005 解放
ある日、私はオーキッド公爵家にて開かれるお茶会へ出席していた。
聖女フロレンティーナも出席すると聞き、憂鬱だったけれど、どうしても欠席することは許されなかった。
私がオーキッド公爵家の跡取りフレデリックの婚約者であることもそうだけど、フロレンティーナの意に沿わないことをすると、より嫌なことが待っているからだ。
絶対に嫌なことが待っているとでわかっていても、そうするしかなかった。
私は前世この『れんかん』の世界を楽しんでいた一読者だったけれど、あの頃はまさか自分が悪役令嬢ブライスに転生しヒロインのフロレンティーナから虐められることになるなんて、夢にも思わなかった。
純粋で心優しい彼女に好感を持っていたから、より衝撃を感じているのかもしれない。
「ねえ、皆様! 良かったら、奥にある船遊びを楽しみましょうよ。きっと楽しいわ」
白い日傘を手にして清楚な水色のドレスを着用したフロレンティーナはそう無邪気に提案し、彼女に心酔している周囲は口々に賛成した。
そんな光景を見て私は、喉の奥に何かつっかえたような、不快な思いを味わっていた。
私の目から見れば彼女とそれ以外の人々は、まるで新興宗教の教祖と信者のように見えるのだ。
そして、雲行きの怪しい空を見て、なんだか嫌な予感はしていた。けれど、フロレンティーナの提案に私が反対することなんて出来なかった。
やはり予想通りというか、船遊び中に事件は起きた。
フロレンティーナの乗っていた船が沈み、慌ててフレデリックは彼女を助けに湖へ。彼女は感動的に救助されて、流れるように私がフロレンティーナを湖に落とした犯人となった。
「信じられないぞ! ブライス! まさか、こんなことまでするとは!」
「待ってください! 私がいけないのです。フレデリック様を頼りにして距離が近すぎました。ブライス様は何も悪くありません。私が悪いのです……身の程をわきまえず。本当に申し訳ございません……」
なんてことをしたんだと唇を震わせ激昂するフレデリックに、私を健気に庇うフロレンティーナ。私は無感情なままで、そんな二人を見つめていた。
ここで私が何を言っても無駄だし、何かを言った方が面倒になる。
大人しく黙っていれば、それで、被害は最小限で済むのだから。
そして、いつも思う。私をこうして卑怯な手段で悪者にしてでもフロレンティーナは、フレデリックの心が欲しいのだ。
よりよく自分を好ましく見て欲しい。もっと好きになって欲しい。そのためには自分以外の他者がどうなろうが、別に構わない。そういう気持ちが透けて見えるのだ。
誰かに恋をする感情というものは、なんて自分勝手で醜くて、汚らしいものなのだろうと。
結局のところ、オーキッド公爵家で起こったことなので『事件が発覚するとややこしくなるから目を瞑って欲しい』と、フロレンティーナは懇願し、フレデリックは私を罵倒してからそれに頷いた。
私を残して彼らが健気なフロレンティーナをいち早く邸へと連れ帰ろうとする姿を、ぼんやりと見つめていた。
一人湖の近くに残されて、これは一体いつまで続くのだろうと思った。
物語の中でフレデリックの婚約者、悪役令嬢ブライスは中盤に婚約破棄されて退場する。そして、またいくつかの難所を越えて『彼女』は大団円のハッピーエンドへと向かう。
婚約破棄されたブライスは殺人未遂の罪で、国外追放になるはずだ。
早く……早く、そうして欲しい。この立場から解放されたい。
水辺の岩に座りそう思っていたら、パラパラと音を立てて雨が降り出した。いけない。早く帰らないと……そう思い、私は森の中へと進んだ。
レイド公爵家は立地的に神殿に近い非常に広い敷地を持っていて、方向を間違えれば森の深部へと行ってしまう。
「……っ!!」
慌てていた私は邸への方向を間違い、巨大熊と対峙することになった。
一瞬、叫ぼうかと思ったけれど、グルルと低い音でうめき、私の身長の三倍ほどもある巨大熊を前に恐怖で動きは固まってしまった。
その時に、私の心をよぎったのは『ここで死んで悪役令嬢の役目を全う出来なかったら、フロレンティーナに何をされるか』だった。
そうこうしている間に熊は右手を振り上げて、私はぎゅっと目を閉じた。
けれど、次の瞬間私の身体に鋭い爪は届かず、肌に熱い風を感じたと思ったら、どしんと大きな音は聞こえた。
「……おい!」
やけに響きの良い男性の声がして、私はおそるおそる目を開けた。
「……え?」
私の視界に入ったのは、焼け焦げた熊の死体だった。先ほどの大きな音は、巨体が倒れた音だったのだ。
薄暗い雨の中でもきらめく、白銀の竜。騎乗しているのは、竜騎士……それも、金髪に青い目、やけに姿の整った男性。
……竜騎士ヴィルフリート・レイドだ。ヒーローの一人。後半からの登場なので、出番は少なかったけど……。
こうして見ると、彼はなんて……素敵な人なんだろう。
「おいおい……どうした。死ぬところだったと言うのに、こんな森の中で、ぼーっとしてるなよ。また死にかけたいのか」
いきなりの登場に呆けて見上げていた私に、彼は呆れた顔でそう言った。
「あっ……」
助けてもらって、早くお礼を言うべきだとは思った。けれど、さっき感じた強い恐怖に、声がなかなか出て来ない。
「……ふん。何も知らずに迷い込んだか。悪いが、俺は任務があり行かなくてはいけない。あっちの方向に進め。人が何人か居るようだ。迎えに来たのではないか」
鼻で笑ったヴィルフリートは、私に顎で左の方向を示した。
そして、呆気なく飛び去って行った。
私はヴィルフリートが示した通りの方向へと進めば、何人かのルブラン公爵家の者が居て、雨に濡れた私を邸へと連れ帰った。
……確かに素敵な人だったけど、ヴィルフリートは小説の中では、いずれ総愛されるヒロインを好きになるはずの人。
感謝を伝えたかったけれど、手紙では失礼になるから、いつか会いに行かないと。そして、邸へと帰ればオーキッド公爵家での出来事を『何故もっと上手くやれなかったのか』と叱られる。
私の両親はフレデリックに近付く、聖女フロレンティーナの排除を望んでいた。
だから、フレデリックから『ブライス・ルブラン! お前と婚約破棄をする!』と宣言された時、私は本当にこれで終われると嬉しかったのだ。
ああ……これで、ようやく悪夢のような八方塞がりの日々から、解放されたんだ……と。




