◇55過去との邂逅〜4
午後になってから現れたロジェールは、午前中に仕事を済ませてきたとのことで、濃紺のシャツとズボンに胸当てやら肘当てが着いたいわゆる略式の服装で面会を求めてきた。ユシグの護衛の時は騎士のような正装で、マントも着けているが、単独だといつもこんな感じだ。服装は普段と変わらないが、いつもと違って…ぴりぴりした空気を全身に纏っている。お茶を出したが、口をつける様子もない。そんな状況で沈黙を破るのには勇気がいった。
「突然だけど…本当に急に呼び出してごめんなさい」
「そうだな。いきなり呼び出されたから驚いたよ。ミカエルが君の伝言を持ってくるなんて珍しい」
私を眺めているロジェールの視線が痛い。
「で?どういうことかな」
「…」
「今まで会ってくれなかったのに急に呼ばれるとは、余り良くない話なのか?」
「…ごめんなさい」
「…なぜ謝る?」
細められた緑の瞳は険しい。ロジェールの圧迫感をびしびしと感じる。ゆっくりと息を吸って、半ば自分自身に言い聞かせるような心持ちで私は口を開いた。それはとても重い言葉だ…まるで鉛を吐き出すようだった。
「…ロジェール、あなたとの婚約、白紙に戻させて下さい」
とうとう言ってしまった…
頭を下げながら一気に言うと、ゆっくりと頭をあげた。
ロジェールは沈黙していた。こわばった顔付きは彫像のように身じろぎひとつなく、その視点がわかりにくいが彼の視界内にきっちりと自分が収まっているのを感じた。
「…ロジェール?」
この話し合いの場には、セッティングにちょっとした細工を要した。弟付きの近衛騎士の一員であるミカエルは、侍女のキャサリアとは家名を同じくする同族であるから、私の行動は基本的にキャサリアを介してミカエルに、ひいてはユシグに筒抜けである。
今までのロジェールとの逢瀬…というのか面会というべきかわからないが、ともかく、私がロジェールと会えていたのは彼がミカエルの親友だからだ。ロジェールは私が会った数少ない男性の一人で、二人きりで会ったのは、彼が初めてだろうと思う。
王女が男性と二人きりで会うなど、人に知られたら、確実に白眼視される行為だ。
いくら見捨てられた王女とはいえ、良識のある女性がする、一般的な行為ではない。
キャサリアは神殿へ出掛けて行ったので、今この客間にいるのは私とロジェールだけだった。彼と二人きりになるのは初めてではないが、見慣れたはずの応接室の中を、所在なく視線をさ迷わせそうになるほど、私はかなり緊張していた。
人目を気にせず話は出来る変わりに気まずさは隠しようがないが、誠意ある対応を考えると、二人きりで話すことは最低限叶えたいラインだった。もし誰かが同席したら、おそらく話の途中で横槍を入れられたり助け船を出されたりするのは間違いない。
ここ数日間、自分がロジェールに責められる心配や、自己嫌悪に好きなだけ耽溺していた私は、彼が傷つくだろう心配はなぜかあまりしていなかった。
今、目の前にソファに座っている彼にはいつもの覇気はなく、憂鬱な影を、その精悍な顔立ちに漂わせている。それは私には意外で、彼ほどの優れた人が私ごときのためにこのようになることに改めて動揺した。誰もいなくてよかったと思う。
王女とはいえ名ばかりの私には侍従はおらず、キャサリアと数名のメイドの他は調理人しかいないが、それでも困ったことはないのは聖紋というシステムがあるおかげなのだが聖紋…それは私には呪縛と同じ意味を持っている。
この摩訶不思議な力に関わる血を持つという、ただそれだけで私は殺されずにすみ、そうしてこの塔に幽閉されている。実際にはなんの力もない私にとって皮肉なことだ。
まるで魔法のように不思議な効果で、家事の負担を減らし防犯も担う。その他にも重大な関わりをこの世界に及ぼすが、一般に知られているのは、聖紋は人が意識的に作り出す物理的現象なのだ、という部分だ。
もし。私が異界人でなかったなら。
私はロジェールの手を離さなかった、のだろうか?
聖紋という力にとって私は…何の意味があるというのだろう。
古老の大神官たちならばある程度は知っているはずだが、当の本人である私は何も知らない。おそらく大した意味はないのだろうが。そう、彼等にしてみれば王女を野放しには出来ないから、役には立たないが塔に飼っている…くらいの感覚なのだろう。
私に求婚してくれたロジェールがそんな私の微妙な立場をわかっているとは思えない。
折しも、ロジェールと私はあの時のように二人きり。
あの時とは…木の下で二人で婚約を約束した時のことだ。
しかしあの時と決定的に違うのは、体を包みこみ蕩けさせるような幸せな空気が消え失せていることだろうか。
今、彼を伺う私の顔はおそらく緊張で青ざめている。
ロジェールは、厳しい表情でゆっくりと頭をふった。その動きに合わせて、さらさらと金髪が秋の木立のように揺れる。
彼の表情はやはり険しい。ただ、新緑の梢を思わせる澄んだ緑の瞳に、疲労感が宿っているのを私は見つけた。それがここ何日間かの彼の心境を表しているようで、私の胸はチクリと痛んだ。
「……原因は王子…いや、もう即位されるのだから、陛下とお呼びするべきか…あの御方が原因なのか?」
「…陛下は、関係ないです」
「関係ない、ね…そうじゃないな。俺は本気であんたとの将来を考えていたんだ。あんたが王女でなくても…王女であってもそれこそ関係ない。あの御方が、あんたの人生を握り込むのが許せなかった。
その俺にみえすいたことを言うなよ?」
疲れた様子で呟くと、ロジェールは私を見てうっすらと笑った。
「俺は、あの御方にあんたの全てを握り込まれるのが我慢ならない。
なあ、一度は俺と一緒になると言ってくれたあんたの本心は何処にあるんだ?」
きれいな緑の瞳には苦しみが滲んでおり、追い詰められた獣のように私に向けられていた。
きちんと、伝えなければ。言い逃れが出来ない状況で、望んだこととはいえ、自分の意志を伝える難しさに声が少し震えてしまう。
「ロジェール。あなたとは一緒に行けません」
一息入れて、すぐに語る。彼の反応を確認してしまうと、私は話せなくなってしまうだろう。
「あの子が私無しでも大丈夫になる時まで、私はここを離れない。
あなたを愛していないんじゃなくて、それ以上に、私は…ユシグが大切なの。本当にごめんなさい…」
言いながら、いろんな思いが溢れそうになる。
ユシグは私を必要としてくれる。
王である孤独なあの子に、愛する女性が出来る確率は…低い。対して、身分的に行動に自由が残るロジェールには、私よりもふさわしい誰かが出来る可能性はかなり高い。
ユシグを守る、なんて正当化したところで、ただの確率のお話じゃないか…と苦笑したくなるというものだ。なんて汚い人間なんだろう。
「…狡くて臆病で、自分勝手な私にはあなたに好かれる資格はない…あなたに付いて行くのは怖い…」
だから、婚約は白紙にして、と私は続けて言った。
「つまり、俺を嫌いになったのではない…ただ尻込みしていたと、そういう…俺は本気で…くそっ…」
「ロジェール?」
一人でぶつぶつ言う彼に声をかけるが聞こえていない。
「世間知らずだと思ったが、こうも重症だとはな…」
「あの…」
「俺も負けるのはキライでね。だから、あんたを力付くで奪う。あの男から」
「……え?」
「そうだな、お前を愛している…その気持ちを信じてもらえるようにまずは努力をすると誓うよ」
力強いロジェールの言葉に、ソファに座っている私の全身の血がひいた。
鳥肌がうっすらと立つのを自覚して、耳を疑う…思いもかけない決意をさらりと述べたロジェールを、引き寄せられるように見つめ返した。
さっきまで漂っていた何かを脱ぎ捨て…代わって現れたどこかぎらついた輝きが、私を映している。
「俺と行くんだ」
ロジェールは私を引き寄せ、外套をかける。されるがままになりながら言葉を紡ぐ…抗弁する私に構わず彼は私の外套を私に着せ終えて、押しやるように部屋から連れ出す。
「私は、ユシグと…ここにいたい」
「ダメだ。あの弟と一緒にいたらあんたの人生は無くなる。俺と行くんだ」
私は茫然としそうになる自分を感じて頭を振った。
ロジェールには伝わらない。
ユシグを守りたい。
ロジェールの愛はうれしいけれど、怖い。
…愛とか恋とかそんな不確かなものを夢見ることを打ち砕く、この世に生を受けた時から決まっていた自分という存在。
その重さ。
ユシグと私の結び付きは、他人には理解出来ないだろう。当たり前過ぎて意識することはなく、お互いにこの世に生を受けた時から逃れられない…おおげさに言えば宿命みたいな関係なのだ。
そんな私の気持ちをロジェールはわかっているのだろうか。
わかるはずがない、と思う。生まれた時から存在を父王からは疎まれ、私に執着する母親のお陰で…そして聖紋に関わる女の血を継いでいるというだけで、命を与えられた私。
そんな私と対を為す、ユシグは。
母親から存在を嫌悪され無視され、温かい言葉も眼差しもかけられず、抱き締められることもなかったと思う。
私にべったりな母親の精神が次第に崩れてゆく様を、幼い彼は黙ってただ見つめていた。精神を病んだ母親はユシグを嫌悪することもしなくなり、そのかわりに最後まで決してユシグの存在を認めなかった。そんな自分の母親を、彼は、どんな気持ちで見つめていたのだろうか。
母親と父王が亡くなり、私たち姉弟には穏やかな日々が訪れた。公務に忙しいユシグは昔のことをあまり持ち出さない。それをいいことに私もユシグの心の傷を忘れかけていた。恥ずかしい。姉なのに。私がのんびりと過ごせるのはユシグのお陰なのに、私は彼に甘えているばかりだった。
「ユシグは…私がいないと…」
「それこそ思い込みだ。あんたがいなくてもヤツは生きていける」
なおも抗おうと足を止める私を軽々と抱き抱えると、ロジェールは足早に塔を出て、停めてあった馬車へ私を押し込めた。
閉じられた扉の音に、私は自分の想いがロジェールに伝わらなかったことを思い知る。完全に失敗したのだ。
ゆっくりと馬車が動きだす。
この塔から離れるのだという信じられない事実の前に無様に…私は一人うずくまっていた。
頭の中をロジェールの言葉が巡る。
ユシグはどう思うだろう。
ユシグは…私がいなくても…
事態の行き先を握るのは、今やロジェールなのだ。暗い馬車の壁を見詰めることしか出来ない無能な自分に絶望したい気持ちだった。
アストリットさんは、生い立ちは特殊ですが、弟思いの、ちょっと控えめだけどごく普通の女の子です。カッコイイ年上の男性にふらついたりそんな自分を自己嫌悪したり…上手く書けていませんが…
彼女は両親が異界人な自分は異界人だという認識です。




