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◇61過去との邂逅〜10

流血シーンありです。

先程まで漂っていた妖しい気配は既に無く、ぞっとするような剣呑さが辺りを支配している。


ぶるりと、背筋が震える。

獰猛な猛禽類に睨まれた獲物の気分を自覚してしまった。


「何言われてるかわかりませんって顔だね。アストリット姫…ね。まあそういうことにしといてあげてもいいよ?君に貸しってのも面白いし」


そう言うといきなり、今度はソファから床へ、私を引きずり降ろした。


「ちょっと、急ぐ」



私をズルズルと引き摺って移動する。部屋の中心の床に着くと、足元を指し示し―…



「見えない?まあ見えてもどうせわからないよね」



カミュが言っているのは、私たちの足元のことらしい。先程までいたソファからはわからなかったが、よく見ると床に円形に何かが刻まれている。

引きずられた痛みも忘れて、目を擦って確認すると、なるほどその刻まれた模様の隙間から沸き上がってくる緑の光が見えた。

ちかちかと微かに発光する明かりは蝋燭の灯りより小さいが、温かみはなく硬質な煌めきだ。

こんな場合だというのに、その唐突に沸いた緑の光は思わず引き付けられる程の美しさで、見ていると、懐かしいような、少し切ない気持ちになってくる。


「これが何か分かる?」


カミュに聞かれて、私は頷いていた。


「聖紋の儖図…ですよね…」

「知ってるんだね」



意外だと言いたげだ。

しかし聖紋の起動する光りには様々な色があることぐらい、幼児でも知っている一般的な知識だ。

ただ、実際に見たことのある人間は極少ないだろうけれど。


この状況でそれと直ぐに察知出来たのは、ユシグが聖紋を作動させるのを見たことがあったから、だ。



「分割されたくなかったら、大人しくしてるんだね」

「…わかりました」


聖紋が起動されている…つまり、発動してしまうのも時間の問題。

すでに、私は聖紋の対象として認識されてしまっているのだが、そんな時に安易に動けば、もしも転移に失敗しようものなら、私の体は粉々になってしまうかもしれない。

どこに連れて行くつもりなのか知らないが、少なくともここで私が何かされる訳ではない…と思う。


もしも、私に害を成そうとするのなら、彼も一緒にこの聖紋儖図には入ってこないだろう。儖図は、触れたもの全てに影響を与えるのだから。


カミュが私と一緒にいる、ということは…つまりこの儖図に込められているのは、おそらく転移の聖紋だ。この塔に敷かれた魔石の力を借りて、能力者が働きかければ作動する仕組みなのだ、きっと。


そんなことを考えながら、私はカミュと目を合わせないように、ちらちらと伺っていた。

彼の様子からは、そうとう聖紋術に自信があるふうに思えた。


それ以上特に何も聞いてこず、本当にただ単に、私に注意を呼び掛けただけのつもりらしい。だけど、いったい何を考えているのか…彼の剣呑な空気は若干薄らいだものの、その飄々とした佇まいからは、何も読み取ることは出来なかった。


私を転移させる?

いったい…何処へ?


冷たい床から溢れる光がくるくると色を変え、展開してゆく。私から視線を外さず唇を動かして詠唱しているカミュは、ユシグを思い起こさせて私を戸惑わさせた。

ここまで乱暴に扱われて平気なほど、神経は太くなかったはずだが、冷たい石の床に座り込んだまま、ぼんやりとしてしまう。

アストリットじゃないと言われて、その言葉を全て否定出来ない自分自身に覚えた戸惑い。


光をみつめがら反芻する。

あの、一瞬だけ浮かんだ記憶。見たこともないはずの町並み。

なんだったのだろう、あれは。今となっては白昼夢としか思えなかった。思い出そうとしても、具体的なことは何も思い出せず、それはまるで、今朝見た夢を思い出そうとしても何も浮かんでこなかったのによく似ていた。


さらに周囲の風景が色に乱される。



滲んでは新たな光に埋没してゆく光の饗宴。


熱のない炎の中にいる。

そんな錯覚に私はあっけにとられていた。

彩りを増してゆく聖紋は、特有の緻密な模様を様々に色を変え、私たちを囲むようにゆっくりと植物状に幾つも垂直へ伸びてゆく。ゆらゆらと発光し、浮かび上がり立体化してゆく様は、妖しくも美しい。


やがて、光の主軸が完成に向かい出すと、今度は主軸から生えた光は花火のように弾け、さらに左右へと細かく走り出した。

編み込まれ、みるみるうちに巨大な繭が造られてゆくが、完成の頃にはもうあまりの眩しさに、目を開けてはいられなかった。


一瞬のようでいて長い刻。

覚悟を決めるには短すぎる時間が過ぎた時―…ついに私たちを包む光の繭が弾ける気配がした。


「…!」


ふわりと軽く揺れた後、体が放される。転移、完了…なんだろうか。


思っていたよりあっけない、と思った瞬間。

乱れた自分の髪の間から何かが見えた。


誰かが、いる。


どうやらその人影は、カミュと私の登場に驚いてはいないみたいだった。


明るいところから急に暗い空間にきたせいで、順応しきれていなかった自分の鼓動がやけに速くなる。


まさか…いや。

騎士の礼服こそ着てはいないが、その濃紺の式典用マントには、前面左右にユリの模様が刻まれている。優雅に進むごとにマントは揺れ、深いドレープの間から、はっきりと浮き出ていた。


…ああ。

いくら暗くても私が見間違うことはない。



二つのユリが交差し花開かんとする特徴的なユマ王家の紋章…自分の国の紋を、忘れるはずがないじゃないか。


「あまり驚かれないと面白くないものですね」


ひんやりとした暗い空間に静かな声が落ちてきた。


張りのある低い美声。

見知った人物の顔。


「なぜあなたがここにいるのです……ミカエル」


私の言葉に呼応するように、顎を軽く下げると、彫りの深い優れて整った蒼い瞳を真っ直ぐに向けてくる。全身から、刑の執行を宣告しにきたかのような不吉な威圧感を漂わせ、彼はフッ、と微笑した。



ユシグ王の側近であり、乳兄弟であり…なによりも腹心の部下。

私が睨んだところで金髪のこの魔人は怯みはしないのだ。



「…ミカエル、あなたは何を考えているのです」


「それはそのまま、『貴女様がた』にお返ししたい台詞ですね」


「…ミカエル・ナイン・バウアー、あなた…」


いつも弟の側でこちらを見つめていた、その乾いた視線は、うずくまる私に容赦なく向けられている。

表面上の敬意の底にある悪意。それをとうとう隠すこともしなくなった、ということか。この男は、心底私が邪魔で…存在が疎ましいのだ。


「…どうやら、私を迎えに来た、という訳ではないみたいですね」


「それは貴女様ならお分かりでしょう?姫。御自分のお立場をわきまえてくださいませ」

彼は笑っていた。


声を立てずに、くつり、とミカエルの唇が歪む。天使と見紛うような微笑は、彼の華やかで優美な容貌に、この上なく似合う。間違いなくこの事態に、彼は自ら飛び込んできたのだ。薄暗がりのどこか寂れた部屋を、彼の存在が一気に劇場めいた空間に変えていたことに私の心はざわついていた。さながら主役は彼だ。だとしたら私は、彼に相対する敵役…といったところだろう。

そんな嫌な緊迫感に息を詰めて彼を凝視していた。今やこの場を支配しているのは彼だった。


「…選ばせてあげますよ。大人しく大陸の王子へ嫁ぐか、ここで死ぬか…二択ですね」


とんでもない提案に息を飲む。ミカエルはにこやかに説明をしてくれるが、それはさっきカミュから聞かされた内容を、さらに容赦なくしたものだ。


「貴女様なら、よくお分かりのはずですよ。この私が、今の時期に、暇を持て余しているとでも?ユシグ様にとって、今がどれほど大切な時か、貴女様より理解出来ていないとお考えですか?」



「…本気で、言っているのです、か?」



「ええ、貴女様はユシグ様の王位を危うくする要因にしか成り得ません。排除すべき存在として対処させて頂きます」



本気らしい。

とうとう邪魔な『見棄てられた王女』を大陸へ追いやるつもりなのだ。そうミカエルは認めたのだ、ということか。


今回、どこから彼が絡んでいるのかわからないが、少なくとも…彼もまた、私を駒にするということだろう。


しかし、本当に花嫁として大陸本土へ送るつもりなのか、途中で殺すつもりなのか。選べと言うが、果たして口だけなのか言葉通りなのか…そこは不明だ。


混乱しそうになる頭を必死で回転させる。ミカエルの登場で、ますます私の置かれている状況は悪化したのは間違いない。下手をしたらここで殺されるかもしれない。

彼の手の内で光る物体に気づき、私は反射的にまた息を呑む。

本当に、今日は何度も吃驚させられる日だ。


「ふふ…ああ、それに絡めてひとつ、取り引きをしませんか?」



決して忘れていたのではないけれど、咎めるような目線で訊かれた。



「そう、かわいそうなあの者の処遇も決めないといけませんからね」



「え?」



「忘れましたか?憐れなる貴女の『夫』のことです」


薄情にも言われて初めて青ざめたのだから、責められても仕方がない。

この時、ロジェールのことを、私はすっかり忘れていたのだ。そうですよ、とミカエルは続けてきた。


「どうやら貴女様の秘密を知ってなお、貴女様に焦がれていたようです。

正気じゃありませんね。

陛下といい、あの者といい、いったいこの貧相な器のどこに、そんな魅力があるんだか…理解しかねます」




秘密?


ミカエルの言葉に引っ掛かるものがあったが、冴え冴えとした美貌は決断を迫るように鋭く見つめ返してきた。私に質問の余地を許す隙を見せない。

彼の台詞はまだ終わる気配はなかった。


「貴女が大陸へ嫁げばあの者の命は助けてもよいですよ?もし断られるのならば、彼を死ぬまで拷問にかけるまでのことです。王女を誘拐したのですから当然でしょう?」



なんの感情も示さないその目付き。

目眩がしそうだった。

ロジェールはミカエルに捕まってしまったのだろうか。


私のいるこの場所は、転移の塔だと確信出来るが…彼もまた何処かへ連れ去られたのだろうか?

自分の声が掠れて喉で引っ掛かるのを感じた。


「ロジェールは…無事なの?」

「気になりますか?」

「…夫ですから」

「大切なのですか?」

「…え?」


私はミカエルを思わず見た。


「ユシグ様、よりも?」


一語一語、噛み締めるように言うとミカエルは、蒼い瞳を微動だにさせずに私を見た。


「それは……」


何を言うのだろうか。咎めるような棘を含んだ口調に私は鼻白んだ。ロジェールは、一国の王であるユシグとは違うのだから、比べる意味がわからなかった。それに―…。


「あなたはロジェールの友人ではないですか。なぜそんな風に扱えるのです」



「その前に、私はユシグ様の側近ですよ」


「だ、だからといって…」

自分の友人にそんな真似ができるのだろうか?いや…彼ならばやりかねない。


言い澱む私をいいかげん面倒になったのかミカエルは少し苛ついた様子で声を上げた。


「そんなことよりも、どうするのです。ここで貴女は死ぬのですか?そうすれば、その責任はロジェールにとって頂くことになりますね」


私が死ねば、ロジェールを拷問死させる。


「どうしますか?」


小首を傾げでもするように軽やかにミカエルが尋ねてきた。


さらに圧力をかけるつもりなのだ。私を見る目線は全く柔らかくないままだった。


…王女は、自国の不利益になる場合には、何時でも命を投げ出さねばならない。感情だけで物事の判断をすることは許されない。いくら挑発してきてもいちいち腹はたたないが、選択などと言われても彼の悪意を感じるだけ…所詮、どちらを選んだところで、私にとってはよい結果にはならないだろう。

とても歯がゆいが、事実だ。


「誤解しないで頂きたいのですが、貴女をまだ始末したくはないのですよ。私の望みは貴女様の死ではない」


「あなたは何を…企んでいるの?」


「企む?何をです?」


愚問だと言いたげに鼻で笑ったような気配がしたが、実際には彼の微笑は少しも動いてはいない。

まともな答えが返るはずもないのに、訊いてしまう私を、哀れみすら浮かべて彼は言い含めてきた。


「貴女様は陛下の害にしかなりません。それを排除するのが私の役目ですよ。

異界からの花嫁を召還する儀式をご存知ですね?」


「…」


知っている。


「あの儀式を陛下は拒まれています」


それも…知っていた。

私が黙り込むと、勝ち誇ったようにミカエルは高らかに声を上げた。優美な美貌に険を滲ませて挑発的に見つめてくる。


「それも貴女がいるからです。御自分のお立場を少しも理解しておられないのです。

ですから私は、在るべきところに収まるよう平和的解決を望んでおります。それだけですよ。貴女は解りますね?」


選択肢なんて詭弁だ。


これは紛れもなく脅迫だった。

私はミカエルを出来るだけ感情を交えずに見返した。


腹の底が熱いが、気持ちはどんどん冷えてくる。



ゆっくりと、口を開いた。重い決断をしなければならない。


「ユシグに不利益はないと本当に、約束できますか?」


「ですからユシグ様の為、貴女様には大陸へ行って欲しいと申していますよ」


「…ロジェールはどうなるのです?」



「それは、信じて頂くしかありませんね。取り合えず逃がしはしますが、後は彼次第ですね。

ではアストリット姫、大陸へ嫁ぐのですね?」



もうこれ以上話しても無駄だろう。

どうしようも、ない。

私は黙ったまま、頷いた。悔しい、というには強すぎる虚無感に酔いそうだった。


「ユシグ様もきっとわかって下さいます」


ミカエルの嬉しげな声色が耳障りだ。普段の慇懃な態度が嘘のように、はしゃいでいる感すらある。そんな彼がうっとおしく思えた。

自分の運命がまた暗転する音を、失意の中で聞いたような気がして、私は固く目を閉じた。



―…



―かつて願っていたのは。


長老たちや貴族院や市民たちに、いつ『不要だ』と排除されるか判らない、そんな恐怖からの解放だった。

いつも怯えていたのだ。ユシグに守られていた癖に、姉としてユシグを庇護する義務があった癖に…

いつも怯えていた。

いつも逃げ出したかった。でも、出来なかった。

勇気がなかったから。

自信がなかったから。

でも、自由を完全に諦める勇気もなくて。



だから、こんなことになったのだろう。

私はユシグの姉。ユマの王女アストリット…記憶の海を辿ることは容易い。まるで、絵を観るようにパラパラと幼少の頃から今までの断片が、すぐにいくつも思い浮かんだ。優しい水彩画のように、どうして思い出はこんなに儚くも美しいのだろう―…


「王子はお優しい方ですよ。貴女の血を珍重されるでしょうからね…何も心配はいりません」


逃げなかったのは、怖かったから。


何も出来ない自分と向き合う勇気がなかったから、だ…

そして、今ならはっきりとわかる。


自由よりも何よりも、私は、一番に…ユシグの一番でいたかったのだ。



そうだ。

ユシグにとって、役に立つ私でいたい。私は、ユシグに何がしてあげられるのだろう?このままでは、ユシグにとってもユマにとってもただのお荷物でしかない。それは嫌だ。

私という存在がある限り、ユシグは他者に左右されるだろう。他国に、身内に…ミカエルや長老、貴族院…私を生かす見返りを、常に彼等から代償を求められる。


自分自身の声が、囁いた。


―たとえ犠牲があっても…今為すべきことがあるのでは?


…―私は、…べきでは、ない―…


じわじわと暗い興奮が溢れてきて、思わず笑みが浮かびそうだ。


これ以上、ユシグを縛りつけたくない。


ミカエルの手で光る短剣に目が吸い寄せられたまま唇を噛み締め、視線をふと向けると、脱力した風情のカミュが佇んでいた。










「ずいぶんな筋立てだね…あの悪趣味王子の収集癖に、関わる気はなかったんだけどねぇ」


「それよりも今から大陸へ飛んで頂きますから、準備をしなさい」


「え!?今から」

「そうです」


きっぱりとした物言いが、どこか遠くでぐるぐると回っている気がした。

ひどく気分が悪かった。


「僕がやるの?」

「もちろんです」

「早くしてください無駄口はいりません」

「やれやれ」


違和感。


異なる感覚。


二人の姿が遠い。

物理的にも心情的にも。


「どうしました?御気分でも…」


金髪の男性は、振り向くと驚いたように私に声を掛けてきた。

恐ろしいほどに整いすぎた容貌はやや女性的。だが、骨格がしっかりとしているので、20代以上の男性だと容易に知れる。

しかし、今は彼の顔立ちよりも、私には主張したいことがあった。


「…かえりたい」


「は?」


ぽかんとする美形に普段の私なら戸惑うはずが、いっさい気にならない。


「どうしました?」


「触、ら、ないで」



ミカエルと言う名を持つその男を、私は知らない男を見るように見つめた。取り合えず、彼には近寄りたくない気分だし触れてほしくなかった。



「姫?」


伸ばされた金髪男の手を振り払い、立ち上がろうとして、ふらついた。


違う。


何か分からないけど、ここは、違う。


息苦しい。


「どうされたんです?姫」


明らかにおかしい私の様子に狼狽えた金髪男がさすがに慌てている。さっきまでの勿体ぶった態度と比べると形無しの様相だ。


「触ら、ないで」


金髪男にまた同じ台詞を繰り返した私は、感情のおもむくままに更に口を開いて…別の男の腕に引き寄せられた。




「あんたの名前は?」


「…あ…?」


「まだ思い出せないのかー…残念」


紫の瞳に貫かれたような衝撃を覚える。


「俺は、ずっと探していたのに…ねえ、『和音ちゃん』?」



私は、止まった。

私の感覚も感情もなにもかもが、波に拐われたようにまるで無くなった。



「ふふ。君に、会いたかったよ。やっと、会えたね…いや、再会?かな」


にこにこ頷く男と、緊張の糸が切れて佇む私を、これ以上見ていられなくなったのか、金髪のミカエルさんは今まで見たこともないような形相で私たちを睨み付けてきた。


「カミュ…?ではないのですね。誰なのか答えよ」


ミカエルの誰何に答えずカミュ…であった存在はにやにやと笑った。私にとっては、まだ出会って間がない、私を誘拐したこの男が本物のカミュであるのかないのかよりも、彼が私の敵か味方かがわからないのが問題だ。

いや、そんなことよりも。いったい彼は…いや、私の名前をなぜ知っているのだろう?


私は…アストリットじゃなかった。

自分の名前が、かずね、だと言うのも違和感がある。でも、事実なのだとどこか深いところで私は納得しつつあった。


『和音ちゃん…』


どこかで、声を聞いた。


懐かしい声だ。




誰だったろう。

思い出せない。

とても大切な人なのに。

誰よりも大切な…



「彼女は頂いてくよ…あんたの記憶が書き替えられるとめんどくさいから…もう少しだけ関わらせてもらうよ。そう、『彼女』はここで自害した…あんたに利用されるのを拒んで死んだ。史実通りにね」



和音ちゃん、ゴメンね?

そう彼はひとりごちると、素早くミカエルの短剣を奪うと躊躇なく一気に、私の首筋に深々と突き刺したのだった。





***




――半透明の風景の中…



『和音ちゃん』


私に寄り添う弟を、思い出した。


白い霞みが、揺らぐ。

彼は、私の弟。

私の心を乱す、愛しい、憎らしい存在。


「―か、ず、ま…」


霞みが、消える。消えてゆく。

一瞬だけはっきりと現れたその笑顔も消えてゆく。


「数真…!」


私の伸ばされた手は空を切り、何が起こったのか、わからなかった。


「…ァ」


声にならない。

声が、出ない。


痛みは無かった。

なのに、いきなり頭の中が白く淀み、喉が火傷をしたように熱い。あまりに唐突過ぎて、どういう事態が起こったのかわからず私は動揺した。


痛い、というより、よくわからないが凄まじい熱さに頭がくらくらする。

何か喋ろうと慌てて口を開くと、ごぼり、と嫌な水泡音が沸き上がる。生暖かい液体が口から大量に溢れた。


止まらず、どんどんと溢れて…


一瞬、混乱しかけたが、カミュの声が私に事実を教えてきた。


「もう助からないよ…『アストリット』はここで死ぬ」


貧血で気が遠くなりつつある私に、掛ける言葉じゃないだろう。確かにただならぬ、おびただしい血の量だ。とても助かりそうもない。


床の上で倒れた状態で、静かに血を流す私をミカエルは見つめているが、顔色が明らかに悪い。私が言うのもなんだけれど、彼は蒼白になって、呆然自失で呻いていた。


「そんな…まさか…」


「彼女は自害した」


「まさか…」


「いいさ。あのロジェールとやらも、実はもう死んでいるんだろう?彼女は後を追って自害したことにすればいい…ミカエル、君のせいではない…」


「そんな…まさか…」



「君のせいではない」


「…私の…せい…ではない」


うわ言のように同じ言葉を繰り返すミカエルをカミュは…カミュだった存在は満足そうに促した。


「そう。だからこれは不幸な事故だよ」


「…私のせいではない…」

「さあ、行こうか和音ちゃん…お手をどうぞ」


今にも息絶えそうな私に向けられるには、晴れやかすぎる笑顔…それに、まるで舞踏会にでも出掛けるみたいに優雅に腰を折り、片手を差し出す紳士的な仕種。

その恭しく伸ばされた白い指先の向こう側には、蕩けるような微笑を浮かべ貴公子然としたカミュが、私を待っている。待たれているからには答えようとして、私は反応しようとしていた。


手を、取らないと…


倒れている私が、必死で体を動かそうとしていることにカミュは気づいているのだろうか。



でも、すごく、眠いのだ。

こんな時に眠くなるなんておかしいのだが、この睡魔には勝てそうもなかった。


目の前が暗くなる。


(数真に会いたいなあ…でも、今の私はアストリット…だったんだよね…この世界にいるのは、数真じゃなくて、ユシグか…)


もし呟けるのなら、そう言っていたかもしれない。

身体中がだるいし、ただでさえ薄暗い部屋の中は、だんだん暗くなってきて、もう何も見えないし、このままずっと目が覚めなかったら、やっぱり最後にはあの顔を見ておきたかったと、あの世で後悔しそうだ。


アストリット。


あなたは、ユシグのことを、本当に大切に思っていたんだね…


これでよかったんだ。

そうでしょう?


私の中の彼女が、風に揺られた花のようにふうわりと微笑んだ。



(よかった…んだよね…?)


アストリットであった私は、ゆっくり、ゆっくりと瞼を閉じていったのだった―…



亀ですが完結まで続けますのでよろしくお願いいたします。

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