◇27あなたに伝えたかったこと
ちょっと流れが変わってきます。
一応、前話までが話の前段階で、ここからがメインとなります。
今までの流れと違って嫌だなと思われる方には申し訳ありません…
あなたに伝えたいことがある。
あなたの想いに答えたかった私がいる。
私が、いた。
私は、あなたがそばにいないと狂ってしまう。
狂ってしまっていただろう。
あなたに伝えたかった。
それが済まされなければ。
私は前に進めない。
だからこうして今もこだわり続けているのだろう。
…
ふっ、と足が軽くなる。
タラップを降り硬い地面に足を着けるやいなや、背後でパシューとドアが閉まった。
軽快に走り去って行ったバス。
見送ると、とんとんと腰を叩き伸びをしてみる。
座席のスプリングが古くて変に弾んで座り心地は悪かった。
解放された喜びよりだるさが先にくる…
ん、ともう一つ伸びをして新鮮な空気を肺に送り込む。枯れた草の香りだ。夕暮れを含み始めた冷たさが混ざっている。身体の芯がしゃきっとして、ふわふわした揺れの残りを追い払ってくれそうな心地よさだ。
空気がすごくいい。
街もビルも人も車も工場も。
何もない。
何もないな、本当に。広がった空の広さ、自分の周りの空間の広がり。
現実はそうは甘くはない。そういうことなのだろうか。
私はメモ書きの地図を片手に歩き始めた。
乾いたアスファルトに導かれるように私の足は向かっていく…どんどん辺鄙な方へと進んでいるが、不思議と怖さは感じなかった。
足元の雑草から荒れた休耕田の境目も怪しいまでに、辛うじてアスファルトの上のみが道らしき道。
人手をかけずに整備されない道。
世間を避けるように造られた施設の案内役としては、これ以上ない相応しさだ。
笑ってしまう。
笑うしかない。
気分はもう荒野をさすらう旅人、だとでもいえばいいのか。
旅人…確かにね。信憑性に欠ける、怪しいことこの上ない手掛かりにすがりついているのだから、今の私は愚かな旅人みたいなものだ。
…
ねぇ、数真。
人の思いは何処からやってくるのだろうか。
温かな感情はどうして生まれ、そして…消えてしまうんだろうか。
目が覚めるといなくなっていた、あなたに聞きたいことは山ほどある。
◇◇◇
私は数真をいなくなった、と感じるけれど、何も数真の存在がなくなったわけでも何でもない。語弊のある言い方を許してほしい。
数真は、いる。
大学を優秀な成績で卒業し、今は海外赴任中だ。
メールが時々届く。仕事は忙しいらしくほとんど日本には帰って来ない。
あれから10年たった。
正しく伝えると、言葉はむしろ回りくどくその想いを十分に伝えきれない。
もう10年、か。
いや、まだ10年しかたっていないんだ。
あの最後の夜。
明け方が近くなり、数真の囁きが聞こえた時。あのときからまだ10年しかたっていない。
耳を澄ますと今も耳に囁く、甘く切ない声。
数真の声は剣道をしていたせいか、どちらかと言えば高めだったけど、耳元で囁かれる声はいつもどこか掠れていた。懇願と脅迫を混ぜたようなあまやかさに満ちていた。
『あんたが諦めからでも俺を受け入れてくれて嬉しかった』
諦め?
違う。
無茶苦茶だ。
そんな馬鹿げたことがあるか。
私は伝えてないんだ、まだ。
一言も言えていない。
なのに消えてしまったというのか?
私の中に切ない想いを呼び寄せる、執着としか呼びようのない数真の狂愛が、消えた。
苦しくも甘美な、狂ったその熱は。数真から私に伝染されたそれは…麻薬みたいなものだとでも言えばいいのだろうか。知らなければ穏やかに暮らしていけた。平和に生きていけたのだ。
離れられない。
忘れられない。
脱け殻になったような優しい数真に対しては抱けない、私のこの感情は私自身をじりじりと焙る。
この10年。
私は忘れられなかった。
数真はどこに行ってしまったのだろう。
あの時の、数真はどこに?
いつの間にか握りしめていた手のひらをあけ、シワのよった封筒をなぞり、形を直す。
丹念に封をまたあけると、私はその内容に目を落とした。
遠くの山々に温かな斜光が射し始めていたが、焦る気持ちはなかった。
手掛かりは、ある。
ここにあの禍々しい熱の滴りが遺されているのなら。もう私には怖いものはないのだ。
◇◇◇
「すみませ―ん」
薄暗いな。
それに古いし、人気が全くない。
受付らしきカウンターはあるにはあるが無人だよ。
施設らしく玄関は広いんだけどどこで靴を脱ぐのかわかりにくい。
「あの…ごめんくださ―い…」
ひんやりとした空気に私の声だけが響いた。
灰色の廊下が長く伸びている。カウンターのあるロビーは結構広いけど、ソファーも何もなくて殺風景だ。
まさか誰もいないのだろうか?
キョロキョロしているとようやくカウンターの奥のドアが開いて誰かが出てきた。
ああよかった。
「あの…先日電話しました、倉橋ですが」
「ああ」
私と同じくらいの年代だろう、ジャージ姿の男性職員がスリッパを出してくれる。
「あ、すみません」
「いいえ、こちらです」
案内されるままについてゆくとその職員は申し訳なさそうに私を見下ろした。
「わざわざお越しくださって、なんとも…倉橋さんにはご迷惑おかけしました」
「いえ、私が勝手に来たんですから。ええと、マサハルくんでしたっけ?彼を困らせるつもりもありませんし、施設の方にご迷惑をかける気もないですから」
「そう言って頂けると正直助かります。マサハルくんは悪いコじゃないんです。ただちょっと…」
いいよどむのはわかる。
入所者の個人情報に対して彼らは守秘義務があるんだろう。ぺらぺらと喋る訳にはいかないのだ、きっと。
私は彼の気持ちを和らげるように控え目に微笑してみせた。
「私は手紙の内容について軽くお話したいだけですから…」
職員は少し困ったように私を見る。
「…本来なら、妄想を追求するのはタブーなんですがね…。
でもあのコがここまではっきりと自己主張するのは珍しくてね。あなたに手紙を出してるとは私たちも知りませんでした。
たぶんこの間の同伴外出の時に投函したのでしょうけど。そんな自発的行為は最近はほとんどありませんでしたからね」
感慨深げに呟いている。
えっと…いいんだろうか。
そんなにマサハルくんについて他人の私に喋ってしまっても…と思ったけど。
よく考えてみれば。職員さんにしてみれば、そのマサハルくんが勝手に出した手紙を読んで、信じてかどうかわからないがとにかく私が来てしまった以上、事を荒立てずに穏便に済ましたいのだろう。
そう考えると、このぐらいの『お喋り』はむしろ、『だからさっさと納得してもう早いとこ帰って下さいね』って含みなんだと思う。たぶんね。
当然ながらあまり歓迎はされていないのだろう。
まあ、こうした施設に入所している人に、身内でもない人間が面会できるなんて本来ならあり得ないのを何故か許可が出たのだ。
今さら細かいことを気にしても仕方ないのだろうね。
ぺたぺたと借り物のスリッパが、リノリウムの床にくっつく音。
歩きにくいなあ…何処までいくんだ?
途中、エレベーターに乗って、今度は最上階に…て言っても三階だけど…に行く。
昼間なら明るい光が降り注ぎそうな、天井近くがガラス張りのエントランスを抜けると、また施錠されたドアを抜ける。
どこの秘密の国の王子様なんだ。って、ツッコミをいれたく成る程オートロックだらけだよ。古いのは玄関のある一階だけで、中は意外とキレイだ。三階なんて最新の設計なんじゃないのか?
明るいし、キレイだし、木調の素材が無機質な空間に温かみを醸し出している。
「こちらです」
いろいろと考えているうちにどうやら目的地についたらしい。
三階の一角にあるドア脇のオートロックを解除しながら職員は言ってきた。
そういえば名前聞いていないけど…と今さらながら胸元に目をやる。
田中と刺繍が入っていた。
田中さん、ね。
振り返ると田中さんは、念を押すように確認してきた。
「マサハルくんは、あなたと二人で話したがると思いますが、それは出来ませんのでご了解ください」
「はい」
「それと、彼がもし強い興奮状態を示した場合、速やかに部屋から退出して頂きますが、よろしいですね?」
「わかりました」
「いずれにせよ、そういった不測の事態には、私の指示に従ってください。よろしくお願いいたします。では、入りますよ?」
「はい」
この扉の向こうに。
数真のあの熱情の手掛かりがある。




