◇63喜ばしき再会〜2
「我が一族の中でも優秀な若者ですわ。アストリット様の御期待に沿えるかと思われます…アストリット様?」
怪訝そうに僅かに表情を曇らせたのはキャサリアだ。
彼女の台詞、御期待うんぬん、は勝手に言われているだけなので、それについては触れないでおく。
問題はキャサリアが連れてきた青年だ。
見覚えがあると思ったが、ユシグに付いていたあの若い騎士だったのだ。ミカエルさん以外にもいた、ユシグ付きと思わしき近衛騎士。いや、親衛隊騎士?
神経質で鋭さが際立つ瞳は同じ。男性であるから当然に背が高く、体の厚みもある。初めて見た時はそんな余裕はなかったが、言われてみれば繊細で華やかな容貌、金髪に碧眼であるところや、俊敏そうな体躯…キャサリアと似た要素が多い。
キャサリアの従兄弟かもしれない。
「そういえば、2人ともいくつなの?」
今さらながらキャサリアの歳も知らなかったので訊いてみる。
「年齢でございますか?私が17で、この者は16でございます」
…若い。そう感じるのは歳をとってる証拠だけど。
「従兄弟か何か?」
「…さようでございます」
詳しくは言いたくないみたいだけど、一族っていうのだから何かしらの縁があるようだ。
ふたりを見比べているうちに、見事にこれは、感づかれていると思い至った。案内人、が私に接触してくることをユシグは危惧している。だから、今度は護衛と称する監視を付けたのだ。そう思うと、頬が強ばるのを感じた。
騎士の彼もキャサリアと同じく、私をアストリットだと信じているのか…どうかはわからない。
もし私が、偽者だと言ったらどんな反応を彼等はするだろう。ユシグが私をアストリットだと信じている以上、彼等には私を認める以外ないのだから不毛な疑問だ。
微笑を浮かべて、クラウス・バウワーと名乗る青年が、白のきらびやかな騎士服で膝まずいて一礼する。
「我が一族の名と、騎士の名誉にかけ、必ずアストリット様をお守りいたします」
つまり、私はここから逃がさないという、絶望的な宣告を受けたのだった。
逃げなければ助からない、逃げないと、未来はない。
最終的に、自分の思うようにならなかったら、私を殺して、またアストリットを転生させればいいと彼は考えてはいないだろうか?
実行の可能性、難易度については別として。今までの言動に一貫性が無さすぎるが、私に対してはともかく、アストリットに対しては、彼は一貫している。
彼は姉が大好きで、姉を転生させたくて、この私が、姉として転生してきたと思い込んでいて。
だから、決して私を逃がしはしないだろう。
私に許された空間は、王の居住区という名の、籠の中。豪華な籠に、不自然に滞在…軟禁状態。助けなんてあるはずもないのだ。
あれ以来、私は一人きりにさせてもらっていなかった。
聖紋のお陰でほとんど必要ないらしく、王の居住区で見かけるのはキャサリアと同じ立場らしきユシグ付きのランソと呼ばれる少年くらいで、身の回りの世話役は2人だけだが、他の場所ではどうなのだろうか。
古いしきたりが最重視される神殿の中で、私のような異端の者は、思っている以上に目立つに違いない。
ユシグは私の存在を公表してはいないだろうが、いずれは長老、と呼ばれる人々に知られてしまうだろうし。
そうなったら、まずい。
彼等の中には、アストリットを忌み嫌う心情を持つ者もいるのだ。
私の存在は彼等を刺激するのは明らかだ。
そうなる前に願わくは、あの案内人がやってきてはくれないだろうか…自分で私の案内人だと言ったのだから、その役目を果たすのは今じゃないかと思う…都合がよすぎる考えだろうか。
少なくとも私を殺そうとする素振りはなかった彼を、救世主のように思い込みたかったのかもしれない。
神殿に移されて何日も経つというのに、彼は姿を見せなかった。ユシグとはあれ以来朝食を共にしているが、緊張も知らず知らずゆるみ、油断していたのだと思う。
当たり障りのない生活は表面的には平穏で。
その一皮下に、隠されていたもの。それを私はどれだけ理解していたのだろうか。
***
朝食の席におけるキャサリアに向けられた彼の一言で、辛うじて保たれていた均衡は崩れてしまった。
―本日は姉上と夕食を共にする。夕食後も共に過ごす。手配をしておくように…
「大丈夫ですか?姉上」
私に微笑を送ると澄ました顔で食事を続けているユシグ。
間に5人は悠に座れる長い食卓の対面にいる彼は、相変わらず、私のことを姉上、と連呼する。
さんざん違うと言ったが、まともに取り合ってもらえないので流石にもう、いちいち訂正はしなくなっていたが…
癖が強いヤギのチーズが私は苦手だ。でもむせたのはそのせいじゃない。今の話はどういうこと?
姉上じゃないし、姉上とも呼ぶな…、と言いかけたのは辛うじて止めたが、考えるより早く、こぼれてしまっていた。
「…やめて」
洗練された摂食動作を止めた彼を見て、すぐに悔恨の情が押し寄せてきたがもう遅かった。
「…何を止めてほしいんです」
瞳をすがめて、射るように私を見据えてきたその表情。荒らぶることなく静かな硬質の声音。
私の胸の内側を占めていた恥ずかしいような腹立たしいような、何か苛々としたものは、何処かへ消え失せて残るのは後悔ばかりだ。
「すみません…失礼なことを口走りました」
視線からさりげなく目をそらそうとしたとたんに、さらに強い視線が私に纏い付く。ユシグの長めの前髪がさらりと音をたてそうな気配に私は固まる。
「姉上」
私とユシグしか着席していない食卓に響いた、無機質な声にびくっと震える。
彼に姉上と呼ばれるとやはり気持ちが落ち着かない。強ばる私を見つめたまま、彼は口許を緩めた。
「俺と過ごすのは疎ましいですか」
彼の言葉と自分の言葉を時系列に頭の中で並べて、ユシグに誤解をさせてしまったことに気づくが、もう遅い。ユシグは私から視線を外さずに淡々と続けている。
「…ひとつ思い出話をしましょうか」
にっこりと形作られた笑顔に、はっとする私。
強い光を放つ瞳。朝の光を反射してセピアの瞳が淡く、強く煌めいている。
灰色にも茶色にも揺らめくその不思議な色彩に魅入られそうになる…そんな場合じゃないのに。綺麗すぎるのだ。
この光の前では、叱られた子どものように心許なくなる。
子どもの頃。いけないと分かっていて、ついやってしまった、そのつもりはないのに手が上手く動かなくて落として壊してしまった小さな花瓶。
キラキラとした輝きは鈍く光って、もう陽射しを浴びても同じようには輝かなかった。
なぜそんな光景をいま思い浮かべたのかわからないが、彼の迫力に圧された私はこくりと頷いていた。
「いいですね。素直な貴女はとても可愛らしい」
目を細めるユシグは、誰もが笑顔だと評するだろう媚態を含んだ柔らかな表情を浮かべ、満足げだ。
今の彼からは私の姿を通して別の人物へ向けている、その想いの深さは窺いしれない。
事情を知らない人から見れば、若く気高い貴族の青年が、機嫌良く他愛ない話をしているように見えるだろう。それが、こんなに不気味に感じられるなんて。
「覚えていますか。俺が姉上の可愛がっていた小鳥を、逃がしてしまった時のことを。貴女は許してくれましたね。わざとしたのではないのだから、仕方ないのだ、と」
私には覚えのない話を、彼は楽しそうに反芻して微笑を浮かべていた。
「あれはね…ふふ。わざとなんです」
「貴女があの小鳥に夢中なのが許せなかった。だから、俺は空へ返しました。小鳥は何も考えずに飛んでいきましたが、貴女は俺に隠れて泣いていましたね。あんな弱い観賞用の種族では、すぐに飢えて弱るでしょうからね。貴女は優しい」
どんな表情でも綺麗な男が、くす、と笑った。その瞳が全く笑っていなくて、冷たい光が宿るだけだったとしても、目を奪われる美貌には間違いなくて。
この男の存在を、頭では理解して、でも目に入ると平静ではいられない。
だから見たくないのに。
でも…
目が離せない、彼から。
「貴女の涙を見た時、いないはずの小鳥に嫉妬しました。まだ10にも満たない子どもでしたが、俺は貴女に夢中だった」
蕩けそうな微笑を浮かべる彼。
「そしてそれは、今も変わらない」
端正で緩やかな曲線でかたどられた顔の輪郭に、私とは似ても似つかないすっきりとした鼻梁。
くっきりとした二重の瞳は大きすぎることもなくやや切れ長だが、けぶるように甘い茶色の睫毛が、いつも実際の年齢以上の思慮深さを思わせる。
その眼差しは誰にも譲らない強い意思をしっかりと主張している。
柔らかな唇は、彼の頑固さを一番主張していた。
静かに微笑しているかのような、穏やかな口元。
薄そうに見えて意外と男性的な発達した下唇。
数真と同じ、唇。
私にキスをした感触が鮮やかによみがえる。
貪りつくし、相手をまるごと取り込もうとする狂おしい心。
お互いがお互いに溶けて熱気と化して実体を失うような。
その熱を知っている。
同じ、熱情を持つ男。
同じ、私を取り込もうとする狂った熱。
これ以上彼を見ていると、きっと戻れなくなる。でも、視線を捕えられてしまっている。
私を見るユシグ。
そして、視線を捕らわれた、私。
傍目には見つめあっているかのような、沈黙が流れて行く。窓からの光だけが、私たちと関わりなく、夏の朝特有の爽やかな輝きで食卓の上を踊っている。
いつの間にか、私がこの地に来てから季節は変わり、時間は過ぎていたことに気づいた。凄く時間が経ったようでもまだ半年も過ぎていないのだ。信じられないことだが。時間が濃密に感じられる出来事ばかりだったせいなのか。
当たり前のことだが、とても不思議に感じる。
自分だけが取り残されて、孤独を感じる気持ちすら、マヒしていたような気がする。
清々しい朝。
私たちの周りの世界は、とても穏やかで静かだ。
鮮やかな明るい光。
それを柔らかに受けた唇が、不意に歪んだ。
甘く、優しく、紡ぐ言葉は…
「愛しています、姉上」
―…。
「貴女だけを、今までも、これからも」
ユシグに見られている。射るような、深い眼差し。強い、視線。
「貴女を奪おうとする全てに俺は容赦はしない。この居住区内の警備は万全です。老いぼれどもの手に煩わされることもない。
姉上、どうかご安心下さい」
私はコップの水をあおった。ユシグの視線から逃れるために。見られることで囚われる、と本能がやかましく騒ぎ立ててくる気がした。
「誰にも害を為すような真似は、させませんよ。貴女を捕えるのは俺なんですから」
彼は…笑った。
自分がひどい間違いをしたようなばつの悪さを誤魔化すように喉へと水を流す。
私の喉を流れ落ちる冷たい水のように。
この透明に歪んだ空気が消えてしまえばいいのに。
ユシグのこの目が、怖い。愛していると言いながら、私を責め、恫喝し、詰るような…憎悪といってもおかしくないこの目が、恐い。
「…夕食にはお好きなものを増やすようにしましょう。森の民のような食事には追々なれてもらわなければなりませんが、今はそれより…精がつくものを用意させますよ」
朗々と会話を続けるユシグの声をうつ向いて私は聞いていた。
居住区内に設けられた図書室や温室から帰る度に廊下を眺めては、最奥にある扉を、その両隣に立つ騎士を恨めしく眺めるのが私の日課のようになっていた。
あの扉の向こうに、自由がある。
「姫様、そろそろお茶の時間でございますが」
キャサリアに腕を引かれそうな勢いで誘導されて、お茶を飲んで過ごす為だけに設けられた部屋に連れていかれてしまった。ティールームだ。連れられてゆく私の気落ちした風情を、気遣うようにクラウスが見下ろしてきたが、中途半端な思い遣りはかえってうっとおしく思ってしまう。
勝手なものだが、彼等だってユシグに命じられて私の動向を探っているのだろうから、私に対して本当に同情心を持つことは立場的にないのだ。
私の内面は荒れてきている。
体裁を保てるのも限界かもしれない。
手に持ったカップを持ち上げ、ひとくち、ふたくち。ふかふかなソファは長い時間座っていると腰が疲れてくるので、あまり好きじゃない。このハーブみたいな味のお茶よりも、コーヒーが飲みたい。
お茶受けにしては固すぎて味のないクッキーを口にいれると、ひどく感傷的になっている自分を感じる。顔には出さないが、情けない気持ちは不味いお茶とお菓子に向いてしまう。はっきりいって神殿の食べ物は私の口に合わなかった。
離宮でのそれらとは違いがありすぎた。
しかし、私だって貴重な数日間が過ぎるに任せて、感傷的になったり、ご飯が不味いとか、図書室に行っても文字が分からないとか残念なことを確認するだけで、ぼんやりとしていたのではない。あちこちと動き回り、窓から外を眺めたりして分かったことがある。
騎士や一部貴族との謁見の間や夕食を摂るフロア、王の近衛である通称、親衛隊が集うホールなどがある区画が居住区の直ぐ外にあるらしいのだ。
肝心の外部との出入口はみつからなかった。
散々探したが、外部との出入口は1つだけだった。
あの廊下の扉。
あそこしかない。
騎士が護るあの扉から逃げるには、到底一人では無理だ。助けがいる。
こうやって待つしかないのだろうか?
待つ以外に、何も出来ないのだろうか…
案内人を思い浮かべて、美味しくないお茶をすすっていた私に、キャサリアが告げてきた。
仕度に取り掛かるお時間です、と言われて不信に思う。まだ、3時ぐらいなのに?と思った私を急き立てるキャサリアは、さらに頭が追い付かない私を浴室に連れ込み磨きたて終わると、新しいドレスに着付け、化粧に髪のセットと、あれよあれよと私を整えてゆく。
キャサリアたった一人によって、私は整えられてしまった。




