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◇56過去との邂逅〜5

遅くなりました。

何かを燃やす匂い。草の匂い。堆肥の匂い。

何がどうとは言えないが、人が生活する匂い、というものだろうか。


鼻腔を満たす緑の匂いが神殿の森のそれとは違うのは、人の関与の有無のせいなのだろうかと馬車に揺られながら想いを馳せる。


かぽこぽ、緩やかに馬車は進む。これが単なる旅行だったならどんなに穏やかなことだろうか。


「まあまあ、そんなに身を乗り出しては危ないわよ…」


とうとう、乗り合わせていた年配の女性が笑いを含んだ口調でたしなめてきた。

乗客は私を含めて三人だから、女性はさっきから私たちのことが気になっていたみたいだ。ちらちら見られていたからわかる。

私の隣にいるロジェールが笑顔を向けると、答えるように婦人もニコニコと笑顔を溢れさせた。

ふわりとしつつも艶のあるさらりとした太陽の光を集めた金髪に、光によって明暗が変わるが、今はマスカットグリーンの魅惑的な緑の瞳。男性的ながらも甘さの漂う顔立ちをしているロジェールは好感度の高い青年にしか見えないので、女性のこの反応は当然だった。なんど、こんな光景を見たことだろうか。


「あれ、ダンナさんも奥さんをきちんと監督しなきゃあね?」


「はい、そうですね」


「可愛くて仕方がないのねぇ。新婚さん、なのかしら?オルレアンには新婚旅行で来られたのかしら?いいところだったでしょ?」


「ええ」人の良さそうなご婦人に合わせて、ロジェールはにこやかに首肯する。言葉少ない彼の笑顔に彼女は満足そうにお祝いの言葉を並べ始めた。


二人のやりとりに置いていかれた状態の私は、礼儀正しく座り直してまた物思いに帰っていく。

…もう何を言っても無駄だと私は半ば諦めの気分だった。あくまでもロジェールは新婚旅行の夫婦のふりを押し通すつもりらしい。

人を馬車で拉致しておいて、例え偽装だとしても新婚旅行とは…なんというべきか、とにかくふざけている…思わず眉根を寄せて漏れた溜め息も、しょせん馬車の振動にかき消されてゆくしかない。


彼の言葉を思い返すつもりはなかったが、こうしていると自然に浮かんできてしまう。無意識に反芻している自分に気付き、さらに気持ちを沈ませるのだった。


そう…彼は言ったのだ。


***


ずいぶん勝手な言い分だった。


『あんたを連れて逃げるのは俺の為でもある』


捕まればただではすまないだろうに、と問いかける私になぜか笑顔だった彼。


こんなとんでもないことをしでかしたのはおそらく、ただ一時の感情に任せて行動したのだ、話せば少しは冷静になるだろうと思いたかったが、そうではないのだろうか…。


『あなたの為?』


『ああ、でも誤解しないでくれ。愛情はもちろんある。心配しなくていい』



『心配なんてしていません』

対等に見返すために首を上げるのだが、相手が背が高くて心持ちそっくり返ってしまったのはご愛嬌だ。


いかんせん、気持ちはあるのだが馬に揺られた体が痛くて鉛のように重い。宿に着いて馬から降りたとたんに襲ってきた眠気が、さらに酷くなった気がした。正直なところ、直ぐにベッドにもぐりたい…そんな気分だが気力を振り絞って、彼を静かに見上げた。


言いたいことはたくさんある。


なのになぜか、思い詰めた様子のロジェールを目の前にすると上手く言葉が出ない。


私はやはり、この人に罪悪感を持っているのだ。

上手く出ない言葉を誤魔化すように私は頭を振った。自分でも驚くほど、疲れてはいたが冷静だった。疲れすぎて感情が鈍麻していたのかもしれなかった。


『貴方のような方が、女を愛情だけで連れて逃げる、なんて思うほど…私はおめでたくはない…』


『…』


『神殿が、絡んでいるのでしょう?』


私を邪魔に思う輩といえば一つしか思い当たることはない。


さっきより更に酷いことにたまらなく体が重くなってきている…泥の中に引きずり込まれるような眠気のせいだ。


私を不自然なほど静かに見つめてきている彼は、今なら質問に答えるかもしれないのに。


とにかく、この場を出来るだけ上手く乗り切るしかない。今はそれだけを考えよう…と私は自分に言い聞かせて彼を見つめ返した。


『…貴方は神殿に頼まれて、私を拉致したのですか?』



町中に取った小綺麗な宿で顔を合わせて話し合ったこの日は、いったい拉致されて何日目のことだったか。


『つまり?』


『とぼける必要はないです』


さらに重ねた言葉が静かに、部屋の空気を冷たく脅かした。


『私を処分しろと、神殿に命令された?』


とうとう、神殿に見限られたのかもしれない…と、私は考えていた。この場合、神殿の判断は遅すぎたとみなすべきか以外に早いと言うべきか…なんとも言いようがなかったが。私が生まれた時に、処分を主張した今は亡き長老なら、遅いと憤怒することだろう。

その身体に神聖な王の血は無く、異界の血のみしか持たない、しかも何の力もない女…それが私だ。父王も亡く、ユシグの影響力がまだ弱い今こそにと、神殿は私の処分を考えたのかもしれない…そういう考えを持っている神官も少なくはないのを私は知っている。

神官にも派閥がある。厳格な原理主義を尊ぶ神官から見れば王の血を持たない私は王女というには不浄なのだ。だから派閥間の抗争のお題目…もとい、ターゲットに成りやすい。過去には命を狙われたこともある。派閥の力関係が一定した為か最近はそんな事態も無く、すっかり油断していたのだが。私も年貢の納め時なのだろうか。

そんな自虐的な感情に落ち込みかけていた間に、彼は含むように微笑すると、逆に私に訊いてきた。


『なぜそう思う?』


意外な切り返しだ。なぜって…普通はそう考えるのが当然ではないのだろうか。別に卑下するつもりはないが、時期的に、私を暗殺しようと神殿が動いてもおかしくはない…だからだ。ロジェールの言葉を疑うつもりはないが、背後に神殿が絡むほうが私としてはしっくりとくる。


『君は俺が自分の意思で連れているとは思わないのか?』


ふっと力なく苦笑して彼は窓際のカーテンを締めた。


すでに外は暗闇に沈んでいた。


私たちはまだ夕食を食べていない。体に力が入らないのはそのせいもあるのかもしれない。ロジェールは窓際に佇んだままこちらを見ている。彼の笑顔がなぜか寂しげに歪んで見えた。


『なぜ警戒する?俺は君の味方なのに』


そして、またあの目で私を見る。反射的にはっとして、思わず私は彼から一歩遠ざかった。


『…悪い冗談みたいだな』

『え?』


今の私の動きに傷ついたように薄く微笑を浮かべている。自嘲めいた口調は、酷く乾いて聞こえた。


『あんたに疑われているなんてな。

神殿に命令されて動くほど俺は従順じゃない。…こんなことになるとは思いもしなかったのは信じて欲しい。

あんたは俺をもう愛していないのか?』


『それは…』


いいよどむ私に彼はわかっている、とでもいいたげな表情で距離を詰めてきた。


なあ、と優しく呟かれる。


『愛している』


『…』


すっと彼の体が沈んだ。跪くと両手を握られ、彼の唇は私の手の甲に落とされた。


『…アストリット。

もう一度だけでいい…俺を信じてくれないか』


甘い言葉をさらに押す、切ない瞳。揺れる瞳。

見上げられて、ぐっと胸が詰まりそうになった。

込められた感情に気圧されそうになる。


『…私を…愛して、いる?』


ぽつり、と唇から溢れたそれを聞いたロジェールは、ああ、と頷く。

と、私の手は大きな彼の手に包まれた。気持ちを代弁するように強く握り締められた。


拉致されてから初めて、こうしてまともに顔を合わせて話し合う機会にまた愛の言葉を聞かされるとは。神殿やユシグの思惑に気持ちが向かっていた私には、忘れていた苦い薬を無理矢理飲むように迫られている感じだった。すっかり忘れていた…訳ではないのだが、決して。


―愛している、という言葉は、麻薬的な言葉だ。素直に思う。狡い言葉だとも。まるでカードの切り札のよう。その目付きと仕種は卑怯だ。


『だからって、こんなことをして許されると?そう言えば全てが元に戻るとでも?』


今まで凍えたように固まっていたくせに、彼の言葉を聞いた私の感情はゆらりと焔を灯したように蠢いた。


愛している、と言われて腹が立ったのだろうか。

力任せに手を引こうとしたが、さらにきつく握りしめられてしまった。


『離して』


『離さない』


『…離しなさい』


『嫌だ』


不毛なやり取りに根を上げたのは私だった。駄々をこねる子どものような台詞に似つかわしくない、挑むような視線で射られて、手を引くのをしぶしぶ諦めた。力では敵わない。体術でも彼には敵わないだろう。悔しいけれど、これが現実だ。

私を逃がすまいと、かなり力が込められた手を振りほどけない。


『俺の話を聞いて?』


…優しく囁いても無駄。


私は唇を噛んで言葉を飲み込んだ。これ以上刺激しないほうがいいのかもしれない。彼がうっすらと興奮しているのがわかるから。

目の前の男は、魅力があって、確かに、愛を囁く姿に女ならくらりときそうだ。…愛を語る、この強烈な感情は眩しい。


それが例え拉致という間違った手段へ駆り立てた、歪んだものだとしても、だ。

聞いた人間を高揚させる魔法の言葉。


このまま甘い言葉に迷いなく埋もれてしまえたら、どれほど楽で幸福なことか…と、ロジェールの瞳を感じながら私は苦々しく考えていた。暗い瞳の奥に揺らめく光がまともにみられないのは悔しいが認めるしかない。

この目は苦手だ。

初めて聞いてからずいぶん経った気がするが、何度聞いても麻薬的な言葉も、だ。なぜ愛を囁かれているのに、こんな気持ちになるのだろう。崖の縁にいるような、ギリギリな感じがする。高揚感どころか、後がない…焦燥感に負けてしまいそうだ。


『俺を…受け入れるんだ。そうすれば君の憂いは消える』


『…憂い?』


つい口に出たのだが、彼は心得たふうに頷いた。


『俺が全てから守るから』

『…ッ!』


と、身長の高い彼が跪いて私の手に口づけるのは、まるで姫と騎士の幸せな恋物語の場面を体現しているようだ。なるほど、ここでこの手を振り払うには相当の覚悟がいる。対して、イエスと言うのはしごく簡単。

思わず頷いて…本意ではないがその胸に顔を埋める想像図をしてしまい背筋が震える。



―自分を拉致した男を受け入れる?冗談ではない。

彼が私の何を理解しているというのだろう。勝手な言い分に流石に苛々と逆立った気分になる。百歩譲って、私を守るつもりがあるのならば解放して欲しい。


そもそも姉として精神的にユシグを守る立場にあるけれども、誰からも守ってもらう必要性は薄い私だ。他に守るべきものはいくらでもありそうなものなのに、ロジェールはなぜ私にこだわるのだろうか。


そんな私の思いを知ってか知らずか、甘い囁きが耳朶をくすぐってきた。


『愛している…アストリット』


『…やめて』



立ち上がった彼は私を抱き寄せると、子どもにするように頭を撫でた。



『愛しているんだ…だから…君を渡さない…誰にも渡さない…あの男にも神殿にも…』



なだめてほだす…つもりなのだろうか?やたら声に憂いがあり、切なく震えてすらいる。

彼に抱き締められた私の脳裏には、不器用な少年が怒りの表情で私を抱き締めた姿が写し出されていた。


『ユシグは私を探している。神殿も…だから逃げられっこない』


『そんなもの。たいしたことはない。

あんたは俺を愛するしかないんだ。全てが上手くいくにはそれが一番だ。

今は言えないがじきにわかる』


彼は何を企んでいるのだろう。


愛していると簡単に口にするロジェール。

ユシグは、決して愛しているとは言わない。




…―ユシグは、私にどうして欲しい?…


最後に交わした会話で私はユシグに問いかけた。その言葉が鮮明に浮かんだ。

ただ、離れることは許さない、と言って彼は私を強く抱き締めた。ロジェールとは私を見つめる瞳の色は違うのに、同じ強さの暗い輝きがそこにあった。

それは一時的な感情かもしれないのに、どうしてこんな無茶をするのだろう。ロジェールも…ユシグも、どうしてそんな瞳で私を見るのだろう。私のこの胸の焦燥感はなんなのだろう?



『アストリット、愛している』


『…でもじきに私に飽きるかもしれません』


『あんたにはわからない。俺はこうしていると満たされる。愛しているんだ』


話がまるで通じない。

私にはその価値はない…そう言いたかったが、彼の幸せそうな顔をみていると、もう無駄なことは何も言えなくなった。彼に抱いていた憧れやドキドキとした感覚が、そんな想いを持っていたことが嘘のように遠く感じる。


『愛しているよ…君を』



ユシグ。



私に向けられる、いつものあの冷たい水のような穏やかな澄んだ眼差しが、また脳裏に浮かんだ。


…ユシグに会いたい。


愛していると囁くロジェールの言葉を聞きながら、私は弟のことを考えていた。

自分がわからない。

私はユシグを愛しているのだろうか?


わからない。会いたいとは思う。でも、愛しているのかと聞かれたら…わからない。この感情はなんだろうか。

塔と弟が懐かしい。

懐かしいと思う。

心が体から抜け落ちて飛べるものならば、きっと神殿の森へと帰ってゆくだろうと私は夢想した。

誰からも忘れられ、森の中の隠者のような穏やかな暮らしが続いた、あの日々へと。


ロジェールに抱擁されながら、私はあの緩やかな牢獄で朽ち果てるのが望みなのだろうか、と自問し続けていた。当然のように答えは何処からも帰るはずはなかったのだけれども――――



***


最終的に何処に行くつもりなのか、彼は黙して語らない。どういうつもりかロジェールは、オルレアンは新婚旅行のメッカであり、近隣の都市国家から、ある程度経済的ゆとりのある夫婦が年間を通して訪れるような華やかな都市だと知っていてこの道を選んだのだ。オルレアン滞在中、ハネムーンばかりでなく年配の裕福そうな夫婦もよく見かけたが、広々とした町は清潔で治安も良さそうで、観光客を不快にさせる無理な呼び込みも見られなかった。

本でよんだ町のイメージと違っていたことに私は戸惑っていた。本当に、自分は何も知らないのだと思った瞬間だった。


ロジェールに拉致された私は、ことここにきて冷静に観察する余力が出てきていた。オルレアンからは、ようやく行く先々で目の前の光景をしっかり焼き付けていた。


それはもちろん、逃げ出すため。


私はなにくわぬ顔で、必要以上にヒステリックにもならず萎縮したふうにも見えない、ぎりぎりの不自然過ぎない落ち着いた様子で毎日を過ごしていた。警戒感を持たれては好機を逸する恐れがあるからだ。あくまでも優しく振る舞うロジェールは、そんな借りてきた猫のような私を観察している。

息がつまりそうだ。


何も言えない。本当のことはお互い触れないままに逃避行は続いている。

いったい、彼はどうするつもりだろう。



あの『愛している』の言葉を聞いてから何日か経つ。あれ以来、そういった話は無意識にお互いに避けていた。


オルレアンでの思い出話を語り出した婦人に、愛想よく微笑するロジェールの横顔を視界に入れて、私はまた心の中で溜め息を洩らすしかないのだった。


***



逃げ出す好機を狙うのを忘れてはいないが、しかし大きな問題がある。自分の捜索がどうなっているのかがわからない点だった。おそらく公開捜査は行われていないだろう。

なぜそう予測出来るのかというと簡単なことだった。

ユマの王女が拉致され行方不明…など、ユシグが即位して間もないこの時期に大々的に公開出来る話ではないからだ。もし世間に知られたら、他の都市国家からの、ユマの神殿の権威が失墜し、かつユシグの統率力が疑問視されかねない。そんな外交上不利益にしかならない事柄を、おおっぴらに出来るわけがないのだ。例え、ユシグが公開捜査を主張したとしても、神殿の大神官で構成されている元老院で認められなければ、他の都市国家の騎士団へ捜査協力の要請は出来ないのだ。存在の意味自体が薄い王女…世間には知られていない私を大々的に探索するにはあまりに時期が悪すぎる…ということだ。よほど失うもののほうが大きかろう。


ゆえに。仮に私が、町中で誰彼構わず助けを求めたとして…側に張り付いたロジェールが目を光らせているので実際には難しいのだが…例えば、生理的欲求のちょっとした隙に、誰かに助けを求めたとして、だ。

頭のおかしい女だと思われて終わり、の可能性がある。

それはそうだろう。誘拐?ユマの王女?


…ユマに王女っていたっけ?


となる可能性が高い。


おそらくユシグは私を探しているのだろうが、やはりおおっぴらには捜索出来てはいないと考えなければならないと思う。宿はもちろん、行く先々で、自称夫のロジェールが私を妻だと紹介するので、私は何も言えなくなってしまう。

こっそり抜け出して街の騎士団に助けを求めたとして、事実を彼等に話せばどうなるだろう。一笑に伏されるか、仮に信じてもらえて保護されたとしても、それではユシグの立場が危うくなるのは免れない。


なぜかと言うと、各都市の騎士団はその都市の自治を担う重要な存在だからだ。そのため、騎士団には貴族の子弟や政治的に将来を嘱望された者が数多い。これはどういうことかと言うと、騎士団に頼れば、すぐに都市を治める権力者たちに情報が届いてしまう…ということだ。


だから迂闊に助けを求められない。ユマに好意的であろうとなかろうと、王女誘拐は政治的に利用される恐れが強いのだから。


ユシグ。


彼はどれだけ私を心配しているだろう。普段そっけない彼が、捜索のために神官たちとどんなやり取りをしているのか…それを思うと、息苦しくなる。申し訳無い思いでいたたまれない。全ては油断していた私が愚かなのだ。


あんな消え方をした姉を…ユシグはどう思っただろう?

あの夕暮れの時。貴族の乗る優美なしつらえの馬車を乗り捨て、人気のない町外れの池に沈めると、馬に二人乗りをして一晩中走り抜けた。

こうして馬車に乗るとちらりと頭をよぎる記憶は、陰鬱とした感覚とともに重苦しく胸を塞いでゆく。


小さな村をいくつか、ロジェールが事前に容易させていた馬へ乗り変えるために立ち寄り、今にも崩れそうな古びた馬小屋から鞍を付け替えた馬に乗り、私たちは飛び出してゆく。慌ただしいことこの上なかった。

その慌ただしさの中味は、追われる者特有の焦燥感と罪悪感だ。


成り行きとはいえ、私はユシグを裏切った。

事実は違う。でも彼はそうは思わないだろう。


ロジェールと二人きりで会うように画策したのは私。しかも塔の聖紋を作動させず、結果、馬車に押し込まれてしまったのだから。



私が、望んで、逃げ出した…

事実よりも、重要なのは。彼にそう思われてしまったに違いない、ということだった。



***


…今日は乗り合い馬車でかなり移動した。オルレアンからはもう遠く離れた地域だ。街もこぢんまりとしていて、今いるのは街で二軒しかない宿屋の一軒だった。


微かな寝息を立てている、艶のある輪郭が仄かな光を集めて浮かび上がるのを目に止めた。部屋は仄暗い。備え付けのランプのオイルがもう僅かなのだろう。辺境に近いこの辺りでは、聖紋を使っている様子は街中ではみられなかった。


眠っているロジェール。


彼の寝顔。


起きてる時には見られない、無防備で、ひたすらシーツの海にまどろむ彼は、普段とはまるで違う姿だ。

彼のしなやかな筋肉質の身体は見事なまでの均整を誇っている。

彼の息遣いと、急き立てられるような囁きを思い返す。


『俺を愛していない…だとしても俺はお前を手中に納めたい。お前の笑顔を独り占めしたい』


密着した彼の熱い肌。


抗うこともろくに出来ず、ロジェールに絡め取られた私は惨めな女なのだろうか。



…―『愛している…アストリット』



それとも、息苦しい愛情に包まれた、幸せな女…なのだろうか。

ロジェールの熱い想いを困惑しながらも見つめている。

人を愛するとは、こんなに重苦しい感情が行き交うものなのだろうか…と彼をみて思う。


確かなものは何もなかったがわかったのは…


私はこの人を愛してはいない。


もう隠者ではいられないのだと苦く思いながら私は彼の寝顔を見つめていた。




話がなかなか進みません…もうしばらく過去編続きます。よろしくお願いします。

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