007 謎の人
私の担当することになった温室は、日陰でかつ一定の温度が保たれる場所だった。
別に温室の外で日焼けしても構わないのにとは言ったものの、庭師の責任者であるジョニーには仕事中は、ここを出ることのないようにと念押しされた。
おそらくは、私の後見人として登録されることになったヴィルフリートから、ジョニーはある程度の作り話を聞いているのかもしれない……家出しているだけの、知り合いの貴族令嬢とか。
確かに、そんな貴族令嬢を庭師として普通に働かせていた……となると、ジョニーの立場がなくなってしまう。
だから、ジョニーは私を日焼けしない場所で、手が荒れない程度の軽作業をお願いしたのかもしれない。
これは仕方ない。私がついこの前まで、働いたこともない貴族令嬢だったことは確かな事実なのだから。
信用を積み重ねて、色々と任せてもらうまでに時間が掛かるかもしれない。そこから、様々な経験を積んでいこう。
それほどは広くない温室の中での仕事とは言え、庭師の仕事には変わりないので、私は指示された通りにスコップを片手に土を盛ったり、枯れかけた葉を間引きしたりしていた。
庭師の仕事は簡単なものだけれど、時間が掛かる。あれこれしていると、すぐに夕方が来てしまう。
「……はーっ、誰とも話さなかった……」
水やりをするために如雨露を手にしている私は、大きく息をついて独り言を口にした。
それでも、これまでに比べて気持ちは凄く楽だった。心が軽い。だって、誰にも会わなくて良いし、誰からも白い目で見られることもない。
悲しいことにありもしない悪事をでっち上げられて、お前のせいだと後ろ指を指されることには慣れてしまった。
これまで、私は聖女フロレンティーナからフレデリックの好感度を上げる……ただ、そのためだけに使われる存在だったのだから。
「もう、不必要な人間関係に関わりたくない……薬草を育ててお金がもらえるのなら、それだけで生きて行きたい……皆も良い感じに育ってね……わかった?」
私は前世知識の中に植物は話し掛けると良く育つと知っていたので、たまに薬草に話し掛けていた。
なんとなく、薬草はいきいきとしてきた感じもするし、私は一方的とは言え声を出すことが出来ている。
お互いに得をするWin-Winの関係というやつね。
「へー……変な子だね」
!!!!! 私はその時、心臓が口から飛び出るほど……驚いてしまった。
だって、私はずっと一人で温室の中に居ると思って居たし、誰かがこの中に居るなんて思いもしなかったからだ。
「だっ……誰ですかっ……」
温室の奥から出て来た男性は、真っ直ぐの黒髪が肩まで伸びた、青い瞳の男性だった。すっきりとした爽やかな顔に、優しげで柔らかな面差し。
なんだか、いかにも上級貴族といった出で立ちだけれど、公爵令嬢として育った私には彼にあまり見覚えがない。
一体……誰だろう? けれど、ヴィルフリートも社交へ出て来ていないので、そういう男性が他に居ても何もおかしくはないけれど……。
「……色々あって、昨日眠れていなくてね。ここで仮眠を取っていたんだよ。これから仕事に行くから、そう怒らないでくれるかい?」
わっ……そっか。この人、温室の奥の方で昼寝していたんだ。
ここは、日陰で育つ薬草たちだから、日光は元よりある程度遮蔽されているし、温度は一定だから、確かに隠れてサボって昼寝するには絶好の穴場なのかもしれない。
「怒ってはいません……いませんけど、すごく驚きました」
本当に驚いてしまった。例えるならば自室で数時間過ごしていて、誰も居ないと思って居たベッドの下から男性が出て来たくらいの大きな衝撃。
私だってこの温室は自室ではなくて誰が居てもおかしくはない職場ではあると頭で理解してはいるけれど、ここまで数時間は彼はずーっとここで眠っていたことになるのだ。
「どうして、女の子が庭師をしているの? 君はもしかして……とある貴族の娘だよね? どこかで、見たことがあるような気がするよ」
暗に私が元ルブラン公爵令嬢ブライスであることを指摘されて、心の中は強い焦りを感じた。
「ちちちち……違います! 遠縁で似ているだけでしょう。私は平民です。口利き所に庭師募集の張り紙を見て応募しただけで、貴族などではありません!」
「へー……そうなんだ。ごめんごめん。貴族だと思ったのは、僕の勘違いだったようだね?」
彼は本当にそう思って居るのか思って居ないのかわからない。にこやかな微笑みを浮かべて私の言葉に頷いた。
「いえ。大丈夫です。良く似ていると言われるので、きっと良く似ているのでしょう」
かなり苦しい言い訳かもしれないけれど、そう言うしかない。私はルブラン公爵家の遠縁の娘……そして、庭師として働きたいと城で志願した。お願いだから、そういうことにしておいて~。
「ふーん……そういえば、さっき人間関係がどうのと言っていたけれど、何か嫌な事でもあったの?」
「そっ……それはっ!」
確かに誰も聞いていないと思って、心の底から願うことを口にしてしまったかもしれない。
もう二度とフロレンティーナのような女性に目を付けられないように、誰かの恋敵となりそう恋愛なんて二度としない。
ううん。恋愛なんてもう関わりたくもない。
「……もう、面倒な人間関係に関わりたくないんです。好きでもない男性が好きだからと、私を利用して彼に好かれようとする女性が居て、ほとほと疲れてしまったんです」
そうだ。私は婚約者フレデリックのことを、まったく好きではなかった。
何故かというと、婚約して早々にフレデリックはフロレンティーナに好意を持っていた。他の女の子に自分よりも時間を掛ける婚約者を好きでいられる人に、好意を持てるわけない。
「それは、男側も悪いと思うけどね。僕ならそんな思いは絶対にさせないから、良かったらお茶でも飲みに行かない?」
「……は!?」
私のこれまでの話、ちゃんと聞いていた!? と、思ってしまったけれど、確かに私の言っていた理由でいくと、そうならなければ良いだろうと思ったのだろうか。
「その、私はお茶は一人で、飲む主義なので」
「変わった女の子だね。温室で働くくらいだから、まあ変わっているんだろうけど」
彼は楽しそうにそう言い、私に興味を持ってしまったのか、ちょくちょく温室まで来るようになってしまったのだった。




