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◇59過去との邂逅〜8

姉眼点です。

亀更新です…お許し下さい。


後は船に乗るだけ、出発は今日の夕刻。


いつもなら絶対に私を一人にはさせないロジェールが、愚行を犯した。逃げ出すには絶好のチャンス…。当の本人が貧血を起こしてさえいなければ、の注釈つきだけれども。


夏日のような焼けつくような強い日射しが、辺りの風景を霞ませる午後。


大通りに面したカフェテリア…柱や天井に重厚な雰囲気が漂っている店内は、地元の人や旅人で賑わっていて、店内は50人は余裕で座れるだろう広さだ。2人がけの丸テーブル席が幾つも設えてある。まだ日が高い時間帯のせいか女性のグループもチラホラ見かける。待ち合わせや少し一息を入れたい人々で賑わっているこの老舗店の奥で、女が一人でいたところで、特に人目を引くこともないとロジェールは安心したのかもしれない。


適当に頼んだ冷たい飲み物は意外に美味しい。フルーティな味わいに疲れが吹き飛ぶ心地がする。

久しぶりのひんやりとした甘味を口の中で味わいつつ、少しずつ不快感が鎮まり、気分が戻ってくるのを感じた。

清涼な岩清水みたいに冷えた飲み物があるということは、この街では聖紋が使えるのだろう。


このトレビアはかなり大きな港町だ。ここから大陸に渡ってしまえばもうユマに帰るのは現実的には難しくなる。逃げ出すにはラストチャンスになるかもしれない。


残りのドリンクが喉を通りすぎて、冷たい満足感に私は溜め息をついた。

めったにない逃げる絶好のチャンス、こうしてはいられない…気持ちだけならば、すぐに店を出て、どこかロジェールに見つからないところへと向かうべく、私の足はそわそわと落ち着かないのだけれども。

さすがに、何週間も旅をすれば、私の前に立ち塞がる問題に気づかない訳にはいかなかった。衝動的に逃げ出して、どうにかなるにはあまりにもユマは遠い。


物理的にもユマには帰れない状態で、どう糊口をしのぐのかという、切実な問題に私は頭を痛めていた。

なんの取り柄も技術もない私が、一人で生きて行く…どうやって?何も思いつかない。何も後ろ楯のない私にとって、仕事を探すなんて簡単ではないことぐらい、いくら世間知らずでも想像ぐらい出来た。そもそも知らない人間と接触するなんて…相手に悪意がないなどと安易に考えることが出来ない以上、誰の助けも得られないだろう。


拉致された最初の勢いは何処へいってしまったのだろう。自分でも情けないけれど、見知らぬ土地での生活は私を臆病にしてしまったのかもしれなかった。そう、現実を知るにつれて。身寄りのない、手に職のない余所者の女が一人で生きていけるほど現実は甘くない。


仮に、ロジェールから後先関係なく逃げ出して、もしも何処かの奴隷商人に捕まるなんてことになったら、笑えない話だ。


今の状況だって尋常じゃない。

この私が、誰かの妻に収まっている、しかもそれが、一度は心をときめかせた男、ロジェールの妻なのだ…こうして改めて考えてみると、やはり信じられない。

ロジェールとの、一度は描いた淡い夢が叶ったとでも言えばいいのだろうか。愛していない男に運命を握られている、不安定なこの脆い状況を。


塔を出てからの私は、ずっと悪い夢の中をさ迷っているようなものかとも思う。


結婚については、私は偽名だ。彼も本名ではない。実体は偽装結婚なのだ。

通行証が必要な事態に備えて申請しただけだ。小さな村では必要ないが、ある程度の街に入るには身分証…通行証も兼ねた証明書が必要だった。そこまでしたのに、今回はその証明書は使わないのだという。

彼が言うには、大陸へ渡る定期客船には乗らず、荷物を運ぶ船に交渉して乗せてもらう予定だとのことだ。詳しくは知らないが、船長が小遣い稼ぎの目的で、船主には内緒で証明書無しに乗客を乗せることは、よくあるのだという。もちろん、不法乗船が役人に見つかれば、船長も知らなかったでは済まない。乗せる方、乗る方双方ともにリスクがあるので、ロジェールはこの港町に何度も足を運び、信頼できそうな船を吟味したのだろう。


彼は私と大陸に行き、なにか商売をするのだと話していたが、その話を聞かされても、私はただ不安を感じただけだった。



ぼんやりと大通りを店の奥からみつめる。



行き交う人々。背中に荷物を担いだ行商の男性、買い物途中なのだろうか、お揃いのエプロンを着けた、華やいだ若い女性たち。 どこかのお屋敷でお勤めしているのだろうか。


羨ましい、と思った。



私には何もない。彼や彼女たちには家族がいて、いや、例え家族がいなくても仕事があり、しっかりと地に足を着けて生活をしている。その自信が彼らを輝かせていて、眩しかった。


それに比べて私は。


このジュース一杯、自分で稼ぐこともしていない。ロジェールに振り回されて流されているだけの女。彼が何故か私に拘るから、こうして衣食住の心配なく、のんびりしているに過ぎない。


―…すぐに、飽きるよ。


そう冷静に心の声が聞こえた気がした。


父親に見向きもされず、母親には人形のように扱われていたような女を、本気で愛する人間がいるはずがない。彼が魅力的なだけに、なおさらだ。


それに…


茶色の怜悧な瞳を思い浮かべて、私はふるりと肩を震わせていた。


側にいることが当たり前だと思っていた…気づかずにいた傲慢な自分。大陸に渡ってしまえば、もう会えないのだ。


会えない。


『彼』にもう…会えない。


ぢりり、と胸の奥底が鋭くざらついた。

こんなときにも、私の執着心は自己主張をやめない。会ったところで、もうどうしようもないのに。


ユシグは私を許さない。ロジェールに絡めとられてしまった愚かな姉を、彼は絶対に許しはしないだろう…それに、今さらユシグにどんな顔をして会えるというのだろう、私は。


毎夜、ロジェールに抱かれ、逃げ出すこともせず、彼とは夫婦のように共にいるのだ。これは全て違うのだ、といくら叫んだところで虚しいだけじゃないか?事実は言葉では消せやしない。

私の行動はきっと、彼を傷つけてしまった。


なのに。


ユシグに会えないのが辛いだなんて、なんて身勝手な考えなんだろうか。


わかっている。でも…


冷たくも蕩ける程に美しい、あの静寂の微笑に、もう会えないのだ。

胸の奥を重く通ってゆく身勝手な甘い焦燥…思わず顔を歪めていた私は、目の前のグラスをぼんやりと見つめていた。



「見ーつけた」


私を物思いから引き戻したのは、辺りの喧騒を払うような陽気な声、だった。


自分に酔いしれて物思いに深く沈み込んでいたせいで気づくのに遅れてしまった…なんたる失態。


思わず腰を浮かしかけ、慌てて顔を上げると、思わぬ近さに男の顔があったので、さらに驚く。


「ふふ」


男はそんな私に、気軽に肩に手を置いてきた。やんわりとした仕草だが、しかし静止の意思を込めているのだろう、ロジェールに比べて一回り華奢な手は、思わぬ力強さだ。私の動きを封じて離そうとしない。


「ん、ああ声を上げないでね。人目に付きたくはない…だよね?お互いに」



にこやかな笑顔を浮かべた男は一方的に私に告げると、傍らの男に目配せしている。


「ほら、僕の言った通りだった。これで来週の当番はセラが代わりでいいね?」


「仕方ねぇなあ…」


燃えるような赤い髪の、険しい顔付きの男は不承不承といった風につぶやく。


淡い緑の混じった金髪という不思議な髪に、紫の瞳の中性的な容貌の男は、赤い髪の男の返事を聞いて、満足げに笑みを深めたようだ。


どちらの男も見たことのない顔だった。二人は私を探していたのだろうか。こっそりと周囲を確認するも、それぞれのテーブルの客は話に夢中で誰もこちらを見てはいない。

背中を冷たい汗が流れた。

どうする?悲鳴を上げて注意を引き付けて…隙を見て逃げる?


警戒心を剥き出しにして見上げる私を気に留めた風もなく、笑顔の男は私の隣にすとんと座って目線を合わせてきた。ずいぶんと手慣れた様子だ。ぶしつけに顔を観察されている私のほうが、よほど居心地が悪い。


「誰?」


「僕たちはまあ…神殿の、って言えばだいたいわかる?」


「私を…殺しに来たの?」

「違う、と言っても信じないよね、君は。僕らとっても怪しいしね?」


私の言葉を馬鹿にしたように男は小さく笑ってきた。


「…話には聞いてたけど、どこかズレたお姫様だね、君は。馬鹿な質問ばかり」

おそらく10代後半らしき雰囲気の紫の瞳は、威圧感を隠すことなく、私を見つめてきた。



「それとも、何?時間稼ぎ?あの男が帰ってくるのを待つつもりかな…でも彼はまだ用事が済まないみたいだよ。だから諦めたら?…逃げようとしたら殺す」



息を呑む。彼はふっと笑ってみせた。緊迫したた空気が一瞬で消し飛んだのは見事なほどだ。しかし。


「脅しじゃないから。別に生きて連れ戻す義理はないし」


妖しく微笑するこの男は神殿の…騎士なのだろうか?それとも暗殺者?


体を強張らせる私を、なおも面白そうに眺めた紫の瞳は、私にとってはよく見慣れた輝きだ。


値踏みするような、見下げたような嘲りを含んだ色。


「あの御方の姉なのに、似ていない。さすが、出来損ないのお姫様。父親の穢れた血が強すぎたのかな…」


「おい。それぐらいでいいだろう」


呟く男にしびれを切らせたのか,それまで黙っていた赤髪の男が私の腕を掴み、急き立ててきた。


「カミュ。時間がないぞ」

「…そうだね。さあ、立って。行くよ」


自分の喉がコクリと鳴る音を私は他人事のように聞いていた。


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