいると言われる聖紋操作の能力を持つ人間…それに、さらに稀少だという聖紋創作の能力を持つ人間にしか、聖紋を扱うことは出来ないのだ。
つまり、能力の全くない者は聖紋創作主から許しを得て聖紋操作を認められる代わりに、聖紋創作主から制限を受けるのである。
このユラドーマで随一の聖紋操作と創作の能力を誇るのは、陛下であることは言わずと知れた事実だ。その陛下から受ける制限と引き換えに、陛下の創作した聖紋を操作する許可をアマルたちは得ている。
それは、幼な子が親の庇護を受けるに似た道理である。心理的な制限のみで、特に物理的な制御は受けてはいないのだが、しかし禁を破れば、その聖紋操作の能力は薄れ、それが幾度も重なれば、陛下の聖紋を完全に操作出来なくなる。そうなれば、陛下付きとしての職務はこなせず、結果として神殿付きの職務は解かれることになるのだ。
炊事場で、調理人たちを前に、彼等の作った料理から一品ずつ選び、一人分の用意をする。
本日も、陛下は既に神殿の執務室へ向かわれた後だ。おそらく本日もそちらで、昼食を摂られるだろう。
ー花飾りについては、陛下のお許しを得ているはず。しかし…
あのような目立つやり方で、花を受け取り、あまつさえ見本に、などと花飾りを持参していらぬ物議を巻き起こすクラウス、ひいてはその背後に控えるミカエル様の考えがよくわからない。
そして、畏れ多くも、あの御方。
それについては、考えるだけで不遜であると心得てはいるが、しかしそれでもアマルは胸の奥のざわめきを止めることは出来なかった。
ーあの御方は、いったい何を考えていらっしゃるのだろうか。
料理人から受け取った主菜や副菜に聖紋を掛け毒味を済ますと、次に、詰め合わせた食事を布で包む。そっと抱えて持ち上げた。
珍しい形式だが、陛下は昔から、食物を木で作った箱に詰めさせて携帯させ、それをお好きな時間に召し上がるのを好まれた。
ベント、と言い表され、とても満足そうな、しかし、どこか哀しそうな、こちらの胸が痛むようなお顔で食事をなされる。
その姿を思い浮かべ、アマルは眉根を寄せてしまった。
最近の陛下は、無表情に拍車がかかり、時折浮かべる哀切に満ちた眼差しに凄みが増された気がする。
そう、アストリット様にお会いになってからだ。
ミカエル様は、なぜアストリット様を陛下に会わせてしまわれたのか。いくら、彼女が真性、本物のアストリット様の生まれ変わりだとしても…
いまだ病気療養中として塔に幽閉され続けている王女の存在自体、世間では、希薄である。そのため、いない者をいると偽るのはたやすいのだ。キャサリアたちが手を尽くしているのだから、そのあたりの情報操作はお手の物だろう。
そう。彼女が既に死亡しているという情報は、神殿内部でも極少数の者のみが知る特級機密事項だ。
しかし、今回、王の居住区に入ることで、アストリット様は御自身の存在を神殿上層部に知らしめてしまった。
もちろん、それは彼女の意志などではないとはわかっているが危険なことには変わりない。その上に、たかが花籠などで耳目を集めるのは得策ではないのは、ミカエル様も、ひいては陛下もご存知のはず。
理解出来ないことだらけだ。
もっとも、自分には何の権限もなく、突き詰めてしまえば、結局のところ、ただ推移を見守ることしか出来ないのだと、わかってはいるのだが…
不安感を振り切るように、出来上がった昼食の包みを携えてアマルは厨房を出て行った。




