◇32新しき日々の始まり…?
この世界について、政治経済など知らないと困る情報もあるのだろう。
でももう、オーバーヒートだ。
ミカエルさんが私を少なくとも当分の間は保護してくれそうだと見極めると、勝手ながらもう生活にまつわる色々は明日にしてくれと体が訴える。
とにかく、ゆっくりと体を休めたかった。
気を遣ってくれたミカエルさんが部屋から出てゆくと私は本当に独りになった。
身じろぎするたびに沈み込むふかふかのベッドからはいずり出て、何も履かずに素足のままで床へつま先を伸ばした。
…やっぱり届かないとはね。さっきも思い切り足を伸ばしたが、今回もベッドからずるずると滑り落ちる感じで、床に降り立つ。ベッドまで、日本規格外とは嫌になるな。
その感覚は変わらなかった。柔らかい絨毯の肌触り。でも…拒絶するような冷たさ。
――夢じゃないなんて。
それとも…まだ目が覚めていないだけなのだろうか。
一縷のはかない希望をまた思い浮かべて自嘲する。
ため息だけが夜の闇に溶けてゆく。
眠れない。体は泥のように疲れていて睡眠を欲しているのに。
月明かりが余計に心細さを煽ってゆく。
誰にも頼れない、という心細さ。
―悪い夢だったらよかったのに。
暗い室内に、天蓋付きの豪奢なベッド…
なんて場違い。
知り合いがいないというそれだけでなく、このファンタジーな世界そのものが異質。
異質…?そうじゃない。
…私、が。
この世界には異質な存在だ。
施設からこの異世界に来たほんの数時間かで目まぐるしく起こった出来事。
それらを受け入れることができないでいるのだから。
自分がこの世界にとっての異分子であり、いつ排除されてもかまわない存在だという事実は――
私を余計に眠れなくさせたのだった。
◇◇◇
自分の名前が『わからない』…何処のアニメ映画なんだろう。
もっともこの舞台は、ちょっと小綺麗な中世だけど。ちゃんとトイレも水洗式だし水道もある。
「おはようございます。昨夜はゆっくりお休みになられましたか?」
本日のミカエルさんの服装はシンプルな形のゆったりした長袖の白いブラウスシャツにベルト代わりの腰布、カーキ色のサルエルタイプのズボンにブーツだ。背中に長く垂らした金髪は緩やかなウェーブで、朝の柔らかな日射しに優雅に輝いている。
「ここでは遠慮はなさらないで、なんでも仰ってください。ああ、私の唯一の使用人の侍女です。名前をキャサリアといいます。
わからないことや困ったことがあれば、私かこの侍女になんなりとお申し付けください」
そのまま侍女だという若い女の子に着替えを半ば強制的にさせられ、朝食をミカエルさんと摂った。誰にも何も言われず、もとい、ミカエルさんと侍女の二人しか屋敷にはいない。
どうやらここは、ミカエルさんの屋敷みたいだけど、なんとかっていう城か王宮…神殿だったかの離宮の1つだとか。だから、正しくはミカエルさんが独占使用許可を王様からもらっている物件なんだろうか。それにしてもかなりの邸宅。部屋数いくつなんだろう。気にはなったが勿論、調べる気力なんてない。
心の中はじわじわとした不安で一杯だった。
精神的な病気になったのかと疑ったほどだ。
いまひとつ、現実感がない…これは私の妄想か夢の中で。現実の私は精神的な病気に罹患したまま、何処の病院にいるとか。
私はカズマ…数真を『探し』に来たのだった。
なのになんでこんな『異世界』にいく必要があったんだろう?それともこんな中世もどきの世界に数真が『いる』と?有り得ない。
そもそも、数真がいるとかいないとか考えていた段階で私はヤバかったのかも。
数真がもしここに来ているとして、じゃあ、アッチの数真はなんなんだ、とか。
わからないことばかり考えても仕方ないんだけど。
ここの住民がミカエルさんみたいに紳士ばかりでは無いとは思う。
私を気味悪く感じている人間もいるだろう。そう…昨夜の馬車の事故の時にいた町の人みたいに。あの雰囲気は進んで何度でも味わいたいものではない。
『あの女が現れて馬車が倒れたんだ』
さざ波のように広がる怒りと恐怖の声を思い返す。
あの人たちの言う通りならば。
昨日の事故は私のせいなんだろう…
あれだけの数の人が目撃したからこそあんな糾弾騒ぎになったのだ…やっぱりあの人が大怪我をしたのは私のせいなんだろう。その事実は私の胸に、鉛のように重くのし掛かろうとする。
あの人、どうなったんだろう?たしか名前は…
「お茶のおかわりはいかがですか?」
侍女のキャサリアにいれてもらったお茶は、わたしの好みの、熱すぎる一歩手前の温度だった。初めて飲んだ時よりも深い味わいなのは、二回目に飲む紅茶だからなのだろうか。心は動揺していても味覚はクリアだなんて。
私はどうなるんだろう。
◇◇◇
「私がお相手できない時はキャサリアをお側に付けます。わからないことは何でも申し付けくださいね」
不安はあっても日は過ぎてゆく。
最初はショックで部屋に篭っていたけど今はそれなりに慣れて毎日することもなく居候させてもらっている。無愛想な若い侍女に三食世話されてほぼ一週間過ぎていた。
食事にはミカエルさんが顔を出して相手をしてくれるがそれぞれ30分ほどだ。話し相手もなく暇で仕方ない…なんて言っちゃいけないけど、ミカエルさんが来てくれるのは申し訳ないながらも有り難かった。
じっとしていると不安が溢れてくる。余計にあれこれ考えてしまい気も紛れない。
何もすることもない私は、部屋のある屋敷の棟の周りを散歩したりぶらぶらして過ごしていた。
何もせずに置いてもらうのも心苦しいので何か手伝いをと申し出たのだがやんわりとミカエルさんに断られてしまった。
まあ、そうだよね。
名前も覚えていない『異界人』にさせられる仕事なんてそんなすぐに思いつかないだろうし。人手が足りずに掃除が行き届かない――そんな様子もないし。見るからに瀟洒な別邸らしきこの棟は遠くに見える壮麗な宮殿からは隔絶されているらしく、メイドさんや庭師さんの姿もほとんど見かけない。
なのに、邸内もその周囲を囲む芝庭やガーデンも全く綺麗に保たれているのは不思議なことだった。
「聖紋の効果ですよ」
ある昼食時にミカエルさんは不思議がる私にそう教えてくれた。
聖紋についてミカエルさんは
「エネルギーを使用者の望む形に発動させ、物質を生み出したり作用を及ぼす印のことですよ」
と説明してくれたけれど…
「実際にお見せしないとわかりませんよね」
そのうち見せますからと微笑していた。なんでも普段の生活でも聖紋は使われてはいるが、掃除なんかに使われている聖紋は効果が長いため毎回は発動させないのだとか。
ミカエルさんは親切だけど忙しそうだったからあえて深く突っ込まなかった。
なんていうか…聖紋に興味津々という訳ではなく、この個人的違和感はどうしようもないのはわかってはいる。聖紋か…
本当に別世界なんだな…
こうしてぶらぶら庭を散歩していると、イギリスとかの貴族の屋敷に泊まっている錯覚を覚える。
そういうお屋敷をホテルにしてるとこに海外旅行に来てるとか。
でも。そうじゃない。ここは『ユラドーマ』。神官王ユシグが治める神官達の都市。都市の名はユマ。
なんていうか…
なんで28にもなってトリップしてるんだろう。
まあトリップに年齢は関係ないだろうけど…トリップって一方からみたら昔の『神隠し』だから子供がなるものじゃないの?
私の場合、『失踪』とか『行方不明』とか…むこうでは言われてるんだろうか。
迷惑と心配かけてるんだろうなぁ…
なぜ私がここに来たのかミカエルさんもわからないとのことだ。
『守護者』が地球から異界渡りでユマに現れたことと何か関係あるのかもしれないですね、とミカエルさんは教えてくれた。
私はその重要人物のトリップに巻き込まれたのかもしれないってことだろうか。
さらにいたたまれない気持ちになる。忙しいのに毎日様子を見に来てくれているミカエルさんに申し訳ない…
ちらっと聞いた話では、世界が待ち焦がれていた『守護者』が最近現れて、ユマの街はそのお披露目の式典準備で活気づいているんだとか。私の世話をしてくれているミカエルさんは神官王の親衛隊にいた『騎士』で、今は別の仕事をしているけれど準備に借り出されているので忙しいみたいだ。
「元、親衛隊士ですね。身分は今も変わらず騎士なんですが剣を握る機会はほとんどないのですよ」
そうまた微笑するミカエルさんは後光が射して見えた。
はあ…まさか本物の騎士に会えるなんて、ねえ…
学生時代、夢中になったのが『三國志』だった自分としては、ミカエルさんはこの世界のマイヒーロー。
生活感がまるでなく完璧な超絶美形。所作も完璧な紳士。優しく親切。
女好きな感じでもない。
まだ20代だと言っていた彼は仕事も出来そうな大人の男性。
ほとんどの女性は気付いたら惚れてしまっているタイプだ。
たぶん20代前半女子までならね…うん。
確かに私もミカエルさんを好ましく思うけど、恋愛感情ではないのが自分でわかってしまう。
こういうタイプの人は見た目よりずっと奥が深いから、恋愛対象とは見られない。なんていうか、次元が違うお方だ。
むしろ、王族や貴族のご令嬢との身分違いの恋が似合いそうだ。そう思えると接しやすい。ミカエルさんがやんわりと作り出す節度という壁によって、安心して話も出来る。
いきなり殺される、とか、命の危険に晒されることは多分ないだろう。
30近くなると、男性の顔立ちだけでときめくことは若い時よりさらに少ない。しかもこの状況下。今は、ただ命の危険がない方向に自分が向かっているのかだけが私の関心事だ。美形だからといちいちドキドキしているほど、のんきではないつもりだ。
数真を探しにいくと決めた意気込みはどこへいったんだろう。
こんなに保身的な人間だったかと自分にうんざりだが、世界が違うのだ。私の知る倫理観も法律も何も私を守ってはくれないのだから、ミカエルさんの個人的な倫理観にすがるほかない。本当に、この世界に数真がいれば…
私は彼を見つけることができるんだろうか――




