◇62喜ばしき再会1
「とてもよくお似合いですよ」
淡い紫のロングドレスは、シフォンを重ねたようなふわふわの素材を巧みに使い、腰からのすっきりとしたラインは大人っぽいデザイン。丁重な作りで、洗練された印象を見る者に与える。いつ採寸したのか、鎖骨ラインの胸元の開き具合はぴったりだった。
元の世界でも、既製品だとこの手のデザインの場合、意外に自分に合ったものがないのだけれど…これは絶対に特注品だろう。
誰の考えでこんな服を用意させたのだろうと思ったが、キャサリアは心を読んだかのようにあっさりと漏らした。
「陛下の御見立てですよ」「えっ…」
吃驚して声を上げた私をよそに、キャサリアは私の髪を整えると、次にドレスのシワを直し始めている。
「…思ったよりもシワにならなくてようございました」
真剣な目線はドレスに注がれ、ぴんと背筋を伸ばした彼女は、白くしなやかな指先でソファに座る私の衣服を丹念に整えている。いつもと変わらない、自分の主の言い付けに忠実な姿。…しかし彼女の主は私ではない。
とりあえず今は、ぶつけても無駄な疑問は取っておく。訊いたところで絶対に口を割りはしないだろう。
キャサリアへの質問をひとまず胸に納め、彼女の睫毛が、柔らかそうな白い頬に落とす麗しい影から視線を移し、改めて自分がいる室内を見回してみた。
ずいぶん広い部屋だ。
白い天井には緻密な装飾が施され、ミカエルさんに幽閉されていたあの離宮に、どこか似ている。
さらに室内の様子をよく見ると、宗教画だろうか?壁にはおそらくは年代物の巨大な絵画が幾つも掛けられ、それでも壁面はまだまだ余裕だ。部屋のあちこちに控え目に置かれた調度品にも、時代を経て大事に使われてきた、そんな風格が漂っている。
総じて生活感が皆無の部屋だ。おそらくここは来賓用…しかも一国の代表格をもてなすクラスの居室かもしれなかった。
記憶の塔へユシグに連れて行かれたこと、その後に起こったことも私は覚えている。どうやら、また気を失ったらしい。気を失って、目が覚めると知らない場所にいる、というパターンはたぶんこれで2回目。しかもドレスまで着せられて。キャサリアが私に着せたのだろうか?
首元に手を当ててみる。
痛くはない。確かに私はカミュに刺されたはずなのに。しかも血がかなり出ていたのだから、致命傷だったのは間違いなく…なのに、私は生きている。あり得ない。
不可思議な現象だが、アストリットの記憶を見せられていたのだとすると、説明がつくのかもしれないと思い返した。
まず、あの時はやけにリアルな臨場感があり、私はすっかり本人に成りきっていた。いまだに首が、なんとなく変な感じがする…そのくらいに成りきっていた。
しかしあれは、現実には自分の身には起こらなかったのだと考えるべきだろう。今こうして生きている以上は。
では夢でなければ、やはりアストリットの記憶を体験していたということになるのだろうが…それってどういう原理なんだろうか。
あの記憶の塔で、記憶が弄られた…としても、人格までは乗っ取られていない。ユシグの狙いがわからない。彼は私を、自分の姉に作り替えるつもりなんじゃなかったのか?彼の姉の記憶をただ見せても、どうなるとも思えない。
彼女の真似をしろと強要はしないだろうし…姉の振りをするなと何度か言われたこともあったのだから。
…やっぱりわからない。
そんなことを考えているうちに、ユシグが部屋に入ってきた。
私の前に跪いて嬉しそうに微笑みかけてくるユシグ。当然のように私に手を伸ばし、こちらの考え事が纏まらないうちに、さらりと頬を撫でられる。
「どうしました?」
彼の言葉に、胸が詰まる。
こんな仕種も綺麗に決まるのだからこの顔はどうしようもない凶器だ。
数真…
私の戸惑いに気付いていないのか、色素のうすい、セピア色の澄んだ瞳が不思議そうに瞬く。なんだか子犬みたいだ…
などと思っていたら、同じ人間とは思えない無駄のない端麗な造形美が、眼前に迫っていた。ユシグは王であるのに、彼を床に跪かせて私はソファで…いいのか?
「顔色も良いし、少し話しても構わないですね?」
と、私の指を軽く握る。
穏やかな空気を醸し出す表情、優しい響きの声、それに丁寧な話し方…身分の違いがあるにも関わらず、社交的で親しみに満ちている。以前の私たちの会話を知らなければ、私も笑顔で答えるべきだろう。ええ、ありがとう、とか何とか。
しかし、ユシグが何か含むところがなく、こんな態度を私にとるのは考えにくいのを私は知っているのだ。
彼に聞きたかった。今まで私のためにドレスを見立てるなんてことは、なかった…それなのに。
いったい、どうして?なぜ?
私の指を両手でなぞるように握ったまま、微笑が私を捉えた瞬間、私の足が反応してふくらはぎがビクッと震えた。
「俺の名前を…呼んで?」
彼の大きな手によって、私の手はすっぽりと覆われた。痛くはない。が、まるで拘束されているみたいだ。
「…姉上」
――…
有無を言わさない口調と熱のこもった視線にさらされ、私の抑えていた疑惑が、暗雲のように広がり、膨らんでゆく。決して形にしてはいけない、私を危険にさらす疑惑。それを自分から言葉にするのが憚られたのは、認めたくなかったからだ。
ユシグがこんなふうに私を見つめてくる…その理由を。
「そんなこと、言える訳がない」
「……そう」
私の拒絶の言葉に反応して、膨らんでゆく…これは色気か。過分に含まれた色が綻ぶ。まるで大輪の薔薇のような引き込まれるようなユシグの微笑。ちょっと表情を動かせるだけで、人にダメージを与えられる、数真と同じ、表情。しかも、どんなに動かそうとしても掴まれた腕は振りほどけず…凄い力だ。決して離そうとしないその彼の執念に、背筋から冷たい汗が吹き出てくる。
「あなたは私が、アストリットになったとでもいうつもり?そんなことあるはずがない」
あれほど私と彼女を比べ、「違う」と揶揄しておきながら、いったい誰が誰の姉なのか?記憶を見せたくらいで、別人になれると本当にユシグは本気で信じているのだろうか?あまりに荒唐無稽だ。
そんなこちらの気も知らず…いや、無視してるのだろう…鋭く研ぎ澄まされた美貌は私を見つめ続けている。何かを包み込むような甘い甘い、微笑。
「少し混乱しているようですが、異世界から戻られた副作用ですよ、姉上。じきに治まる」
「無理矢理あんなものを見せて、記憶をねじ曲げようとしたんでしょう…私はあなたの姉じゃない!」
「興奮しないで」
だから、いま興奮しないでいつするというのか。
砂糖を入れすぎた甘過ぎるスイーツみたいな空気が漂う。吐きそうだ。止めて欲しい。
そして、もう手を離して欲しい。
逃げようと、髪を振り乱してもがいたが、造作もなく捕まった。
「離して!!」
絡めとられる、甘い微笑の罠に。
腕を後ろから羽交い締めにされ、両足に絡んだユシグの脚に動きを封じられて動けない状態だ。離してと言い、抗うが、ソファの上で私は抱き締められていた。
「嫌ですよ。せっかく姉上を手に入れたのになぜ解放しなければならない?貴女を逃がすくらいなら、また死んでもらったほうが良い」
めちゃくちゃな理屈だ。
「あくまで貴女が選択する行為が起こすだろう結果を、教えているだけですよ。嫌なら逃げなければいいだけじゃないですか?」
こんなに抵抗しているのに、まるで歯が立たないとは…あの幽閉されていた塔で、同じように彼に羽交い締めにされた時は、玩具をいたぶるような手つきだった。
今のユシグはまるで人が変わったように粗暴さはないが、なんて執拗さだろう。
「姉上、落ち着いて下さい。貴女には手荒な真似はしたくはないんですよね…」
「だから、もう!!」
なんなのだ、この男は。
違うって、言っているのに姉上、姉上と。
数真と同じ姿から感じる体温も私を不安にさせる。私を離そうとしないこの男、普通じゃない。なのに体から発する熱は人間のものだ。
数真とは顔が同じだけど、中身はやっぱり違うんだ。
ひとしきり暴れたが、ユシグにことごとく抑えられた。私は小柄じゃないが、ユシグが大きすぎるのだ。
「ねえ、姉上…俺の話を聞いている?」
涼しい声がにっこり、と擬音を耳許で放つ。対称的に私は汗だく状態だ。
「こう考えられませんか?倉橋和音という女性は、アストリットの転生した姿。つまり、魂は同一」
声に含まれているのは優しい甘さだけど、冷ややかな響き。
「貴女は、和音という女性だったのでしょうね。異世界ではそうかもしれません。
かつてはそうだったんでしょう。でも今は、違う。残酷なことを教えましょうか」
…記憶の塔は、関係のない人物の記憶を操作することなど出来ないんです、とユシグは言ってきた。
「貴女の魂は姉上と同じです。証拠もあります」
「…なに…を言ってるの」
不気味なほどに冷静で淀みない説明に、体から力が抜けそうになるのを必死で堪えた。キャサリアやユシグに付いてきた護衛の騎士の気配を探したが、何処にいるのか視界には姿がない。しかし彼等はこの部屋にいて、確実に成り行きを黙って見ているのだろう。王の為すこと言うこと、全てご無理ごもっとも、ということなのか…それとも。
異界人が、王女だなどと、まさか彼等まで真に受けているのだろうか?
「記憶が戻って、貴女は俺が怖いはず。その理由も解ったはずだ」
促されたからではないが、ふと思い出したのは、あの記憶の塔で得たアストリッの記憶だ。
記憶にはムラがあり、部分的にはっきりとしないところもある。しかし無理にすべてを思い出す必要はないだろう。余りに生々しいそれは、他人の過去の一幕だと片付けるには、息苦しいものだった。
私を拘束するのが堪らなく愉しくて、仕方ないのだと言いたげに、声は暗く艶やかに私の耳腔から侵入してくる。
「まだわからない?姉上があの男を追って異界へ逃げたことを、俺が知らなかったとでも思う?貴女が力を使い、別の世界での輪廻の輪に乗るのを見過ごすとでも?
思い出したのでしょう俺のことも…姉上?」
「痛っ!?」
耳を噛まれた。
「よく思い出して」
生温い感触に、耳をなぶられる。
記憶…アストリットの記憶では、彼女は…確か、自ら命を絶ったはずだ。そうだ、あの時、カミュという誘拐犯が私を刺した時、史実では彼女は自害したのだと言っていた。
待って欲しい。誰かの後なんて、追っていない…ユシグは勘違いをしている。私は何もしてはいないのだ。確かに自分を傷つけたかもしれないが、けどそれは…
「まだ…未練がある…なるほどね」
また耳に痛みが走った。
彼は私から目を反らす気配をさせ、何かを呟いたが、混乱していた私には、よく聞こえなかった。
彼の言っている言葉の意味がよくわからない。私は急に理解力が低下したのだろうか。それとも、ユシグが何を言いたいのかわかりたくないだけなんだろうか。自問する私を見て、ユシグは何かを判断したのか、ふっと笑った気配がした。
首筋に何かが触れた。弾力と、指先ではない湿り気を伝えてくる。触れている…ユシグが私の首に…
「その話はまた後にしましょう。貴女はこうして姉上に戻った。記憶を得られたのは、貴女が姉上だからですよ。俺の姉上は貴女しかいない…たとえ貴女が否定しても……貴女が姉上なんだ」
またユシグが触れてくる。今度は耳を素通りすると、彼の頭が私の反対側の肩に乗せられ、ため息混じりの声は静かに私に注ぎ込まれてゆく。
「姉上……」
どれほど彼は姉を待っていたのだろうか、とふと思ってしまった。長い道のりを歩き疲れた人のように、ユシグからはこの安息を逃すまいという執念が漂っていたからだ。
それはまるで、毒。
じわじわと効いてくる遅効性の…私の動きを止めてしまう、毒。
「俺を憎む理由は貴女には多すぎる。でもね、もっとあげても構わないんだ…貴女に憎まれても俺は貴女を離さないよ。やっと取り戻した。貴女は俺のものだ。もうどこにも逃がさない。逃げられない」
自分の上下の歯が噛み合わず、唇が気を抜くと震えてしまいそうになりながら思った。
ユシグは私を幽閉した時に言った。彼が私を愛するか…私が彼を愛するか、でなければ処刑すると。
彼は、姉であるアストリットを愛している。私じゃない。
浮かんでくる、ユシグの言葉が。
―『今頃、なぜ現れた!?』
初めてユシグに謁見した時、私を罵倒した。
そして、ああ…今言われたのは、
―『もう一度、死んでもらったほうが良い』…
もう一度…
彼が愛しているのはアストリットだ。
私は…彼女の記憶はあるが、アストリットではない。
約束の期限は、2ヶ月だとユシグは呟き、私の首にキスを落とした。




