◇60過去との邂逅〜9
喋り疲れたのか、それとも諦めたのか―前者だと思う―…ふと黙り込んだ男と私だけになった部屋は白く、丸く切り開かれた窓から、夜空に浮かぶ月が見えていた。
べったりと塗られた水彩画の世界に閉じ込められたように息苦しい。
風もない。
紫がかった薄い藍色の空だ。全ての地上からの音を吸い付くしたかのように不気味な静寂、無音の世界。
白いドレスを着せられてソファに横たわる私に、向けられた冷ややかな視線。
ここはいったい、どこなんだろう…なんて。建物の形状から想像はつくが、この男はきっと、私が聞いたところでまともに答えないだろうから、あえて聞かない。
夜空に浮かぶ月を見つめる私をからかうように、眺めてくる男は、ここへ連れてきた二人組のうちの一人で、この男がリーダー格のようだ。もう一人の、あの赤髪の男はいない。
改めて私は男を見た。猫のような大きめの紫の瞳だと思う。相手を屈服させるような強い輝き、ともすれば女性と間違うような整い過ぎた容貌だが…
比べるようにユシグを思い浮かべてみた。
若いながらも、優美でかつ王としての威風堂々とした魅力に溢れる、ユシグの持つ洗練された感じは、彼からは感じられない。
「君は、僕が怖くないみたいだね」
…なんと言い返せばいいだろう。
少し考えて、ああ、と思い当たる。この男…確かカミュという名前だか愛称を持つ男は、別に私の返事を期待している訳じゃないんだろう。
勝手なことを言って、要求を押し通そうとしている人間が、対等な対話なんて求めるはずがない。
言葉をいったん発することで会話をしなければならない億劫さに私は無言のままちらりと月へ視線を上げた。
さんざん喋っておいてまだ足りないのだろうか。
「さっきの話だけど」
満足そうな吐息が聞こえ、また彼は話し出した。
「悪い話ではないでしょ。相手は大国の第三王子。どうせ大陸へ渡るのなら、より良い相手と縁を結ぶほうが人生安泰じゃないかな。
どこぞの弱小貴族のはみ出し者より、将来性があると思うよ。君の意見は求めてないし考慮する予定もないけど。議会で長老達が決めたことだからね」
…ロジェールが聞いたら激怒しそうな台詞を、ただ私は黙って聞いていた。
「アストリット姫。何も反応しないのは、男を焦らす戦略?」
私を見つめると、つい、と細い腕を伸ばしてきた。されるがまま、顎を持ち上げられて、初めて気付く。
この男と私の距離。
男はソファの上に乗り上げ私に覆い被さりそうなほど、近い。
そのせいで月がみえなくなってしまったのが残念だ。
男はぼそりと何かを言っている。
「…虚ろな瞳、だね。まるで人形のようだ…」
紫のぎらついた瞳が覗き込んでくるのを私は見返した。この場面には覚えがあった。ロジェールの顔、ユシグの顔がふわふわと頭の中をちらつく。
どうしてだろう…なんだか既視感が強くて、ぼうっとしてくる。状況がよく掴めていない…訳ではない。
私は二人に拉致されて、この塔へ連れてこられたのだ。この世界に塔と呼ばれる施設は幾つもあるらしいが、大抵は何らかの機能があるのが普通だ。私の住んでいた塔しかり、ユマの本神殿と結ぶ転移術が施されていたのだ。きっとここも例外ではないだろう。とはいえ、その術を施行する者…つまり能力者がいない為、ユマ以外にある塔はほとんど機能せず遺跡扱いであると、本で読んだことがある。
このユラドーマでは国ではなく都市国家制が採られている。その為、もちろんユシグは別格だが、聖紋を操る能力者は希少な存在として珍重され、治安維持の要である都市の騎士となり活躍している…らしい。
月のせいなのか。目の前の、不敵な酷薄さを隠しもしないこの男を、怖いとも思わず、焦りもしない自分がわからない。
もし、この男が能力者だったら?
この男を警戒しなければならないのに、なぜだか体ばかりでなく、心にも力が入らない。
「ねぇ…聞いてる?」
カミュの顔が息が触れそうな程、近くにあった。
「全てそれなりに整っているのに、君は、美しくない。ただ地味で醜いだけ。汚れなんてありません、て、澄ましたそのふてぶてしい面構えも気に入らないな。なのに…なんだろうね…君を見ていると、落ち着かない。彼等の気持ちもわからなくはないな」
私の顎に手を掛けた指に、力が入る。
「…っ」
「叫べば?泣いてもいいよ」
美しい、と言ってもいい顔立ちをした男は、突き放したような口ぶりで呟く。私を観察し続けているのだろう。
「止めてくれって言わないの?どうせ、あの半端者に食い散らされた体だろ。味見してみてもいいかもね…そうそう、かの国の第三王子は女好きだからね。君が初物でなくても気にしないよ。欲しいのは君の血だけだから。よかったね」
カミュが口元をさらに静かに歪める。
けれど、今一つ私はぼんやりとしていた。
確かに、私はもう淑女とは言えない。以前そうであったかもはなはだ疑問だが、大国の王子の妻にはもう相応しくないだろう。仮にも夫のいる身だからだ。そんな風に納得していると、カミュは今度は私の顎をすい、と撫でてきた。
「いいんだよ。君は醜いお人形でいたらいい」
…なぜだろう。何処かで聞いたような気がするのは。
醜い、とか地味だ、なんて比べられて言われ続けた台詞に今さら傷付くこともない。
その罵声、むしろ懐かしいくらいだ。
カミュの言葉を聞いて私はどのくらい放心していたのだろうか。
…手放しで郷愁に浸るにはちょっとほろ苦い、でもそれなりに傷はかさぶたになってしまった。
だから、一言で言えば、懐かしい想い出…なのだろうか?
懐かしいような見たこともないような光景が鮮やかに浮かんだ。
ふいに目に浮かぶのは、何時の頃の記憶なのだろう。
昔過ぎて、お話の中の出来事みたいに現実味がない。
ただ、真っ赤な夕陽が目に染みる。
夕暮れの太陽が暖かく大気を照らす。忍び寄る夜の帳の気配。帰り道。
体の外側が痺れたように心細かった。
あの時、私は、体育館用の運動靴を履いて帰り道を歩いていた。
その足の裏に当たるアスファルトの感触だけがやけにリアルで。心細くて。
長くなって行く自分の影が誰かに見咎められないか、小心者の私はびくびくしながら歩いていた。
小さい頃から、良くできた弟に、不出来な地味な姉…その姉は、弟の同級生の女の子達に嫌味を言われるのはもちろん、嫌がらせなんてものも、可愛いものばかりだけど何度も受けていた。
子どもだからか、靴を隠す、とかそんな程度だったけれどあれは地味に困るのだ。帰ろうとしたら靴がない…精神的にはともかく、物理的にダメージが大きい。
帰りに買い物をしなきゃならないのに、学校から出られないじゃないか。
理不尽な状態にただ、焦った。
あんまり遅くなると迎えに来てしまう。そうなると、靴を隠されたことがばれてしまう…それだけは困る。
バレてまた弟が彼女たちに何かを言うと、余計に風当たりが強くなるから嫌なのだ。
せめてもの姉としての矜持に、あの頃の私はすがっていた。
守られるなんて屈辱だった。
むしろ、迷惑な弟と馬鹿な取り巻きのメス集団だ、とお腹の中で馬鹿にすらしていたのだ。
私は彼等とは関係ない。執拗に絡んでくる彼女たちの、女の性の深さに吐き気すら覚えていたはずだ。だから。
仕方なかったのだ。
この時の私が、怒りと悔しさで顔が強ばってしまったとしても。
いきなり現れた影に、肩を捕まれて、咄嗟に取り繕う。けれどちょっと遅かったみたいだった。
慌てた私を見て、色素の薄い端正な彼の容貌が、みるみる曇ってゆく様子が見なくともわかった。
「ごめん…」
そう呟く弟を見上げると、彼のほうこそ大丈夫かと聞きたくなるような顔をしていた…もう既に11にして彼は、いろいろと私を追い越していた。身長はその象徴に過ぎない。そんな彼の慌てている様子はひどく奇異で奇妙な感じがした。
「たいしたことじゃないでしょ。いつものことだし。それより、それって私の靴だよね」
いくらかキツい言い方になってしまったせいか、弟は私の肩に置いた手を、恥じるように放した。
「俺のせいで、迷惑かけて、ごめん」
差し出された靴と、情けない表情をした弟を見て、私が小さく笑うと、彼は私の足元に靴を置いてくれた。
この間、親に買ってもらったばかりのまだおろしたての靴は、残念なことに小さな染みがうっすらと付いていた。ゴミ箱にでも突っ込まれていたのかもしれない。しかし、洗えば直ぐに綺麗になるだろう。
「靴、探してくれたんだ。ありがとう」
「…」
どうやって靴を見つけたのか、そもそも私が靴がなくて困っていることをどうして知っているのか…不思議ではあったけれど話すのがおっくうだった。いつも彼は私が見られたくない場面に出くわすのだ。
「彼女たちも悪気はないんだよ、たぶん。だから謝らないでよ…」
私には関係ないから。
あんたも、彼女たちも、関係ない世界の人たちだ。そう思っていたから、言葉はするすると出てくる。
靴を履く間、弟は何も言わなかった。
やがて、家の前まで帰り着いた時、私の前で鍵を開けるとドアを開いてくれたが、口元を固く結んだ彼は、俯いたまま呟いてきた。
そして思わぬことを口走ったのだ。
「…嫌いになった?」
「は?」
「…なんでもないよ」
隠すように俯いた、その見えない表情が寂しそうだったせいかもしれない。
耳を打った言葉の意味を深く考えることもなく、私は呆れて苦笑していた。このコ、実はバカなんじゃないだろうか。
「嫌いにならないよ」
「…え」
ぽかんとした表情が可笑しかった。
「あんたのことでしょ?嫌いにはならない。ほら、早く入ってよ」
そんな顔しないで…そう慰めても良かったけれど。彼の言葉を聞いて、なぜかホッとしていた自分に私は落ち着かない気持ちになった。もう後は飲み込むことにした。
「うん…ごめん」
「もういいってば」
泣きそうな顔をしていた弟を促して私達は家に帰った。
まだ誰もいない家の中は暗かった。外から入ってくる外灯のオレンジの灯りと夕陽混じりの光で、雑然とした生活空間は一掃され、厳かな気配に満ちていた。彼の微笑が見たこともない人のように映ったのも、そのせいなのだろうか。
「…ありがとう」
「へ?」
部屋の灯りを付けようとしていた彼の背中をなんとなく見つめていた私は、驚いて間抜けな声を上げてしまった。
「俺を嫌わないでいてくれて、ありがとう」
振り返った、彼の笑顔に私は息を飲んだ。
なんて顔をするんだ。思わず辺りを見回すが、別に何もない。私しかいない。
「だって姉弟だし…ねぇ?」
なぜか慌てて早口になる私に対して、弟の口調は変わらない…変わらないのに笑顔から黒いオーラが見えるような気がするのはなぜだろう…
「そんなつまんないことじゃなくてさ」
自分の頭の中がぐるぐると白くまわってゆく。
「あのさ、聞いてくれる?」
「う…うん」
「さっきは、自分がどうなるのか心配だった」
「…?」
「うん。俺って冷めてるヤツなのかなって普段思ってたけど、どうやら違ったみたい」
今までみたこともないような、場違いな程の爽やかな笑顔が、薄暗い部屋の灯りにも負けず、ゆったりとほころんだのを、私はただ唖然として見つめていた。黒いオーラはたぶん気のせいだったのだろう。こんな爽やかな微笑、普段のお愛想用の笑顔の、10倍増くらいの爽やかさだ。きっと、取り巻きたちがみたら狂乱状態で卒倒するに違いない。
しかし、よくわからないけど…なぜ性格の話になってるんだろうか。
「あのさ」
「う…うん」
そうして、混乱する私に、温かく言ってきたのだ。
彼は、極上の微笑で私に告げてきた。
いつのまにか両肩に置かれた手は、右手だけ私の頬に移動している。
「こっちを見て」
頬に当たる感触にびくりと体が震えた。
「俺は…大好きだよ」
彼の薄茶色の瞳に、唖然としたままの自分が映っている。酷く奇妙で、自分が彼の中に捕えられているような錯覚がして…
思わず目を閉じた。
***
こういう時に、そんなことをしたらそれが何を示すか…なんて、この時、子どもの私にはまるでわかっていなかったのだ。
しかし彼は…違った。
「ん…」
まず、唇に、何かが触れた感触。
次に、何かが、体全体に触れている…分かりやすく言えば、まるで抱き締められているような…
そう。抱き締められて、キスされているような感触がしているのは…気のせいだったらいいけど、たぶんそうじゃない。
…冗談で済むような感じじゃない気がして、私は困惑していた。弟とキスって、やっぱり良くないし、そもそもなんでこうなったんだろう。姉がイジメにあって、感極まったのだろうか。
どうしようか…知らんぷりして遠ざかってみようか?
肩を左右に揺らして離れようと身をよじってみたけれど、びくりともしなかった。
あまつさえ、両足の間に巧みに脚を挟まれて、立つ為のバランスを取るのも難しい姿勢だ。
なんで小学生に、こんな狡猾な知識があるんだ…
でもこのままでもまずい気がする。
私は思いきって目を開けることにした。
『逃がさないよ』
『例え何処へ行っても、俺は君を…あんたを逃がさない』
辺りがまた、白く反転した。
***
カミュの顔が迫ってくる。
彼の唇が、私の唇と合わさる…寸前。彼は手を離した。
私を見透すように冷ややかな紫の瞳が間近で輝いていた。
「君は、誰?アストリット姫…じゃないね…」
年内には過去編が終わればいいな(既に開き直り)と思っております………が、ある意味、現在と繋がっていますので、視点が変わればさらに長くなるかもです…申し訳ないです。
お読みいただきありがとうございます。




